20091114 賢者の言葉・浦達也『ザ・コミュニケーション』より・「メディアはメッセージ」

   * [メディア論―人間の拡張の諸相]



  「メディアはメッセージ」 浦達也『ザ・コミュニケーション―届く映像メッセージ』 (誠文堂新光社 1983年)より引用
 マクルーハンの再評価
 マクルーハンは一九八〇年の大晦日に亡くなりました。狂乱ブームが去ったあと、十年以上の空白をおいて、今再びマクルーハンを再評価しようとするきざしが見え始めています。ただし今度は竹村ルーハンではなく、オリジナルのマクルーハンの方です。
 なかでも「メディアはメッセージである」というコンセプトは、やはり大変すごいことを言っていたのだということが分ってきました。現在の情報環境、メディア状況をとらえるのに、これ以上に有効なコンセプトはありません。またこのことばぐらい、多くの人が引用し多様な解釈をしたものもありません。二十年前のマクルーハンのことばが一人歩きをしているわけで、この辺が如何にも天才の言説らしいところです。
 さて、この「メディアはメッセージである」ですが、
 メディア=伝達手段、媒介物
 メッセージ=伝達内容、コード化された話題内容
と常識的に解釈して、そこで何故メディアがメッセージなんだ、というように逐語的にとらえたのでは、このコンセプトの深いところは見えてきません。
 前述の後藤和彦さんは、実にうまい言い方をしています。
 かれの理論には一種の汎メディア主義みたいなところがあるでしょう。何もかもメディアなのね、何もかもメディアで、メディアのメディアだったりね。あのぐらいめちゃくちゃになると、何でも言えるようになっちゃうんで、非常にいいかげんだと思うけれども、一度すべて人間が作り出したものはメディアである。それは言葉から何からですね。そういうふうにしてしまうと、世の中違ってみえるということも確かにあるんですね。だからマクルーハン理論の一番元は、あらゆるものをメディアとして捉えるような、人間世界のイメージの仕方みたいのものがあって、それが学者にアッピールするよりは、芸術家にアッピールしたり、デザイナーにアッピールしたりした所以だろうと思うんですね。(鼎談「やっぱりマクルーハンは新しい」『メディア・レビュー』誌、八二年四月号の中の後藤氏の発言)

 マクルーハン理論が学者より芸術家やデザイナーにアッピールした、ということは非常に興味深いところです。学者は何よりもまずことばの厳密な概念規定をし、そこをよりどころに理論を構築します。
 ところがマクルーハンは、世界をイメージでまずとらえます。極論すれば、ことばの概念規定などはどうでもいいわけで、この場合メディアをキーワードにして、それで今までよく分らなかったものが説明出来るようになり、世界の全体像がクッキリ見えて来れば、そのキーワードは有効だったとする、そういうやり方です。
 こうしたもののとらえ方は、マジメ主義の学者なら卒倒するでしょうが、芸術家たちは感性でパッと分ってしまうことなのです。


 「メディア即メッセージ」を原典で読む
 マクルーハンはコミュニケーションに関心をいだく人には、決して無視出来ない存在です。ところが前述のように彼の思想はあまり細部の概念規定にこだわらず、全体像をイメージでつかむことが肝要です。
「メディアはメッセージである」というコンセプトを、イメージということになれば多様な解釈も可能で、正解は一つだけというようなものではありません。
 しかしそうは言っても、原典を読んだうえでの自己流の解釈ならまだいいのですが、他人の解釈の孫引で、いくら何でも違うなと思う読み方もあるので、ここは一応まともに原典(といっても翻訳ですが)にあたってみることにします。(以下、引用はすべて『人間拡張の原理―メディアの理解』後藤・高儀訳、竹内書店新社刊によります。なおこの本は決して分り難いものでなく、今でも、というより今こそ新鮮味を増しているので、皆さんに一読をおすすめします)
 さてマクルーハンは、メディアを従来のように搬送伝達のための単なる機械・道具としてではなく、「人間の拡大」とみて、「人間の相互関係と行動の尺度や形態をつくり出し制御したりするもの」としてとらえます。
 このようなメディアに対する広いとらえ方が必要なのは、人間と機械の関係が変ってきたからです。一昔前なら機械を使うのはあくまで人間であり、機械(メディア)が意味とかメッセージを持つことはあり得ないことでした。ところが、
 オートメーションは、一時代前の機械技術が破壊したもの、つまり仕事と人間の深い関与を人間の新しい役割としてつくり出したのである。人間の関与の仕方は機械の場合は断片的、集中的、表面的なのに対し、オートメーションは全体的、非集中的で深みを持つ。(同書)

 マクルーハンが、『人間拡張の原理』を書いた一九六四年当時の技術の最先端はオートメーションでしたが、現代のエレクトロニクス技術や、バイオテクノロジーを考えると、機械(メディア)自体が意味やメッセージを持つという考えは、一層説得力を増しています。
 どのようなメディアや技術でも、その「メッセージ」が人間に関係するようになると、それによって尺度が変わり、あるいは進度が変わり、あるいは基準が変わってくる。鉄道は、走ること、輸送すること、あるいは車輪、線路を人間社会に持ち込んできたのではなく、まったく新しい種類の都市や仕事やレジャーを生み出して、従来の人間の昨日を促進し、また規模を拡大したのである。(前掲書)

 ここでマクルーハンは、「メディアの内容は、われわれがそのメディアの本性を知るうえにかえって妨げになることの方が多い」と警告しています。
 この例では、鉄道メディアの内容は「走ること、輸送すること」ですが、そのことにのみ関心を寄せると、メディアの本質である人間と社会への影響、「まったく新しい種類の……」以降の重要な本質的意味やメッセージを見逃してしまいます。「どんな技術も、既存のものにそれ自体をただ付加するだけではない」からです。
 特殊化された部分に注目することから全分野を注目することになり、いまやわれわれは極めて自然に「メディア即メッセージ」ということができるようになった。電気の速度と全体的視野を知る以前には、メディアがメッセージであるということは明白ではなかった。この絵はなにについて描いた絵か、と人がよく尋ねていたように、メッセージは「内容」と思われていたのである(前掲書)

 この「電気」のところに現代の「エレクトロニクス」が加わることによって、「メディア即メッセージ」の意味はより重いものとなります。
 テレビというエレクトロニクス・メディアが、それ自体メッセージを持って過去の歴史になかったような拡がりと深さで、「まったく新しい人間環境」を作り出しているのです。




   マーシャル・マクルーハン@Wikipedia

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20091031 賢者の言葉・鶴見俊輔・『悼詞』(と『徒然草』)より

   * [悼詞] 鶴見俊輔

   * [徒然草 (ワイド版 岩波文庫]



  「須田剋太 (すだ こくた 画家 1906-90)――鉢の木」 鶴見俊輔 『悼詞』 (編集グループSURE 2008年)より引用
 小学校の読本で「鉢の木」のすじがきをおぼえた。その話が自分の中によみがえってきたのは、近ごろのことだ。
 この話の主人公は佐野常世だと思っていた。領地を追われた彼は、尾羽打ちからして、人里はなれたところに身をひそめている。そこに北条時頼(前の執権)が旅僧の形でたずねて来て、雪にふられて困っているので一夜の宿をとたのむ。主人は、彼をとめて、あばら家で寒いからと言って、秘蔵の盆栽をたいて、物語りする。
 今はこのようにおちぶれているが、いざ鎌倉というときには、やせ馬に槍をたずさえてうちのり、出陣するつもりだという。
 時頼はひろく天下を見てまわったあとで、鎌倉にもどり、諸国の武士に集合の命をくだす。かねての言葉どおりかけつけた佐野常世に、雪の夜のもてなしを感謝し、不当な裁判の故にうばわれた領土を彼にもどす。
 私の中に六十年あまりのこっていたこのあらすじでは、佐野常世が主人公である、ところが、このごろになって河村能楽堂で見た能では、こんなあばら家ではと言って宿をことわるのは主人の佐野常世であり、雪がふってくるのを見て、おとめしたほうがいいと主人に説くのは妻である。その言葉をいれて、主人は旅僧を追いかけ、ともなってもどる。部屋をあたたかくし、かゆでもてなすうちに、主人が、訴訟の次第にふれ、しかしいざ鎌倉のときには、と語るのを、じっとききいる妻の面に、表情の変化がうつり、この劇の主人公は、この妻であると感じた。こどものときに出合った物語が、自分の中に、姿をかえてゆく。
 「鉢の木」は、もう一度、私に生きてかえってきたことがある。飯沼二郎氏と私とが出していた雑誌「朝鮮人」に毎号表紙を無料でいただいていた須田剋太氏を私は夏に会食にさそっていた。
 その最後になった年に、八十をこえた須田さんは誰もつれずにふらりとあらわれた。今日は映画を見たかえりということだった。夕食を終わり、ひとりでかえってもらうのは不安なので、私は同行した。西宮にある須田さんのお宅についたのは夜半すこし前だったが、ここまできたのだからあがっていってくださいよ、と須田さんは言い、すでに寝ている夫人をおこすでもなく、おてつだいをおこすでもなく、二階に案内して、自分の寝室の前のベランダにおいてあるヒノキづくりの臼二つをあわせた上で、さかだちをして見せた。それが健康法ということだった。それから、下におりて、二つおいてある自作のオブジェ二つから、一つをえらんでもっていってくれと言う。お茶一杯出すこともない。それが須田さんの鉢の木だと思った。須田さんに会う最後の機会だった。



