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20091226 賢者の言葉・志村ふくみ 鶴見和子・「我感じるゆえに我あり」

   * [いのちを纏う―色・織・きものの思想]



  「色の思想」 志村ふくみ 鶴見和子 『いのちを纏う 色・織・きものの思想』 (藤原書店 2006年)より引用

志村 シュタイナーがいってる言葉なんですけど、「植物は全存在で匂いを嗅いでいる」。それから「植物の葉っぱは全存在で味を味わっている」。それから「植物の根は土の中で、土の中のことを全部覗いて見て知っている」。そして「もし人間がそこまでの感性があったら、もう気が狂うか、人間存在を失うか、ドーッと匂いが来たり味がきたら、生きていけないので、グーッと閉じられていく、ごく一部だけを人間は与えられている」。そのごく一部だけで、今私がいったようなことを感じる方もいるし、全然感じない方もいる。夢の中でもそうやってご覧になる方もあるんだけど、決定的に違うのは、「閉ざされているがゆえに、知性とか意志とか感情を人間は与えられている、それが人間のもっとも高貴なものだ」と書いているんです。だから、そうでしょう。みんなわかっていたら、なんにも知性なんて発達しないですよ。わからないけど、ちらっと見た時にすごいから考えますよね。


自然と響き合って生きていくことが大切



鶴見 面白いわね。というのは、今西錦司さんが、デカルトは間違っている、「我惟うゆえに我あり」、そこが間違いだと。じゃあ、どうやって直したらいいか。手をぶつける、痛い、だから「我感じるゆえに我あり」と、そういうふうに言い換えれば自然と人間がともにあって、同じものからだんだん進化してきた。だから人間と自然の中の事物は、全て一つのものから出てきたということがわかるんだと。だから「我惟うゆえに我あり」といった途端に、自然と人間ははなれてしまう。そういうことをいったの。
 それは、あの方が仏教を一番基礎においているから、そういう考えをしたんだという人がいるけど、私は、オランダの女王が「価値変化の道すじについて」という国際シンポジウムを企画されて、そこへ招ばれて行って、今西錦司の話もしたの。そうしたら、全く同感したというオランダ人の気象学者が、人間が科学を精密にしていけばいくほど、天気予報は当たらなくなる。そういったの。それでデカルトは間違っていると、同じことをいったのよ。
 私、びっくりしたの、「我惟うゆえに我あり」じゃなくて、「我感じるゆえに我あり」に直せば、自然とともに生きることが出来ると。そしてそういう実例を自分の日常生活のなかで話したの。それで二人で共鳴して、とてもおもしろかったの。だからヨーロッパでもそういうデカルト批判というのは出てるの。

志村 そうです。ものすごく出てます。それでゲーテも、「人間が自然を離れたことによって、全部、今日の間違いが起こってきた」といっているんです。その通りです。だからヨーロッパがちょっと間違ったのは、デカルトのそこらへんから間違っていることがずいぶんありますよね。

鶴見 私がアニミズム、アニミズムというと、みんなに笑われるけど、アニミズムという言葉が悪ければそんな言葉は使わなくていいの、自然と語り合って生きていく。それでいいのよ。玉響なのよ。自然と響きあいながら生きていけばいいのよ。
 だから科学至上主義とか、科学を否定するんじゃなくて、根本にあるものをもう一度考え直さなくてはいけないわよ。

志村 そうですね。ほんとうにそうです。そのことが今一番大事なことなんですよね。

鶴見 そうなのね。色ということを通して、ようく教えていただいたわ。

志村 いいえ、そんな。だから東洋の思想の中にはすでにあるわけでしょう。自然と人間とが共生しあう精神みたいなものが。だけど西洋の人は、今の我を強調するために方向を間違ってきちゃった。

鶴見 そうなの。「我惟うゆえに我あり」から間違ってきたの。だって動植物は言葉をもたないけど、感じることは一緒なのよ。東洋にはもともとあるのよ、自然と人間が共生するような原理が。曼荼羅にしてもね。

志村 そう。すごく感じます。西洋のものにはとても教えられるけど、結局東洋の原理の中に包含されているということを感じますね。

鶴見 それで私みたいな重度身体障害者になると、植物に近いのよ。というのは、植物が優しい手と荒い手を感じわけているから、優しい手で世話する人に会うと、どんどん育つのよ。荒っぽい人がいくら水をかけても、枯れちゃうのよ。それが不思議なの、感じるのよ。

志村 そうです、自然に近い、染色がそうなんです。一緒にうちで染めをやってましても、なんかきれいな色が出てくるのと、全然あせちゃうのがあって、同じ植物なのになぜだろうと思って不思議でした。今おっしゃる、荒い手と優しい手なんです。

鶴見 「荒い手とやさしき手を感じ分ける植物のように介護さるる身」という歌を作ったんだけどね。それを相手にいうことは出来ないの、結局、植物の方が敏感なのよ、人間より。

志村 そうです。面と向かってそんなことはいえません。ほんとにそう。

鶴見 こういう重度身体障害者になって、初めて植物の気持ち、鳥の気持ち、人間以外の生き物の気持ちがわかるの。今日は気持ちよさそうだなと思うと、とってもいい日なのよ、天候がいい。鶯の鳴き方が違うんだもの。

志村 ねえ。気持ちがわかりますわね。鳥の鳴いている声でもね。違うでしょう。ほんとにそう。呼びかけてくれているように思いますよ。植物が染めてっていってるのと同じような気がしますよ。



   志村ふくみ@Wikipedia

   鶴見和子@Wikipedia

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