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20100906 賢者の言葉・赤松啓介 『夜這いの民俗学』・「夜這いの民俗学」より

     * 赤松啓介 『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』 ちくま学芸文庫



  「夜這いの民俗学」 赤松啓介 『夜這いの民俗学』 (明石書店 1994)より引用

 「平時なら、戦争反対、自由を平和をというのは容易である。いまでも極楽トンボどもがわめいている。しかし、最も必要な時になって殆どの人間が沈黙してしまったのも事実であった。特に、日本の科学者、知識層の迎合、腐敗は、「惨」としかいうべき言葉はなかった。民俗学、考古学も同じことで、戦後、長老、大家連中で、戦時下の執筆文章、論文を読んで冷汗三斗の思いをしない者はあるまい。抵抗する勇気がないのなら、せめて書かなければよいのである。」(11ページ)

 「僕は、共産党はあまり好きでなかったが、当時、反戦を掲げたグループで共産党の他に闘う者はなく、社会党や労農党、大本教とかいってもみんな転向してしまっていた。自然と共産党と接触しながら動くしかなく、後に四年間もムショ暮しをすることになったわけだが、パクられるまで、共産党の中央委員だの地方委員だという大幹部があれほど警察側にペラペラしゃべっているとは想像もしていなかった。虐殺された人間がいたことは事実だが、スパイ査問のリンチ事件を含めて、他の殆どが警察でいろいろと供述し、その調書が証拠として残っているから仕方がない。彼らのタテマエとホンネはまるで違うのであった。虐殺もリンチ事件もその距離が大きすぎた結果としての悲劇である。生きて虜囚の辱しめを受けるなと大言壮語した皇軍が、ついには全軍捕虜のバカらしさを演じたのと根は一つで、日本人のタテマエさえ立派であれば、ホンネはどうあろうと別のことだという便利主義、インチキ思考の典型だろう。そういう思いがあって、僕たちは、共産党とは逆に自分の足元から運動を構築していくことになったのだ。」(13ページ)

 「ただ、ムラの女どもに夜這いをかけたり、仲居、酌婦をくどくためにだけ走り回ったわけでなく、あくまで戦時体制下の村落社会の矛盾と相剋の中でいかにして反戦の思想と行動を貫くかが課題であったが、これに最も共鳴し、協力もしてくれたのが、ムラの女頭目たちだった。特高も学歴がないというだけで、彼女たちをみくびりすぎていた。
 特高は僕の尾行もするし、仲良くしていた茶屋やヨロズ屋の嬶や後家も掌握していた。戦争が終わって彼女らに会うと、(特高は)うちへも来たでえ、共産主義たら無政府主義たらいう難しいこと、わしらにわかりまっかいな、あの子、オメコさせ、させいうてきたさけん、したぐらい覚えてまっせ。なんべんぐらいしたんじゃ。サア、なんべんかわからんくらいさせたわ。アホ、どっちがふいたんじゃ。そらチャウスのときは、うちがこないしてふいたるし、あの子が上のときはこないしてふいてくれて。アホ、もう、ええわ、いうて行きよった。
 当時、特高の刑事は関係したというと、どっちがどないしてふいたと調べるのが常套であった。直接取り調べるときのための材料にしたのである。
 彼女らは尋常小学校もロクに出ていなかったが、見るべきものはちゃんと見ていた。新聞や「キング」「家の光」ぐらいは読んでいるから、市川房枝や他の女性運動家たちの裏切りも知っていた。戦後、彼女たちが復活しても信じる者はだれもいない。それは厳しいものであった。運動ができん時代は、なにもせんでもええやないか、わざわざ敵の太鼓をたたいてやることない、というのが頭目たちの私への意見だった。」(15-17ページ)

 「アジワイとは、手工業関係でいうコツみたいなものだが、コツが全く技能練磨的であるとすれば、アジワイはそれに人格的熟度をプラスしたようなものである。単に上手というだけでは良い作物は作れない。他の百姓と全く同じ方法、手順で作っていても、作物に良否が出てくる。定型通りやりながら、具体的な場所の土質や作物の成育状況を考えてそれに適したように修正してやることをアジワイといった。作物は生き物だからこうして欲しいといっているので、それに合った方法を考えて施してやるのだということであった。それで百姓仕事も大変なものだとあらためて認識するわけだが、そのうち男と女との間にも、性交技能にもアジワイがあると教えてくれる。」(19-20ページ)