 『徒然草』 「第二百十五段」  『新訂 徒然草』 西尾実・安良岡康作校注(岩波文庫)より引用
 平宣時朝臣、老の後、昔語に「最明寺入道、或宵の間に呼ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様なりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのまゝにて罷りたりしに、銚子に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭さして、隈々を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。



   鶴見俊輔@Wikipedia

   須田剋太@Wikipedia

   北条時頼 = 最明寺入道 @Wikipedia

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20091025 賢者の言葉・山本夏彦・『日常茶飯事』より

   * [日常茶飯事] 山本夏彦



  「北海道紀行」 『日常茶飯事』(工作社 1962年)より引用
 七月×日から一週間、北海道へ旅行した。某新聞社の招待で、道内見物をさせる催しに、出来心から参加したのである。
 函館、室蘭、札幌、旭川――いずれも市内には泊らず付近の温泉地に案内された。函館なら湯の川、旭川なら層雲峡、札幌なら定山渓。
 この定山渓には、登別温泉から洞爺湖を経て、自動車でまる一日がかりで達した。すなわち遊山で、見せられたのは温泉場ばかりである。
 見あげれば羊蹄山、見おろせば洞爺湖――ガイド嬢は、絶景だから忘れぬように見よ、としきりに忠告する。
 層雲峡は、両岸とも、百なん十メートルを越えてそびえたつ断崖で、その底を流れる渓流に沿ってバスは進んだ。ここでむかし大町桂月は、両岸の奇岩怪石を仰いで、天下の奇勝だと感服したという。層雲峡の名も彼の命名だそうで、そのせいであろう、岸には彼の碑が建っていた。
 案ずるに桂月は、歩いてこの地にいたったのである。わが一行は、飛行機と自動車でここにいたったのである。うんざりするほどの景勝を見せられて、私はようやく景色は歩いて見るものだということをさとった。
 歩いて、五尺の身長で、両の肉眼で見て、はじめて風景である。長途の山径を行きなやんで渇きにたえず、ようやく発見した泉だから、天の美禄に似るのである。ついに峠に達して、視界たちまち開けて、洞爺湖が丸見えになって、はじめて絶景なのである。
 自動車では駄目である。道にまよって今晩は野宿かと、覚悟する恐れはない。スケジュールに狂いがなく、万一あれば、客はバス会社を相手どって、訴訟でもおこすくらいが関の山だろう。車内でビールやコカコラをのみながら、何とかの泉も、天下の嶮もないものだ。あるのは次のような心配と誤解ばかりである。
 いま眼前にある風景は、古人が驚いた絶景だから、今人も当然驚かなければならない。ところがさしたる感動がない。ひょっとしたら、これは自分たちが鈍感だからかもしれないぞ。
 客たちはそれが不安だから、口に出してその景観の美をたたえ、隣人と顔見あわせ、隣人の言葉と表情に、同一の危惧を発見して安堵し、ともに感動したと、互いに認めあうのである。ついでに、妻子に教えてやろうと、カメラに写しとるのである。
 由来、観光客というものは、トマスクックの口車にのせられ、八十日間世界一周とは、古人の企て及ばぬ新企画だと、大金を投じてこれに参加し、世界中を駆けずり回り、脳裡にイタリヤもスペインも一緒くたに記憶し、満悦し且つ吹聴してやまないものだ。それでも何やら心もとなく、帰ればみんな忘れてやしまいかと、我と我が脳ミソを疑い、パチパチ写真ばかりとっているものだ。カメラというものは、その不安を慰撫し、解消するためにおもちゃだと、私はかねがね信じている。
 これら今人の夥しい愚行は、歩かなければ風光は存在せずと、いずれ気がつかぬかぎりは止まないだろう。
 それはさておき、近代の文学に自然描写がすくなくなったのは、右と関係があるようだ。汽車、自動車、飛行機――交通機関の異常な発達は、文学のなかから自然を放逐した。独歩や花袋は、わらじを踏みしめ、武蔵野を歩いた最後の人だ。今後も自然は、文学のなかにあらわれること稀れであろう。
 現代生活に於ける自然は、どこに去ったか。
 山のぼりに去ったようである。アルピニストは、死ぬまで脚で登攀してやめないであろう。ケーブルカーが普及して、それで山々を征服したと称する大群が、もし生じたとしたら、彼らは驚き、やがて白眼視するにちがいない。そしてケーブルのない無名の山をさがしだし、一人でのぼるようになるだろう。風景を知るものは、ついに私のきらいな登山者だけになるのではないか。
 汽車が開通して、なん十年にもなるというのに、東海道人種とでも呼ぶべき人が、まだいるそうである。開通以来、多く廃駅となった旧街道五十三次を、いまだに徒歩で歩き続ける人たちだそうで、彼らは互いに顔見知りで、すれちがえば挨拶をかわす位の仲だそうだ。東海道の風物にとり憑かれて、歩き続けてやめない人だという。
 登山とちがって、これには花々しい成功というものがない。遭難して、新聞紙上をにぎわすということがない。だかれ誰も知るものがないが、たぶん今も歩き続けているはずだと、むかし岡本かの子女史が書いていた。
 温泉宿の悉くは、いまデパートみたいなビルになっている。ドアを押してはいれば、なかはお定まりの数奇屋まがいの座敷である。これは熱海も箱根も、九州のはてまで行っても同じことだろう。そんなら何も、北海道くんだりまで出張するがものはないと、とつぜん私は東海道人種を思いだしたのである。



   山本夏彦@Wikipedia

   大町桂月@Wikipedia

   岡本かの子@Wikipedia

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20081126 賢者の言葉・アーサー・ケストラー 「土地を托鉢する聖者」・『民藝』第九十一号(1960年九月号 「特集 インドの工芸」)より

   * [機械の中の幽霊] アーサー・ケストラー 日高敏隆・長野敬訳



 アーサー・ケストラー 「土地を托鉢する聖者」 『民藝』第九十一号(日本民芸協会 1960年九月号 「特集 インドの工芸」)より引用
 欧州では導師達は既に死に絶えてしまつた。印度ではその伝統は急激に衰えつつはあつたが、なお生きていた。それは印度の偉大さの秘密であつた。釈迦からガンジーに至る偉大な導師達による感動的な酵素は、精神的な醗酵作用の中で足跡を保ち続けていた。
 一九一六年、大学を卒えた廿一才の青年、ビノーヴァは聖地ベナレスでサンスクリットとヴェーダを学びたいと思ったが、文官であつた父はボンベイでの文官試験に出ることを主張した。然しボンベイ行きの列車に乗つた彼の足は途中で降りて、ベナレスへ行つていた。折しも総督臨席の下に行われたヒンズー大学の始業式に於るガンジイの演説が彼の生涯を決定した。
 ガンジーは英国の総督はすべからく本国へ帰るべしと演説した。そして、もしこの自明なる演説のかどを以て死刑を宣告されるならば喜んで絞首台に登ろうと述べた。彼が漠然と探し求めていたものを、ビノーヴァはガンジーの中に発見した。それは聖なる大志と社会への奉仕。精神的と実効面の一致。活動的なヨギ信者と反戦論者の綜合であつた。
 以来一九四八年ガンジーの死に至る迄三十二年間、彼はガンジーに従つてそのすべてを捧げた。その間数度の投獄は通産五年半の獄中生活を余儀なくせしめた。自己の精神的な後継者としてビノーヴァを目したガンジーは、ビノーヴァの三度目の逮捕の前に「学者として、巡回説教者の師として、社会運動家として、癩病患者の治療者として、また手工芸を教育的経済的に理論づけた人として」彼の徳を讃える一文を発表した。
 彼の生活は獄中でも変わらなかつた。哲学数学、語学の勉強が瞑想と機織りの間にたゆまず続けられた。事実彼は八つか九つのインドの方言を含めて、十一ヵ国か十二ヵ国の言葉を話すことが出来たし、神の次にもし私が最上のものを愛するなら、それは数学であると告白している。

