20110105 賢者の言葉・田村隆一 『青いライオンと金色のウイスキー』・「詩人と都市」より

     * 田村隆一 『詩集 1999』 集英社



 青いライオンと金色のウイスキー 』 (1975 筑摩書房)より、「詩人と都市」後半部引用

 「オーデンは、最後に云う――
 詩人が無教養な百姓に出会ったとする。彼らはお互いに多くを語れないかもしれないが、ふたりが役人に出会ったとすると、疑惑の感をともにするだろう。ふたりとも、役人がグランド・ピアノを投げ飛ばせるといっても信じない以上に、彼を信用しないだろう。ふたりが政府の建物にはいったら、おなじ懸念を感じるだろう。おそらく、彼らは二度と外には出られないだろう。ふたりの間の教養の相違がどのようなものであろうと、人間が統計として扱われている役人の世界では、ともにある非現実的な匂いをかぐ。夕方、この百姓はトランプをやり、詩人は詩を書くかもしれない。しかしそこには、彼らふたりが賛成しているひとつの政治的原則がある、すなわち、名誉を重んじる人間が、必要とあらば、そのために死ぬ心構えをしていなければならない半ダースあまりのもののうちで、遊ぶ権利、とるに足らないことをする権利は、決して小さな権利ではないということである。



 もう一度、ここで繰りかえそう――「すなわち、名誉を重んじる人間が、必要とあらば、そのために死ぬ心構えをしていなければならない半ダースあまりのもののうちで、遊ぶ権利、とるに足らないことをする権利は、決して小さな権利ではないということである。」夕方、百姓がするトランプも、詩人が書く詩も、共同体をはなれては不可能なゲームである。そして、ゲームであれば、ルールがあるだろう。そのルールやロゴスの自由を保証するものが共同体であり、そういう共同体こそ、百姓や詩人にとって、真の意味の「都市」なのである。したがって、経済効率と情報だけが支配する「都市」は名誉を重んじる人間、つまり「個人」が生きることはできない。彼は、ホモ・ラボランス(労働人)であると同時に、ホモ・ルーデンス(遊戯人)でもある「個人」から「数」へ、無名の一員に、消費者か生産者に類別されて、「公衆」に還元されてしまうだけである。オーデンは、社会の巨大化と、マスメディアの異常な発達によって、シェイクスピアが描いた古代的世界には絶対に見られなかった現代特有の社会現象、キルケゴールが「公衆」と名付けた、奇妙な集合体を定義して、つぎのように書く――
 暴徒は能動的である。それは粉砕し、殺し、自己を犠牲にする。公衆は受動的である。あるいはせいぜい好奇心がある程度だ。それは殺しもしなければ、自己を犠牲にもしない。公衆は、暴徒が黒人をなぐりつけている間、あるいは警察がガス室に入れるためにユダヤ人を逮捕している間、傍観しているか、目をそらすかである。

 詩人と都市の関係は、不可分というよりも文明としての有機的な関係である。詩人と都市とが有機的に結びつかない以上、ぼくらの文明は、詩人も都市も持たないことになる。江戸や大阪は、天明の俳人や漢詩人たちと深く結びつけられている。また、これらの都市が詩人を造ったのである。一九一八年に、つまり、二三年の関東大震災前の東京について、若年の谷崎潤一郎は、すでにこう書いた――
「東京は以前に比べるとたしかに不愉快な都会になった。其処にある生活機関は何一つとして満足に役立っては居ないじゃないか。却って在る為めに不愉快を増させるものばかりだ。何処に首府の面目がある! 何処に日本の文明がある!」(「鮫人」)
 ぼくが生れる五年まえの東京が、すでにしてこれなのである。そして現在は、世界最悪の「都市化現象」という名の「都市」である。オーデンは、現代の都市を創りあげた現代的世界観の四つの特徴、かつて古代的世界観の重要なファクターであり、「物をつくる人」にとって母体となっていた三つの信念の喪失と一つの「公的王国」の消滅を、左のごとく列挙する――
 (1)物質的宇宙の永遠性に対する信念の喪失
(2)感覚的現象の意義とリアリティに対する信念の喪失
(3)人間性はくつろいでいるためには、常に、人間が作った同種の世界を必要とするが、この人間性の規範に対する信念の喪失
(4)人物をあらわす個人的行為の領域としての「公的王国」の消滅。

