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20080810 賢者の言葉・山田秀三・『アイヌ語地名を歩く』より

   * [アイヌ語地名を歩く―山田秀三の地名研究から]




  『アイヌ語地名を歩く』 山田秀三 (北海道新聞社 1986) より

 「海から神の岬を見た」 

 アイヌ語の地名は、ひどい海崖のところにも並んでいた。漁撈民であり、海上交通をしていた人たちの地名は海から見たのでなければ分からない場合も多いのであった。
 日本海岸の浜益と増毛の間の海岸は、周知のように大崖続きである。地図を見ると、その崖地帯の北端部にカムイエト岬と書かれているが、語意はもちろんカムイ・エトゥ(神の・岬)である。松浦武四郎の西蝦夷日誌では『大岩岬。余もここにて木幣を立て途中の安を祈る』と書かれたところであった。
 アイヌの神様は大崖のところにおられることが多い。ここもたぶんそんな場所だとは思うが、とにかく現場が見たい。増毛の方から海岸道路をタクシーで南下しながら、カムイエトが見れるところはないかと尋ねているうちに、そんな場所もあったが、遠望で、ただかすんだ大岬の姿だ。何とか近くで眺めたいと車を走らせた。
 とうとう海岸道路の終点の大別苅に着いた。それから先は山道である。大別苅は漁港だ。いつもの流儀で、漁家を訪ね、舟を出してもらえないかと頼んだが、今は無理だという。がっかりしてすごすごと帰りかけた。
 「ちょっと待ってくれ。もう三十分もしたら、岬のところの建て網を起こしに船が出る。それまで待っていれたら乗せて行ってもいいよ」とのこと。いやありがたい。漁家の隅で待っていてそのポンポン蒸気の船によじのぼった。
 岬のすぐ手前の胴網のところで船が止まって、漁師さんたちは、エンヤ、エンヤと網起こしだ。こっちは舳に立って、神の岬を近々と仰ぎ見て、来られてよかったなと思った。
 とんでもなく高い、荒々しい岩の急崖が屹立していて、紺碧の波がひたひたとその裾を洗っている。海が荒れたら、この突出した岬のところは大変な難所になるであろう。ここを丸木舟で通過したアイヌ時代の人たちが、イナウ(木幣)を手向けたわけだ。

 船が漁港に戻り、早速その引き揚げ作業だ。
 目立たないように、タクシーの運転手にわずかなお礼を届けさせたが、そんなつもりで乗せたんじゃないと、らちがあかないらしい。しかたがない。出て行って、僕が困るんだと言ったら、人の顔を見ていて、分かった、ありがとうよ、ときげんよく受け取ってくれた。海の男たちの男らしさにほれぼれしたのだった。


 「地名艶歌の話」 

 このごろはどうだか知らないが、私たちの若いころの、少し大きな宴会では、アトラクションとして、芸者さんが並んで、澄ましてこんな唄を歌って踊り、男たちは腹を抱えて笑い、本州からの客は半分しか分からないので質問が続くのであった。
雪の蝦夷地にや名所が御座る
一にかりぶと 二にべべつ
三にさねんころ 四によがりべつ
 まず、後志の狩太(かりぶと)村で、これを男性の先のところが太いとかけて、これが一番。あきれた素朴な時代である。若い人は分かるかしら。
 ここは羊蹄山下を曲流する真狩別川が尻別川に注ぐ処で、アイヌ時代はマカリ・ブト(真狩川の・川口)と呼ばれたのを略して狩太村としたもの。何でもない地名なのだが、こう歌われちゃたまらない。ニセコ町と改名した。
 二のべべつは、胆振の弁辺(べんべ)をいったらしい。この語義不明。弁辺川の上手に湧水が多くて、あっちこっちを流れるので、ぺ・ぺ(水・水)といったのだと古老は話していた。それを女性器の方言になぞらえた。(上川の辺別(べべつ)だという説もある)
 隣は虻田村(現在、町)。知里真志保さんから教わった歌は「あまりに寒いので、べべ、あぶった」だった。昔、室の真ん中に炉があって暖をとった時代のこと。秋田の秋田音頭でも似たような北国の情緒が歌われているのをご存じでしょうか。
 ここも女性器とされてばかりでは困るので、今では豊浦町というもっともらしい名になった。道内の町村名には豊をつけたものがやたらにある。同じ改名するにしても、もう少し個性的なものにできないのだろうか。
 三は十勝の佐念頃を女性のクリトリスにかけて歌ったもの。これも閉口して、早いころに御影となった。サネンコロはサン・エンコロ(出ている・鼻)を続けて呼んだ形。行って見ると、山の鼻が、十勝川に突出しているところの称だった。
 四は然別(しかりべつ)を「よがる」とかけたのだが、ずいぶんひどいごろ合わせだ。そのせいか然別は改名されないで昔通りである。
 今書くと少し恥ずかしいが、微塵もセンチメンタルでない。あけっぴろげな、古い北海道的な地名歌なのであった。


 「鰊漁の背負いもっこ」 

 大正の終わりのころだったか、信州の山地を歩いていて、むやみにおなかがすいたので一軒屋の掛け茶屋で昼食を頼んだ。お菜として出てきたのは身欠け鰊の煮つけだけ。
 そのころ鰊といったら全くの大衆用で、ぜいたくな話だが、平常はほとんだ食べなかった。ところが山中の茶店の腰掛け台で食べたら、うまいのなんのって、それから鰊が好きになった。
 今はもういい鰊の身欠きはほとんど手に入らない。食べたくなると、英国から輸入されるキッパード・ヘリングの缶詰めを探して買ってきて食べる。もったいないのだが、いい鰊はうまい魚である。
 鰊は英語でへヘリングだが、アイヌ語ではヘロキで、何だか似ていておかしい。
 鰊がいっぱいいるというのを、ヘロキ・アッといい、その漁場はヘロカルシと呼ばれた。ヘロキ・カ・ウ・イ heroki-kar-ush-i (鰊を・捕る・いつもする・処)の意。日本海岸にずらっと並んでいた地名。行って見ると、どこも岩磯のような岸で、鰊が産卵に押し寄せた処である。その鰊はもう来ない。
 そんな処もよく歩いた。前のころは鰊漁で沸きかえったという村々も、今はしーんとしていて、全くつわもの共が夢の跡だ。

 先年、天塩川の河口へ行ったら、鰊を背負った「もっこ」が、漁家の軒先にごろごろと転がしてあった。鰊漁のときには、その汲み舟が接岸すると、女たちがもっこを背負い、踏み板を渡って舟に入る。漁師たちは小さな「たも網」で鰊をそのもっこに入れ、女たちはそれを陸に運んだ。
 天塩町は北の方なので、遅くまで鰊漁があったのでそれが残っていたのだ。一つ譲ってくれませんか、とわずかなお金を出したら、こんな物にお金を戴いちゃ済みませんと、家の中から出来たての薫製の魚を持ってきて、それにごそっと入れてくれた。

 ありがたく頂戴したのだが、タクシーの中に持ち込んで手許に置くと案外に大きい。さあどうして汽車に乗せようか。改札で引っかかってしまう。結局、その日の夕方、上川盆地との境の、小さな塩狩駅で、うまいことして汽車に持ち込んだ。
 疲れてたのでグリーン車に乗ったのだが、大きいし、鱗もついている。恥ずかしいのでコートを脱いでかけたがひどい魚臭だ。冷汗をかいた。



山田秀三 @Wikipedia

アイヌ語 @Wikipedia

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