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20081126 賢者の言葉・アーサー・ケストラー 「土地を托鉢する聖者」・『民藝』第九十一号(1960年九月号 「特集 インドの工芸」)より

   * [機械の中の幽霊] アーサー・ケストラー 日高敏隆・長野敬訳



 アーサー・ケストラー 「土地を托鉢する聖者」 『民藝』第九十一号(日本民芸協会 1960年九月号 「特集 インドの工芸」)より引用
 欧州では導師達は既に死に絶えてしまつた。印度ではその伝統は急激に衰えつつはあつたが、なお生きていた。それは印度の偉大さの秘密であつた。釈迦からガンジーに至る偉大な導師達による感動的な酵素は、精神的な醗酵作用の中で足跡を保ち続けていた。
 一九一六年、大学を卒えた廿一才の青年、ビノーヴァは聖地ベナレスでサンスクリットとヴェーダを学びたいと思ったが、文官であつた父はボンベイでの文官試験に出ることを主張した。然しボンベイ行きの列車に乗つた彼の足は途中で降りて、ベナレスへ行つていた。折しも総督臨席の下に行われたヒンズー大学の始業式に於るガンジイの演説が彼の生涯を決定した。
 ガンジーは英国の総督はすべからく本国へ帰るべしと演説した。そして、もしこの自明なる演説のかどを以て死刑を宣告されるならば喜んで絞首台に登ろうと述べた。彼が漠然と探し求めていたものを、ビノーヴァはガンジーの中に発見した。それは聖なる大志と社会への奉仕。精神的と実効面の一致。活動的なヨギ信者と反戦論者の綜合であつた。
 以来一九四八年ガンジーの死に至る迄三十二年間、彼はガンジーに従つてそのすべてを捧げた。その間数度の投獄は通産五年半の獄中生活を余儀なくせしめた。自己の精神的な後継者としてビノーヴァを目したガンジーは、ビノーヴァの三度目の逮捕の前に「学者として、巡回説教者の師として、社会運動家として、癩病患者の治療者として、また手工芸を教育的経済的に理論づけた人として」彼の徳を讃える一文を発表した。
 彼の生活は獄中でも変わらなかつた。哲学数学、語学の勉強が瞑想と機織りの間にたゆまず続けられた。事実彼は八つか九つのインドの方言を含めて、十一ヵ国か十二ヵ国の言葉を話すことが出来たし、神の次にもし私が最上のものを愛するなら、それは数学であると告白している。

 一九四八年、狂信の徒によるガンジーの暗殺。天の王国を実現するということに失敗して、その代りにヒンズー教徒と回教徒との大虐殺を招いた独立。飢餓に瀕した避難民の群。増大する貧困。内乱の兆がもたらされてガンジーはもう死んでいた。そして彼の理想は塵の中に踏みつけられていた。
 ビノーヴァのブーダン運動が欧州の人の耳に入つたのは一九五三年のことであつた。印度の土地問題を解決する為に、全印度を歩いて金持達を説き、その土地を貧民に与えているというこの運動は、欧州の人々にとつてはお伽噺のように聞えた。しかし協力者も組織もないこの運動はやがて静かな雪崩のように成長して行つた。一人の老人から捲き起された塵の雪崩は、一時間四マイルの速さで村から村へ国中に拡がつた。一九五四年の春、この運動の三周年記念式典がブッタガヤで開かれた。ネール首相や社会党の領袖ナラヤンも出席した。当時一般にネールの後継者と目されていたナラヤンは、思いもかけない希望を述べて幾百万の人々を吃驚させた。彼は政界を放棄して彼の余生をこのブーダン運動の奉仕に捧げる旨の厳粛なる誓約を表明したのであつた。
 一九五九年の始め、即ち運動開始後約八年間にビノーヴァは赤道線と同じ長さの土地を歩いて、殆ど約八百万エーカーの土地を集めた。これは驚くべき数字ではあるが、然し本来の目標である印度の農地問題の最小限の解決と目される五千万エーカーの僅かに十五パーセントにすぎなかつた。しかのみならず寄附された土地の半分は耕作不能の土地であり、技術上の困難からも実際に土地なきものに分配されたのは更に少なかつた。