 一九四八年、狂信の徒によるガンジーの暗殺。天の王国を実現するということに失敗して、その代りにヒンズー教徒と回教徒との大虐殺を招いた独立。飢餓に瀕した避難民の群。増大する貧困。内乱の兆がもたらされてガンジーはもう死んでいた。そして彼の理想は塵の中に踏みつけられていた。
 ビノーヴァのブーダン運動が欧州の人の耳に入つたのは一九五三年のことであつた。印度の土地問題を解決する為に、全印度を歩いて金持達を説き、その土地を貧民に与えているというこの運動は、欧州の人々にとつてはお伽噺のように聞えた。しかし協力者も組織もないこの運動はやがて静かな雪崩のように成長して行つた。一人の老人から捲き起された塵の雪崩は、一時間四マイルの速さで村から村へ国中に拡がつた。一九五四年の春、この運動の三周年記念式典がブッタガヤで開かれた。ネール首相や社会党の領袖ナラヤンも出席した。当時一般にネールの後継者と目されていたナラヤンは、思いもかけない希望を述べて幾百万の人々を吃驚させた。彼は政界を放棄して彼の余生をこのブーダン運動の奉仕に捧げる旨の厳粛なる誓約を表明したのであつた。
 一九五九年の始め、即ち運動開始後約八年間にビノーヴァは赤道線と同じ長さの土地を歩いて、殆ど約八百万エーカーの土地を集めた。これは驚くべき数字ではあるが、然し本来の目標である印度の農地問題の最小限の解決と目される五千万エーカーの僅かに十五パーセントにすぎなかつた。しかのみならず寄附された土地の半分は耕作不能の土地であり、技術上の困難からも実際に土地なきものに分配されたのは更に少なかつた。

 私はビノーヴァに現代生活に触れていない僻地で逢いたいと思つた。ボンベイのブーダン運動の支部ではラジヤスタンのラグナスプールという閑村で逢えると教えてくれた。地図にも載つていないこの部落へは、汽車を拾つて尚八時間も要したジープでの難渋な行進であつた。不毛の荒野に泥と藁の住いが丘の間に点々としていた。骨ばつた牛が子供や掃除人がよつた残りの廃物をかき廻していた。ラガナスプールも他の村々と同じような原始そのままの閑村であつた。だがこの村は無感動な眠りよい覚め、生活がざわめいていた。一つの大きな空地に三、四千人の人が坐つて話あつていた。木造の壇がしつらえて聖者の来るのを待つていた。
 細かに織つた白い腰布をまとつたビノーヴァは――絹のように見えるが、彼自らつむいだ綿の布であつた――旧約聖者の予言者というよりヒンズーの聖僧に似つかわしい銀白の髭、短くつんだ黒い髪の毛、長い顔に骨ばつた鼻、出ばつた頬、灰色の眼には輝くような微笑を湛えていた。
 彼は何の強調もなく淡々と話した。まるで彼自身に話しかけているようであり、彼の話が聞かれているかどうかを充分顧慮していないようであつた。聴衆の眼は彼にみとれているというより他の表現の言葉がなかつた。大部分の人達の顔は殆んど虚無に近かつた。それは私を惑わし、失望させた。やがて私は言葉は重要なのではなくて、彼が此処にいるということが重要なのであることが解つた。彼がいるというだけで、人々を豊かにさせる特異な才能。師の足を洗うことが至上の特権を思わせる才能であつた。
 会合から一時間半後、私はビノーヴァと話す時を得た。彼は何の為に印度へ来たかという問題で会話を始めた。私は水爆におびえている現代の文明が、印度から何か精神的に学ぶべきものがあるかどうかという漠然としたものを見出す為に来たと答えた。一瞬考え込んだと思うと、彼は突然大笑して、
「あなたは精神的に助けられる必要があるという。それをしも尚あなたは文明と呼ぶのであるか。私達は科学には敵対はしてしない。けれど科学は内面的な光によつて補われるべきであると思う。西欧は精神より頭脳を先に発達させている。精神のペースがついて行つていない。私達はその反対であつて、いつも精神の発達とともにあつた。それがブーダンのやり方である。与えられた土地の多少が問題ではないのだ。土地が与えられた時、寄附者と受取人の双方が変化する。精神的な価値はその変化にある。印度には既にこのような村が五十万程ある。私はこれらが酵母の役を果してくれることを望んでいるのだ」と。
 私はブーダンの運動がどうして起つたかを詳しく話してくれとたずねた。ビノーヴァはガンジーの暗殺後、三年間隠棲生活をつづけ、彼のアシュラム(道場)で社会事業に打ち込んでいた。独立はしたが国の雰囲気は深い失望の裡にあり、ガンジーの理想は影をひそめていた。人々に説きふせられてサルボダヤ(兄弟愛運動)の記念式典に参加した三一五マイルの歩みの終りは彼の隠棲の終りに通じていた。会議の最終日に、ビノーヴァは突然共産ゲリラが政府軍と戦つているテレンガナ地方へ旅行しようとしていることを公表した。 
 その途次ビノーヴァは共産主義のリーダーと議論した。「あなた方は共産主義について論じている。けれど私は神とともにこの貧民の中に生きたいのだ」と。ビノーヴァは民衆とともにその生活を生き、その悩みを自己の悩みとした。土地なく人々がせめて自分の身をまとう布を自分の手で作り出すことが出来るようにという悲願が、ガンジーの身辺から手織機を離させなかつたように、やがて彼等はビノーヴァを自己の代弁者として、更に進んで自分自身の力で考え、だんだんこの運動は発足して行つたのである。
 ビノーヴァが最初に訪れた村は、人口三千人で三千エーカーの耕作可能面積を持つていた。これらの土地は九十家族のものであり、残りの五百家族は土地を持つていなかつた。彼はその状況を要約した。「金持は共産主義の父であつた」と。ブーダン運動が生れたのはこの神に見捨てられたパンチヤパリの村での一九五一年四月十八日のことであつた。彼はこの村で誰か土地を持つている人で、同胞に土地を与える人はいないかと呼びかけた。そうすれば彼等は餓死しなくてもすむかも知れないと。一人の男が進む出て百エーカーの土地を寄附すると申し出た。その男は親戚の中から共産主義者を出したレディという小さな地主であつた。彼の寄附はブーダンを発足させた。
 ビノーヴァは熱をこめて語りつづけた。「その夜は床についてからも私は眠れなかつた。私はその出来事について思いを廻らした。今日は私に何が起つたのか。一人の男が進み出て、私に何の強制もなしに百エーカーの土地を寄附してくれた。私は数学者でもあつたので、印度の土地のない人に一体どれだけの土地が必要かを検討し始めた。私は五千万エーカーの土地が必要だという結論を得た。だがそれは印度の全耕地の六分の一に当る。私は人々がこれだけの土地をさし出してくれるとは信じられなかつた。その考えにおそわれた私の心はそれを受けつけるだけの準備が出来ていなかつた。だが私自身の内部の声が、もし私がそれを疑い、人間の愛と神の力を信じないならば、私は非暴力ということに対する私の信念を捨てて、共産主義による暴力に従うべきだと私に語りかけた。お前はもはや静かに坐してはいられないのだ。お前はこの道かあの道かを進むべきだ。神は子供の胃を餓えにさらしていると同時に母親の胸にミルクを満たしている、もしお前が神の御名によつて乞えば神の応答があるであろう」と「しかし私はたつた百エーカーの土地しか手許になかつた。五千万エーカーを頼むことは疑問であつた。そこで私は友人や団体に相談しなかつた。というのは彼等は数千エーカーなら期待出来るかも知れないが、数百万エーカーは期待出来ないと言うに違いなかつた。そこで私は私自身で進めて、人々がどう応答するかをみようと決心とした」
「次の朝私は隣村に向つて出発した。村人達は朝食を私に用意してくれた。私は朝食はいらない。私の同胞が飢えている間は食をとりたくない。私の朝食として数エーカーの土地を下さいと言った。神はそこにあつた。彼等は二十五エーカーの土地をくれた。この方法で事は決定した」
「昨年私はケララ州へ行進した。ケララ州の共産主義者の首相は私に言った。『私はあなたが成功するかどうか疑っている。しかしもし貴方が成功したら、あなたの運動は共産主義にとつて代るでしよう』と」
 ビノーヴァは毎日同じ日程をくり返す。三時起床、沐浴と祈祷、四時に行進開始。次の村に九時から十時頃に到着。一時迄村人や訪問者と語りながら休息。一時から三時迄は機織り、読書。三時に会合を始めて五時に終る。五時から七時迄村人と語り、出来れば小さな会合を持つ。八時に祈祷。八時半就寝。
 私は次の朝、彼に隣村の会合に出る為に日の出とともに徒歩で従つた。景色は荒れていた。ブリキとボロの遊牧民の露営地を通りすぎた。これに比べれば泥だらけの小屋も宮殿と言える。印度の貧困は散在意識のように底知れぬ深さを持っていた。空が明るくなる頃、数人の農民に出会つた。彼等は腰布以外は何もつけていなかつた。それから遥か彼方に小さなグループが彼の行列に出会う為に、丘を横切つてさまよつているのが見えた。
 筋肉と腱だけになつて、その皮膚は健康に輝き、動作は力強くビノーヴァは歩いた。精力的で鉄ぶちの眼鏡をかけたマハデヴィタイ――彼はガンジーに従つて五回投獄された。明るい丸顔のクサム――彼はビノーヴァの講演や会話を書きとめていた。つづいて秘書。黒髪の青年。それから黄色い衣を着て太鼓を持つた日本人の僧侶。そして十人以上の弟子達とブーダンの人々達。
 青い頭布を被つた青年が進み出て、ビノーヴァの手の中に彼の手を滑り込ませた。暫くの間彼等は愛情深げに手を組んで黙つて進んだ。そしてこの青年は満足して群集の中に戻つて行つた。友人に助けられた盲人が手を行列の方にさし出して、道の真中に立つていた。ビノーヴァは立止まらずに彼に祝福を与えた。彼は無法な流れの中の小石のように行列にもまれながらそこに立ちつくしていた。

