大丈夫日記 札幌・五箇山のコルトー~田上義也岩内町ツアー準備・20100926-0920
20100926 五箇山のコルトー
* アルフレッド・コルトー 八田惇訳 『アルフレッドコルトー版 ショパン ノクターン 第1集』 全音楽譜出版社
午前 「日曜美術館」「技と心 現代の匠たち 第57回日本伝統工芸展」 「恒例の」だが、自分で手を動かすようになって改めて見ると、皆さん素晴らしいとしか言いようがない 外伝/午後 地下鉄真駒内駅―大通駅 札幌一番街 かつての富貴堂跡地前を通り、大丸藤井セントラルの地階紙コーナーへ 千歳S氏と長沼町T氏の補修依頼本用に和紙を探す 山根紙の茶(636×469)と越中五箇山悠久紙未晒楮紙(620×940)購入 M19書庫 S氏依頼分、ショパンのノクターン・コルトー版楽譜集の補修 突然、何週間か前セントラルでまったく同じ「山根紙の茶」を買い、書庫に置いていたことに初めて気付く ボケ? 好みが一貫していると言えば聞こえがいいが、ワンパターンの証左かも 気を取り直し作業に集中 緊張 自己流の補強法ではあったが、まあそんな醜くもない仕上がり、ほっとする 地下鉄西18丁目駅―真駒内駅・真駒内公園内徒歩 発送作業 『「挫折」の昭和史』読書
20100925 田上義也岩内ツアー後日談
* 山下達郎 『TREASURES』
午前 NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」最終回 子どもたちが一所懸命見ている 十一時半外出、真駒内公園内徒歩、地下鉄真駒内駅-西18丁目駅 中庭うどん、外で食べる客が自分以外いなかった 「季節は必ず変わるよ/気付かぬほどに少しずつ」山下達郎『世界の果てまで』より/午後 M19書庫 前日のツアーの余韻を引きずり、手製本作業に手もつけず、読書 石川一遼 『詩画文集 北海道はるなつあきふゆ 北の旅人』(北海道コスモ舎 1975)、「序のことば」が田上義也によって書かれている その肩書「北海道ユースホステル協会々長・北海道国際文化協会々長」、知らない人は建築家だとは思わないだろう 引用すると新鮮な朝、"農林省アワー"の短波にのって、石川一遼氏の詩文が、中央から流れてくるのを、一般に聞く人は少ないかもしれない。/朝ねぼうの僕もうっかりききのがしていたが、先日ひょっこり石川さんが訪ねてきて、この放送を担当してから、すでに三年目になった。この度二百ページほどの単行本にまとめて出版することになった。ひとつ序文をかけということである。/石川さんとの交遊は、すでに三十余年前から断続しているのだが、いつも思い出したように、ひょっこり現われ、ひょっこり姿を消してしまうので、漂々弧然とした風貌の仲に彼の素顔を見てホッとさせられたわけである。/いつも離さないアツシ風の布ブクロの中にぎっしりつまった自筆のスケッチと歌や詩文で描かれた絵ハガキなどを土産にもってきてくれる彼は、植物のように都会生活に根をおろしてはいない。三つの海にかこまれている美しい北海道をシルターとして、生物のように見果てぬ旅に生きつづける彼はロマンな男だ。/『早春残雪、東洋のサンモリッツといわれるスキーのメッカ、ニセコアンヌプリから帰ってきて、また旅をおもうとは何んという因果なことであろうか――』などと大らかにつぶやきながら、真黒に日焼けした長身長髪の彼が、例の布ブクロから取り出したテープレコーダーで、放送になった随想の録音をボクにきかせながら、『あとがきはすでに書いてあるので序文を書いてくれ』とずぶとくせまる気迫は素裸で、物にぶつかる気構だ。これなど旅で得た生活の知恵なのかもしれない。/『旅にこそ生活の真実がある』という彼の旅は、果てしなく遠い山の彼方だ。峰は高いほど谷は深く、湖底は不気味な静寂の揺籃だ。/彼の想念は常に孤高だが、時に不死鳥のように強靭な翼で情感の海洋を翔ぶのだ。/旅とは艱難の中にこそ真実が得られる。/放浪三十余年、人がなんといおうと全感身をかけて生きてきた彼のいつわらざるこの詩文集は、さわやかな朝に、抒情の灯りを人々の胸に点じてくれるであろう。ちなみに、「北海道はるなつあきふゆ」には利尻島について多く書かれている 田原が利尻を離れて札幌の高校に越境入学した前後、石川さんは何度となく島に足を運ばれた模様 当時の利尻町長・小田桐清実氏もしばしば登場する