 私はビノーヴァに現代生活に触れていない僻地で逢いたいと思つた。ボンベイのブーダン運動の支部ではラジヤスタンのラグナスプールという閑村で逢えると教えてくれた。地図にも載つていないこの部落へは、汽車を拾つて尚八時間も要したジープでの難渋な行進であつた。不毛の荒野に泥と藁の住いが丘の間に点々としていた。骨ばつた牛が子供や掃除人がよつた残りの廃物をかき廻していた。ラガナスプールも他の村々と同じような原始そのままの閑村であつた。だがこの村は無感動な眠りよい覚め、生活がざわめいていた。一つの大きな空地に三、四千人の人が坐つて話あつていた。木造の壇がしつらえて聖者の来るのを待つていた。
 細かに織つた白い腰布をまとつたビノーヴァは――絹のように見えるが、彼自らつむいだ綿の布であつた――旧約聖者の予言者というよりヒンズーの聖僧に似つかわしい銀白の髭、短くつんだ黒い髪の毛、長い顔に骨ばつた鼻、出ばつた頬、灰色の眼には輝くような微笑を湛えていた。
 彼は何の強調もなく淡々と話した。まるで彼自身に話しかけているようであり、彼の話が聞かれているかどうかを充分顧慮していないようであつた。聴衆の眼は彼にみとれているというより他の表現の言葉がなかつた。大部分の人達の顔は殆んど虚無に近かつた。それは私を惑わし、失望させた。やがて私は言葉は重要なのではなくて、彼が此処にいるということが重要なのであることが解つた。彼がいるというだけで、人々を豊かにさせる特異な才能。師の足を洗うことが至上の特権を思わせる才能であつた。
 会合から一時間半後、私はビノーヴァと話す時を得た。彼は何の為に印度へ来たかという問題で会話を始めた。私は水爆におびえている現代の文明が、印度から何か精神的に学ぶべきものがあるかどうかという漠然としたものを見出す為に来たと答えた。一瞬考え込んだと思うと、彼は突然大笑して、
「あなたは精神的に助けられる必要があるという。それをしも尚あなたは文明と呼ぶのであるか。私達は科学には敵対はしてしない。けれど科学は内面的な光によつて補われるべきであると思う。西欧は精神より頭脳を先に発達させている。精神のペースがついて行つていない。私達はその反対であつて、いつも精神の発達とともにあつた。それがブーダンのやり方である。与えられた土地の多少が問題ではないのだ。土地が与えられた時、寄附者と受取人の双方が変化する。精神的な価値はその変化にある。印度には既にこのような村が五十万程ある。私はこれらが酵母の役を果してくれることを望んでいるのだ」と。
 私はブーダンの運動がどうして起つたかを詳しく話してくれとたずねた。ビノーヴァはガンジーの暗殺後、三年間隠棲生活をつづけ、彼のアシュラム(道場)で社会事業に打ち込んでいた。独立はしたが国の雰囲気は深い失望の裡にあり、ガンジーの理想は影をひそめていた。人々に説きふせられてサルボダヤ(兄弟愛運動)の記念式典に参加した三一五マイルの歩みの終りは彼の隠棲の終りに通じていた。会議の最終日に、ビノーヴァは突然共産ゲリラが政府軍と戦つているテレンガナ地方へ旅行しようとしていることを公表した。 
 その途次ビノーヴァは共産主義のリーダーと議論した。「あなた方は共産主義について論じている。けれど私は神とともにこの貧民の中に生きたいのだ」と。ビノーヴァは民衆とともにその生活を生き、その悩みを自己の悩みとした。土地なく人々がせめて自分の身をまとう布を自分の手で作り出すことが出来るようにという悲願が、ガンジーの身辺から手織機を離させなかつたように、やがて彼等はビノーヴァを自己の代弁者として、更に進んで自分自身の力で考え、だんだんこの運動は発足して行つたのである。
 ビノーヴァが最初に訪れた村は、人口三千人で三千エーカーの耕作可能面積を持つていた。これらの土地は九十家族のものであり、残りの五百家族は土地を持つていなかつた。彼はその状況を要約した。「金持は共産主義の父であつた」と。ブーダン運動が生れたのはこの神に見捨てられたパンチヤパリの村での一九五一年四月十八日のことであつた。彼はこの村で誰か土地を持つている人で、同胞に土地を与える人はいないかと呼びかけた。そうすれば彼等は餓死しなくてもすむかも知れないと。一人の男が進む出て百エーカーの土地を寄附すると申し出た。その男は親戚の中から共産主義者を出したレディという小さな地主であつた。彼の寄附はブーダンを発足させた。