 ボードレールの「パリ」、エリオットの「ロンドン」、ジョイスの「ダブリン」は、この三つの信念の喪失と公的王国の消滅を歌った近代的な作品である。そして、いちじるしく近代的であるがゆえに、これらの都市に内在する「死」を具象化することができたのだ。オーデンは、「ニューヨーク」を歌った。題して、「城壁なき都市」(一九六九年)。訳者の中桐雅夫は、この一三〇行ばかりの詩について、つぎのようにスケッチしている――
「マンハッタンの建物の異様な形状と、人でいっぱいのこの断崖の住人についての叙述から始まるこの詩集のタイトル・ポエム(「城壁なき都市」)では、午前三時にミッド・マンハッタンで、ある声によって詩人の瞑想が妨げられるとき――その声は、彼のシャーデンフロイデ(他人の不幸を喜ぶ気持)を非難するのだが――戦後世界に関するシニカルな図を作りあげられることになった。これに続いてちいさな精神の戦いがおこり、詩人は家へ帰って寝ろと勧告される。」(季刊「都市」四号)
 シャーデンフロイデを非難される終末部だけを引用しておく。
………
「彼らは選択権をもたず、変化も知らない、
その運命は先祖によって定められている、
仮面をかぶった魔法使いの口を通して
祝福を与えるか血を要求する
もっとも昔の人々、賢い人々によって定めされているのだ。」

「メガロポリスはなお金持ちで攻撃から免れている、
いっそうよい状態を期待しているものは幸福だ、
いっそう悪い状態が"彼女"を待っているのももっともだろう……」

午前三時に、ぼくがミッド・マンハッタンで
こんなことを考えていたら、邪魔がはいって、
鋭い声にさえぎられた、

「ジューヴェナル兼エレミヤの役を演じて
いったい、なにがおもしろい、
恥を知れ、他人の不幸を喜ぶなんて」

「なんだと!」とぼくはどなった、「われわれは、どれほど
道徳的になってるんだ。冷淡だって? そうだとして、
それがどうした、ぼくの話が本当ならさ」

そこへさっそく、うんざりした第三の声、
「頼むから、もう帰って寝てくれ!
朝飯時分にはふたりとも、気分がよくなっているだろう」

 オーデンはおとなしくニューヨークからイギリスへ引きあげて、去年の秋、ウィーンのホテルで死んだが、訳者の中桐さんは、まだ酒場に残っている。      (1974.5 展望)」(174-179ページ)



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20101229 賢者の言葉・谷崎潤一郎 『蓼喰う虫』・大阪文楽と淡路人形浄瑠璃

