20080420 賢者の言葉・伊丹十三・玉村豊男『料理の四面体』解説
『料理の四面体』 玉村豊男 (文春文庫 1993/1983) より、
伊丹十三による解説を引用。
「モシモシ」
「ハイハイ」
「タマムラ・トヨオさんという人の書いた<料理の四面体>という本は読まれましたか?」
「リョウリノシメンタイ!」
「そうです」
「料理の四面体とはまた、随分大きく出たもんですな。題名を聞いただけで、大ていの人は腰を抜かすんじゃないですか?」
「私はまだ抜かしておりませんが」
「つまり、大ていの<教養人>腰を抜かすんじゃないですか、というんです」
「ハハア――ア、そういうもんですかね。これは困ったな。実は私、今度その本の解説を書くことになっておるのですが――するとなんですか、解説を書く以上やはり腰を抜かしたことにしておかないと、これは恰好がつかないト――」
「そりゃそうです。一刻も早く抜かさなきゃ危険ですよ」
「フーン――すみませんが、その抜かし方をちょっと伝授していただけるとありがたいんですがね」
「伝授ったって私もまだ読んでないわけだからお役に立てるかどうか――大体タマムラさんの四面体というのはどういうのです? 四面体という以上、正三角形が四つ集まってできてるわけでしょう? その底面の三角形は何でできているんです? やはり<生まのもの>とか――」
「アレ? 読まないのによく知ってますね。エート、タマムラさんの場合、底面の三角形が生まの次元なんですね。で、四面体のてっぺんのとんがったところが火であるト」
「ハハア――すると生まの三角形の三つの頂点は何です?」
「水と油と空気です」
「なあるほど、こりゃ考えたね。つまり、魚なら魚を底面の三角形に入れてやる。ここでは魚は生まであるト。で、で、水の頂点から出発して火のほうに上がってゆくと、これは煮魚になるト。で、油の頂点から火のほうに上がってゆけば、これは天ぷらとかフライとか炒めものとかになるわけだな。で、空気の頂点から上がってゆくと――これはどうなるの? 焼き魚?」
「そうですね。エーと、干物とか燻製とかを通過して焼き魚になっていって、てっぺんで黒焦げになるわけでしょうね。でね、面白いのは、たとえば大豆を水の線で火に近づけて豆乳を作ってニガリを入れると豆腐になりますよね?」
「ええ」
「すると、今度そのできた豆腐を<生まのもの>扱いにして底面に戻してやる」
「フンフン」
「そして、水の線で火に近づければ湯豆腐になり、油の線で火に近づければ油揚げになり――」
「そのまた油揚げを生まの平面に戻して水の線で火に近づければ油揚げの煮つけになるとか――なるほど、その、生まの平面に戻せるというのが一つのミソだね」
「そうなんですが――ただ僕がよくわからないのは、だからどうしたんだ、ということなんですね」
「なるほど。じゃあちょっと説明すると、この四面体のもとになってるのはレヴィ・ストロースの<料理の三角形>なんですね」
「レヴィ・ストロース」
「ええ。レヴィ・ストロースという文化人類学者がいまして、この人が<料理の三角形>というものを作った。すなわち三つの頂点がそれぞれ<生まのもの><火にかけたもの><腐ったもの>という三角形ですね。つまり<生まのもの>の文化的変形が<火にかけたもの>であり、自然的変形が<腐ったもの>である、ということですが――」
「<腐ったもの>っていうのは、具体的にはなんなんです?」
「たとえば、チーズとか味噌とか、そういうのは<腐ったもの>の範疇でして――エー、ですから、結局この三角形でレヴィ・ストロースがいいたかったのは料理には二つの対立がある。つまり<生まのもの>対<それ以外のもの>、つまり<火にかけたもの>と<腐ったもの>ですね。そういう対立、これは別の言葉でいえば<手を加えていないもの>対<手を加えたもの>という対立ですね。で、もう一つは<火にかけたもの>対<腐ったもの>という対立。すなわち<文化>対<自然>という対立。この二つの対立が料理の中にある、とレヴィ・ストロースは考えた。そしてですね、更にその三つの項の中から特に<火にかけたもの>をとり出して、これを<焼いたもの>と<煮たもの>と<燻製にしたもの>とに分け、名づけて<調理法の三角形>と呼んだわけです」
「ハハア、それがタマムラさんの発想のもとになってるわけですね?」
「そうかもしれません。で、この<調理法の三角形>の中にもいろいろな対立が含まれてるわけですね。<焼いたもの>は直接火にかざされる。<煮たもの>は鍋と水という二重の媒介によって、間接的に火にかざされる。従って、どちらかといえば<焼いたもの>が自然、<煮たもの>が文化、<焼いたもの>が<手を加えてないもの>、<煮たもの>が<手を加えたもの>、そういう対立が当てはまろうし、更にいうなら、<焼いたもの>は外側から火にかけられ、<煮たもの>は鍋や水の内側で火にかけられるという<内><外>の対立がある。従って、<焼いたもの>は外から来た客に出されるし、<煮たもの>は身内のつながりを強めるために食べられる、という」