 ビノーヴァは熱をこめて語りつづけた。「その夜は床についてからも私は眠れなかつた。私はその出来事について思いを廻らした。今日は私に何が起つたのか。一人の男が進み出て、私に何の強制もなしに百エーカーの土地を寄附してくれた。私は数学者でもあつたので、印度の土地のない人に一体どれだけの土地が必要かを検討し始めた。私は五千万エーカーの土地が必要だという結論を得た。だがそれは印度の全耕地の六分の一に当る。私は人々がこれだけの土地をさし出してくれるとは信じられなかつた。その考えにおそわれた私の心はそれを受けつけるだけの準備が出来ていなかつた。だが私自身の内部の声が、もし私がそれを疑い、人間の愛と神の力を信じないならば、私は非暴力ということに対する私の信念を捨てて、共産主義による暴力に従うべきだと私に語りかけた。お前はもはや静かに坐してはいられないのだ。お前はこの道かあの道かを進むべきだ。神は子供の胃を餓えにさらしていると同時に母親の胸にミルクを満たしている、もしお前が神の御名によつて乞えば神の応答があるであろう」と「しかし私はたつた百エーカーの土地しか手許になかつた。五千万エーカーを頼むことは疑問であつた。そこで私は友人や団体に相談しなかつた。というのは彼等は数千エーカーなら期待出来るかも知れないが、数百万エーカーは期待出来ないと言うに違いなかつた。そこで私は私自身で進めて、人々がどう応答するかをみようと決心とした」
「次の朝私は隣村に向つて出発した。村人達は朝食を私に用意してくれた。私は朝食はいらない。私の同胞が飢えている間は食をとりたくない。私の朝食として数エーカーの土地を下さいと言った。神はそこにあつた。彼等は二十五エーカーの土地をくれた。この方法で事は決定した」
「昨年私はケララ州へ行進した。ケララ州の共産主義者の首相は私に言った。『私はあなたが成功するかどうか疑っている。しかしもし貴方が成功したら、あなたの運動は共産主義にとつて代るでしよう』と」
 ビノーヴァは毎日同じ日程をくり返す。三時起床、沐浴と祈祷、四時に行進開始。次の村に九時から十時頃に到着。一時迄村人や訪問者と語りながら休息。一時から三時迄は機織り、読書。三時に会合を始めて五時に終る。五時から七時迄村人と語り、出来れば小さな会合を持つ。八時に祈祷。八時半就寝。
 私は次の朝、彼に隣村の会合に出る為に日の出とともに徒歩で従つた。景色は荒れていた。ブリキとボロの遊牧民の露営地を通りすぎた。これに比べれば泥だらけの小屋も宮殿と言える。印度の貧困は散在意識のように底知れぬ深さを持っていた。空が明るくなる頃、数人の農民に出会つた。彼等は腰布以外は何もつけていなかつた。それから遥か彼方に小さなグループが彼の行列に出会う為に、丘を横切つてさまよつているのが見えた。
 筋肉と腱だけになつて、その皮膚は健康に輝き、動作は力強くビノーヴァは歩いた。精力的で鉄ぶちの眼鏡をかけたマハデヴィタイ――彼はガンジーに従つて五回投獄された。明るい丸顔のクサム――彼はビノーヴァの講演や会話を書きとめていた。つづいて秘書。黒髪の青年。それから黄色い衣を着て太鼓を持つた日本人の僧侶。そして十人以上の弟子達とブーダンの人々達。
 青い頭布を被つた青年が進み出て、ビノーヴァの手の中に彼の手を滑り込ませた。暫くの間彼等は愛情深げに手を組んで黙つて進んだ。そしてこの青年は満足して群集の中に戻つて行つた。友人に助けられた盲人が手を行列の方にさし出して、道の真中に立つていた。ビノーヴァは立止まらずに彼に祝福を与えた。彼は無法な流れの中の小石のように行列にもまれながらそこに立ちつくしていた。

 ビノーヴァのブーダン運動はその初期の計算に対しては、たかだた部分的成功にすぎないし、悪くいえば高尚な失敗といえるかも知れない。然し一九五四年ネール首相が言つたように「ブーダン運動は印度で重要な要素になりつつある。ほんとうに重要なのは獲得されたエーカーの面積ではなくて、新しい精神を人々に注ぎ込んだことにある」のであろう。
 この運動は農業問題に関して、印度の雰囲気を変えた。直接的に問題解決の緒口を開いたばかりでなく、間接的には政府に問題を解決しようとする意図を起させた。政治家の注意を国家焦眉の問題にむけさせたのみならず、左翼の社会主義から、最もかたくなな産業経営者までをも含めて、すべての階級の人々がこの運動の支持者となりつつあつた。彼の内面の声は彼を馳って、ガンジー以来の平和革命へと進ませた。それは全印度を活気づけ、半ば餓死していた農民を満ち足りさせ新しい希望で知識人を目覚めさせた。ビノーヴァ・バーべは廿世紀に於てさえ聖人が歴史に影響を与えることを証明したのだ。 




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