     * 谷崎潤一郎 『蓼喰う虫』 岩波文庫




 「なるほど、人形浄瑠璃というものは妾のそばで酒を飲みながら見るもんだな。――要はみんなが黙り込んでしまったあと、ひとりそんなことを考えながらしょうことなしに舞台の上の、「河庄」の場へ、ほんのりと微醺を帯びた眼を向けていた。普通の猪口よりやや大ぶりな杯に一杯傾けたのがきいて来て、少しちらちらするせいか、舞台がずっと遠いところにあるように感ぜられ、人形の顔や衣装の柄を見定めるのに骨が折れる。彼はじいっと瞳を凝らして、上手にすわっている小春をながめた、治兵衛の顔にも能の面に似た一種の味わいはあるけれども、立って動いている人形は、長い胴の下に両脚がぶらんぶらんしているのが見なれない者には親しみにくく、何もしないでうつむいている小春の姿が一番うつくしい。不釣り合いに太い着物のふきが、すわっていながら膝の前へたれているのが不自然であるが、それは間もなく忘れられた。老人はこの人形をダークの操りに比較して、西洋のやり方は宙に吊っているのだから腰がきまらない、手足が動くことは動いても生きた人間のそれらしい弾力やねばりがなく、従って着物の下に筋肉が張り切っている感じがしない。文楽の方のは、人形使いの手がそのまま人形の胴へはいっているので、真に人間の筋肉が衣装の中で生きて波打っているのである。これは日本の着物の様式を巧みに利用したもので、西洋でこのやり方をまねようにも洋服の人形では応用の道がない。だから文楽のは独特であって、このくらいよく考えてあるものはないというのだが、そういえばそうに違いない。立って激しく活動をする人形がへんに不格好なのは、そうすると下半身が宙に浮くことを防ぎきれないで、いくらかダークの操りの弊に陥るからであろう。老人の議論を押し詰めて行くと、やはりすわっている時の方がねばりの感じが表わせるわけで、動くとしても肩でかすかな息をするとか、ほのかなしなを作るとか、ほんなわずかに動くしぐさがかえって不気味なくらいにまで生き生きとしている。要は番付けを手に取って、小春を使っている人形使いの名を捜した。そうしてこれがその道の人に名人と言われている文五郎であるのを知った。そう思って見ると、いかにも柔和な、品のいい、名人らしい相をしている。絶えず落ち着きのあるほほえみを浮かべて、わが子をいつくしむような慈愛のこもったまなざしを手に抱いている人形の髪かたちに送りながら、自分の芸を楽しんでいる風があるのは、そぞろにこの老芸人の境涯のうらやましさを覚えさせる。要はふとピーターパンの映画の中で見たフェアリーを思い出した。小春はちょうと、人間の姿を備えて人間よりはずっと小さいあのフェアリーの一種で、それが肩衣を着た文五郎の腕に留まっているのであった。
 「僕には義太夫はわからないが、小春の形はいいですな。」
 ――半分ひとりごとのように言ったのだが、お久には聞こえたはずだけれど、だれも合槌を打つ者もない。視力をはっきりさせるために要はたびたび眼ばたきをしたが、ひとしきり身の内のぬくまった酔いがだんだんさめて来るにつれて、小春の顔が次第に刻明な輪郭を取って映った。彼女は左の手を内ぶところへ、右の手を火鉢にかざしながら、襟の間へ頤を落として物思いに沈んだ姿のまま、もうさっきからかなりの時間をじっと身動きもしないのである。それを根気よくみつめていると、人形使いもしまいには眼に入らなくなって、小春は今は文五郎の手に抱かれているフェアリーではなく、しっかり畳に腰を据えて生きていた。だがそれにしても、俳優が扮する感じとも違う。梅幸や福助のはいくらうまくても「梅幸だな」「福助だな」という気がするのに、この小春は純粋に小春以外の何者でもない。俳優のような表情のないのが物足りないといえばいうものの、思うに昔の遊里の女は芝居でやるような著しい喜怒哀楽を色に出しはしなかったであろう。元禄の時代に生きていた小春は恐らく「人形のような女」であったろう。事実はそうでないとしても、とにかく浄瑠璃を聞きに来る人たちの夢みる小春は梅幸や福助のそれではなくて、この人形の姿である。昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎み深い女であったのに違いないから、この人形でいいわけなので、これ以上に特長があってはむしろ妨げになるかもしれない。昔の人は小春も梅川も三勝もおしゅんも皆同じ顔に考えていたかもしれない。つまりこの人形の小春こそ日本人の伝統の中にある「永遠女性」のおもかげではないのか。……」(34-37ページ)

 「一体、「型に嵌まる」とか「型にとらわれる」とかいうことを芸道の堕落のように考えるひともあるけれども、たとえばこの農民芸術の所産である人形芝居にしてからが、とにかくこれだけに見られるというのは畢竟「型」があるためではないか。その点ででんでん物の旧劇は民衆的であるといえる。どの狂言にも代々の名優の工夫に成る一定の扮装、一定の動作――いわゆる「型」が伝えられているから、その約束に従い、太夫の語るチョボに乗って動きさえすれば、しろうとたちでもある程度までは芝居のまねごとをすることができ、見物人もその型によって檜舞台の歌舞伎役者を連想しながら見ていられる。田舎の温泉宿なぞで子供芝居の余興があったりするとき、教える方もよく教え、覚える方もよくまあこれだけに覚えたものだと感心することがあるけれど、めいめいが勝手な解釈をする現代劇の演出と違って、時代物は依りどころがあるだけにかえって女子供にも覚えやすいのかもしれない。活動写真などのなかった昔は、やはりそれに代わるような便利な方法があったのである。取り分けわずかな設備と人数とで手軽に諸所を興行して歩ける人形芝居は、どれほど地方の民衆を慰めたであろう。こうして見ると旧劇というものはずいぶん田舎のすみずみにまでも行きわたって、深い根底を据えていることが察せられる。」(204-206ページ)

