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20080824 賢者の言葉・毛利甚八 『宮本常一を歩く』・「北海道 問寒別・新十津川」

   * [宮本常一を歩く―日本の辺境を旅する〈下巻〉] 毛利甚八




  『宮本常一を歩く―日本の辺境を旅する〈下巻〉』 毛利甚八 (小学館 1998)  「第11章 北海道 問寒別新十津川 1997年5月と6月の旅」より
 一 問寒別へ

 5月中旬のある朝、旭川駅から宗谷本線で北に向かった。名寄までは快速で約一時間半、名寄からは終点の稚内まで約二〇〇キロを四時間弱で走る各駅停車に乗り換える。
 この土地では春は始まったばかりだ。車窓から見える山並みには白い根雪が横たわっている。芽吹いたばかりのミズナラやシラカンバが斜面にぎっしりと並んでいる。その箒型の樹形の先端には薄茶の細やかな若葉がにぎわっていて、煙るように稜線をぼかしている。時々、木立の間にコブシの花の白が豪快に咲き誇っている。それを眺めて時間をうっちゃっていたが、名寄をすぎてからコブシもなくなってしまった。天塩川沿いに密生つすヤナギの新緑だけが唯一春めいた鮮やかさだ。
 名寄から幌延までの間、宗谷本線は天塩川に寄り添うように走っている。土色の水を湛えた天塩川は、北上する列車に併走したり離れたりしながら、ゆったりと北へ向かって蛇行する。川は幌延で西に大きく曲がり、海に流れ込むのである。
 一両編成の列車の座席は約六〇席である。私の前のボックス席を高校生の男の子たちが数人占領していて、歌を歌い始めた。
 ザ・ブルーハーツの「リンダリンダ」なんかを歌う。陽気で調子っぱずれな歌い方だが、一応ハモったりもする。ひとしきり合唱が続いた後、その大部分が美深で降りて、電車の中は静かになった。
 残った高校生の一人が伸びをするように、
 「いいねぇ、今日は、天気が」
 するともう一人が
 「サッカーび・よ・り」
 と、暢気な声で応えた。
 各駅停車でこの広い北海道を移動していると、ゼンマイの伸びた時計が支配する世界に飛び込んだような気分になる。所在なさと至福が入り交じった不思議な時間だ。
 これから私が訪ねるのは天塩郡幌延町にある問寒別という土地だ。
 今から五十二年前の昭和20年(1945)の10月、宮本常一はこの土地を訪ねた。38歳の宮本は大阪府の嘱託の役人という身分であった。
<<十月になると、戦災に遭うた人びとを北海道の原野の開拓のために送りこむことになって、その人たちについてゆくことになった。実はそれまでにすでに二回ほど戦争末期の混乱の中を送っていたのである。私のついていった第三次帰農隊は二千人近かったであろうか。大阪府庁からは四、五人の人がついていった。大阪駅をたって、米原から北陸線にはいって北上したが汽車はのろのろと走り、青森までゆくのに二日かかった。途中の町には灰燼になっているものが多かった。
 津軽海峡をこえて札幌まで来ると、普通はそこで北海道庁の役人に帰農者をわたして帰るのだが、私たちは帰農者について現地までいくことにし、私は天塩地方へ入植する人たちについてゆくことにした。この地方へ入植する人は三百人ほどであったかと思っている>>(「戦争中の食料対策」 『民俗学の旅』 宮本常一 講談社学術文庫)
 昭和19年1月、宮本は戦争の激化のために昭和14年から続いた民俗採訪の旅を中断し、奈良県郡山中学の歴史の教師となった。東京を去り、一年四ヵ月を奈良で過ごすのである。
 宮本の自伝を読むかぎり、奈良での教師生活は幸福だったようだ。教鞭をとるかたわら暇さえあれば生駒山を散策し、また学校の周りにある薬師寺、唐招提寺、菅原寺、西大寺、法隆寺、法起寺、法輪寺などの名寺を訪ね歩いた。そして歴史の教師という特権で仏像の蓮華座に上がり込み、仏像を手でさわりながら鑑賞したというのだから今では考えられないほどのどかな話である。
 しかし敗戦の年の春、宮本は突然請われて大阪府の役人となる。戦時下の生鮮野菜の供給対策をたてるため働いて欲しいと、大阪府知事に頼まれたのであった。宮本には白羽の矢が立ったいきさつには多くの人の動きがあるのだが、元々は元農務官僚でもあった柳田国男の推薦があったからだという。