 ビノーヴァのブーダン運動はその初期の計算に対しては、たかだた部分的成功にすぎないし、悪くいえば高尚な失敗といえるかも知れない。然し一九五四年ネール首相が言つたように「ブーダン運動は印度で重要な要素になりつつある。ほんとうに重要なのは獲得されたエーカーの面積ではなくて、新しい精神を人々に注ぎ込んだことにある」のであろう。
 この運動は農業問題に関して、印度の雰囲気を変えた。直接的に問題解決の緒口を開いたばかりでなく、間接的には政府に問題を解決しようとする意図を起させた。政治家の注意を国家焦眉の問題にむけさせたのみならず、左翼の社会主義から、最もかたくなな産業経営者までをも含めて、すべての階級の人々がこの運動の支持者となりつつあつた。彼の内面の声は彼を馳って、ガンジー以来の平和革命へと進ませた。それは全印度を活気づけ、半ば餓死していた農民を満ち足りさせ新しい希望で知識人を目覚めさせた。ビノーヴァ・バーべは廿世紀に於てさえ聖人が歴史に影響を与えることを証明したのだ。 




   アーサー・ケストラー@Wikipedia

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20081119 賢者の言葉・ 『亀倉雄策のデザイン』・田中一光 「編集を終えて」

   * [亀倉雄策のデザイン] 亀倉雄策 小川正隆・永井一正・田中一光編



 『亀倉雄策のデザイン』 亀倉雄策 小川正隆・永井一正・田中一光編 (六耀社 初版1983 新装版2005) より 、田中一光 「編集を終えて」を引用
デザインは古くなる。ある時期がくると急速に古くなる。時代に忠実であろうとするために受ける宿命であろうか。時間は、常に創られることの労苦や、多くの人々の喝采まで遠くに押し流し、新しく生まれる色鮮やかなものの上に君臨し、更に貪欲に次のものを待ちかまえている。しかし、デザイナーたちは誰しも「古くならないデザイン」を目指したりはしない。時代に呼応し、ヴィヴィッドな今日のために、最善の力を尽くすからである。

デザインは、どんな秀れたものでも、10年経つ頃が最も嫌ったらしい。20年目には多少の懐かしさと共に、目的や機能が消滅し、それをつくった作者の思想や造型力が顕になる。更に30年を経て見るデザインには、不思議とその作品を生み出した時代が明瞭に浮び上ってくるのである。昨年、一昨年と『グラフィック・デザイン』誌で、カッサンドルや、ロシア構成主義のポスターを編集した時に得た感想である。

私が光栄にも、この『亀倉雄策のデザイン』の構成の依頼を受け、半ば躊躇しながら、これにこたえたのも、この日本を代表する偉大なグラフィック・デザイナーの作品を通じて、歴史の浅いデザインというものをそうした時間軸で観察したかったためである。戦後38年、日本人の西欧文化の吸収と浸透は、単なる影響にとどまらないある限界にまで到達した。更に地球上のあらゆる文化や文明に接近可能なことで、そのデザインのソースは、ますます広く大きく、グローバルな拡がりを見せるようになった。

しかし、そうした拡大軸に対する関心に比べ、時間軸の様式の変化については、1930年代のアールデコ以来、戦後モダニズムにしろ、近年流行語化したポスト・モダンにしろ共にあいまいな観念でしかとらえられていない。モダニズムのもつ合理性、機能性には量産の普遍性と同時に、世界中を飲み干すような画一化をもたらしたためであろう。しかし、モダニズムの重要な要素は、合理主義や機能主義ばかりではない。そこには解放された個性の躍動があったことを今や忘れ始めている。

そうした目で亀倉雄策のデザインをみる時、合理、機能、個性といった、デザインの三つの要素が、実に見事な均衡をもって存在していることを発見する。この配分の巧みなバランスは強固な普遍性を獲得し、ある意味で古びないデザインというものを可能としているのではないだろうか。

私はこの2月から8月までの7ヶ月、亀倉雄策の全作品を机の上に並べている。この天才的なグラフィック・デザイナーの320点に及ぶ作品を、つぶさに観察することで、次の2つの特徴を見ることができた。

1つは、プライマリーな造型、ぜい肉をそぎ落した、単純で、ソリッドなかたちであり、もう1つは、その一見硬質にみえる造型の背後にある意外に日本人的な叙情性であった。

言うまでもないことだが、亀倉雄策はスピーチの名人で、集会や宴会でいつも氏が壇上に登場されるのを期待される。氏のスピーチの面白さは、決して話術の巧みさでも、物語の起伏でもない。「事」の核心をついた、その切り口の鮮度がたまらなく愉快なのである。多少、短絡的であったとしても、勇敢に末端を切り捨ててしまった毒舌の、そのこだわりのない本質の露出に満場は爆笑し、人々は深く共感する。

例えば、A+Y+OXという性質の要素をもった「事」があったとしても、亀倉雄策という人は、実に素早く、その主要成分がAであるということを感知して、掌中のものにしてしまう。

その狂いのない明快な判断の爽やかさが、亀倉雄策のデザインにも感じとれる。人によっては、大胆で強引な細部の排除には、異論があろう。しかし、そうした末葉にこだわっていれば、いいシンボルやトレード・マークは生まれてはこない。この作品集を通じて、特にそのマークやシンボルの解釈や造型に、世界のどんな秀れたデザイナーも及ばない、簡素で美しい亀倉雄策の芸術をみることができるのである。



   亀倉雄策@Wikipedia

   田中一光@Wikipedia

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20081112 賢者の言葉・新村出 『南蛮更紗』・「ふれふれ粉雪」

   * [南蛮更紗] 新村出



 『南蛮更紗』 新村出 (改造社 1924) より 、「ふれふれ粉雪」を引用
 中古の童謡に「ふれふれ粉雪」といふ一句だけ伝つてゐるのがあります。これは今から八百年ほど前に御在位になつた鳥羽天皇が当時の同様をお口ずさみになつたのを、御乳母の讃岐の典侍がその日記に書きのこしておいたのです。天皇はその時、六歳でいらつしやいました。御即位になつたのは前年の十二月一日でしたが、歳も明けて翌年の正月二日の朝、御乳母が御前に出たところに、雪がこんこん降つてゐたをりに、御幼年の鳥羽天皇は、あの童謡をおうたひになつて興がつておいでになりました。さすがの典侍も少し意表に感じたといふことですが、その話は讃岐典侍日記の下巻にかきとめてあります。昨年あたり澄宮様がかずかずの童謡をお作りになつてお示し下さつたことと思ひあはせて誠にゆかしく又うれしく覚え奉ることであります。日本の同様の歴史中でも、この上もない味はひのある逸話だと考へられます。この童謡は、それから二百五十年ばかりの後の兼好法師の時代にも、まだ京都辺では口にされたと見えまして、徒然草の百八十一段に、やはりそれの断片を載せてあります。そこには「ふれふれこゆき、たんぼのこゆき」としてあつて、「たまれ粉雪」というのを、「丹波のこゆき」と訛つたのであると解釈してあります。「垣や木のまたに」とある文句が、その後つくやうになつてゐますが、全体の童謡は録してありません。どうせ短い形であることは勿論です。どこかに今でも全形が多少の転訛はあつて遺つてゐはしないかと思ひます。俚謡集拾遺を見ますと、京都の童謡でかういふのが載つてをります。
  雪やこんこん、霰やこんこん、
    お寺の松の樹に、一つぱい積りこんこん
いくらか昔の文句の面影がかよつてはゐるやうです。関東でも以前これと同じ句調か文句のが聞けたとおぼえてゐます。私どもの小さいときには、「ゆきやこほり、おべたいこほり」とか何とかいつた言草をうたつた様な気がしますが、こんな童謡もだんだん影をかくしてしまひさうで、なつかしくてたまりません。

