20080601 賢者の言葉・橋本治・「もうそんなにSEXをしたくないな」と思う年頃
『ぼくらのSEX』 橋本治 (集英社 1993) より、
「第39章 「もうそんなにSEXをしたくないな」と思う年頃」を引用。
SEXは成長した人間なら誰でもするし、誰でもしたいと思う。だから、オジーサンだってオバーサンだって、オジサンだってオバサンだってする。「SEXがいけないことだ」と思われていた時期には、「そんなことはない」ということを言うために、「SEXは美しいものだ」なんてことも言われたけれども、だからといって、SEXは美男美女のやるものではない。若くなくたって、SEXをする。ただ、若くなくなってくると、「もうそんなにSEXをしたくないな」と思うことも多くなってくる(ことがある)。
この本の一番はじめで言った「昇華」ということとも関係してくるんだけど、「SEX」というのは、かなりメンドクサイことで、かなり体力のいることなんだ。体力のありあまっている若い時は、まず「体力がありあまっている」ということもピンとこないぐらいのもんなんだけど、体力というものは、年齢とともに落ちます。落ちてそのまんま老け込んじゃう人もいるけど、そうじゃない人もいる。
体力は落ちても、でも人間はそのかわり「熟練」ということが生まれてくるから。
おなじことをするんでも、なれてしまえば、「よぶんな苦労」をしなくていいから、そんなに体力を使わなくてもすむ。だから、体力が落ちても、人はそんなに苦労しない――「熟練」ということが体に宿ってしまった人は。そして、人間の体には「体力」のかわりに「熟練」が宿るというのは、やっぱり、人間のやることにはある「一定」というワクがあるからでしょう。
体力が落ちて、でも熟練というものがあるからそんなに困らなくても、そんなことがわかるようになった年頃の人は、「自分も、もうそんなにムチャはできないな」と思う。「自分のやれることも、そろそろかぎられて来たからな」とか。
「おなじやるんなら、もうちょっと自分でなっとくできるようなことがしたいな」と思ったりするのは、こんな年頃です。
だから、若い頃にはマジメで、あんまりSEXに熱中するなんてことをしなかった人が、「やるぜ!」でSEXばっかりしちゃうこともある。たぶん、それは少数派だけどね。多くの人は、「そんなにSEXに熱中できないな。おんなじするのなら、もうちょっと自分の熱中できることがしたいな」と思っちゃう。
SEXは、「"自分"というメンドクサイものを忘れたい衝動」でもあるんだけど、年をとってくると、「自分を忘れたくない」になってくる。「この自分のやりかけのことをちゃんとやりたいから、SEXして時間を取られるのがやだ」という、若い時とは逆の発想だってでてくる。若い時にSEXに熱中しちゃうというのは、体力があまっているということの他に、「SEX以外にあんまりすることがない」ということだってある。
若い時は、あんまり外側に「自分の役割」というのがないから、「いいもん」とすねて、「自分の内側」に逃げ込んでしまう。だからそれで「SEXにばっかり熱中する」ということも起きるんだけど、世の中に「自分の役割」というのがはっきりできちゃうと、そうそう逃げてばっかりもいられない。
「やだな」と思って、それでもSEXばっかりしてる「浮気な中年男」だっている。自分の立場は確保できたんだけど、でもその役割があんまりたいしたもんじゃないから、それでヤケを起こして浮気ばかりしている中年女というのもいるけど、でも「義務なんだから、ちゃんとやんなきゃな」という理性が生まれてきちゃうのも、中年からですね。
「他にすることがあるから、あんまりSEXしなくてもいいや」という状態は、若い人にはわかりにくいかもしれないけれど、そういうこともあるんだ。だから逆に、たまーに、「すごくSEXしたい」という時も来る。すごくうれしいことや、すごく悲しいことがあった時は、やっぱり、人を感じたい。人の肉体を感じてSEXしたいと思うのが、「もうそんなにSEXをしたくないな」と思う年頃のSEX。
そういうもんだから、そういうもんでいいんです。
SEXには「若さ信仰」というのがある。肌がたるんできたとか、シワが増えた、ゼイ肉がついたという。「肉体の美醜」に関するもの。男性だったら、「勃起力が弱くなった」という悩み。女性だったら、メンスが止まる「閉経」という現象もやって来る。
人によって違うけど、だいたい四十代の後半ぐらいになると、女の人には「更年期障害」というのがやって来る。「もうすぐメンスが止まりますよ。もう、卵巣から子宮に卵子を送るのをやめますよ。それに合わせて体の調子もかいろいろ変わりますから、気をつけてください」というのが、女性の「更年期障害」。
昔は「メンスがあがる」というのを、「女として終わりになる」というふうに解釈もしていた。だから、女の人はこの時期に気落ちすることが多かった。「自分はもう女として"終わり"なんだ……。いったい自分は、今まで"女"としてなにをやってたんだろう? 意味のある"女"をやってたのかな?」とかね。卒業式の感慨に近いね。
そして「卒業式の感慨」だから、反対にこういうのもあった。「ああ、これでやっと、あの生理というメンドクサイものから解放される! 私は自由だ!」というのもね。
「私は、SEXなんか好きじゃなかった、"女"だからしょうがなくて、夫のSEXにつきあってきたけど、これでもう"女"じゃなくなるんだから、そんなメンドクサイことにつきあわなくてすむ。うれしい!」という人も。
でもべつに、メンスが止まったら、そこですぐ女の人が「男の人」になるわけjyない。メンスが止まっても、人間の女は人間の女のままですね。ただそれが、ある種のピリオドとなるだけ。
女の人は、そういうふうにピリオドがはっきりしているから、「楽だ」とも言えるかもしれない。男の人は、自分で自分のコンディションを見ながら、「自分は若いのか? 若くないのか?」を判断しなきゃならないからね。
SEXへの欲望が、若い時ほど強いのは、当然です。「これから先、大人になってかなきゃいけない。大人になるためのストックをいっぱい作っとかなきゃいけない」というのが若い時期なんだから、それは当然です。だから、「べつにSEXは、いつまでも若い時とおなじままでいなきゃいけないわけでもないんだ」と、そういうふうに思ったほうがいいんです。
「中年からのSEX」「老人になってからのSEX」は、「若い時からの延長」でもあるけれど、それとは全然違ったものでもある。「老い」というのは、その人の人生の結果を教える通信簿みたいなもんで、人によってそれぞれ違う。それぞれの都合に合わせてSEXをする。その中にはもちろん「私は、どっちかというと"しない"を選択する」というのだってある。必要なことは、「年をとったらSEXをしちゃいけない。年をとってのSEXは見苦しい」なんていう考え方を捨てることです。
べつにSEXは「美しいもの」じゃない。SEXは人生で、人生は「それぞれの人生に、それなりの美しさが、あるんだったらある」というだけのことですからね。
「美しくないからしない」「美しくないからしちゃいけないんでしょ?」なんていう、つまんないヤセ我慢はしないほうがいいですよ。
あ、そうだ、ひょっとするとSEXというものは、「人間の我慢が、すべて表現されるようなもの」なのかもしれない。
橋本治@Wikipedia
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