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20080706 賢者の言葉・赤瀬川原平 「T梨豊論」・高梨豊写真集 『ノスタルジア』 より

   * [NOSTALGHIA ノスタルジア] 高梨豊




  『NOSTALGHIA ノスタルジア』 高梨豊 (平凡社 2004) より、

 赤瀬川原平 「T梨豊論」引用。 

 「ウィンドスケープ」の瞬間
 新幹線の窓際の席に坐って外を見ながら、あ、あれ……、あっ、これ……、と目でつかまえようとする。でも「あれ」はあっという間に通り過ぎて、「これ」もあっという間に通り過ぎている。相手は風景だ。風景の尻尾くらいはつかまえたと思っても、もうその時にはするり、するりと逃げられている。
 T梨豊のシミュレーションをしてみているのである。「ウィンドスケープ」の写真シリーズ。いずれも走る電車の窓から撮ったものあ。はじめてカメラを手にした田舎の中学生が、修学旅行でまずやりそうな写真撮りである。それを大のT梨豊がやっていると聞いて、はじめはよくわからなかった。大のT梨豊がどういうつもりなのか。
 でもその最初の成果である写真群(カレンダー)を見て、その価値が高速で飛び込んできた。写真はスパークだ、と示されているようだった。レンズと物の出会い頭の閃光である。じつは屋内でも、道を歩きながらでも、そのことは変らない。ふだんはゆっくりだから、それがスパークだとはなかなかわからない。でも電車に乗って、走る窓の外を見れば、一目瞭然である。こちらがカメラを手にして狙ってみると、風景は常に爆発寸前の様相を呈しながら、次々通り過ぎる。爆弾の信管が全部露出しているようなものだ。その一点を適確に狙うのは、至難の技である。ぼくは新幹線の窓からT梨豊のシミュレーションをしていて、誤爆の連続だった。
 カレンダーにつづいてその後の「電車窓から」を集めた展覧会を見た時、ぼくはT梨砲のピント精度に見入った。既にシミュレーションで誤爆体験を重ねた目にとっては、その収穫は神業に見えた。写真は、事によっては、神の洩れ出る一瞬を身に浴びる作業だということが、そのフレームの中にあらわれている。これは何も技術論的なことではない。昔から「決定的瞬間」という言葉があって、これはかなり技術論的に解釈されているようだけど、そういう実技の世界のこととはちょっと違う。レンズと物の関係、あるいは見ることと或ることとの関係が高速で圧縮されて、そこからぽーんと飛び出した一瞬の人生が現像されたような、そういう写真の気配に驚くのである。
 山陰のわずかな畑地の隅に、真新しい墓石が一つ建っている。その脇の小さな小屋の前で、腰を下ろして一服している老人の姿。墓石は先立たれた妻のものか。いや誰のものかはわからぬが、その人生時間の切口が印画紙に定着されている。人生時間の垂直線と、電車つきカメラの水平線が、その瞬間に接して閃光を放っている。カメラはその接点から急カーヴして、そのスピードのままその老人の人生時間に進入していくようだ。そんな目の前の出来事に、ぼくはしばらく見入っていた。
 川沿いの、これは干拓地なのか。一面に残雪が残り、老人がドラム缶で何か燃やしている。年齢はわからぬが、若いとしても老人だろう。そのそばの道を1台の軽トラックが、窪みにがたんと足をとられながら通り過ぎて行こうとしている。大地の活動が寝静まったような季節の、そこに電車つきカメラの水平線が接触して、風景の中にぎっしり並ぶ人生時間の切口が、いっせいに顔を見せているようだ。
 横滑りしていく電車の窓ガラスに、車内に坐る人々の黒い影が黙々と並んでいる。その窓ガラスの向うには折しも墓地がみえて、たくさんの墓石が西日を受けて並んでいる。一つの窓に、いわば使用前と使用後の光景が重なりながら、それが平然とした巡航速度をもってレール上を通過していく。この場合は風景の中に潜む垂直の人生時間の方が、そこに接する横滑りのカメラ時間に一瞬乗り込んできて、そのまま同行していくような印象だ。

