20080629 賢者の言葉・野間宏 『親鸞』・「11 愚禿」
『親鸞』 野間宏
「11 愚禿」全文引用。
私はこれまで、愚禿(ぐとく)親鸞というこの言葉のなかにある<禿>のところに重点をおいて、禿とは親鸞の思想の中軸にあるものであると説いてきたのである。それはたしかに正しいことであったとはいえ、私は愚のほうをいささか取り逃していたと考えなければならなくなった。親鸞は流罪の刑に処せられた時、禿を名のり、この禿こそが自分自身であると自分にも示し、人にも示し、新しい出発のための改名をしたということはたしかなことである。しかし、親鸞は越後から関東へと移って、農民、漁民、商人たちのなかへ入り、そのきびしい生活の苦労と悪をおかさざるをえないところから生まれる魂の苦悩と不安に押しひしがれ、いかなる救いも見出しえない人たちと時間を共にしたとき、愚という言葉が姿を現わすのを見たと考えなければならないのである。この愚こそは関東の農民、庶民大衆の生活のなかから親鸞の心の中へと流れ入ってきた言葉であることを、私は『歎異抄』について書いた時には、見ることができなかった。そしてそれは私の力の不足するところから生まれたのである。愚禿の<愚>について考えることができるようになったところに、いまの私の一つの到達点があるのである。
この愚の問題のなかにただちに入りたいのであるが、この愚に接近し、親鸞における愚の重大な意味を見ようとするならば、やはりまず禿から見ていかなければ、愚もまたその真のありどころを現わすことがないのであって、愚禿というこの二つが重なりあうことによって弁証法的な構造をつくっている親鸞の思想をあらわにすることではできないのである。
『歎異抄』について書いた時に述べたことと重なるのであるが、それを避けることなく言えば、「すでに僧にあらず俗にあらずそれ故の禿とす」という親鸞の言葉に明らかなように、禿というのは僧侶のように頭の毛を剃りおとした姿をしている者でもなく、俗人のように髪をのばした形をしている者でもない「ハゲ頭」の者という意味である。しかし、僧でないとすればそれは俗でなければならず、俗でないとすれば僧でなければならない。それ故に、「僧にあらず俗にあらず」ということはまったく考えられないところというのが私のつきつめた考えだったわけである。そして私はこの地球上において考えられない位置に自分を置こうとし、またそうしなければならないとしてその位置の上に立って探し出された言葉が禿であるとしているのである。この禿の字の意味するところを取りあげることがないならば、親鸞の思想の中心にあるものはとらえられず。手もとから離れてまったく遠いところへと逃げ去ってしまうのである。「僧にあらず俗にあらず」という地球上に探しえない位置に身を置きつづけようとするところまできた時、親鸞はそのまったく新しい思想の出発点を、またその執着点を、そこに見出していたのである。
「僧にあらず俗にあらず」という、そういう人間の存在する位置は、この地球上にはありえないと私は言ったが、ではその位置はどこに探せばよいのか。もちろんそれは架空の位置なのである。そしてこれが私が「僧にあらず俗にあらず禿である」ということを問題にして解き、今日まで持続してきている考えなのである。「僧にあらず俗にあらず禿である」という自分自身を親鸞は見つけ出し、この地球上にはない架空の位置に自分をおくことを考えたと私は考察してきているのである。
しかし、実際このような架空の位置に自分をおくということがはたしてできるのか、親鸞はいかにしてそれを可能としたのか、これらのことがすぐに問いとして返ってくるだろう。この架空の位置、それは地球を離れて、この世を離れてある位置とまず考えるとして、そのような位置に肉体をもった人間がはたしてたとえ親鸞であろうと身をおくなどということができるであろうか。いかに、インドの釈尊時代にあった六つの外道に属する、非常に古い時代からインドに発達していた魔術を身につけている人たちにしても、そのようなところに身をおくなどということは不可能なのである。
それが架空の位置であることは間違いのないことであるが、この架空の位置を正確に見出し、その位置をあやまりなく測定することはじつに困難なことなのであって、親鸞自身もこの禿の自覚に早く到達しながら何度か足を踏みはずして自身を僧の位置におこうとしたり、あるいはまた俗の位置に落ち込むというようなことを繰り返しているということができる。
