20081029 賢者の言葉・小泉武栄 『登山の誕生』・「第三章 山と日本人」「好奇心にもとづく登山」
* [登山の誕生―人はなぜ山に登るようになったのか] 小泉武栄
『登山の誕生 人はなぜ山に登るようになったのか』 (中公新書 2001)」 、「第三章 山と日本人」から「好奇心にもとづく登山」を引用
好奇心にもとづく登山
少し時代がさかのぼるが、江戸時代に入ると、信仰登山とは別に、単に山が好きだからという理由で山に登る、ほとんど現代の登山者と同じような感覚の持ち主が現われてくる。その走りは江戸時代の初期にまでさかのぼることができる。
もともと日本人には好奇心が強いせいか旅行を好む性癖があるようで、古くから多数の紀行文が残されているが、室町時代に入ったばかりの一四世紀の後半にはすでに、諸国をめぐり、名所、旧跡を訪れる旅行の風習が始まっていた。そうした風潮は江戸時代に入ってますます盛んになり、たくさんの人が物見遊山や参拝、巡礼、あるいは旅そのものを目的として街道を行き来するようになった。江戸時代の大旅行家としては、松尾芭蕉、古川古松軒、橘南谿、菅江真澄などが有名だが、ほかにも全国を股にかけて歩き回る無名の旅行者がたくさんいたのである。その背景には庶民の経済力の向上と生活の余裕があった。
江戸時代といえば、これまでは武士が支配する身分制度にもとづいた閉鎖的社会で、庶民は封建体制による桎梏に苦しみ、重い年貢を課せられて生活のどん底に落ち込んだ百姓たちがしばしば一揆を起こす、といった歴史が描かれてきた。しかし最近の村方の資料にもとづいた歴史研究によれば、実態はそんなにひどいものではなく、庶民は私たちが予想するよりもはるかに自立していて、経済感覚も発達し、生活もそれなりに余裕のあるものであったという。たとえば、幕末にペリーが黒船を率いてやって来たという知らせを聞いた佐渡島の人たちの間では、黒船を見てこようという相談がまとまり、数日後に何人かの商人や農民が連れ立って神奈川まで黒船を見物に行ったという(田中圭一著『日本の江戸時代』 一九九九)。話を聞いてすぐに黒船を見に出かけるほどの好奇心と、数か月の突然の旅に出ることのできる経済力と余裕を、庶民が備えていたということである。
さてこのように旅行が盛んになると、諸国遊歴と登山を強く結びつけたり、あるいは登山を主として諸国をめぐる人物が現われてくる。その代表として、一六三九年生まれの大淀三千風を挙げることができる。三千風は本名を三井友翰といった俳人で、西行の鴫立庵を再興したことで知られる。三千風の名前は一日三〇〇〇句の俳句をつくったことによるという。彼は数え三一歳で仏門に入り、奥州松島の瑞巌寺で修行した後、四五歳で念願の全国行脚の旅に出た。その後の五年間に彼の足跡は全国にわたり、その間、立山、白山、那智山、高野山、英彦山、阿蘇山、雲仙岳、伯耆大山、富士山、筑波山、戸隠山などに登った。また象潟、親不知、耶馬渓なども訊ね、四国もめぐっている。
江戸時代の後期には、同じように単に山が好きだからという理由で山に登る文人、画家、医師などが目立つようになってきた。富士山なども宗教的な登山とは別に、趣味として登るということが増えてきた。この点ほとんど現代の登山者と変わらない。
このような感覚で山登りを行なった人物の典型に、北海道の命名者として知られる松浦武四郎(一八一八~八八)がいる。松浦武四郎は幕末に蝦夷、千島の探検を行なった地理学者で、憂国の士でもあり、同時に大旅行家であり、大著述家でもあった。
吉田武三著『松浦武四郎』(一九六七)によれば、武四郎が山に開眼したのは数え一六歳の時であった。この年、武四郎は江戸に出て篆刻家の山口遇所のところですごしていたが、郷里伊勢国からの迎えで帰国することになったのを機に、途中の山に登ることにした。彼は迎えの者を先に帰して、一人で戸隠山と御嶽に登ったが、この登山で山のすばらしさにすっかり魅せられ、以後、旅と山登りが病みつきになってしまうのである。
翌年、一七歳の武四郎は父親から一両もらい、家を後にする。誰もが二、三か月もすれば帰ってくるだろうと思っていたが、その思惑ははずれ、実際に彼が帰国したのは一〇年も後のことであった。このうち後半の数年は僧侶としてすごしたものの、残りは日本全国を遍歴していたのである。一七歳から二〇歳までの武四郎の行程を図に示してみた。すべて徒歩によるわけだから驚くしかない。
武四郎は小柄だが、頑強で健脚でもあったようで、一日一〇里は普通、中年以降になると一日一六、七里も平気で歩いたという。一六、七里といえば、一日一〇時間歩いたとしても、一時間あたり六キロメートルから七キロメートルという速さである。信じられないほどの速足で長距離を稼いだのである。途中は篆刻で金を稼ぎ、少したまるとまた旅に出るという生活であった。
武四郎の旅が目的をもつようになるのは、長崎で疫痢にかかり、ようやく命をとりとめてからである。坊さんに命を救われた義理もあって彼はここで僧侶となり、寺を預けられて数年間をすごしたが(もっともこの間に平戸島や五島列島、対馬を訪ねたりしている)、そのうちに津川文作という乙名(名主)に出会う。武四郎は津川から、赤蝦夷(ロシア人)が南下してきており、このままでは蝦夷や千島が危ないといった北辺の情勢を聞く。ここに及んで、武四郎は蝦夷や千島の探検という人生の目的を悟ることになるのである。
こうして武四郎は誰に頼まれたわけでもないのに、単身、蝦夷地の探検に乗り出す。一八四四年から何回か蝦夷地を訪ね、『蝦夷日誌』をはじめとするいくつもの紀行文を著したほか、海岸線や河川の詳細な地図を作成したりしている。ただ武四郎は正義感に富む憂国の士でもあったから、アイヌの人たちが和人に酷使されているのを黙ってみていることができず、アイヌに同情して松前藩の搾取を公にしてしまった。このため松前藩に著書の出版を妨害されたり、しつこく命を狙われたりするはめに陥り、何度も危険な目に遭うことになった。しかしその後、ペリーの黒船の到来があり、時代の状況が大きく変化したため、武四郎は幕府のお雇いとなり、松前藩の妨害からようやく免れることができた。
明治維新後、武四郎はそれまでの功績を認められて、新政府から開拓判官という高官に任ぜられ、北海道や樺太の名付け親になったりしている。しかし北海道開拓の方針や新政府のアイヌ政策をめぐって意見が対立すると、あっさりと辞職して市井に埋もれてしまった(もっとも六八歳になった明治十八年、武四郎は奈良と三重の県境をなす大台ケ原山の登山を思い立ち、三回にわたってそれを実行しているが)。剛直で名利を求めないという点は見事としかいいようがない。
松浦武四郎@Wikipedia
20080808 銅像の松浦武四郎と@小平町
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