 夏ですからもう一つ雪の童謡を出します。やはり京都に、雪が降る日に空を仰ぎながら、児童が、
  雪ばな散るはな、空に虫が涌くはな、
    扇腰にさいて、きりきりと舞ひましよ。
とうたふさうです。俚謡拾集遺にさう録してありますが、「空に虫がわくはな」とは少し面白くない文句ですが、末句のひきしまりかたもよくつて、いかにも江戸時代の近世趣味がうかぶ心地がします。

 今度はうめあはせに熱い方の文句ですが、「京の京の大仏さんは、天日で焼アけてなア、三十三間堂が焼アけ残つた、アリヤドンドンドン、コリヤドンドンドン」といふ文句を京都の街の児がうたふのを聞きます。大へん調子のよい謡です。私たちのやうな歴史ずきには、慶長七年十二月の大仏殿炎上のことが想出されて、豊国祭りだの、大仏殿再建だのと、それかれそれへと追懐させられます。また時候のよい頃の夕がたに街の片わきや軒下などで一群の児供が寄り集まつて、その中でひとり鬼が眼をかくして背を向けてゐると、輪をなした群では、立ち場所をいろいろ変へながら、「でんこでんこ」と呼びかける鬼に対して「誰の次には誰が居る」と節をつけていふ。鬼が当てそこなふと「どつこいすべつて橋の下」と合唱するのが、東京から移住した私たちには非常に珍しく感じられて、しばしば立留つては耳をかたむかたものです。十数年来何だかすたれ気味になつたと思ひます。これは童謡とはいへませんが、残しておきたい遊びだと考へます。「こをとろことろ」の遊びにしろ、「ここはどこの細道ぢや」の文句にしろ、幼児自分たちが東京で遊んだり又聞いたりしたものであると、一層いひ知れぬなつかしみに絆されます。女の児たちが、「天神様の細みちぢや」「ちいっと通して下さんせ」などといふ掛けあひの文句は、今だに耳について、思浮べるとしみじみ昔がこひしくなります。

 夕がた、夏にしろ秋にしろ、澄みわたつた大空に星をやつと一つ見つけ出して、「一つほし見イつけた」とうたふ文句も詩的ないひぐさです。こんなのも今都会できけるでせうか。二十年ばかり前でしたが、駿河の海岸をある夏のたそがれ時に七八つぐらゐの男の児の手をひいて散歩してゐたとき、その児の即興か或はまた村の俚謡のはしくれか知れませんが、「一つ星が落ちたら、みんな星がおオちてしイまふ」という様な文句を、ちよつとした節奏をつけてその児が口吟したのを思出します。その時分、何かの雑誌にその文句を寄録しておいたのですが、今は思出せません。哲人か大詩人かの零語にでも出て来さうで、無上にうれしかつたことを記憶してゐます。ほんとに宇宙(コスモス)の真諦をいひあらはしたやうな気がしました。

 この六月、私どもも選定に参与しましたが、雑誌「オヒサマ」で募集されて入選した小児の童謡に、
  工場のけむりは
  くろいけむり、
  お湯屋のけむりは
  しろいけむり、
  どこまでゆくの、
  いつしよにお行き。
といふのがありました。いかにも現代的都会たる大阪の気分をただよはせた上乗の作品だと思ひました。単純な構造で、技巧も極大まかで、而も幽幻な情趣が味はれます。全く都会的現代的であつて、見る人の方ほ考へを以て解すると、労働者の生活も思浮べられさうですし、最後の一句の如きも、児童らしい親しみをあらはすと共に社会的の協調を暗示するやうな含蓄に富んだ佳作と信じます。また古典趣味の私たちには、土地が浪華だけに「高きやに」の古歌をも想起させずにはおきません。現代的な詩では、ヴエルハアレンの「都会」の詩の或る一二句を偲ばせませ。それからブラング井ンのエツチングにも私の想像は馳せてゆきます。これの連想は私だけの勝手な感じであつて作そのものの評価としては過ぎてゐませうし、買ひかぶりでも力負けでもありませうが、少くとも児童の童謡としては、自然であつて技巧を超越した点に於て特筆する価値はあらうと信じます。 (大正十一年九月)



   新村出@Wikipedia

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20081105 賢者の言葉・伊藤俊治 『<写真と絵画>のアルケオロジー』・第2章「リアリズムとモデルニテ」より

  「写真と絵画」のアルケオロジー―遠近法リアリズム記憶の変容 (白水社アートコレクション)

   * [唐草抄―装飾文様生命誌] 伊藤俊治



 『<写真と絵画>のアルケオロジー 遠近法 リアリズム 記憶の変容』 伊藤俊治 (白水社 1987)」 、第2章「リアリズムとモデルニテ」より一部引用
 マネは現実世界を正確に再現する確固とした「本物らしさ」の追求より、色彩で覆われた平坦な面である絵画世界の自律性を直観的に感じとっていたのかもしれない。たびたび指摘されることだが <<草上の昼食>> も <<オランピア>> も、それ以前の絵画がもっていた十分な肉づけが肉体になされてはいず、アングルやクールベの描く肉体にくらべて平面的で立体感を失っているように見える。アカデミーの絵画に見られる、絵具を盛りあげ、光らせる物質的手法は影をひそめ、鮮明で均質で平板な色調が用いられているのだ。けれどもよく観察すると、マネの絵では、陰影による肉づけ法が採用されていて、色調の微妙な変化によって肉体の丸みや質感が巧みに捉えられ、最明部と最暗部のコントラストが明確で画面全体に強い印象をあたえているのがわかる。

 ルネサンス以来の西洋絵画の基本をなす三次元的な量感や空間の表現ではない、二次元上での画面構成への意志をそこに見ることもできるだろう。影の部分と光の部分の強烈なコントラスト、中間トーンがなくなり、細部が失われてゆく。それをアーロン・シャーフがいうように、ダゲレオタイプに代わってこの時代にあらわれるコロタイプやスタジオ内での肖像写真の画像の特質になぞらえることもできるだろうが、大切なのはこうしたマネの絵の特性は同時代の風景画にもしばしば見られる、色調と輪郭からの逸脱であり(それがやがて印象派へも波及してゆくが)、前にも述べたようにそれが十八世紀から十九世紀にかけての絵画の構造の変容を告げる表象となっているということなのだ。

 ガラシの言葉を借りれば「構成から断片へ、総合から分析へ」という絵画を成立させる中心の転換がそこにしるされている。しかもマネの位相が興味深いのは、そうした移行の中間的な領域がその絵にあらわれているということなのだ。またマネの絵は絵画の二次元的自律性と現実の三次元的自律性の中間を行ったり来たりしていたともいえるだろう。

 かのエドガー・ドガがマネを競馬場へつれてゆき、そこで二人の画家は強いインスピレーションを受け、刺激的な現代生活の題材を競って描くようになったという逸話はその意味で興味深い。パリのロンシャン競馬場は一八五七年に完成したが、人びとがめまぐるしくゆきかい、人馬が一体となって草原の上を矢のように駆けぬけてゆくこの競馬場はいわば当時の社会状況の縮図ともいえるものであり。彼らはその雰囲気にのまれ、そのゾクゾクするような感覚に圧倒され、二人とも競馬場をモチーフに絵を描くことになる。

 マネの <<競馬場>> は遠景で、柵に集まる人びとを小さな点の寄せ集めのように描いてその後の点描主義を示唆するかのようであり、馬や草原はハーフ・トーンやクォーター・トーンを使わず、素早いタッチを並置してゆき、筆跡や筆遣いを消すことなくそのまま残し、瞬間性や現在性を獲得しようとしている。ドガの <<競馬場にて>> においては、そのことはもっと顕著であり、馬のよく向きの変わるシルエットを線描で生きいきと捉え、人馬をだしぬけに切断したり、人と人を重ねあわせたり、前景を極端に傾斜させたり、動いている人馬の進行中のブレやとぎれさえも定着しようとしている。その新しい空間の生気を画面に取りこむため、ドガは油彩をやめ、瞬間瞬間に素早く対応し、線描と彩色っが同時にでき、確固とした物質性を否定するパステル画へと移行していったのである。

 絵の縁はもはや伝統的な意味でのフレームではなくなっていた。その瞬間ごとに移り変わり、特定の現実の断片の印象を追い求めるカメラのファインダーのようなものと化していた。見る者は、ドガの絵では参加者となって、身体感覚をひきずりだされていた。

