20080803 賢者の言葉・司馬遼太郎 『十六の話』 より・吉田健一について語る
『十六の話』 司馬遼太郎 (中公文庫 1997)
「訴えるべき相手がないまま」より。
(前略)
私は、第二次大戦の敗残兵としては、最年少の部類に属します。
当時、私が、自分の家族のもとにもどりますと、家も街もすべて焼けてしまっていて、私がもっていた服も、書物も、すべて灰になっていました。
工業は潰滅しましたが、農業は――国民を十分には養いきれないものの――残っていました。この農業が、日本人の生命保持を最小限ながら保障し、言い方を変えれば、そのことによって日本を回復させたのです。決して、その後に再建された工業ではありません。
ただ、敗戦のあと四、五年は、たれもが平等に貧しく、たれもがその日の糧にこまっていました。共有しているものは、青空だけでした。いまその当時をふりかえると、こんにちの社会にはないふしぎなあかるさがあったと思います。
しかも、このあかるさについて、私は政治史や思想史、あるいは社会史の側から解説しようとは思わないのです。この実感は、いっそ哲学的に考えたほうが、その後四十年ちかくなったこんにち、かえってなっとくゆくように思えるのです。
日本中が、持ち物のすべてをうしなって、いっせいに尻餅をついたとき、衝動的にわきあがってくる哄笑のようなものが、戦後、四、五年つづいたように思います。この時期、このあかるさについて、すばらしい文章を思いだすことができます。
吉田健一(一九一二~七七)という、中世の禅僧のような風韻と洒脱さと、西欧的教養をゆたかにそなえた文学者の本についてです。題は『宰相御曹子貧窮す』(一九五四年刊)というもので、小説でも評論でもなく、軽妙な生活報告というべきものです。
この題名でもわかるように、かれの父は、首相として戦後の混乱を収拾したといわれる保守党の領袖吉田茂でした。吉田健一は、その一人息子でありながら、自分はあくまでも自然人である吉田茂の一人息子であって、公人としての首相吉田と何の関係もない、という自己規定を明快に持っており、父親もまた、公私についてそういう思想のもちぬしでした。
しかもこの父子はたがいに相手をみとめあっており、とくに健一は父茂を尊敬していました。健一は父と独立した生活を持っていました。当然ながら、敗戦後の社会において、文章を書いて生計を立ててゆくことは困難でした。かれはタバコ代にも窮し、路上に、他人が吸いすてた吸い殻をひろって歩いて喫ったということです。
かれは、すばらしい友人たちにかこまれていたことでも知られています。その友人たちが、前記の戦後的なあかるい笑顔をかれにむけてからかい、「君のくらしを書いてみたらどうだ」とけしかけて右の本ができたといわれています。
この本は、当時若かった私にとって単に読書である以上に、思想的な事件でした。吉田健一と私とは、未知の関係でしたし、また同世代ではなく、かれは十一年上でした。年下であるおかげで、私は、仰ぐような角度で、かれを見ることができました。だから、すべてをうしなってあかるくなった戦後の一時期の象徴的な存在としてかれを見たいのです。 (後略)
司馬遼太郎 @Wikipedia
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