続いて『七十年のあゆみ 富貴堂小史』(株式会社富貴堂 1968) 富貴堂はこの本の発刊時創業七十周年を迎えた札幌の老舗書店 所在地は南1西3、現在はPARCOになっている場所 田原が高校生の頃は、そのPARCOの中に富貴堂書店が入っていたが、今はどうなっているのか 調査要 田上義也は、来道直後、その富貴堂楽器部でヴァイオリン教授をし、1930年頃には正面部分のデザインを変える「看板建築」を田上が手がけたらしく、そのスケッチも岩内の展覧会で展示されていた 図録によれば、「長らく札幌中心部のシンボルとして知られていたが解体され、現在は札幌パルコとなる。」
当然『七十年のあゆみ 富貴堂小史』に田上が登場する 70ページ「また昭和四年には、これまでの石造倉庫式外観の店舗の改装を考え、当時の新進建築家田上義也に依頼して、西側屋上に伸びゆく店業をシンボルする高塔を建て、塔内には電光で富貴堂の店名を照明する装置を施し、その塔上に堂旗をひるがえし、それにふさわしい外観をととのえ、南一条通りに異彩をはなった。」
212ページには、「座談 富貴堂楽器部の思い出」 出席者:笹三津彦・杉山正次・田上義也・村井満寿・西田庄太郎・司会 もりぜんじ 田上は肩書は「田上建築製作事務所長」 田上の発言をピックアップすると田上 富貴堂が、この楽器部を増設したという動機はどこにあったのだろう。(214ページ)
田上 私が札幌へきたのは震災後間もなく東京から疎開して大正十二年十一月札幌を訪れ、はじめバチェラー先生のお宅にお世話になった。徒食もできないので、映画館(まだ無声映画時代であった)の伴奏者として採用してもらったらと思って、一、二軒歩いたがだめで、ついに富貴堂の二階を借りてバイオリン教授の看板をあげた。その生徒の第一号は水彩画家繁野三郎さんのおくさんであった。つづいて北大の学生や何かがだんだんふえ、杉山さんのお力で豊平館のクリスマスや新年のパーティーにも演奏させてもらった。そのうちに深沢さんの依頼で自宅の建築設計を引き受けることとなり、どうやらその方への道も開けてきた。そのころ富貴堂の店舗改造の相談があり、石造倉庫式の本屋を洋風に改造し、表通りの西側に高い塔風のものを立てた。また評判の看板をこの機会に撤去したらという話もあったが、これはなかなか得がたいものだからということで、そのまま保存することになり、今日までつづいている。またこの改装後の照明に、札幌でははじめてのネオンを使い、遠く北一条からも店名が見えるように工夫した。後、初期の新札幌交響楽団をつくることになり、ファゴット・バス・チンパニーなどの主要楽器を三千数百円でアメリカから富貴堂を通じて輸入してもらったこともある。(216ページ)
田上 中村さんは、富貴堂の名のとおり、精神的に富むことをねがわれた文化人である。真実の意味での商道で一貫されたと思う。深沢さんもまた謙虚に人々の言をきき、親身になって富貴堂の道を護られたと思う。(218ページ)
前日、中森敏夫さんに、現PIVOT(南2西4)の位置にあったという中森商店=中森花器店(創業1897・明治30年)のことをチラと聞いたばかり 札幌オリンピックは1972年で、その前段階の駅前通再開発で、その辺りの風景ががらりと変わったものと思われる 中森商店が共同ビル(中心街デパート、やがてダイエー札幌店、そしてピヴォ)に入ったのが、この『七十年のあゆみ 富貴堂小史』発刊前後 その富貴堂の建物も1975年札幌パルコの開業とともに、姿を消した、のだろうか
『「挫折」の昭和史』読書 地下鉄西18丁目駅―真駒内駅、真駒内公園歩きで帰宅/夜 夕食後、車でM19書庫、注文品(『ローマ人の物語』単行本全15巻)を運ぶ 外伝 「宮澤賢治と札幌の種苗店」を改めてみる 示唆に富む 「2009年12月現在」の追記を初めて見る まだまだ旅は続くのだ
20100924 田上義也岩内町ツアー当日
2010/09/24 8:55
札幌市南区 自宅ベランダから撮影した風景
間もなく岩内町へ向けて車で出発
午前九時、岩内町に向け、一人、車で出発 国道230号線・石山通を南へ