 宮本は古い自転車に乗って大阪府下の村を歩き回り、野菜の苗の生産状況を調べ、山村に不足していた肥料用屎尿の輸送方法を整え、篤農家や農事試験場で仕入れた栽培知識を農家に伝えた。そうするうちに敗戦を迎えた宮本は入植者を連れて北海道にでかけるのである。
 私は宮本の自伝『民俗学の旅』を読みながら旅をしているのだが、宮本が北海道を旅する前後の文章は実に興味深い。
 奇妙な物言いかも知れないが、私は宮本の文章の、その筆圧の高さや息づかいに惹かれてふらふらと旅に出る。文章の奥にある感情の起伏に目をこらし、味わうために、宮本の訪ねた土地に身を置いてみたくなるのである。
<<天塩線を幌延までいって、そこの役場で、それぞれ入植地別に隊が組まれた。私は問寒別に入植する人たちについて問寒別までいった。入植地は駅から三里も奥だという。入植者たちはそこで地元の人たちにひきとられて奥地にはいることになる。(中略)駅のあたりは一面のススキ原である。その彼方に人びとは住んでいるという。(中略)トロッコの位置へ機関車が出てきた。小さな機関車である。その後ろへ貨車とトロッコをいくつかつないだ。人びとは貨車に乗り荷物はトロッコにつけたが、貨車に乗りきれない人はトロッコに乗った。空は雲って暗く重い。雪になるかもしれぬ。汽車は動き出した。そして枯原の向こうに消えていった。見送る者は私と幌延の役場の吏員の二人だけであった。私は入植者の運命に空の暗さのようなものを感じずにはおられなかった>>(引用同前)
 宮本は問寒別の駅で入植者を見送った後、「見捨ててきた」という思いを抱いた。現地の宿舎までついていかなかったことを後悔するのである。
 宮本は入植者と別れた後、それ以前に北海道に入植した人々を訪ねる決心をし、遠軽、留辺蕊、津別、中佐呂間などを訪ね歩き、最後に明治期の大洪水のために奈良県吉野地方の十津川村から北海道に移住した人々が住む新十津川を訪ねて聞き取りを行っている。
 旅に出たついでに目的地以外の土地を訪ね歩いたのは宮本らしいといえば宮本らしいが、それはあくまで「見捨ててきた」罪悪感がそうさせたのである。
 現在の天塩郡幌延町は人口約三〇〇〇人、約一万一〇〇〇頭の乳牛と約一〇〇〇頭の肉牛が住む酪農の町であり、一方で原子力発電所の廃棄物処理の研究所誘致でゆれる過疎の町だ。
 問寒別は問寒別川という幌延町最大の天塩川支流が流れる地域で、その谷の深さは約二〇キロに及ぶ。現在の問寒別は、いかにも北海道のイメージに似つかわしい、広大な牧草地が広がる土地である。
 この地の開拓が始まったのは明治38年のことだ。
 開拓に入った人々はまず家造りから始めなければならない。蔓で縛った叉木で合掌小屋(おがみごや)の骨格を作り、ヤナギの枝を垂木として差し渡すと松の葉や葦を屋根材として載せて小屋を作った。その小屋で雑魚寝をしながら、払い下げを受けた国有未開発地の開墾を始めるのである。アカダモやナラ、ヤチダモ、ヤナギなどが茂る原野を伐採し、地は覆うクマザサやネマガリダケを払い、火をつけて焼き畑開墾をする。拓いた土地には当座の食料となる裸麦、豆類、唐黍、カボチャなどを植え、開拓が進むと換金作物となる菜種を植えるようになった。
 開拓当初は野ネズミの大群に作物を食い荒らされ、蕗や川魚、貝などで命をつないだこともあったという。
 その後、この土地では林業が興り、第一次世界大戦の影響で農作物高騰による好景気があった。問寒別川州域で白金が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、後にクロームの採掘場が生まれた。大正期には馬鈴薯による澱粉作りが始まっており、昭和13年から酪農も始まった。戦時中の換金作物は軍用馬の飼育に使われる燕麦であった。
 「私の家族は大正9年、私が5歳の時に和寒から問寒別に移ってきたんです。父親は百姓でしたが、夏は砂金掘り、冬は林業で樵をして現金収入を得ていました。男はそういう仕事で忙しいですから種播きと収穫の時に働いて、草取りなどは妻の役目です。作物は馬鈴薯、南瓜、燕麦、アマなど。燕麦は軍馬用の飼料として売れましたし、アマは医療用の繊維の材料になったんです。この土地の人は大きな貧乏という柱と闘いながら生きてきたんです。女の人は苦労しましたね」(元農協職員・佐々木泰幹さん 大正4年生まれ)