「ホウ。ステーキはお客様用、うどんすきは家庭用ですか」
「レヴィ・ストロースが書いているのは未開社会の話なんですが、でも、まあいってみればそういうことになるわけですね。じゃあ<燻製にしたもの>はどうか。<焼いたもの>と<燻製にしたもの>を火との関係でみれば、一方は<すばやく><近火で>、一方は<ゆっくりと><遠火で>、という対立がある。そして<燻製にしたもの>と、<煮たもの>の間には、一方は<水なし>、一方は<水あり>、一方は<道具なし>、一方は<道具あり>という対立がある、というわけです」
「ハハア、その、レヴィ・ストロースという大学者の三角形を、タマムラさんは涼しい顔で、鼻唄まじりに軽く四面体に改良しちゃったわけですね? なるほど、これは教養人たちが腰を抜かすわけだ」
「でしょう?」
「なあるほどね、フン、フン――たしかにアレですね、レヴィ・ストロースの説じゃ、たとえば焼きおにぎりなんか説明つきませんものね。これは<煮たもの>なのか<焼いたもの>なのか。しかもそのおにぎりのごはんが、<腐ったもの>であるところの味噌でもまぶしたごはんだったりしたら料理の三角形は大混乱におちいってしまう」
「だからそういうことをタマムラさんが考えているうちに、突然三角形が立ち上がって立体になったんじゃないですか?」
「なるほど、なるほど、フン、フン――しかし、くどいようですが、それにしてもわからないのは、だからどうしたっていうんです?」
「つまりね、人間というのは世界の中に投げこまれてますよね? で、世界というのはわれわれにとって謎ですよね? 従って、人間というのは古来、この、謎であるところの世界をなんとか説明しようとして骨を折ってきたわけですね。なにかの説明原理でスパッとこの世界が説明できたらどんなにすっきりするだろう、というので、人間はいろいろな説明原理を探し続けてきた。神というのもそうでしょう。人間とか、理性とか、歴史とかいうのもそうでしょう。しかしね、これではどうもうまく全体がとらえられないということがわかってきた。なるほど中心のところはうまく説明がつくように見えるが端っこのほう、まわりのほう、あるいは裏側のほうは全然説明がつかない。一所懸命説明しているつもりで、実は、説明に都合がいいように世界を切りとってみせているに過ぎないのではないか。これではいけない。なんとか虚心坦懐に、まずあるがままの全体を掬い上げ、そのあるがままの諸事実の間の関係をつぶさに眺めるうちに、混沌の背後に横たわっている共通の何かが浮かび上がってくる――そういう、世界の読みとり方はないものか、というので出てきたのが構造主義という考え方であり、従ってレヴィ・ストロースの料理の三角形にしても、タマムラさんの料理の四面体にしても、料理という一見混沌とした無秩序な総体を全体と掬い上げつつ、その背後に横たわる見えざる秩序、つまり構造ですね、これを探ろうとしている努力なのだ、ということになるんじゃないでしょうか」
「フーン。読んでると気楽な食べ物漫談のようでありながら、実は思想史的問題を深く含みこんでいるわけだなあ。タマムラさんの略歴を見るとパリ大学言語研究所留学とありますが、そのへんも関係あるんでしょうかね?」
「あ、それは関係あるでしょうね。レヴィ・ストロースもそうですが、タマムラさんもおそらくフェルディナン・ド・ソシュールという言語学者の影響を強く受けておられるんではないですかね。われわれ、たとえば料理に一つ一つ名前をつけて、従って、名前に対応するところの独立した料理があると思っている。しかしはたしてそうだろうか? たとえばた卵を茹でてゆく。初めは生ま卵だったのが半熟になり全熟になってゆく。われわれ生ま卵、半熟卵、茹で卵という名前で、卵の茹でられ方を仕切ってますけどね、卵のほうにしてみれば生ま卵から茹で卵まで、どこに仕切りがあるわけでもなくずうっとつながっているわけでしょ。」
「そうですね、タマムラさんもそれを表現したくて料理の四面体を考えたわけですから。つまり、卵を生まの底面に入れてやる。そして水の線に従って火に近づけてゆくと、茹だり方のあらゆる段階が切れ目なしに並ぶわけです」
「ね? それは非常にソシュール的な考え方なんですよ。これはもう誰でも知ってることでしょうが、ソシュールの言語学によれば、たとえばわれわれが<キ>なら<キ>という音を聞きますね、あるいは心に思い浮かべますね、そして、それによって<樹のイメージ>を惹き起されるとする。この<キ>のほうをソシュールは<意味するもの><シニフィアン>略して<Sa>と名づけ、<樹のイメージ>のほうを<意味されるもの><シニフィエ>略して<Se>と名づけ、この二つが紙の表裏の如く、分かちがたく結びついたものが意味作用であるとして、これを