 「ざっと紹介したように、夜這いは、戦前まで、一部では戦後しばらくまで、一般的に行われていた現実であり、実に多種多様な営みであったが、このような重要な民俗資料を、日本の民俗学者のほとんどは無視し続けてきた。
 民俗学の泰斗といわれ、「郷土研究」や「婚姻の話」を著している柳田国男は、僕の郷里から目と鼻の先の出身で、子供のころから夜這いがおおっぴらに行われているのを見聞きしながら育ったはずだが、彼の後継者同様に、その現実に触れようとはしなかった。彼らはこの国の民俗学の主流を形成してきたが、かつてはムラでは普通であった性習俗を、民俗資料として採取することを拒否しただけでなく、それらの性習俗を淫風陋習であるとする側に間接的かもしれないが協力したといえよう。そればかりか、故意に古い宗教思想の残存などとして歪め、正確な資料としての価値を奪った。そのために、戦前はもとより、戦後もその影響が根強く残り、一夫一婦制、処女・童貞を崇拝する純潔、清純主義というみせかけの理念に日本人は振り回されることになる。
 自分たちの倫理観や、政治思想に反するものの存在を否定するなら、そうした事実を抹殺するしかない。農政官僚だった柳田が夜這いをはじめとする性習俗を無視したのも、彼の倫理観、政治思想がその実在を欲しなかったからであろう。
 しかし、僕の基本的な立場はあるものをあるがままに見ようではないかということだった。そして、あるがままに見れば見るほど、現実は実にさまざま、多様なのであった。
 そもそも柳田の方法というのは、全国からいろいろな材料を集め、自分に都合のいいように組み合わせるといったものである。夜這い一つとってみても、隣村同士でも多様なのに、あちこちの県のムラから広範囲に類似のネタを集めて一つのことを語ろうとする。僕に言わせれば、アホでもできるということになる。
 僕が田舎に帰ったころ、柳田は山村調査を実施しているが、採集手帳を読むと、小作とか地主とかいった現実に存在する言葉が全くない。それでいて彼は「常民」というコンセプトを持ち出してくるのだから、柳田さんはもうあかんわ、ということになる。それは、戦前までの政府が、労働者を資本家も含めて勤労者、地主も小作も日雇いも含めて営農者と呼んだように不自然な造語にしかすぎない。」(33-34ページ)

 「最近『スカートの下の劇場』を書いた上野千鶴子さんと対談したが、あの人も形式論理的で、右と左、上と下、前と後ろといった具合に、パーッと二つに分けなければ気がすまんような学者である。そして、こっちはこう、あっちはこう、と認識できなければくそおもしろくないといったタイプだった。
 僕の若衆入りの師匠さんは三十三の御寮人さんで、単独指導してくれたが、お乳をうまいことどんなふうに吸えばいいか、どんなふうにすれば女も気持ちええかとか、腰巻きのハズし方とかいろいろ手をとってちゃんと教えてくれた。『スカートの下の劇場』を読んで、日本の腰巻きと西洋のパンティ、ズロースとは根本的にちがうことはわかったが、そこには、ぬがせる作法がまったく書いていない。物足りず、具体的におもしろくないのである。
 腰巻きを解くのは簡単なようだが、女の方が協力してくれないと、美しく開帳できるものではなく、肌の美しい女が開帳したときの一瞬の香というものは、実に男冥利に尽きるのであった。自分で腰巻きを解いて待つのは、主人と愛人に対してだけで、夜這いでも腰巻きを解いて待っていてくれるようになったら愛人で、いわば結婚しようという意志表示にもなった。こうした肉付けがあってこそ学問もおもしろく、リアリティもでるのである。」(36-37ページ)




   * 柳田國男 『柳田国男全集 17 俳諧評釈・西は何方・村のすがた・婚姻の話』 筑摩書房



   * 上野千鶴子 『スカートの下の劇場』 河出文庫

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