 幌延町のスナックで樺太から引き揚げてきた女性に話を聞く機会があった。彼女の父親は樺太でニシン漁を営む網元であった。敗戦の年、一家は樺太のニシン御殿を捨てて自分の漁船に家財を詰め込み、稚内に逃げ帰ってきたのだという。
 幌延に落ち着くことになって小学校へ行ってみると、農家の子供たちの着物は継ぎ当てだらけであった。
 「私はセーラー服を着てね、革靴で学校に行ったでしょ。そのせいでいじめられてねぇ」
 女性はそう言って笑った。
 当時、農家の子供たちの弁当の中身が燕麦だったのを見て驚いたという。それほどに貧しかったのである。
 幌延町史の正式な記録によると、昭和20年に大阪から問寒別に入植した人々は六戸であった。家族を含めた全員の人数は記録にない。
 記録に残っているのは次の六人の人々である。
 高島正重
 林田幸吉
 鈴江威
 稲嶺盛次
 中里政清
 橋本要
 ただし昭和25年7月に発行された『問寒別郷土史』(幌延村立問寒別小学校開校四十周年記念編纂)には<<昭和二十年十月に大阪より開拓者として豊神に十二戸が移住し>>とあり、比較的新しい記憶を基に記録されたものであろうから、それなりに信憑性があると考えられる。
 とすれば宮本が問寒別で送った人々は最低十二戸の家族で、そのうち六戸がまもなく問寒別を去ったのだろう。また六名のうち高島正重氏と林田幸吉氏をのぞく四名は昭和23年から24年の間に離農してしまった。
 高島正重氏と林田幸吉氏の二人は、今も問寒別や幌延に住む人たちの記憶に残っていた。
 「林田幸吉さんはここに来る前は音楽家だった。名前は忘れましたが何か特殊な吹奏楽器をやっていて、コロムビアレコードで吹き込みの仕事をしていたと聞きました。その楽器があれば飯を食えたんだが、戦時中で楽器が手に入らないので開拓にやってきたという話でした。何をやっても子供だけは育てなければならん、そういう気持ちで働いていたようです。暇な時に、口でメロディを口ずさみながら、指を動かしていることがあって、弾き方を忘れないようにそうするんだと言ってましたね」
 そう語る幌延町の元助役・加藤良美さん(大正14年生まれ)は、昭和27年から約一〇年の間、農協の営農指導室で開拓係を務めた人だ。仕事柄、大阪から入植した二人とつきあいがあったという。
 「高島正重さんは元警官だったはずです。他の人は用意されていた開拓地に入ったんですが、高島さんはケナシポロ川という川の上流にある北大演習林の中で開拓を始めた。真面目な人でね、ネマガリタケの生えた土地を刈って畑を拓くにはどうするんだと尋ねて鎌を使えばいいと教えられたらしい。普通開墾に使う鎌は腰だめで振り回すような大きな鎌だけど、誰かが見に行ってみると高島さんは小さな草刈り鎌で刈っていたらしい。それで笑われていましたね」(加藤良美さん)
 高島氏は演習林の中で開拓を始めたために、補助金が申請できない。そこで開拓係だった加藤さんが別の開拓地に移るように勧めたが、高島氏は聞き入れなかった。
 「ここに入ってすぐの頃、十分な食料がなかったせいか子供たちがクル病で苦しんでいてね。子供をこんな格好にした土地だから、俺は移らん。そう言っていました」(加藤さん)
 開拓をする人々にはいくつかの補助金が出たが、そのうちのひとつに開拓をした土地の五割に補助金が出る制度があった。一反につき四〇〇〇円から七〇〇〇円で、一〇反を拓けば最低四万円になる。開拓をしている間はそれが現金収入となるのだが、いったん開拓が終わると作付けに手間取られるようになる。そかし、拓いた土地は食えるほどの収穫をもたらさない。地元で生まれた農家ですら難渋する土地を畑作だけで経営することはひどく難しかった。
 宮本と一緒に汽車に揺られ、問寒別にたどり着いた人々は楽団員、写真屋、うるし塗りの職人、警察官、着物の絵紋描きといった職業を持っていた人々だった。
 辺境の農民や漁民を見てきた宮本にとって、彼らが開拓にどれほどの適性を持っているかはひと目でわかったはずである。嘱託とはいえ、宮本は初めて役人という立場で歴史に加担した。それは明らかに戦後動乱期の無責任な棄民政策の手足として働くことであった。
