20080406 賢者の言葉・中島義道・「拷問者と犠牲者」
『愛という試練―マイナスのナルシスの告白』 中島義道 (紀伊国屋書店 2003-07-23) より、
「拷問者と犠牲者」を引用。
四つの条件のうち、最初に挙げたものは性愛の絶対的条件であろう。(五)相手から愛されたいと願うこと。そうでなくても、せめて自分の愛を受け入れてほしいと願うこと。相手を一方的に愛することで満足し、相手から愛されることをまったく望まないのなら、それは尊敬や同情と言えるかもしれないが、愛ではない。そして、性愛の場合、極度にこの要求は強くなるのである。
この条件から愛の苦しみもまた始まる。
なぜなら、こちらがいくら愛しても相手が愛してくれるとは限らないからであり、またそうではないにしても、こちらが相手を全身全霊で愛しても相手がこちらをそれほど愛してくれないことはむしろ普通だからである。
愛に伴う苦しみの多くはこの不均衡から発現する。
シャルル・ボードレールは、より多く愛している者がより少なく愛している者に対して味わう地獄の苦しみを静かに観察している。恋愛は拷問または外科手術に酷似しているということ、このことはすでに私の覚書に書いたと思う。しかし、この考えはきわめて苦い仕方で敷衍することができるのだ。たとえば恋人同士が互いに深く思いあい相互に求めあう気持ちでいっぱいだとしても、ふたりのうちの一方が相手よりも比較的冷静で夢中になり方が少ないのが常である。この夢中になり方が比較的少ない男あるいは女が、執刀者であり拷問者である。そしてほかの一人は患者であり犠牲者である。この比喩を理解するには、当時の麻酔も何もない外科手術を考えねばならない。その恐ろしさはまさに拷問と同じである。
(「火箭」矢内原伊作訳)
同じことをプルーストは、やや穏やかに表現している。つまり、愛する側に立つ人間は、たえず無駄な試みを繰り返し、努力を新たにしなくてはならないのにひきかえ、反対に、愛さない側に立つ人間にはまっすぐな一本道を、苦労せずに、のうのうとだどってゆけるのである。より多く愛している者は、いかにしても相手を失いたくないという一点で、すでに敗者である。より少なく愛している者は、相手をいつ失ってもいいという一点で、すでに明らかな勝者である。前者は、そのためにありとあらゆる策略をめぐらす。そして、その結果に一喜一憂する。だが、後者は原則的に「どうでもいい」のだ。相手を失ってもいいし、失わなくてもいい。そのときの気分がよければ、相手を受け入れ、気分が悪ければ相手に対して冷酷無比の態度をとる。
(『失われた時を求めて』第四篇「ソドムとゴモラ」井上究一郎訳)
より多く愛している者はその変化にきりきり舞いする。これまでの経過をこまごま点検し、自分の強引さを、自分の浅はかさを、自分の思いやりのなさを、自分の無理解を、自分の鈍感さを点検しなおし、ありとあらゆる因果関係を見きわめ、こうして完璧に武装してまた相手に向かう。しかし、にもかかわらず、相手は予想もしない仕方で自分をまたもやこなごなに打ち砕く。
しばらく死んだように横たわっていると、まったく思いがけず相手のやさしい態度に触れる。何もかも忘れてしまい、またもやはしゃぎ出す。完全に武装を解いてしまう。そして、相手の取りつく島もない冷たい態度に途方に暮れる。
より少なく愛している者は拷問者である。言葉の一つ一つが、態度の一つ一つが、目配せの一つ一つがより多く愛している者の肉体をえぐり、切り開き、悲鳴を上げさせる。しかも、相手の苦しみはいかなる同情も呼び起こさない。彼(彼女)は淡々と拷問を重ねるのである。
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