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20100929 賢者の言葉・日高敏隆 『帰ってきたファーブル』・「動物学から見た世界 八、生物学独自の方法をさぐる」

     * 日高敏隆 『帰ってきたファーブル 現代生物学方法論』 講談社学術文庫



  「帰ってきたファーブル」 『帰ってきたファーブル』 1993 人文書院)より、「動物学から見た世界」、「八、生物学独自の方法をさぐる」全文引用

 「生物学に特有のものとして、「種」の問題がある。自然に多少とも親しもうと望む人々が、まずこの植物は何という種であり、こちらのそれとよく似てはいるがじつは別の何という種である、ということから学びはじめる、あの「種」についての問題である。
 だが、種の問題は、きわめてしばしば、進化の問題にすりかえられてしまう。つまり、いま、地球上にこんなにたくさんの種の生物がいるのは、じつは進化の結果であるのだから、それらを進化の系列の上に並べてみれば、これほど多様な種をうまく整理して理解することができるというわけである。
 こうして、アメーバから人間にいたる全動物を、簡単なものから複雑なものへというスケールに従って配列した系統樹の概念が、人々の心に深く刻みこまれ、生物学の研究も、つねにこの系統樹を頭におきながらなされてゆくようになった。そして、この進化とか系統樹とかをつねに念頭において研究することこそ、生物学独自の研究方法であるという認識も、きわめて一般的なものになった。
 けれど、まえにすでに述べたように、進化ということは、星についても、物質についても、原子についてもいえる。それはけっして生物学独自の問題ではない。したがって、種の問題を進化の問題にすりかえることは、生物学独自の問題を、安易に生物学以外の問題に解消してしまうことになる。
 たしかに進化の問題は、生物学にとってきわめて重要であって、生物学はそれを避けて通ることはできない。しかし、種の問題を進化の問題に解消することは、「いったい種というものは何なのか、なぜこんなに多くの種がいなくてはならないのか、いや、そもそも、なぜ生物は『種』というかたちをとってしか存在しえないのか」というような根本的な問題を忘れさせるがゆえに、かえって、われわれを進化の問題へのまじめな追求からそらせる結果になるようにみえるのである。

 適応という言葉の魔術
 進化の問題と関連して、きわめてしばしば使われるものに、「適応」という言葉がある。この言葉ないし概念は、あまりによく説明として使われるので、いまでは「神」というのと、ほとんど変わりがなくなってしまっている。
 ある動物の体の構造や機能を詳しく調べてゆくと、それがその動物の生活にとって、じつにうまくできていることがわかる。そして、「なぜそんなにうまくできているか」という問いに対しては、「それは適応の結果である」という答えがつねに通用する。何のことはない。この答えからは、「それは神の御意志である」というのと、なんら違わないのではないだろうか?
 構造と機能という概念も、たいへん曖昧に使われている。構造を「つくり」といいかえるのはいいとして、機能を「はたらき」といいかえるとき、この概念の曖昧さ、いや、この概念の把握の曖昧さがよくわかる。「はたらき」とはアクションである。物理学においても化学においてもアクションは存在し、われわれは、重力や電磁波や原子団や電子のアクションをいくらでも論じることができる。しかし、もしそれらのものの「機能」つまりファンクションを論じようとしたら、どうしてもそこに一つのシステムを想定して、そのシステムのなかにおける、それらのものの「役割」を考えねばならない。
 化学においてはファンクショナル・グループ(分子の中の機能団)などというものが存在するけれども、物理学においては、関数という意味ではなくて役割という意味でのファンクションが論じられることは稀であるようにみえる。しかし生物学においては、ファンクションないしもっと直接にロール(役割)という言葉が、たえず使われている。
 それは、生物が、個体としても種としても、つねに一つのシステムであり、しかも自己保存的なシステムであるからである。生きているかぎり、生物はつねにこのようなシステムとしてしか存在しえないのであって、わざわざなんらかのシステムを想定するまでもなく、目の前をチョロチョロ走っているゴキブリは、すでにそれじだいが一つのシステムなのだ。したがってわれわれは、そのゴキブリの肢、触角、眼、翅、そして一本の毛についてさえ、「はたらき」を論じることはできない。われわれにできるのは、その「機能」つまり「役割」を知ることだけである。