親鸞が越後から関東へと移っていく途中、浄土三部経を千部読んで衆生利益をはかろうという考えにふととらわれたことが恵信尼の手紙のなかに書かれていると前に述べたが、たしかにこれは実際にあったころにちがいないと私は考える。ただ念仏ばかりでよしと考え、それを説きつづけてきた、その主張者の自分がそれを裏切り、経文を数多く読むことによって衆生に利益をもたらされるという旧仏教のなかにあった考えに引き戻されていたのである。これは、「僧にあらず」と言い切っておきながら僧というところへわれ知らず引き戻されていたということを示しているのである。
それでは俗のほうはどうであろうか。この俗についてはただちに引き出せる記録類はない。しかし、親鸞みずから具体的にではないが書いているように、愛欲の広海のなかに身を沈めつづけ、また名声を得ようという思いをおさえかねる気持に襲われる、というようなことがあり、それから抜けだすことがいかに困難であったか、それは親鸞自身じつによく知っていたことなのである。俗世間のなかに身を入れ、一切の圧迫と苦しみのなかに落とされている農民、庶民、多くの人々の生活のなかへ入っていけばいくほど、いつの間にか自身がその世俗のとりこになりかねないということも起ってきたと当然考えられるのである。
「僧にあらず俗にあらず」という場所は、この世では見出しえない、この地球上には実際にない場所である。しかしまたそれが地球を離れたところにあるとするならば、そこに肉体をもった身をおくことなどできないのである。このように考えをすすめると、この位置は「僧である俗である」ということの二つのものの境い目であり、<ある・なし>という有・無をこえたところに見出される、あるかなしかの境界なのである。この境界は親鸞が法然に会ってはじめて目を開かれ、道は法然の教えつところのほかにはないと考え、その道を歩きつづけてついに流罪の刑に処せられ、僧籍を奪われて罪人としての俗名をあたえられたとき見出したものなのである。
私は「僧である俗である」その境い目のあるかないかというそこのところに見出される境界が禿の位置であると考えてきているが、それはまた先にふれた「四、五寸の白道」なのである。親鸞の信はこの白道を見出すところに生きているのであって、この<禿>であるものが歩む白道はこの地球上にはない架空のものであって、しかも同時に肉体をもって人間がそこに足をおく場所を得てそこへと踏み込むことのできるものでなければならないのである。とすれば、そのようなところは見出すことが不可能なのであって、しかも親鸞はそれを見出し、実際にそこに身をおき、生きていくのである。
私はこの「四、五寸の白道」は親鸞にとっては禿の自覚そのものによって照らし出されてくる架空のものであって、しかも現実の、一筋のみずからが歩まなければならない道として現われ出てくるものであると考えてきたのである。そしてこの私の考えは『教行信証』を読みつづけたのち、さらに深いところへと行きつくことができたのではないかと思うのである。
親鸞は僧のなかにあって律令制の上に立っている僧というものの堕落しはてた姿をよく知っていたし、一方また自身が救いをもたらそうと心を傾けた世間の人々が、その俗のままで俗についているというのであれば、いつまでも泥に足を漬していてどうしても身に翼をつけて空中へ駆けのぼるというような軽々とした身になることができない、その泥土から足を引き抜く力をそなえた身になりえないということを知らされ、それを身に刻むこんでいたにちがいないのである。そしてそこに禿の思想、「四、五寸の白道」の思想がいきいきとしたものとして創造されたと考えられる。
では愚というのは、禿にたいしてどのように相応じるものなのだろうか。『歎異抄』について書いた時、禿はただたんに正式の僧ではない民間仏教の沙弥あるいは聖のようなものであるという解釈を私は否定し、それにならって愚についてもまた自身を謙遜しておろかなる者、愚者というように愚が使われたということも私は否定した。しかしそこでは、私は愚の積極的な意味を引き出すことができなかったのである。禿は浄土へと行きつくという往相の姿勢を示しているものとすれば、愚は浄土に行きついた者が、浄土から帰ってきて自分自身が浄土へ行きつくだけでは決してすむものではないという心をもって、できるかぎり世の多くの人々に働きかけ、浄土の真の道がここにあることを伝え、その浄土行を導くという還相の姿勢を示しているものと考えるべきであろう。
