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20080224 賢者の言葉・内田樹・「霊的な配電盤について」

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 内田樹 『村上春樹にご用心』 (アルテスパブリッシング 2007) より、
 「霊的な配電盤について」を引用。 
 霊性というのは、「つながっている感覚」だというのは私の基本的な理解です。
 時間的にも空間的にもどこまでも広がっているネットワークの中に自分がいて、自分がいることで「何か」と「何か」がつながっている。自分がなくなってしまうと、その「つながり」が途絶えてしまうかもしれないから、生きている間にがんばって、その「つながり」を自分抜きでも機能するようにしておく……というのが「霊的成長」ということではないかと思います。私たちはみんないつかは現実的には「いなくなってしまう」。
 「執着」というのは「死にたくない」ということですけれど、それだけではなく「私が死んだら、みんなが困る」というかたちをとることもあります。
 「死んで化けて出る」という場合は「みんなが困ります」。
 だから、幽霊というのが霊的に質の悪い死に方の典型ですけれど、ほかにも「莫大な遺産と強欲な子どもたち」を残して死んだというような場合もそうですね。その人が死んだら「みんなが困る」ことになるので、効果としては悪霊と同じです。
 よく仕事場で、「あの人が休んじゃうと仕事にならない」ということがありますね。そういうふうに、ひとりで仕事を抱え込んでしまう人は「私がいないとみんなが困る」ということで、自分の存在理由を確証しようとします。
 でも、これって質の悪い執着ですよね。自分の存在の確かさを、「自分が不在の時に他者が感じる欠落感」で軽量しようとするのは人間的誘惑ですけれど、それはなんだか間違っているように私は思います。
 霊的成長というものがあるとしたら、それは「私がいなくても、みんな大丈夫だ。だって、もう『つないで』おいたから」というかたちをとるんじゃないかと思います。
 村上春樹の小説にはときどき「配電盤」が出てきます。
 例えば、『1973年のピンボール』。
「配電盤?」
 「なあに、それ?」
 「電話の回線を司る機械だよ。」
 わからない、と二人は言った。そこで僕は残りの説明を工事人に引き渡した。
 「ん……、つまりね、電話の回線が何本もそこに集まっているわけです。なんていうかね、お母さん犬が一匹いてね、その下に仔犬が何匹もいるわけですよ。ほら、わかるでしょ?」
 「?」
 「わかんないわ。」
 「ええ……、それでそのお母さん犬が仔犬たちを養っているわけです。……お母さん犬が死ぬと仔犬たちも死ぬ。だもんで、お母さんが死にかけるとあたしたちが新しいお母さんに取替えにやってくるわけなんです。」
 「素敵ね。」
 「すごい。」
 僕も感心した。
(『1973年のピンボール』、講談社文庫、一九八三年、四八頁)
 うーん、ウチダも感心しました。
 これはやはり「霊的生活」の比喩じゃないかなと思います。村上春樹って、「そういう話」ばかりしている人ですからね。
 霊的成長というのは、配電盤としての機能を全うするということなんじゃないか、と。私はそんなふうに思っています。
 私がいなくなっても、誰も困らないようにきちんと「つないで」おいたおかげで、回りの人たちが、私がいなくなった翌日からも私がいるときと同じように愉快に暮らせるように配慮すること。
 そういう人に私はなりたいと思っています。
2006.7.16



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