 「大阪の人は住む家も食い物もない人たちで、北海道行ったら簡単に食えると思ってきたんじゃないかな。戦前に開拓で入った人たちは自分が望んできたから誰も恨むこともない。
 ところが農家もやったことない人たちがやってきて、来てみたら土地は悪いし、作物はできない。当時は正しいと思ってやった政策には違いないけれど、だまされて入ってきたと感じたのが実状でしょう」(佐々木泰幹さん)
 この北海道の旅から一九年後の昭和39年、宮本は利尻島を訪ねる機会を持った。利尻島へは稚内から船で渡るのだが、宗谷本線で稚内に向かうには問寒別と幌延を通過しなければならない。その時、宮本は問寒別に立ち寄らなかった。いかにも気弱な次の記述が残っているだけだ。
<<私のつれていった仲間は天塩・幌延地方へ入植する人たちであった。秋一〇月の半ばで野は稲が黄にうれ、山は黄葉の美しいときであったが、敗戦にうちしおれて皆元気がなかった。その人たちをはげまし勇気づけながら、幌延までたどりついて見ると、地元の人は実に冷たかった。そこへ入植者を捨てるようにして立ち去った。(中略)また近いうちにやって来ますからと約束しつつ、つい再訪の機会を失なって二〇年近い歳月が流れた。あの人たちはどうしているのだろうかと思いつつ、いまは音信もたえたままになっている。二〇年の間に北海道の天地がどんなにかわったかも、せめて汽車の窓から見たいと思った>>(「利尻島見聞」『宮本常一著作集5 日本の離島第2集』 未来社)
 宮本常一を追って旅を続けるうち、私は宮本の生涯にある疑問を持つようになった。これまで書いてきたように、宮本はある時は寝食を忘れて調査を続ける猛烈な民俗学者であり、ある時は離島振興法の制定に奔走するロビイストであり、ある時は温厚な文体で古き良き日本人を描く作家であり、ある時は自らを「大島の百姓」と呼ぶ農民であった。
 そして、その人生全体を眺めてみると、宮本の行動の重心は数年から一〇年の単位で次々に変化しており、なにより人生全体を貫く宮本本人の欲望が見当たらないのである。
 いったい宮本は何者でありたかったのか? 旅を続ければ続けるほど、その謎は大きくなっていった。
 そしてようやくたどり着いた結論は、宮本は限りなく宗教者に近い存在だということだ。
 民俗学、政治、農業指導、地域開発といった宮本の手がけたテーマはあくまでその時々の手段であり、宮本にはどうしても達するべき人生の目的はなかったように見える。宮本にとって旅を続けることそのもの、旅の中で人とふれあい何かの役に立つ瞬間だけが人生の意味であった。
 私がこう考えたのは宮本が中世の遊行僧・一遍を評した次の一節をみつけたからだ。
<<一遍は民衆を固定した地域社会の中に見出したのではなく、旅することによって、地域社会をこえることによって、見出したのである。旅をしてみなければ民衆全体を発見することはできなかった。共通の観念をもちつつも、それに気付いていない人びとが地域毎によどんでいる。その人たちが目ざめて手をつなぎあう。それは旅すること以外に目をひらきようのないものであった>>(「旅の遺産」『宮本常一著作集31 旅にまなぶ』 未来社)
 これは一遍の旅を評しながら、他の誰よりも宮本常一本人の旅のスタイルを的確にとらえた言葉である。
 私は北海道の旅が宮本を全面的に変えたのだというつもりはない。しかし、戦時中に渋沢敬三の庇護のもとで収集した膨大な民俗学の取材ノートと原稿を空襲で失ったその直後の経験であっただけに、問寒別への旅が宮本に己と学問の無力さを痛感させたのは確かだと思う。
 問寒別の開拓地で一五年にわたって耐えた高島正重と林田幸吉の両氏も昭和36年には問寒別を離れた。
 高島氏は引き止める人に向かって、
 「タバコを拾って生きるとしても、ここにいるよりはましだ」
 そう答えたという。
 幌延町に二人の消息を知る人はなく、今はケナシポロ川の支流に「高島の沢」という名前がつけられ、開拓の名残を伝えている。 


   * [民俗学の旅] 宮本常一


20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

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