曾我量深は、念仏の行者は自力の人たちとはちがって、念仏しようと心が動いたとき、その瞬間すでにおさめとって捨てないという仏の誓願によって浄土に行きつき、しかも十分に開ききった蓮の花の上に身をおくことができ、そこで仏と顔を合わせ、そして仏の道について説く仏の言葉を聞くことができるので、すぐさま浄土からこの世に帰ってこなければならないと言っている。そしてそれにたいして自力の人は、浄土の辺地の蓮の花の開かれていないところへ生まれて、しかも五百年もたたなければ蓮の花が開かないので、じっとそのなかで花の開くのを待っていなければならないと説いている。これはじつに念仏行者の浄土に生まれる生まれかたの新しい解明をしているものだと私は考える。念仏者は臨終をまってはじめて浄土に行きつくというのではない。弥陀の誓願の正しいことを信じて、念仏する心の起ったとき、すでに仏となると定まった、仏とひとしい位である正定聚の位につくと言われているからには、その瞬間すでに浄土に行っているわけであり、浄土に行きついたならばすでに仏であるが故に、自利の、みずからのために念仏して浄土に行くという心はすでになく、他の多くの人を浄土に行きつかせたいものだという、他のすべての人の往生のためを願う利他の心をそなえてこの世にすぐ引き返してこなければならないということになる。この考えこそは、親鸞が『教行信証』のなかで深めることのできた自利・他利の考えを正確に取りだしているのである。
この考えを自分のものとして心深くおさめることができた時はじめて、念仏信心の者は即身成仏という密教の考えを大きく超えることができるのである。密教にあっては定められた修行・精進をつづけ、般若波羅蜜多をわきまえ、そのなかでこの肉身そのものをもって仏になる、つまり大日如来と一体になるということが説かれており、実際に即身成仏の体験をした高僧たちの多くの記録を読むことができる。
親鸞の説く浄土往生は決してこのような即身成仏ではない。浄土はあくまでもこの世の此岸にとってはとうてい達することのできるの彼岸であった、それはこの現実世界の上のひかれているいかなる道をたどっていっても到達することのできない、まったく次元を異にした彼岸なのである。その彼岸へと橋渡しをするものが念仏であり、念仏があればただちにまたその彼岸へ引き返してきて他の人たちに念仏を説き、多くの人が彼岸へと行きつく信を得るようになるというのが親鸞の浄土往生の考えであって、そこに往相・還相という二つの行き帰る往復運動のありようが明らかにされているのである。この還相、つまり浄土に行きついてすぐさまこの世に帰ってきて大衆のなかで浄土を説くのに愚がいかに必要であり、またこの愚がないならば大衆と本当に往来してその心の裏表を知りつくし、大衆の生きている生活の地盤の上で念仏を媒介とした真の関係を満たすことができないということを親鸞を考えつくしたのである。
親鸞は『愚禿鈔』のなかで、「賢者の信をききて、愚禿が心をあらわす。賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」と言っている。しかし、ここに出されている「内は愚で外は賢」という愚禿親鸞の心は、学問などとまったくつながりがないままに日々の苦難の生活をつづけなければならなかった「内は愚で外も愚」である大衆の心とよくつながりうるそのさまを示していると私は考えるのである。親鸞はたしかに学問をしてきた人間であり、あらゆる経典に通じていると言ってもよいだろう。それはどうしても拭いさることはできず、外に現われでているのだが、内はそのようなあらゆる経典一切を否定しさって、そのような経典すべての入りこんでいない心として自身の心をたもっており、ただ浄土往生の大行としての念仏のみがその心の中心に運動しているだけであるが故に、「内は愚で外の愚」という人たちは、外が賢である親鸞の心にひかれて近寄ってくるとき、その内外一切愚である心の中へただ念仏を入れさえすればそれでよいという愚禿親鸞の内の愚の心の中に動いているその浄土念仏がそのままその人たちの心の中へと入りこんでいくことが可能となるということである。
親鸞@Wikipedia
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