2010/09/24 10:02
喜茂別町 道の駅「望羊中山」
この日初冠雪の羊蹄山を遠く望む
午前十時、中山峠で小休止 喜茂別町相川から国道276号線・江差方面へ 午前十一時十分、いわないマリンパーク着、この公園内に目的地の「木田金次郎美術館」がある 予定より早く着いた、まずは昼食 前回2006年の訪問時同様、目抜き通りらしき道(国道229号線・雷電国道)をしばらく行くもぱっとせず 人口一万五千人余、北海道内の町村の中では住民数の多い土地だと思うが、まだそれに見合う食べ物屋が見つけられない 結局マリンパーク近くに戻り「北緯四十三度」というみやげ物屋付属の食堂に入る にしん焼魚定食800円、昼時になって満員、やはり漁港のある町だけあってそれなりのレベル、中満足
2010/09/24 12:05
岩内町 木田金次郎美術館
入口前で、自写写真
いよいよ、「田上義也 北方建築の種 展」観覧 フライヤ紹介文によれば
「(前略)今回は、建築家・田上義也(1899‐1991)との関わりを紹介いたします。田上はアメリカの建築家・フランク・ロイド・ライトに師事し、日本におけるライトの代表作である帝国ホテル(1923年竣工)の建築に携わりました。その後北海道に渡り、橋浦泰雄と旅した道東の情景に強く惹かれ、北海道での建築を志します。
田上は大正末期の渡道直後から、橋浦を通じて岩内の木田と交流します。木田を中心とした有島武郎顕彰会「白水会」が田上を岩内に迎えるなど、岩内との深い関わりが生れています。
昭和初期から札幌や小樽で住宅建築などの活動を重ねた田上は、戦後、北海道銀行初代頭取の島木融との出会いにより転機を迎えます。戦後は北海道銀行の本支店やユースホステルの建築をはじめ、北海道の建築界に大きな足跡を築きました。また道内初のオーケストラを組織するなど、分野を超えた活躍は、今なお私たちの生活に深く息づいています。(後略)」
以下、出展品リストと図録年表を参照しながら、田原の見たもの考えたことを書き連ねていく
「1914(大正3)年 15歳 早稲田大学付属早稲田工手学校入学。北村透谷夫人の北村美那子邸に下宿」(年表)、透谷は1868年生-1894年没、美那子は1865年生-1942年没 相馬黒光『黙移』で、明治女学校教師時代の透谷のエピソードを見たばかり 美那子は未亡人となってから渡米、帰国後英語教師を勤めたらしい 田上下宿時、まだ教師を続けていたのか
「1923(大正12)年 24歳 9月、帝国ホテル竣工披露パーティーの当日に関東大震災。11月北海道へ向かう車中でバチェラー師に会い、札幌のバチェラー邸に寄寓。富貴堂楽器部でヴァイオリン教授を始める。」(年表) ライトに出会ってしまうのも劇的なら、竣工パーティー当日が関東大震災というのも劇的 車中でバチェラーに出会ってしまうのもまた劇的、気に入られて寄寓の身になるというのも劇的 強運の人だったのだろう 富貴堂は今はもうないのか? 手元に昭和43年3月12日(富貴堂創業七十周年記念日)発行の「七十年のあゆみ 富貴堂小史」という本があり、212ページ「富貴堂楽器部の思い出」という座談には田上も参加している(後日追記予定)
1925年3月、木田らの「白水会」の招きで、田上の岩内でのヴァイオリン独奏会が開催されるが、その実現のための、木田金次郎から橋浦泰雄宛ての手紙文面に「ファブル昆虫記」が面白かったというような内容 大杉栄訳のものと思われ 大杉訳本は1922年刊行されている この当時、岩内在住の木田はどうやってその手の本を入手したのだろう この日、田原は、易々と、札幌市南区から車で、ゆっくり走って、二時間強で岩内に到着したわけだが、大正期、その移動は何によっていかになされたのか 知りたい 船での移動なんかもあったかも
「1924(大正13)年 25歳 2月、「音楽の夕」(豊平館)で小川隆子らと共演。」 小川隆子は、札幌興農園・五番館の創業者小川二郎の弟・小川義雄夫人 「北光トリオ」 その小川義雄の、和寒町松岡農場支配人時代の住居の図面も