  肉体の復権
 この時期T梨豊は青春18切符を買って、毎日電車に乗っていた。1年以上も乗っていたのではないだろうか。カメラを構えて窓際に坐り、ほとんど日本列島の全路線を乗り潰しているはずである。
 はじめは何がそれほど引きつけているのか、もう一つわからなかったが、これは肉体の復権というものを待ち構えているのだと推察した。いまの世に出過ぎた頭への挑戦だろう。人間は考えることで文明を発達させてきたが、逆に、考え過ぎるとロクなことはない、ということがある。いささか雑な物言いだが、いまの世の憂鬱は、考えようとばかりする頭の空回りの音の憂鬱ではないか。脳の排泄物が充満することの憂鬱、といってもいい。世の中が人間の頭の密室内に閉じ込められて、外から何も入ってこない。自力思想の息苦しさ、といった空気に、生きている歓びがげんなりしている。
 世の中になまじの余裕があるからだと思う。本来はその余裕を生かす頭のはずが、頭の自信過剰か、頭の思い上がりからか、頭の自家中毒におちいっている。論理の袋小路に迷い込んで、自力では出ることができずに、迷路が細分化していくばかりである。
 その治療法は、頭に余裕を与えないことだ。頭がどうしても考えたいというなら、勝手についてこいという感じで、余裕の時間を切って捨てる。その手数の一つがこの電車窓だったのだと思う。高速で走る窓が、遠心分離機として働いて、論理では間に合わない瞬間がぞくぞくとあらわれてきて、その瞬間に反応するのは体である。プロ野球のバッターボックスと同じで、瞬時に事を成すのは感覚である。もちろんその間も脳のコントロール下にあるにしても、それは無意識の力であって、人工の論理ではない。
 鶏のひよこの雌雄鑑別に立ち会ったことがあるが、あれも余裕の時間の投げ捨てに驚いた。ふつうでは考えられないスピードで、瞬時に見て雌雄を分けていく。ゆっくりだと間違えるのだ。時間を与えると、すぐ頭の論理がはびこってきた、人間の能力の虫喰いがはじまる。この「ウィンドスケープ」は、頭の論理を置き去りにする力において、ひよこの鑑別と双璧を成すものである。
 それとはまた反対のことではあるが、T梨豊のスナップショットは、たっぷりと時間をかける。はじめはこれも意外だった。
 ぼくはライカ同盟というもののお陰で、T梨氏と同行する機会がよくある。ぼく自身はカメラマンではないから、カメラが肉体化していない。そのため撮ることへの照れがあるのか、その作業を一瞬ですませてしまう。でもT梨カメラは、そこでゆっくりと待ち構える。鳥を狙う猫のように、風景の手前でじーっと固まる。電車窓とは逆のようだが、ゆっくりと狙っている。相手は止まったものなのに、どうしていつまでも狙っているのかと、不思議に思えた。

  じっと待ち構える
 でもここにあらわれた写真を見ていくと、そのことが腑に落ちてくる。風景は止まっていないのだ。ほとんど止まっているけど、微妙に動いている。蠢いている。フレームの中に通行人が出入りする、というだけではない。フレームの中を、カメラマンの目も出入りをしている。つまりフレームの中を、知覚が蠢いているのだ。その決着をじっと待ち構えている。風景の蠢きと、その前に立つ見者の蠢きと、その決着がつくのを、カメラマンがじっと待ち構えている。
 それは待っているのであって、考えているのとはちょっと違う。だから鳥を狙う猫とも違うのかもしれない。むしろ宇宙からの微粒子ニュートリノの到来を待ち構えている。スーパーカミオカンデの水槽の水みたいなものだ。自力で引き寄せたりはしない。そういうはしたないことはせずに、ひたすら受皿として、到来を待っている。カメラというものの原型的なおこないである。
 (中略)