Se
-----
Sa
というふうにあらわしたわけです。これをもう少し詳しくいいますと、たとえばチャという音で茶色をイメージするとする。この場合チャという音とは何か? チャが段々濁ってゆくとジャになってしまう。段々空気が入ってくるとシャになってしまう。口の開き方が変るとチョやチェになってしまうでしょう。つまり、連続体としての音の中の、一部分、チェてもチョでもチュでもジャでもシャでもない、しかし、それらに囲まれたある範囲をわれわれはチャであると受けとる。すなわち、チャという音が、それだけで独立して存在しているわけではない。チャを成り立たせているのはあくまでも他の音との差異であり、そして、この差異による連続体の分節の仕方は全く文化的といいますか、出鱈目といいますか、要するに自然に根ざさない、恣意的なものだというわけですね。同じことが<意味されるもの>であるところの茶色にもいえるわけで、色というのも連続体でしょう? 茶色は濃くなってゆけば黒になってしまって茶色じゃなくなる。明るくなってゆけばベージュになるだろうし、同じように変化の仕方では遂に赤になったり、オレンジになったり、グレイになったりしてしまう。ですから茶色というものが独立して存在しているわけではない。あくまでも他のさまざまな色との差異によって、茶色というものは、黒でも赤でもオレンジでもベージュでもグレイでもない、それらによって囲まれた意味空間として存在している。そして、この、赤とか黒とか茶とかいう色の分け方もまた、完全に恣意的なものなんですね。茶色なんてやめてしまって、赤の一種だとしたっていいわけで、これは文化的出鱈目なんです。だから音の分節も恣意的、そして概念野の分節も恣意的、そしてこの恣意的な分節の結果であるところのシニフィエとシニフィアンの結びつきもまた恣意的である。つまりは樹はキと呼ばれる自然的な必然性は全くなくて、ケでもコでもいいわけですから、この結びつきも全く文化的に出鱈目である。ところがこの文化的出鱈目同士のシニフィエとシニフィアンが結合すると、突如これが文化的な必然と化してわれわれを強く縛りつけてくる」
「なるほど。つまり、これをタマムラさんの場合に引きつけていえば、料理の名前という<意味するもの>があり、料理という<意味されるもの>がある。この二つの結びつきは大変しっかりしているので、われわれはあたかも、独立したそれぞれの料理があるかのように思っているけれどもそうではないのだト。料理というのは実は連続体なのだというわけですね。生まの状態の卵から固く茹だった状態の卵まで、無段階的に連続してある卵を、われわれは恣意的に分節して、半熟卵とか茹で卵とか温泉卵とか、瓢亭の卵とかいうふうに呼んでいる」
「そうそう。その未分節の、連続体としての料理というものをタマムラさんははっきりとした形で提示しておきたかったんでしょうね。そして、その上で、いわば料理の言語学とでもいうようなものを構想したかったんじゃないでしょうか」
「なるほど、よくわかりました。こうしてみると、タマムラさんの料理の四面体というのは、世界を丸ごと掬い上げて、構造としてとらえ、そのことによって近代主義を克服してゆこうという思想史的に問題から始まって、料理に言語学をかぶせることによって、すべては差異の体系であり、従って関係に他ならず、つまり、この世には独立した存在形式などというものは存在しないのだ、というソシュールの主張に唱和している、ということになりましょうか?」
「そうですね。そして、そのようにして、われわれを深いところでとらえている制度を明るみに出してゆく。そしてそのことによって主体という神学を解体してゆく。そういうことを射程に入れておられるのではないでしょうか。私は読んでいないのでよくわかりませんが――」
「なるほど、なるほど。いやあ、どうもありがとうございました」
「まあ、このあと、この四面体に記号論なりテキスト論なりをどう重ねてゆくかというふうな問題がありましょうけど、とりあえずのとっかかりとしては今いったようなことになるんじゃないかと思うんですね――どうです? こんなところで解説は書けそうですか?」
「ア、それはもう、今のお話をそのまま原稿にして解説にしちゃえばいいわけですから――」
「エ! それはひどい」
「もう、読者にはゴメンということで――」
「これがほんとの料理のゴメン体――」
「いやあ、どうも失礼いたしました」
(俳優)
玉村豊男 @ Wikipedia
伊丹十三 @ Wikipedia
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