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20101229 賢者の言葉・谷崎潤一郎 『蓼喰う虫』・大阪文楽と淡路人形浄瑠璃

     * 谷崎潤一郎 『蓼喰う虫』 岩波文庫




 「なるほど、人形浄瑠璃というものは妾のそばで酒を飲みながら見るもんだな。――要はみんなが黙り込んでしまったあと、ひとりそんなことを考えながらしょうことなしに舞台の上の、「河庄」の場へ、ほんのりと微醺を帯びた眼を向けていた。普通の猪口よりやや大ぶりな杯に一杯傾けたのがきいて来て、少しちらちらするせいか、舞台がずっと遠いところにあるように感ぜられ、人形の顔や衣装の柄を見定めるのに骨が折れる。彼はじいっと瞳を凝らして、上手にすわっている小春をながめた、治兵衛の顔にも能の面に似た一種の味わいはあるけれども、立って動いている人形は、長い胴の下に両脚がぶらんぶらんしているのが見なれない者には親しみにくく、何もしないでうつむいている小春の姿が一番うつくしい。不釣り合いに太い着物のふきが、すわっていながら膝の前へたれているのが不自然であるが、それは間もなく忘れられた。老人はこの人形をダークの操りに比較して、西洋のやり方は宙に吊っているのだから腰がきまらない、手足が動くことは動いても生きた人間のそれらしい弾力やねばりがなく、従って着物の下に筋肉が張り切っている感じがしない。文楽の方のは、人形使いの手がそのまま人形の胴へはいっているので、真に人間の筋肉が衣装の中で生きて波打っているのである。これは日本の着物の様式を巧みに利用したもので、西洋でこのやり方をまねようにも洋服の人形では応用の道がない。だから文楽のは独特であって、このくらいよく考えてあるものはないというのだが、そういえばそうに違いない。立って激しく活動をする人形がへんに不格好なのは、そうすると下半身が宙に浮くことを防ぎきれないで、いくらかダークの操りの弊に陥るからであろう。老人の議論を押し詰めて行くと、やはりすわっている時の方がねばりの感じが表わせるわけで、動くとしても肩でかすかな息をするとか、ほのかなしなを作るとか、ほんなわずかに動くしぐさがかえって不気味なくらいにまで生き生きとしている。要は番付けを手に取って、小春を使っている人形使いの名を捜した。そうしてこれがその道の人に名人と言われている文五郎であるのを知った。そう思って見ると、いかにも柔和な、品のいい、名人らしい相をしている。絶えず落ち着きのあるほほえみを浮かべて、わが子をいつくしむような慈愛のこもったまなざしを手に抱いている人形の髪かたちに送りながら、自分の芸を楽しんでいる風があるのは、そぞろにこの老芸人の境涯のうらやましさを覚えさせる。要はふとピーターパンの映画の中で見たフェアリーを思い出した。小春はちょうと、人間の姿を備えて人間よりはずっと小さいあのフェアリーの一種で、それが肩衣を着た文五郎の腕に留まっているのであった。
 「僕には義太夫はわからないが、小春の形はいいですな。」
 ――半分ひとりごとのように言ったのだが、お久には聞こえたはずだけれど、だれも合槌を打つ者もない。視力をはっきりさせるために要はたびたび眼ばたきをしたが、ひとしきり身の内のぬくまった酔いがだんだんさめて来るにつれて、小春の顔が次第に刻明な輪郭を取って映った。彼女は左の手を内ぶところへ、右の手を火鉢にかざしながら、襟の間へ頤を落として物思いに沈んだ姿のまま、もうさっきからかなりの時間をじっと身動きもしないのである。それを根気よくみつめていると、人形使いもしまいには眼に入らなくなって、小春は今は文五郎の手に抱かれているフェアリーではなく、しっかり畳に腰を据えて生きていた。だがそれにしても、俳優が扮する感じとも違う。梅幸や福助のはいくらうまくても「梅幸だな」「福助だな」という気がするのに、この小春は純粋に小春以外の何者でもない。俳優のような表情のないのが物足りないといえばいうものの、思うに昔の遊里の女は芝居でやるような著しい喜怒哀楽を色に出しはしなかったであろう。元禄の時代に生きていた小春は恐らく「人形のような女」であったろう。事実はそうでないとしても、とにかく浄瑠璃を聞きに来る人たちの夢みる小春は梅幸や福助のそれではなくて、この人形の姿である。昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎み深い女であったのに違いないから、この人形でいいわけなので、これ以上に特長があってはむしろ妨げになるかもしれない。昔の人は小春も梅川も三勝もおしゅんも皆同じ顔に考えていたかもしれない。つまりこの人形の小春こそ日本人の伝統の中にある「永遠女性」のおもかげではないのか。……」(34-37ページ)

