20080720 賢者の言葉・中村好文 『意中の建築』・「マティスの遺した光の宝石箱」
『意中の建築』 中村好文 (新潮社 2005) 上巻、
「マティスの遺した光の宝石箱 ロザリオ礼拝堂 1951年 フランス ヴァンス」より。
(前略)
20世紀絵画の巨匠アンリ・マティス(1869~1954)が、晩年に心血を注いだ礼拝堂。ニースの北西30キロほどにある小村ヴァンスのドミニコ会修道院の敷地内に建つ。はす向かいにはマティスが、1943年から5年間の疎開生活を送った別荘があり、また恩義ある修道女との再会も重なって、まさに「運命によって私が選ばれた仕事」となった。「訪れる人の心が軽くなること、たとえ信者でなくても、精神が高揚し、思考が明晰になり、軽やかな気持ちになること」を目指したこの美しい小堂は「色彩の画家」マティスの集大成とされる。
ロザリオ礼拝堂は小箱のように愛らしい建物です。その小さな建物が道路から一段下がった場所に建っているので、アプローチ側から見ると建物はいっそう低く、小さく感じられます。訪問者はまず道路に面した入口から入り、すぐにまっすぐな階段を降りて、ひとまず小空間(ナルテックス)に落ち着きます。そこでひと呼吸おき、心を鎮めてからおもむろに礼拝堂に入ることになるのです。
十年ほど前、初めてロザリオ礼拝堂に足を踏み入れた時、私には堂内があっけないほど簡素に感じられました。正直言うと、「ちょっと物足りない」と思ったほどでした。おそらく「マティスの畢生の大仕事」という先入観から、知らず知らずのうちに、もう少しドラマティックな空間を想像し、期待しすぎていたのかもしれません。しかし、しばらくその場にたたずむうちに、ステンドグラスを透過した自然光が満ちあふれる堂内で、大きな安堵感が心の底から湧き上がってくるのを感じ始めていました。それはちょうど、純白の真綿でできた清楚な空気にふうわりと優しく抱きすくめられるような気分でした。ステンドグラスと壁に嵌め込まれたタイルに描かれた素描、幾何学的な祭壇とその上に置かれたブロンズの燭台、針金細工の灯具と木製の家具、マティスが丹精込めてつくりあげたそれらの作品たちが、たがいに見つめあい、対話しあい、頷きあって、穏かさと緊張感の入り交じった清澄な空気を醸し出していることに気づいたのです。そしてこのとき、「色彩」と「描線」と「素材」と「形態」の揺るぎないハーモニーこそ、マティスがこの礼拝堂で目指した究極の到達点だったことに思い至りました。
これまでに私は、ロザリオ礼拝堂を三回訪れています。そして、二〇〇四年九月初旬、新潮社に礼拝堂撮影の許可がおり、私に再び見学の機会がめぐってきました。撮影は筒口カメラマンに任せるとして、私は、今度はそのような完璧なハーモニーを生み出すためにマティスの歩んだ制作の長い道のりを思い浮かべ、倦まず弛まず続けられた研鑽の成果を、五感をフルに働かせて存分に賞味したいと考えました。
礼拝堂の仕事で、最初にマティスがもっとも情熱を注いだのはステンドグラスの制作だったようです。切り紙の手法で作るその造形と、複数の色ガラスを通して堂内に入ってくる透過光が礼拝堂の空間に与える効果について、絶え間なく模索し、検討を加えていたことは、アトリエでの制作風景を撮った写真からもはっきり窺えます。実際に礼拝堂の内部に立ち、刻々と推移し、変化する光の戯れのなかに身をおいてみると、マティスは、ステンドグラスから射し込んだ自然光によって、礼拝堂の中の空気というつかみどころのない立体そのものを彩色するつもりだったのではないか――という仮説が脳裏をよぎります。そう思いつつ、礼拝堂の内部を眺めまわすと、ここには「光沢を持った面」が多いということに気づかされるのです。磨かれた白大理石の床や、素描を施されたピカピカと艶のあるタイルのような大きな光沢面だけではなく、注意して見ると告解室の透かし彫りを施した扉に塗られたエナメル質の塗装はテラテラだし、木製の框扉もツヤのあるオイルペイントでテカテカに塗られています。さらに言えば、小祭壇上の燭台も、天井から吊られた灯具の針金などの小物も艶やかな金色に輝いているといった具合です。このことから、マティスはステンドグラスを透過した光が、ただ単に床や壁を美しい色合いに染めるだけではなく、それぞれの素材の表面で反射し、空中にはね返って拡散するようにしむけたのだと考えたくなります。光沢面はマティスの目指した「色彩のオーケストラ」を堂内に響き渡らせるために欠くことのできない色の反響板だったにちがいありません。