「城下良平氏邸新築設計図 1930年 札幌市」 現存 帰りM19書庫に寄ってからちょっと見に行ってみようと誓う 近いのだ 小熊捍氏邸(現・ろいず珈琲 旧小熊邸店、中央区伏見)が建設当時は南1西20、その一丁西には太秦康光氏邸(現存せず)、南5西21に城下氏邸、北1西26に鬼窪氏邸 1927年から1931年、十五年戦争が始まる直前、大正モダニズムの余韻を感じさせる、昭和初期の建築作品群が、1990年代解体・移築されるまで、長く円山の風景を作っていたことになる バブル期の傷跡の今我々は暮らしている
田上設計の、北一条教会の前で撮影された、田上義也と伊藤整の写真 目録キャプション「伊藤整は1944(昭和19)年、疎開先の八雲町にあり、田上が経営責任者を務めていた帝産航空落部工場(戦局悪化による木製飛行機のベニヤ単板製作)でともに仕事をして以来の交友 提供 田上茂氏」 その工場はそもそも田上の設計になるもの、そのままお勤めすることになったとのこと 実は、田上は太平洋戦争中とその前後建築の仕事がなくて、苦闘苦悩の中にあったらしい 生活のための勤務だったのだろうか 写真の撮影年次は明記されていない 終戦後の再会写真なのだろうか
「1950年代の再開 田上義也・島本融との出会い」 目録文「数日後、島本さんから私に逢いたいという伝言をいただいたので、私は所定の日時に円山二十丁目にある島本邸を訪問した。ところがその家は私が二十五歳のことに設計した北大の小熊捍博士の家であった。
田上義也「北に生きた畏敬の人」『島本融 その追憶』(1977年)所収」
「島本は全道に展開させた北海道銀行の本支店や職員住宅のほとんどを田上に任せた」ことで、田上は1940年代の試練の時期を乗り越える 島本邸もまた一種の文化サロンになっていたらしい 展示写真の中に、島本邸訪問の木田金次郎と地球科学者・猿橋勝子が写った一枚が 猿橋さんは北海道大学にもいらしたんだっけか、調査要
きりがないな(笑) 手帳にメモした語句を列挙すると 「田上義也建築作品抄」(らいらっく書房)・カナリヤビル・更科源蔵・「明日への科学」講師座談会、北海道円山クラブ、1961/6/28、貝塚茂樹、桑原武夫、今西錦司・笠信太郎(島本融と大戦中ベルリンで)と木田金次郎、日本橋高島屋1962/9 後ろ二つの写真は、田上に直接関係のない、島本融の人脈写真だが
前回2006年12月の訪問時もそうだったような気がするが、今回も田原の一時間ほどの観覧中田原以外の観覧者なし いかに会期の長い展覧会で地方町村の平日のお昼時とはいえ、それでいいのだろうか 岩内唯一の田上作品「いりかせ宇喜生(うきよ)」の写真・設計図も展示されていた 1935年竣工、1954年岩内大火で焼失 見るからにモダン 気合の入った建築物を失うことは、その近隣住民の精神のトーンダウンに繋がるのではないか これこそ精神のデフレスパイラルの典型で、こういう展覧会に人が入らないのはその証左 人が動かねばその人の精神が動かずその人の精神が動かねばモノも金も動かず、結果さらに人が動かなくなる 図録を買って退館
2010/09/24 12:40
岩内町 木田金次郎美術館
屋上から、岩内岳遠望、市街近望の自写写真 岩内岳登山はやはり、時間的に無理だった あきらめて正解
退館後、到着時小放浪したとき見つけた竹工芸店をのぞく 大々的に開店している風情ないが、入口の硝子越しに竹籠、間違いなく根曲り竹の、が見え、扉に鍵もかかっていないので、ちょっとお邪魔する おばあちゃんが出て来て、話を聞くと、制作者の病気で閉店して久しいらしい もう販売してないというところを、半ば無理矢理、直径50センチ弱の円形平籠を買わせていただく 利尻島で祖父が根曲り竹で籠を編んでいたのを最近よく思い出す 北海道日本海岸では、冬期、どこの漁師町でも、誰か彼か籠を編んでいたのだろう
家庭内平和のため、道の駅いわないで、お土産に「たら丸せんべい」購入 たら丸は岩内町の「ゆるキャラ」 相方はべに子
一時四十分、岩内発 国道276号線から共和町国富で小樽・札幌方面行き国道5号線、そのまま札幌市内 四時前、「テンポラリースペース」札幌市北区北16西5 谷口顕一郎展「凹みスタデイ♯19」 残念ながら谷口夫妻はこの日だけ不在 中森敏夫さんと談話 その内容を中森さん側から書くとこう
2010/09/24 16:03
札幌市 テンポラリースペース
谷口健一郎作品と中森敏夫さん
