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20080608 賢者の言葉・小沼純一・音楽と「場」-「いま-ここ」

   * [サウンド・エシックス―これからの「音楽文化論」入門] 小沼純一




  『サウンド・エシックス これからの「音楽文化論」入門』 小沼純一 (平凡社新書 2000) より、

 「第2章 音楽と「場」(2)――「いま-ここ」あるいはノイズ」の一部を引用。 

 「持ち運べる音楽」と「持ち運べない音楽」

 かつて作曲家の武満徹は、「持ち運べる音楽」と「持ち運べない音楽」というような言い方をしました。バリ島を訪れ、この地の芸能に感銘をうけて執筆されたエッセイ『樹の鏡、草原の鏡』のなかにおいてでしたが、近代ヨーロッパの音楽はどこへでも持ち運べる音楽としてあるけれども、バリ島の音楽をはじめとして、その生まれた場所でしかありえない、持ち運べない音楽というのがあるというのです。

 これまでにも何度もくりかえしたとおり、物理的な音、音楽は、録音され、どこにでも持ち運ぶことができるし、だからこそひとはひとつところにいながら、世界中の音楽に触れることができます。しかし、そうした録音とか、あるいは音楽家をどこかいつもとはちがったところに連れてきて演奏してもらうというのはたしかにできるだろうけれど、そのときにはいろいろなものがぬけ落ちてしまう、ちがったものになってしまう。それは、バンドがツアーを組んでひとつの国のみならず、世界中に行って演奏するというのとは、似ているようでいてちがう。

 ひとつの音楽が生まれ、何年も何年もかかって育ってゆく、その土地、その場所、その環境、というのがあるわけです。そこから切り離してしまったら多くのもの、大きなものが失われてしまう。それは、音楽が生まれ育つ共同体、共同体を作っている成員、気候や風土、その他文化的なファクターが何重にもなっている。楽器だって、その土地でとれた植物や動物、あるいは石、土などを用いるし、乾燥させ方なども気温や湿度などと関わってきます。日本の尺八や琵琶をアメリカやヨーロッパに持っていったときの苦労、あるいはヴァイオリンやピアノを日本や東南アジアでメンテナンスすることの大変さは、しばしば耳にはいってくることでもあります。ヨーロッパの名画を運搬してきて日本で展覧会をおこなうとき、キュレイターがどれほど気をつかうかということなども、それはおなじことです。いくら空調設備が整っても、あくまで「室内」という閉じた空間でのことにすぎません。外界は、昔もいまも、いや、昔以上に異常気象などもあって、世界各地の差は広がっているのではないでしょうか。

 ひとつの楽器が伝播してゆくなかで、かたちを変えてゆきます。ミシェル・セールにならっていうなら、文化の翻訳とでも言ったらいいでしょうか。ペルシャのサントゥールというのは撥で叩く楽器なのですが、ヨーロッパに伝えられるとツィンバロンやピアノになってゆきますし、アジアでは中国の楊琴(やんちん)になります。おなじくウードは、中国や日本では琵琶になり、ヨーロッパではリュートになってゆきます。その土地土地の材質、音色の好みが反映されて、変化してゆくわけです。

 暑い国の音楽だから夏に聴くのがいいというようなことではなく――それがまるっきり間違っているとはいえません。暑いところの音楽だと知れるのも情報によるメリットだし、仮想的にその「場」を体験しようとしているわけですから――、もっと「場」そのものを音楽と切り離しがたいものとして捉えること。寒いところには寒いところなりの音のひびきかたがあり、暑いところにはまたそうしたひびきかたがあります。

 本来はヨーロッパの音楽も「持ち運べない」ものだったのでしょう。いまでもオペラなどをみるとそんな印象を抱くことがあります。特にドイツやイタリアなどのスタンダードとなった作品より、チェコやロシア、あるいはスペインといった「ローカル」な場所で生まれたオペラに、です。

 しかし、時間的にも空間的にも広く伝えられてゆくプロセスのなかで、一種の普遍性が目指されるようになります。普遍性――不思議な言葉です。それが普遍的であるかどうか、いったい誰が決めるというのでしょう。或るひとつの世界観のなかでも普遍性というのはありうるにしても、どんなところでもあまねく通じる普遍性というのは、はたしてありうるのでしょうか。もっとも、それについてはいま深入りはしないでおきましょう。

 さしあたっては、本来は或る場所から生まれ育ったものが、どこにでも持ち運べ、特定の文脈を切り離しても成り立ちうるという発想があるということを確認しておきたい。時代と場所を消し去って、普遍的なものとしてありうるのだとしたら、しばしばいわれる「オーセンティック」なるものは、どういうことになるのでしょうか。十六世紀のドイツで使われていた楽器を復元し、その当時の演奏スタイルを時代考証して、「これがホンモノだ」「これが当時のひびきだ」ということは、もしかすると近代が推し進めてきた「普遍性」を逆に「時代-場所」にかえる意志であり、それはまた、レコードやヴィデオなどの複製技術による「いつでも-どこでも」への異議申し立てなのかもしれません。たとえ、そうした演奏をレコードに録音したとしても、です。



 音楽と「場」

 音楽と「場」という発想は、あらためて考えられるポイントとしてあるのではないか。そしてそこには、ここでは詳しく述べることはしませんが、環境芸術、建築、サウンド・カルチャー、サウンド・デザイン、サウンド・アートといったものもつながってきます。

 そもそも、「場」というのがあったのです。かならずしも、村落共同体的な意味ではありません。ネット上でさえ、ヴァーチャルな「場」があり、そこで成り立っていることがあります。「ホームページ」といい、「ホーム」であることに意味があります。ジオグラフィックな意味での「場」と、ヴァーチャルな空間の「場」とは、並存し、また、交互に行ったり来たりすること。もしかするとそれが望ましい在り方であり、「いまという時代」の在り方なのではないでしょうか。

 「いつでも-どこでも」と「いま-ここ」を音楽をとおして考え、また実感すること。いま必要なのはこれを生きることのはずです。



小沼純一@Wikipedia

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