ロザリオ礼拝堂建設の話が持ち上がった一九四七年秋、建築についての知識と素養のあったレシギエ修道士は、修道院長にこの礼拝堂のすべてを画家のマティスに委ねるように進言し、二人を引き合わせました。修道士は、その年の十二月に自分の描いた礼拝堂の基本設計図面をマティスに見せ、ここからマティスを中心にした礼拝堂新築の計画が本格的にスタートしました。設計から工事の完了までの四年間という長丁場を修道院側の建設担当者としてマティスと協働したレシギエ修道士は、当時まだ三十歳そこそこの青年でした。
そのレシギエ修道士によれば、礼拝堂の設計に取りかかったころのマティスは、建築空間というものを的確に把握しておらず「本のページのように考えていた」そうです。たぶんマティスはそれまでの本造りの経験から、空間におけるシーンの変化を、ページをめくることと同様に考えていたということなのでしょう。修道士から、構造や工法の初歩的なことで指摘を受けたりしながら、マティスは、その後次第に建築空間を実体として捉えるようになったわけですが、その方法は、長年にわたって眼を鍛え、手を修練しつつ、つねに目の前にある対象物とだけ真剣に向き合ってきた画家ならではの独創的なものだったと思います。
マティスはこの礼拝堂の仕事を、観念的なアイデアや実現不可能な構想の入り込む余地のない、徹底した即物主義、原物主義、原寸主義で推し進めて実現させました。それがロザリオ礼拝堂に取り組むためにマティスのあみだした、建築と芸術を融合させる流儀だったのです。
はじめに私は、「晩年のマティスの制作風景やくらしぶりを撮影した写真は沢山あります」と書きましたが、その写真を一枚一枚仔細に見ていくと、このことが手に取るように分かります。聖ドミニクス像を長い竹の棒のさきに取り付けた木炭で描いている写真については最初に書いたとおりですが、他にも、壁にステンドグラスの原寸型紙が張られている写真が何種類もあり、厚手のボール紙かなにかで作った祭壇の原寸大の模型(その上には磔刑像と燭台もちゃんと載せられています)を写した写真があり、礼拝堂の大きな模型を傍らに置き、ベッドに横たわったまま例の長い棒を使って壁に素描している写真があり、修道女のための長椅子の部分的な試作品や、材料のサンプルらしいものが写っている写真があります。つまり、マティスは自分の住んでいたオテル・レジナの室内全体をロザリオ礼拝堂の原寸大の模型=模擬空間と見なして制作していたのですが、そのようにして日々の生活の中でひとつひとつ確認しながら着実に仕事を進めていたことが、礼拝堂内部にあれほど多くの素材(ステンドグラス、タイル、陶器、石、鉄、ブロンズ、木、布)と手法を駆使しながら調和のとれた静謐な建築空間に引き上げることのできた最大の要因だったと思います。もし、礼拝堂の規模があとひとまわりでも大きかったら、礼拝堂のためのすべての作品を、原寸大で発想し、原寸大で制作するというマティスのやり方で計画を完遂させることは不可能だったにちがいありません。まず、天井の高さや広さが礼拝堂の寸法と同等のアトリエを探すことが困難だったはずですし(オテル・レジナのアトリエはロザリオ礼拝堂の内部空間と見なすことのできる充分な高さと広さがありました)、なによりも、規模が大きくなれば、マティスの体力と気力の「身の丈」を越えてしまっていたと思うからです。そういう意味で、ロザリオ礼拝堂は「マティスと等身大の作品」だったのです。
シスター・ジャック・マリーの「この礼拝堂は、私が存じ上げていたあおの画家に、大変良く似ております」という言葉は、私にはとても含蓄の深い、暗示的な言葉に思えてなりません。
(後略)
中村好文 @Wikipedia
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