 それは印象派がめざしていたものと同質のものといえる。整った構図の拒否、物の形の曖昧さ、人や物のばらばらな配置、光あふれる感じ、ふと垣間見たようなさりげない雰囲気……といったモネの <<バスブローの道>> や <<庭に立つ女>> などに代表される印象派の特質はスナップ・ショット、というより当時あらわれはじめていたアマチュア写真家たちがカメラを手に外界へおもむき撮りおさえてきた光景のトーンと酷似している。ドガ自身、熱心なアマチュア写真家であり、風景や人物を撮影した多くの写真を残しているが、そのドガに写真を撮られたことのあるポール・ヴァレリーはこう語る。

「ドガは、絵描きたちが写真を軽蔑し、それを利用していることを認めようとしなかったときも写真を愛し、その価値を充分に評価していた。写真に基づいて、パステルやモノクロームで描きあげられた絵を私は見たことがある。ドガが望んだのは、どんな写真が画家を教育できるかを見ることだった。」(『ヴァレリー全集10』吉田健一訳 筑摩書房)

 アングルやクールベの場合、事物の現実的な外観を正確に捉えるための資料として写真が利用されているが、ドガやマネにおいては写真という画像がもつ視覚性(平面性、レンズの性質や収差による遠近感など)が独自の解釈によって現在性をあらわすために取り入れられているといえるだろう。



   伊藤俊治@Wikipedia

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20081029 賢者の言葉・小泉武栄 『登山の誕生』・「第三章 山と日本人」「好奇心にもとづく登山」

   * [登山の誕生―人はなぜ山に登るようになったのか] 小泉武栄



 『登山の誕生 人はなぜ山に登るようになったのか』 (中公新書 2001)」 、「第三章 山と日本人」から「好奇心にもとづく登山」を引用
 好奇心にもとづく登山

 少し時代がさかのぼるが、江戸時代に入ると、信仰登山とは別に、単に山が好きだからという理由で山に登る、ほとんど現代の登山者と同じような感覚の持ち主が現われてくる。その走りは江戸時代の初期にまでさかのぼることができる。

 もともと日本人には好奇心が強いせいか旅行を好む性癖があるようで、古くから多数の紀行文が残されているが、室町時代に入ったばかりの一四世紀の後半にはすでに、諸国をめぐり、名所、旧跡を訪れる旅行の風習が始まっていた。そうした風潮は江戸時代に入ってますます盛んになり、たくさんの人が物見遊山や参拝、巡礼、あるいは旅そのものを目的として街道を行き来するようになった。江戸時代の大旅行家としては、松尾芭蕉、古川古松軒、橘南谿、菅江真澄などが有名だが、ほかにも全国を股にかけて歩き回る無名の旅行者がたくさんいたのである。その背景には庶民の経済力の向上と生活の余裕があった。

 江戸時代といえば、これまでは武士が支配する身分制度にもとづいた閉鎖的社会で、庶民は封建体制による桎梏に苦しみ、重い年貢を課せられて生活のどん底に落ち込んだ百姓たちがしばしば一揆を起こす、といった歴史が描かれてきた。しかし最近の村方の資料にもとづいた歴史研究によれば、実態はそんなにひどいものではなく、庶民は私たちが予想するよりもはるかに自立していて、経済感覚も発達し、生活もそれなりに余裕のあるものであったという。たとえば、幕末にペリーが黒船を率いてやって来たという知らせを聞いた佐渡島の人たちの間では、黒船を見てこようという相談がまとまり、数日後に何人かの商人や農民が連れ立って神奈川まで黒船を見物に行ったという(田中圭一著『日本の江戸時代』 一九九九)。話を聞いてすぐに黒船を見に出かけるほどの好奇心と、数か月の突然の旅に出ることのできる経済力と余裕を、庶民が備えていたということである。

 さてこのように旅行が盛んになると、諸国遊歴と登山を強く結びつけたり、あるいは登山を主として諸国をめぐる人物が現われてくる。その代表として、一六三九年生まれの大淀三千風を挙げることができる。三千風は本名を三井友翰といった俳人で、西行の鴫立庵を再興したことで知られる。三千風の名前は一日三〇〇〇句の俳句をつくったことによるという。彼は数え三一歳で仏門に入り、奥州松島の瑞巌寺で修行した後、四五歳で念願の全国行脚の旅に出た。その後の五年間に彼の足跡は全国にわたり、その間、立山、白山、那智山、高野山、英彦山、阿蘇山、雲仙岳、伯耆大山、富士山、筑波山、戸隠山などに登った。また象潟、親不知、耶馬渓なども訊ね、四国もめぐっている。

 江戸時代の後期には、同じように単に山が好きだからという理由で山に登る文人、画家、医師などが目立つようになってきた。富士山なども宗教的な登山とは別に、趣味として登るということが増えてきた。この点ほとんど現代の登山者と変わらない。

 このような感覚で山登りを行なった人物の典型に、北海道の命名者として知られる松浦武四郎(一八一八~八八)がいる。松浦武四郎は幕末に蝦夷、千島の探検を行なった地理学者で、憂国の士でもあり、同時に大旅行家であり、大著述家でもあった。

 吉田武三著『松浦武四郎』(一九六七)によれば、武四郎が山に開眼したのは数え一六歳の時であった。この年、武四郎は江戸に出て篆刻家の山口遇所のところですごしていたが、郷里伊勢国からの迎えで帰国することになったのを機に、途中の山に登ることにした。彼は迎えの者を先に帰して、一人で戸隠山と御嶽に登ったが、この登山で山のすばらしさにすっかり魅せられ、以後、旅と山登りが病みつきになってしまうのである。

 翌年、一七歳の武四郎は父親から一両もらい、家を後にする。誰もが二、三か月もすれば帰ってくるだろうと思っていたが、その思惑ははずれ、実際に彼が帰国したのは一〇年も後のことであった。このうち後半の数年は僧侶としてすごしたものの、残りは日本全国を遍歴していたのである。一七歳から二〇歳までの武四郎の行程を図に示してみた。すべて徒歩によるわけだから驚くしかない。

 武四郎は小柄だが、頑強で健脚でもあったようで、一日一〇里は普通、中年以降になると一日一六、七里も平気で歩いたという。一六、七里といえば、一日一〇時間歩いたとしても、一時間あたり六キロメートルから七キロメートルという速さである。信じられないほどの速足で長距離を稼いだのである。途中は篆刻で金を稼ぎ、少したまるとまた旅に出るという生活であった。

 武四郎の旅が目的をもつようになるのは、長崎で疫痢にかかり、ようやく命をとりとめてからである。坊さんに命を救われた義理もあって彼はここで僧侶となり、寺を預けられて数年間をすごしたが(もっともこの間に平戸島や五島列島、対馬を訪ねたりしている)、そのうちに津川文作という乙名(名主)に出会う。武四郎は津川から、赤蝦夷(ロシア人)が南下してきており、このままでは蝦夷や千島が危ないといった北辺の情勢を聞く。ここに及んで、武四郎は蝦夷や千島の探検という人生の目的を悟ることになるのである。

 こうして武四郎は誰に頼まれたわけでもないのに、単身、蝦夷地の探検に乗り出す。一八四四年から何回か蝦夷地を訪ね、『蝦夷日誌』をはじめとするいくつもの紀行文を著したほか、海岸線や河川の詳細な地図を作成したりしている。ただ武四郎は正義感に富む憂国の士でもあったから、アイヌの人たちが和人に酷使されているのを黙ってみていることができず、アイヌに同情して松前藩の搾取を公にしてしまった。このため松前藩に著書の出版を妨害されたり、しつこく命を狙われたりするはめに陥り、何度も危険な目に遭うことになった。しかしその後、ペリーの黒船の到来があり、時代の状況が大きく変化したため、武四郎は幕府のお雇いとなり、松前藩の妨害からようやく免れることができた。

 明治維新後、武四郎はそれまでの功績を認められて、新政府から開拓判官という高官に任ぜられ、北海道や樺太の名付け親になったりしている。しかし北海道開拓の方針や新政府のアイヌ政策をめぐって意見が対立すると、あっさりと辞職して市井に埋もれてしまった(もっとも六八歳になった明治十八年、武四郎は奈良と三重の県境をなす大台ケ原山の登山を思い立ち、三回にわたってそれを実行しているが)。剛直で名利を求めないという点は見事としかいいようがない。 



   松浦武四郎@Wikipedia

  
  20080808 銅像の松浦武四郎と@小平町

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20081022 賢者の言葉・ヴィトルト・リプチンスキ 春日井晶子訳『ねじとねじ回し』・ねじ回しの再発見