  軍隊のようなカメラワーク
 ノスタルジアとは当然時間軸にまるわるものだが、ここではその時間軸の揺れ動きをカメラが検知しようとしている気配がある。近年の人間の都市では、地軸の乱れならぬ心の軸の乱れで、垂直の時間軸がところどころ横に折れたりして、町の空間軸に広がっている。「ウィンドスケープ」の中で、窓外の墓地の時間軸が、シャッターを切った一瞬に車内に乗り込み、乗客に張りついて共に走り出したように、不可解な乱れがあちこちにある。そんなことが不可解ではなくなっていることの不可解さがある。T梨カメラは、そういう都市のトートロジーの隙間から漏れ出る微少な意味を、蝿取り紙で吸着するように、あるいはフロッタージュでこすり取るように路上を移動している。
 ぼくにはそれは行軍と見える。カメラの軍事行動である。T梨カメラのカメラワークというのは、イメージとして軍隊なのだ。戦略を考えて、武器を整備し、兵糧を整えてから行動を起す。そうやって、簡単には動けない重い組織が、いったん動き出すと、あとは聖戦完遂の力をもって最終地点まで動き通す。
 軍人というのとは違って軍隊なのである。とはいえ若いころ、夜の酒場などで遭遇するT梨氏は、丸刈りの頭に筋骨逞しく、ぼくはボクサーかと思った。顔面を上げず、両腕でガードしながら、腕だけがんと突き上げてくるような、そんな場面を想像して、初対面の会話は慎重だったように思う。
 でもその後、被写体として向き合い、それが雑誌掲載されたものを見て、撮られた自分の顔がいいので意外だった。いいといっても自慢ではない。誰でもそうだと思うが、自分の顔を写真に撮られて、なかなかいい感じにはめぐり合えないものである。本当はこうじゃないのに、といつも感じる。じゃあどう撮ればいいのかとなって、昔の写真館みたいに人工の修正を加えてどうなるということではない。ふつうの自分はなかなか写らないのだ。それがしかしあっさりと、ふつうの自分が写真になっている。
 撮られている時はむしろ頼りないくらいだった。ふつう目の前に立つカメラマンは、もう少し笑ってとか、ちょっとポーズをとか、何かあれこれと被写体をいじる。それがT梨氏の場合、ほとんど何もいわない。ただ静かにカメラを構えて、静かにシャッターを押している。本当はそれがいいのだけど、世のカメラマンの先入観があるから、大丈夫かな、と思ったのだ。
 自分の顔が、自分に嫌じゃなく撮られていることは珍しい。ふつうにあるようでいて、なかなかないことなのである。顔じゃなくても、たとえばインタヴューを受けて、その話をまとめたゲラが送られてきて、ああそのままだと思えることはまずない。だいたいは自分のニュアンスとは違う。誰か別のちょっと嫌な人の話になっている。その関係に似ている。ニュアンスを重視しているか軽視しているかの違いで、T梨カメラはごく自然に被写体本人だった。
 そんなことからいろいろあって今日である。たしかに酒場で初見した風貌はファイターだったが、でもそういう表面からの単純な連想ではなく、T梨カメラのカメラワークが軍隊のようだということである。
 これまでにあらわされてきた仕事群には、いずれもテーマがあり、タイトルとしての言葉がついている。それはそのままこの軍隊の、重い戦歴である。おそらく何気なくなじまった撮影行でも、その何気なくの積み重ねの中で、次第に整えられていく軍隊のようなものから、そこにシンボルとしての言葉が生れるのだろう。日々軍隊として行動しながら、この大戦の大義は何であるかと、常に思索している。
 町の中で、思索する軍隊に遭遇する。大量の鋼鉄の移動する空気を感じて身構えるが、見えるのは通行人ばかりである。いまの空気は何だろうかと立ち止る頭の前を、思索する軍隊はゆっくりと通り過ぎる。



高梨豊 @Wikipedia

赤瀬川原平 @Wikipedia


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