「札幌・緑の運河エルムゾーンを守る会」の話も聞く 田原はその話に触発されつつ、その直前に見た田上義也「富貴堂スケッチ」に思いが及び、札幌の街の風景の変遷に思いをはせていた それは同時に利尻島の景色の変遷に対してでもあり 五時過ぎ、退出 M19書庫 南5西21城下氏邸周辺を車で徘徊、すでに日は暮れ建物の姿はよく見えない 六時四十五分、自宅から数百メートルにある田上義也作品、真駒内公園内の「札幌市豊平川さけ科学館」(1984年)を見て今日のツアーの終りとする ほとんど毎日、田上作品の前を通っているわけだ 月夜
2010/09/24 18:45
札幌市 札幌市豊平川さけ科学館
帰宅後、発送作業 南郵便局(やはりさけ科学館の前を通って) 尖閣諸島問題、中国人船長、突然釈放 剣呑
20100922 ふたりだけのひとつだけ
* 矢野顕子 『ひとつだけ / the very best of akiko yano』
午前 データ作業 外伝 『「挫折」の昭和史』読書 「2 戦争と"知識人" 名取洋之助から富塚清へ」 72-74p「モダニズムという光源」示唆に富む 筋トレ/午後 NHK「スタジオパークからこんにちは」ゲスト滝川クリステルさん つい小一時間見入ってしまう 美人だ AMICA ノンちゃんより電話 毎年恒例になりつつある、秋の古本引取依頼 多謝 発送作業 真駒内公園徒歩往復で南郵便局 夕食準備/夜 M19書庫 山鼻某店 十一時NHK「SONGS」やもり(森山良子&矢野顕子) 「ひとつだけ」、泣ける 美しいものは一見無造作に見えながら極めて精緻に作られている 造作なくこなせる域に達するまでの修練 おのずと精緻なものを作り出してしまう域に達するまでの修練 「自然」というのはその果てにあるのかと 元々顔立ち良い人が、本気で勉強して、美しさに磨きをかかける 元々音楽の才に恵まれた人が、本気で人を愛して、揺るぎない愛の歌を作る まったく美しい
20100921 田上義也岩内町ツアー、計画縮小
* 山口昌男 『「挫折」の昭和史』 岩波書店
午前 データ作業 外伝 NTT電話帳最新版届く 「ブックスボックス 田原書店」も今期からタウンページ広告掲載 その成果やいかに 札幌市南部・恵庭市・千歳市版職業別デイリータウンページ601頁、ご覧下さい 『「挫折」の昭和史』読書 坂下銀行 残高を見て、田上義也岩内町ツアー計画縮小決意 岩内岳登山を諦め、当初の予定に戻す この時期熊鈴無しで初めての山に登りたくない-ちゃんとした熊鈴は結構高価格らしい-次いつ使うか知らんものに出せる金なんかねーだよ、ということで 24日は、岩内町木田金次郎美術館「田上義也 北方建築の種展」から札幌「テンポラリースペース」谷口顕一郎展「凹みスタデイ♯19」で/午後 登録・発送作業 夕食準備/夜 南郵便局・M19書庫 帰路、コーチャンフォー・ミュンヘン大橋店で雑誌「nid」17号立読み 「流逸荘と仲省吾」横須賀氏記事 「民藝」の見事な消化・昇華 今は「クウネル」テイストの雑誌の隆盛期なのかな
20100920 田上義也岩内町ツアー準備
午前 データ作業 外伝 日高敏隆『帰ってきたファーブル』読了 山口昌男『「挫折」の昭和史』読書開始 筋トレ/午後 登録発送作業 五時半外出 真駒内公園徒歩・南郵便局・地下鉄真駒内駅-西18丁目駅・M19書庫・徒歩南1西6「アダノンキ」札幌古書籍商組合事業部の懇親会ミーティング 十時半退出 地下鉄大通駅-真駒内駅/田上義也岩内町ツアーは24日決行予定 『「挫折」の昭和史』に田上の記述「補遺2 モダニズムと地方都市-北海道と金沢」「1 北の建築家」 予習する ふと閃き、利尻島出身の時雨音羽の生年を確認 1899年で田上と同年生 時雨は十代後半で島を出て、大正の東京へ 田上は二十代前半、震災後の東京を離れ、北海道へ その交叉の対照の妙 才ある(そしてちょっとエキセントリックな)人間の「移動」がもたらす文化的インパクトを思う 時雨音羽のまとまった評伝はまだないまま、かな 今年亡くなられたKSさんに、あなたがやりなさいと言われたことを思い出した
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