 トータルなかたちでの比較
 いままで述べてきたことは、ぼくが考えている「比較」の方法と関係がある。
 一つの例として、チョウとガを比較してみるとしよう。従来いわれている比較の概念によれば、この問題は、進化の問題に結びつけねばならない。人はそのために、たとえばチョウの翅とガの翅とを、形態学的に「比較」する。どちらがより原始的な形に近いか、どちらがより特殊化しているか。正式な結論はさておくとして、かりにチョウの翅のほうが、想定される原始的形態により近かったとしよう。すると次は、ガがその夜行性の生活にいかに適応しているかを調べることになる。ガの眼はきわめてよく発達しており、眼のなかの色素の移動によって、暗いところでは著しく感度を挙げることができる。これは適応である。ガは体温調節の機能もよく発達しており、いろいろな方法によって体温を高め、冷え込む夜でも活発に飛びまわることができる。これは適応である、などなど。
 それはたしかに間違いではない。ただ、もしそのような比較から得られた結論が、チョウよりガのほうがより特殊化していて、よりよく適応しているのだ、ということであるとしたら、より原始的であまり適応していないチョウが、なぜ今日まで存続し、今日なお繁栄しているか、ということに対する説明は、ついになされずじまいになってしまうことになる。まじめに進化を理解しようとしたら、それでは困るのだ。
 実際にチョウを調べてみれば、チョウがその生活にじつによく「適応」していることがわかる。彼らは色に頼る。種によって多少違うけれど、ある色のものが目に入ったら、彼らはすぐに口吻を伸ばし、そのものに飛んでゆく。それが花でないことも何度かはあるだろうけれど、そのような失敗は無視できる。樹液のように、あまり定まった形や色のないものを食物にしている種は、まず樹木を探す。なぜなら、樹木のないところに樹液はないからである。このときも、褐色のような色が手がかりとなっている。それからあとは、おそらくは樹液の匂いを触角で感知して、だいたいの場所を知り、そのあたりにとまって歩きまわりながら、今度は肢の先にある一種の味覚器で、樹液の源をみつけだす。
 チョウのオスがメスを探すときも、色が頼りである。このことについては、まえに多少述べたから、ここでは繰り返すまい。いずれにせよ、彼らはまず視覚的情報を第一の手がかりにしている。このことは、光のある昼間に活動する昆虫としてみれば、明らかに合理的なことである。そして、メスの翅も、体に比べて大きくなり、色彩的にも派手になっている。
 けれど、食物を探すにせよ、異性を探すにせよ、チョウが視覚的情報つまり光に依存する以上、そこには一つの重大な利益と不利益が同時に生じてくる。それは、光が直進するという物理的事象に由来するものである。光は直進するから、チョウがある物体を認知したら、そこへ向かって直進すれば、かならずその物体にいきつくことができる。事実、チョウは花ないしメスを見つけたとき、急激に飛行方向を転換し、そちらへ直進する。
 けれど、もしその物体とチョウのあいだに、一枚の木の葉が介在していたら、チョウがその物体を見つけることは不可能となる。もしチョウが、ジェット機のようにまっすぐ飛んでばかりいるとしたら、彼らの探索の範囲は著しく限定されることになろう。彼らはたえず上下左右に揺れながら、いろいろな角度からものを探して飛ばねばならぬはずである。
 一方、異性の発見と認知の手がかりが翅の色であることによって、チョウの翅は胴に比べて大きくなり、胴そのものも、きわめてほっそりしたものになった。その力学的な結果として、チョウはけっして一直線に飛ぶことはできず、上下にふれながらしか飛べぬようになった。空気の流れが多少乱れていれば、彼らの飛翔はますますふらつくことになる。このことと、まえに述べた要請とは、矛盾しなかった。
 そればかりでなく、次はどこへ行くかわからないチョウのふらふらした飛びかたは、彼らの恐ろしい敵である鳥からも、彼らを守ることになった。鳥はその飛翔の力学的原則からいって、急速な方向転換ができない。まっすぐチョウをねらってきた鳥は、チョウがフワッと位置を変えてしまうと、もはやなんともしようがないのである。
 これを「適応」といえばいえるだろう。けれど、そういってみたところで、説明が深まるわけではない。むしろぼくは、これらのことのあいだに、たんに矛盾がなかったのにすぎないと考えたい。矛盾がなかったからこそ、彼らはいままで存在してきたのである。
 もし適応であると考えるなら、現実に生きている生物は、どの種もすべて適応している。しかも、じつによく、じつに巧みに適応している。より適応したものなど、考えることができない。
 もちろん、体の一部を切り離して、そこだけ比較してみるなら、一連の種のあいだに一つの系列をつくってみることはできる。けれど、その系列のなかのもっとも下に位置するもの、つまり、もっとも原始的なものが、それより上位のものに比べて、けっして生活のうえで下手なのではない。その種の全生活を他の種の全生活と比較してみるとき、われわれはもはや、どちらがより適応しているか、などとはいえなくなる。現在の環境のなかでは、どちらもほとんど完璧といえるくらい適応しているし、もし環境が変わったとすれば、どちらも同じくらい不適応である。
 それは、ある部分が一見未発達と思われたとしても、それは、その部分の使いかたの巧みさか、使いかたの違いか、あるいは他の部分の発達によって、かならず補いがついているからである。スケールはけっして一つしなかないのではない。
 ようするに、動物の世界、いや、もちろん植物も含めた全生物の世界でわれわれが見るものは、脊椎動物、哺乳類、人間へと向かう一つのベクトルの上での進歩あるいは停滞ではなくて、ベクトルでもスカラーでもない、パターンの相違なのである。
 このことは、すでに古くレヴィ=ストロースが、人間の社会についていっている。しかし、その後一般の世界に生じた認識の変化は、後進国という言葉を発展途上国といいかえる程度のことにすぎなかった。唯一のベクトルを信じる精神は、なんら消滅していない。
 生物学においても、この精神は生きつづけている。だが、一つのベクトルを想定したうえで、比較、進化、適応を論じて、いったい何が得られるのであろうか。
 ぼくは、動物の種というものが、一つ一つユニークな生存のパターンだという認識に立って、トータルなかたちでのその比較を行ってゆくことこそ、いまは必要なのだと考えている。それは、物理学の方法とはまったく違う、生物学独自の方法といえるだろう。技術としてどんなものを使うかは問題ではない。使える技術は何でも使ったらよい。重要なのは、種の問題を進化の問題に解消してしまわないことである。
 ただ、このような比較の方法によって、今後どのような道が開けてゆくか、ぼくは、これといった展望をもっているわけではない。科学のおもしろさは「模索」にあるのであって、模索につきまとう不安こそ、われわれをかきたてるものではないだろうか。」(184-192ページ)



『帰ってきたファーブル』@非人称芸術研究室・糸崎公朗ブログ3

   * 糸崎公朗 『東京昆虫デジワイド』 アートン

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