 「一体、「型に嵌まる」とか「型にとらわれる」とかいうことを芸道の堕落のように考えるひともあるけれども、たとえばこの農民芸術の所産である人形芝居にしてからが、とにかくこれだけに見られるというのは畢竟「型」があるためではないか。その点ででんでん物の旧劇は民衆的であるといえる。どの狂言にも代々の名優の工夫に成る一定の扮装、一定の動作――いわゆる「型」が伝えられているから、その約束に従い、太夫の語るチョボに乗って動きさえすれば、しろうとたちでもある程度までは芝居のまねごとをすることができ、見物人もその型によって檜舞台の歌舞伎役者を連想しながら見ていられる。田舎の温泉宿なぞで子供芝居の余興があったりするとき、教える方もよく教え、覚える方もよくまあこれだけに覚えたものだと感心することがあるけれど、めいめいが勝手な解釈をする現代劇の演出と違って、時代物は依りどころがあるだけにかえって女子供にも覚えやすいのかもしれない。活動写真などのなかった昔は、やはりそれに代わるような便利な方法があったのである。取り分けわずかな設備と人数とで手軽に諸所を興行して歩ける人形芝居は、どれほど地方の民衆を慰めたであろう。こうして見ると旧劇というものはずいぶん田舎のすみずみにまでも行きわたって、深い根底を据えていることが察せられる。」(204-206ページ)

 「要には人形使いの巧拙なぞ細かいところはわからないが、ただ文楽のと比較すると、使いかたが荒っぽく、柔らかみがなく、何といっても鄙びた感じのあることは免れられない。それは一つには人形の顔の表情や、衣装の着せ方にもよるであろう。というのは、大阪のに比べて目鼻の線がどこか人間離れがして、堅く、ごこちなくできている。立女形の顔が文楽座のはふっくらと円みがあるのに、ここのは普通の京人形やお雛様のそれのように面長で、冷たい高い鼻をしている。そして男の悪役になると、色の赤さといい、顔立ちの気味の悪さといい、これはまたあまりに奇怪至極で、人間の顔というよりは鬼か化け物の顔に近い。そこへ持って来て人形の身の丈が、――ことにその首が、大阪のよりもひときわ大きく、立役なぞは七つ八つの子供ぐらいはありそうに思える。淡路の人は大阪の人形は小さ過ぎるから、舞台の上で表情が引き立たない。それに胡粉を研いてないのがいけないという。つまり大阪では、なるべく人間の血色に近く見せようとして顔の胡粉をわざとつや消しにするのだが、それと反対にできるだけ研ぎ出してピカピカに光らせる淡路の方では、大阪のやりかたを細工がぞんざいだというのである。そういえばなるほど、ここの人形は眼玉が盛んに活躍する、立役のなぞは左右に動くばかりでなく、上下にも動き、赤眼を出したり青眼を吊ったりする、大阪のはこんな精巧な仕掛けはありません、女形の眼なぞは動かないのが普通ですが、淡路のは女形でも目瞼が開いたり閉じたりしますと、この島の人は自慢をする。要するに芝居全体の効果からいえば大阪の方が賢いけれども、この島の人たちは芝居よりもむしろ人形そのものに執着し、ちょうどわが子を舞台に立たせる親のようないつくしみをもって、個々の姿をながめるのであろう。ただ気の毒なのは、一方は松竹の興行であるから費用も十分にかけられるのに、こっちは百姓の片手間仕事で、髪の飾りや着付けがいかにも見すぼらしい。深雪でも駒沢でもずいぶん古ぼけた衣装を着ている。しかし古着好きの老人は、
 「いや、衣装はここの方がいいよ。」
 と言って、あの帯は昔の呉絽だとか、あの小袖は黄八丈だとか、出て来る人形の着物ばかりに眼をつけて、さっきからしきりに垂涎している。
 「文楽だって以前はこんなふうだったのが、近ごろ派手になったんだよ。興行のたびに衣装を新調するのもいいが、メリケン友染や金紗ちりめんみたいなものを使われるんじゃ、ぶちこわしだね。人形の着付けは能衣装のように古いほどありがた味がある。」
 と、そう老人は言うのである。」(208-210ページ)



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