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20081008 賢者の言葉・『カザノヴァ回想録』・美しいアンリエットは

   * [「色事師」カザノヴァの青春 (叢書 近世異端のコスモロジー)] 清水正晴



 『カザノヴァ回想録 (四)』 (岸田国士訳 岩波文庫)」 より引用
 かうしてしみじみ幸福を味わひながら、ふたりは絶えずお互ひに満足し合ひ、地上に完全な幸福のあることを否定する気むづかしい哲学者たちを笑つたものである。

 「幸福は永く続くものではないなんて主張するお馬鹿さんたちは、いつたいどんなつもりで言つてゐるんでせうね。どんな意味で言葉を使つてゐるのかしら? 永遠で、不死で、絶えることがない、といふ風に解釈すれば、確かにごもつともですけれど。でもだいたい人間がさうぢやないんですもの、幸福だつて当然さうぢやないわけだわ。さういふ意味でないのなら、どんな幸福でもそれが存在するといふそれだけの理由で永続するものなのよ。永続するにはそれが存在するといふだけで十分なの。でも、完全な幸福といふ言葉を、杜絶えることにのないいろんな快楽の連続だと解釈する人がゐたら、その人は間違つてゐます。なぜつて、悦びの次には必ず心の落着きが来るし、それがその快楽のあとにも起こるとしても、あたしたちはさういふ安静のうちに、自分たちが幸福を味はつてゐるといふことをはつきりと認めるんですもの。別な言葉で言へば、さういふ必要な休息の瞬間こそ、ほんたうの悦びの泉なんですわ。さうでせう、だつてさうした瞬間にこそ、あたしたちは、現実の快楽を倍にもする楽しい回想を味はふのですから。人が幸福になれるのは自分が幸福だと考へる時だけですわ。さうして、考へることが出来るのは落着いた時だけですもの。ですから、実際に、心の落着きがなかつたら、厳密にいつて決して幸福ではない筈です。快楽が快楽であるには、活動をやめなければいけないんですわ。とすれば、永続するなんて、いったいどんな意味でいふんでせうね?

 わたしたちは、毎日、眠りたいと思ふ時がありますわ。眠りといふのは存在しないもののイメージですけれど、それが快楽であることを否定する人がゐるでせうか? ゐやしませんわ。少くとも、無反省な人ででもなければそんなことはできないだらうと思ひますわ。何故って、眠りがその姿を現はしでもしたら、わたしたちは想像できるかぎりのどんな快楽よりも、その方を選ぶでせうから。そして、わたしたちは、それが過ぎ去つたあとでなければ、有難と思ふことも出来ないだらうと思ひますの。

 誰も一生幸福ではゐられまいといふ人たちも、やつぱり少し軽率な口の利き方をしてゐるんですわ。哲学はその幸福を作り出す秘訣を教へるものなんですもの。ただ、肉体の苦しみがなかつたらのことですけれど。さうやつて一生涯つづく幸福は、千種万様の花で出来上つてゐて見ただけでは一つの花かと思はれるほど取りあはせの見事にできた花束のやうなものですわ。わたしたちが、ここでひと月暮したと同じやうに、いつも健康で、いつもお互ひに満足して、空虚な思ひも欲しいものもなく、一生を過すことは不可能だといふどんな理由があるのでせうか? それが不可能でないとしたら、幸福のなかでも確かにとても大きなこの幸福のしあげに必要なのは、年をとつてから二人でなつかしい想ひ出を語りあひながら一緒に死ぬことだけですわ。さうなれば確かにこの幸福は永く続いたものといふことになるでせう。死も、中断することは出来ないんですわ。ただそれを終らせるだけですもの。死んだ後にもう一つ不幸な生活があることさへ認めなかつたら、あたしたちは不幸だなんて考へることも出来ません。それにあたしには、そんな考へは馬鹿馬鹿しいとしか思へませんの。全能とか、天なる父の慈愛とかいふ考へと矛盾しますものね」

 美しいアンリエットはかうして情念の哲学を論じながら、私に愉しい数時間を過させてくれた。彼女の論理は、キケロのトゥスクルム論叢よりも優れたものだつた。しかし、われわれを悦ばすこの永続的幸福論も、一緒に暮してゐて絶えずお互ひに愛し合ひ、肉体も精神も健康で、頭もよく、相当の金もあり、だいたい同じやうな趣味、同じやうな性格なり気質なりをもつた男女のあひだにしか存在しえないものだといふことは彼女もまた認めるところであつた。休息の必要な時、感覚の働きを理性によつて統御することの出来る恋人は幸ひである。さうすれば快い眠りが訪れ、眠りは身体の調子がもう一度正常に返るまで続く。目が覚めれば、いつでもまた働き出す用意の出来た感覚が一番に姿を現はすのである。

 人間と宇宙とは対等の条件を持つてゐたものだ。完全に同一であるといふことも出来よう。仮に人間が宇宙をやつつけてしまつたら、もう人間も存在しなくなるし、人間がやつつけられてしまへば、宇宙も存在をやめるからである。生なき物質が存在を続けると仮定しても、誰がそれについて考へることが出来るか。そして考へがなければ何物もない。考へは一切のものの要素であるからだ。そして考へは人間だけのものだ。しかも宇宙を別にして考へれば、人間はもう物質の存在を想像することも出来ない。以下この繰り返しだ。



     ジャコモ・カサノヴァ@Wikipedia

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