   * [ねじとねじ回し-この千年で最高の発明をめぐる物語] c



 『ねじとねじ回し-この千年で最高の発明をめぐる物語』 ヴィトルト・リプチンスキ 春日井晶子訳 (早川書房 2003)」 、「第2章 ねじ回しの再発見」から引用
 ヘンリー・マーサーという男

 ヘンリー・チャップマン・マーサーは興味深い人物だ。一八五六年にペンシルバニア州バックス郡の中心地ドイルストンに生まれた。ハーバード大学のチャールズ・エリオット・ノートン教授のもとで歴史を学んだのち、大学院で法律を修めた。弁護士の資格を得たものの、いくらかの遺産が手に入ったおかげで、一〇年ばかりのあいだは気の向くままヨーロッパを旅してまわることができた。そのあいだに、主に芸術を鑑賞する心と昔の風俗や習慣などへの興味を養ったが、性病を移されて結婚を諦めることになった。帰国後はペンシルバニア大学付属博物館で米国考古学のキュレーターとなる。この時期のマーサーにはとくに目立ったところはなく、育ちの良いアマチュアといったところだ。カールした口ひげを生やした粋な若者といった写真が残っている。「好男子。由緒あるリッテンハウス・クラブの会員。収集家で旅行家。資産家」というのが、ある知人が彼を評した言葉だ。その後、マーサーらしさが際立ってくる。まず、考古学で独特の学説を唱えたのだ。それは過去を最大限に理解するためには、ある時代に至る経緯を調べるのではなく、現代から時間を遡って調べることが必要だという説だった。マーサーは大学の職を辞して故郷のドイルストンに戻り、アーリーアメリカン様式の道具の収集を始めた。
 古い工芸品に関心を抱いていた彼は、古くからある陶磁器を求めるようになった。ウィリアム・モリスのために働いていたタイル製造業者に会いに英国に行き、帰国するとモラヴィアン・ポタリー・アンド・タイル・ワークスという芸術的な陶器の製造所を設立した。つまり、英国で起こっていた工芸品流行の虜になっていたわけである。この時期の米国では、工芸をベースにした家具、金属細工、織物、陶磁器などの会社が多く創られたが、それは大量生産させる粗雑な製品と工業化への反発から生まれたものだ。手工芸品ビジネスで成功したモリスのように、マーサーも、芸術面ばかりでなく金銭的な成功を手にした。いわゆるマーサー。タイルが有名になり、フィラデルフィアや北東部の数多くの著名な建物を飾った。ボストンにあるイザベラ・スチュアート・ガードナーの広大な邸宅フェンウェイコート(現在のガードナー美術館)の魅力は、贅沢に使われたマーサー・タイルに負うところが大きい。
 一九〇七年におばからの遺産によって資産を増やしたマーサーは、自宅を建てた。フォントヒルという名の屋敷は、伝統的なコンセプトに基づいているものの、素材は革新的だった。セメントを用いて実験的な作品を作っていた、弟で彫刻家のウィリアムに後押しされ、主に鉄筋コンクリートを使って建てたからだ。翌年にはフランク・ロイド・ライトがイリノイ州オークパークにコンクリート建築のユニティ教会を建てることになるが、マーサーは自分で自宅を設計し、コンクリートという新しい素材を別な手法で利用した。その結果、流麗で彫刻のような趣のあるコンクリートの外観は、バルセロナの建築家アントニオ・ガウディの作品を思わせるものとなった。マーサー自身の監督下で建物が完成すると――四年がかりとなった――家の隣に陶器窯を作り、次いで膨大な数の道具や工芸品を納める博物館の建設にとりかかった。


マーサー博物館、「驚異の部屋」での発見

 ドイルストンは私の住むところからそう遠くないので、思い立って、マーサー博物館を訪ねることにした。博物館は町の真ん中にあった。灰色のコンクリートでできた七階建ての建物で、その上にタイル製の塔やとんがり屋根、欄干が載っている。まるでトランシルバニア山脈中のドラキュラの城でも移築したのかと思える姿だった。内部もまた奇抜で、天井まで吹く抜けの展示スペースの四囲の壁を、階段と回廊とが巡っている。この中央のスペースに、尋常ではない品々がところ狭しと詰め込まれているのだ。天井からは背の高い黒い椅子がぶら下がり、壁には熊手、柄の長い鍬、荷馬車の車輪が留めてある。宙に浮かぶ木の橇が揺れて、ニューベッドフォードから持ち込まれた捕鯨船の船体にぶつかりそうだ。床には馬車や荷馬車が並び、かつて煙草屋の店先に置かれていたインディアンの人形の横には巨大なリンゴ圧搾機があるという具合だ。
 ガイドブックによれば、この博物館には五万点の展示物があるという。展示ケースの中にねじ回しを探したが、マーサーの分類の仕方は独特で、シンプルなカテゴリー分けとは無縁だった。展示室は細かな部屋のように仕切られ、それぞれの仕切りがひとつの職業に関連する品々を展示する作業所のようになっているのだ。作業所の小窓から中をのぞけるのだが、その窓の仕切りも当然コンクリート製である。車大工の作業所には、車軸に穴を開けるための巨大な手斧があった。ばかでかい大木槌(コマンダー)がいたるところにあった。時計職人の作業所には、ごくごく小さな旋盤がいくつかあった興味深かったが、それらは、古代エジプトでドリルを回すのに使ったのと同じような弓仕掛けで動かすしくみなのだ。大工の作業所では、さまざまな曲がり柄錐や、床板を仕上げるのに使う十メートル五〇センチもあるかんなを見た。展示室にはあまりにも多くの道具があり、頭がくらくらするほどだった――いうなれば、十九世紀のものすごいガレージセールに居合わせた、というところか。ようやくねじ回しを見つけたのは、鉄砲鍛冶の作業所でのことだった。他のたいていの展示物と同様、分類ラベルはついていなかった。
 一二月のこの日、この洞穴のような寒い建物の中にいる見学者は私一人だった。博物館を後にする前に、付属の図書館に立ち寄った。この図書館はバックス郡歴史協会が運営している。マーサーが、完成した博物館を協会に寄付したからだ。長い机には数名の人が向かっている。ここは、建物の中で唯一暖房の効いた場所だ。私は体を暖めつつ、何か役に立ちそうな資料を探すことにした。分類カードをめくったが、ねじ回しの項目には二冊しかなく、どちらもすでに読んだものだった。マーサーの著作が何冊かあるほか、モクソンの著作などの、見慣れた本のリプリント版があった。
 分類カードをめくるうちに、一九世紀の英国シェフィールドの工具職人に関する本が目に入った。私家版のこの本――タイプで打ったページを綴じて分厚い革の表紙がつけてある――は比較的最近のものとはいえ、この図書館に来なければ見つけられなかっただろう。印刷部数はたったの七五〇部で、これはその一冊なのだ。中には、英国の工具職人向けカタログのページをリプリントした図もある。
 当時のシェフィールドは英国鉄鋼業の中心都市で、おそらく世界で最高の工具を作っていた。この本の著者のケネス・ロバーツによれば、シェフィールドで作られた工具の料金表で現存する最古のものは、一八二八年のものだそうだ。車軸を削る南京かんなや直角定規に混じって、あらゆる種類のねじ回しがそろっている。長さは七・五~三十五センチくらい、黒かメタル仕上げで、スコッチ型(全体に平らで刃が先細)とロンドン型(作りがより精巧で、刃の中心部が細くくびれている)の二種類があった。値段も、一ダースが四シリング六ペンスから二二シリングまでと幅広い。つまり、これは大量販売用の料金表というわけだ。もっとのちの時代の料金表には、ちょうど『百科全書』のもののような、平らな楕円形の柄がついたねじ回しの絵もついている。だが驚くべきは、そこに書かれている、ミシン用ターンスクリュー、家具用ターンスクリュー、小型モデル、紳士用装飾つきターン・スクリューといった名称だった。さらには曲がり柄で回すターン・スクリュー刃などというものもある。もはや間違いない、サラマンは正しかったのだ。辞書には載っていなくても、「ターンスクリュー」という言葉は、おそらく「スクリュードライバー」より以前から存在していたのだろう。
 ロバーツの本に掲載されているシェフィールドの工具カタログから、一八〇〇年代初めには、スクリュードライバーの需要に応えるために工場生産が行なわれていたことがわかる。それ以外の証拠からも、ねじ回しは十八世紀にはおそらくフランスで使われていたと考えられるのだ。「ターンスクリュー」はフランス語の言葉を直訳したもので、手持ちのフランス語辞典によれば、一七二三年には「トゥルヌヴィ」という言葉が使われている。よし、これでニューヨークタイムズにショートエッセイを書くだけの材料はそろった。とはいえ、ねじ回しの謎については、解けたとはとても言えないが。



   ねじ@Wikipedia

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20081015 賢者の言葉・山田風太郎 『戦中派焼け跡日記』・昭和21年12月4・5・6日

   * [戦中派焼け跡日記―昭和21年] 山田風太郎



 『戦中派焼け跡日記』 山田風太郎 (小学館 2002)」 より、昭和21年12月4・5・6日分、引用
 四日(水)雨

 いつまでたっても雨がやまぬので濡れるを覚悟でモチゴメ一升、アズキ一升貰って河江出発。雨一寸やんでばざーっ渡ってゆく。法華寺の峠を越える時さんざん降りかくれる所もなくオーバー頭よりかむってびしょ濡れになる。道々大根を担った百姓数人に逢う。江原についたら晴れた。本屋で雄鶏社の木々高太郎監修推理小説叢書第一輯、江戸川乱歩『柘榴』求む、十五円也。内容『柘榴』あんまり構造が典型的で話がうまく仕組まれすぎて感銘少なし、『白日夢』『火星の運河』小品『双生児』『二廃人』大したころなし、『蟲』昔読んだ時ほどの感銘なし、やはり一番面白いは『心理試験』か。乱歩は犯罪心理学、指紋、夢遊病、あらゆる犯罪のタネを相当よく研究し利用しつくしている。しかし利用にすぎない。一作一作世界の探偵小説界空前のトリックといったものが少ない。第一人者乱歩にしてしかり、日本人の素質の限界か。
 江原より八鹿までバス、八鹿より関宮へバス日暮につく。バスの中で田舎の理論家達の話。誰が一番可哀そうであるかについて。
「そりゃ青年らあじゃで。戦争でコキ使われて、戻って来りゃ、見んされ日本の有様あ、楽シカルベキ青春にじゃで、甘いもなあなし、紅白粉あなし、酒あなし、娯楽あなし、米じゃの芋じゃのに追いまくられて、一生一度の青春メチャクチャじゃ」
「うんにゃ年寄りじゃ、青年らあはまンだ未来ちゅうもんがある、けんど年寄イ見んされ、年あ寄って棺桶ア近エのに、食いたいものあ食われず早よう死ねがしに取扱われて、死んでもロクに葬式もして貰えん、年寄りほど望むみのねエ面白うねエ日を暮しとるもなあねえデ」
「けんど、そりゃ青年らにいわせたら、年寄りあ若い間にサンザンうめえ目をしとるもの……一番可哀そうなのは子供らあじゃ。青年はまンだマンジューの味イ知っとる。子供見んされキャラメルも飴玉も知らん。わしゃこないだ一本二十円のチクワ買って帰ったんじゃが、うちの子供あチクワ知らんのじゃ。そりゃトーフじゃというて聞かん。涙がこぶれるわ」
「うんにゃ、子供はまンだ甘えもの知らんからいいんじゃ。知らんものは知っとるものよりも苦しくねえで」
「いや、そりゃ大人の目から見た判断じゃ。知らんこと、それが可哀そうなんじゃ」
「――みんな、日本人は、みんな可哀そうなんじゃ!」
と誰かが結論を叫んで車中大笑い。それからゼネストは日本をほろぼすもとだから絶対いかんという人と、人間の自由を論じてやまざる人との生ぬるい論争。結局今のゼネスト騒ぎは戦争中の軍閥の弾力の反動で、その中だんだんおさまるだろうという。そして先日発表された徹底的な惨忍酷薄な賠償案の内容から、ここに生きている人々の一生はおそらくつづくであろう惨憺たる生活の予想へ話が移ってまた暗い沈黙。揺れるバスの破れた硝子窓の外は暗い初冬の雨がふっている。


五日(木)快晴夕曇

 奴隷と小児と女は同一階級に属すべきものである。(アリストテレス)
 女は人類と動物との中間に位するものである。(プラトン)
 女に愛せられるのは男に憎まれるより恐るべきものである。(ソクラテス)
 女の心を動かすのは
 該博な知識ではない
 また青年の雄偉な肉体でもない
 ただ黄金の力よく少女の淑徳を動かすべく
 富の力は如何なる女の眼をも眩ませることが出来る。(西洋の詩)
 男が一年間熟考したことを、女は唯一日間に破壊する。(デモステネス)
 汝の小舟を風にまかすとも、汝の赤心を女に吐露するなかれ
 波も美しき人の約束に比すればなお偽ることなし。(シセロ)
 女は男に比して軽信にして猜疑心強く兇悪にして偏執なり。その心中には男子の夢想もせざる奸計を蔵し虚栄のために罪悪を犯し軽浮気髄にして、反覆常なきものなり。(セネカ)
 女が男に勝っているのは唯悪事に関してのみ。(パブリュース・サイラス)
 女と約束をしようとする時はこれを風か水に記するがよい。(カール)
 恐るべきは瞋恚の語ではなくて女の涙である。(カトー)
 或人曾て名優ソポクレスに向いてその技を賞し、君が扮する婦人は淑徳あり怜悧なるがごとく見ゆるも、オイリピデスの扮する婦人は常に嫌悪すべき性格の婦人となるといえるに対し、ソポクレス曰く、これ畢竟オイリピデスは婦人の性格そのままに演ずるも、余は常に婦人たる者斯のごとくなるべしと思いて演ずればなりと。
 軽薄なる者よ汝が名は女なり、女の恐れと愛は限りなきものにして、これある時は甚だしきに過ぐれども、これなく時は絶無なり。(シェークスピア)
 女は最も完全な悪魔である。(ユーゴー)
 女は造化の神の美しき失敗作である。(ミルトン)
 女は常に最後の断案を得ようとしても未だ曾てこれを得たことがない。(ロバート・ファルク)
 そは何故なりやという質問に対し女は常に同一なる答をなす。而してこれ女の答え得べき最大の答弁にして曰くこれそのごとくなればなりと。(バルザック)
 婦人は一般に芸術を愛することも理解することも出来ない。即ち婦人は芸術上の天才たり得ない。(ルソー)
 女はいずれの国にあっても迷信の扶助者なり。(トプイス)
 女は困らなければ決しておとなしくなるものではない。(ジュべナル)
 女の一念岩をも透す、男の一念寝間に糞垂れる
 女の意志は屈服すべきものにして説破すべきものにあらず
 女は論理を解せざるものにして痙攣と涙と接吻の外結論することを知らざるものなり。(ボーデンステット)
 女は趣味、心情、理性等は普通にこれを具有することが出来るけれども唯判断力のみは皆無である。故に裁判所に女判官が現われるならば吾人は戦慄してこれを恐怖しなくてはならない。しかし、もし婦人弁護士が現われたならこれほど強力なものはない、殊に裁判官が柔弱なる男子である時その効がある。(P・J・スタール)
 女は世事に全く無関心である。が、世間から無関心でいられることを欲しない。(フェリス・ダン)
 神が人を創造し給うた時その無限なる聖智によって婦人に髯を与え給わなかった。何となればもし婦人に髯があるならばこれを剃る時彼女はどうしても黙らなくてはならぬからである。(A・ヅマス)
 女はそのなせるあやまちを後悔するを楽しみ、その再びなし得ざるを追恨する。(ド・ベルナルド)
 女は総てその夫をして少なくとも一日一回はその妻に迎えたるを後悔させるものである。(ゲオルグ・エベルス)
 余は女の接吻する時最もこれを愛する。何となればこの時だけは彼女も黙するからである。(ナッシンスキー)
 軽躁、浮薄、淫蕩、虚偽、詭計、狡猾、悪口、虚栄これらのものから巧みに紡いだ精微なる糸をもって造化の神の織りなせる絢爛だるもの、これを名づけて少女という。(ザヒール)
 女はその同性を愛しない。而してその欠点を批判すること男子の観察の粗慢なるに比して更に深刻惨忍なものがある(ジェアン・パウル)♀
 女の柔和なのは唯憤怒によって醜くなるのを恐れるが為のみ。(ジョルジュ・サンド)♀
 美人は古来愚鈍たるべき特権を有す。(イダ・ハンハン)♀
 女は原因なくして嘆くことが出来る。女は予め謀ることなくして偽ることが出来る。女は泣かんと欲するとき涙を流すことが出来る。これは男には与えられない徳である。
 汝の妻を打つこと唯一日なるも、汝はその為一年泣かなくてはならぬであろう。(ロシアの諺)
 女の路は唯竃と閾の間にある。(ロシアの諺)


六日(金)朝晴、後次第曇

 探偵小説腹案 ①眼中の悪魔(暗点の応用) ②半陰陽の応用 ③空中より降る□ ④東京のガス制度の応用。
 終日褥中にあり鷗外全集などとりとめもなく繙く、午後くもれる空にかなしげなる風鳴り粉雪ちらつく、冬いよいよ来れり。



   山田風太郎@Wikipedia

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