 「要には人形使いの巧拙なぞ細かいところはわからないが、ただ文楽のと比較すると、使いかたが荒っぽく、柔らかみがなく、何といっても鄙びた感じのあることは免れられない。それは一つには人形の顔の表情や、衣装の着せ方にもよるであろう。というのは、大阪のに比べて目鼻の線がどこか人間離れがして、堅く、ごこちなくできている。立女形の顔が文楽座のはふっくらと円みがあるのに、ここのは普通の京人形やお雛様のそれのように面長で、冷たい高い鼻をしている。そして男の悪役になると、色の赤さといい、顔立ちの気味の悪さといい、これはまたあまりに奇怪至極で、人間の顔というよりは鬼か化け物の顔に近い。そこへ持って来て人形の身の丈が、――ことにその首が、大阪のよりもひときわ大きく、立役なぞは七つ八つの子供ぐらいはありそうに思える。淡路の人は大阪の人形は小さ過ぎるから、舞台の上で表情が引き立たない。それに胡粉を研いてないのがいけないという。つまり大阪では、なるべく人間の血色に近く見せようとして顔の胡粉をわざとつや消しにするのだが、それと反対にできるだけ研ぎ出してピカピカに光らせる淡路の方では、大阪のやりかたを細工がぞんざいだというのである。そういえばなるほど、ここの人形は眼玉が盛んに活躍する、立役のなぞは左右に動くばかりでなく、上下にも動き、赤眼を出したり青眼を吊ったりする、大阪のはこんな精巧な仕掛けはありません、女形の眼なぞは動かないのが普通ですが、淡路のは女形でも目瞼が開いたり閉じたりしますと、この島の人は自慢をする。要するに芝居全体の効果からいえば大阪の方が賢いけれども、この島の人たちは芝居よりもむしろ人形そのものに執着し、ちょうどわが子を舞台に立たせる親のようないつくしみをもって、個々の姿をながめるのであろう。ただ気の毒なのは、一方は松竹の興行であるから費用も十分にかけられるのに、こっちは百姓の片手間仕事で、髪の飾りや着付けがいかにも見すぼらしい。深雪でも駒沢でもずいぶん古ぼけた衣装を着ている。しかし古着好きの老人は、
 「いや、衣装はここの方がいいよ。」
 と言って、あの帯は昔の呉絽だとか、あの小袖は黄八丈だとか、出て来る人形の着物ばかりに眼をつけて、さっきからしきりに垂涎している。
 「文楽だって以前はこんなふうだったのが、近ごろ派手になったんだよ。興行のたびに衣装を新調するのもいいが、メリケン友染や金紗ちりめんみたいなものを使われるんじゃ、ぶちこわしだね。人形の着付けは能衣装のように古いほどありがた味がある。」
 と、そう老人は言うのである。」(208-210ページ)



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20101116 賢者の言葉・山口昌男 『「挫折」の昭和史』・「おわりに―甘粕にはじまり石原に終る」より

     * 山口昌男 『「挫折」の昭和史』 岩波書店



 「挫折」の昭和史』 (1993 岩波書店)より、「8 実験的<知>の系譜学へ」より「おわりに―甘粕にはじまり石原に終る」末尾文引用

 「歴史の流れの中には、それぞれの時代において、秘かに、時には言葉を介しないで生きられるプラクシス(行為の規範)が存在する。時にはそれは無意識を介して共鳴しあったり共有されたりする。充分言葉にならない神話のようなものであるかも知れない。戦前の昭和は、大正から、そのような感受性を受け継いだ。

 しかし、戦前昭和の公的言説体系は、そうした感受性を挫折に追いやる方向で構築され、それは方向を変えて戦後にも行き続けた。敗戦までの昭和は、これまで検討して来たように、昭和モダニズムに見られるようなこの時代が育んで来た最良質の部分を挫折させることにより、自らの可能性を断ってしまった。従って、戦争に敗北することによって招来した破滅を、我々は「挫折」と区別して使いたい。この二つを混同してはならない。我々の使う意味での「挫折」とは、あくまでも、より良質の知的・芸術的可能性の開花が妨げられることであり、権力の上に立つことに失敗するといった世俗的事象とは殆ど無関係である。従って、その生涯に同情的であっても、また人間としての魅力を認めても、我々は甘粕正彦の挫折ということは口にしない。

 今日、我々が「挫折」を介して見つめようとするのは、控え目で壊れやすい知のネットワークの、殆ど神話的と言ってよいつながりであると言えるのかも知れない。つまり、時代の挫折した部分の検討を通して、はじめて昭和が何であったのかということが少しずつ明らかになって来るのである。さらに言い換えれば、藩閥体制の呪縛を払いのける可能性の在りどころが見えてくるのである。」(337-338ページ)



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20100929 賢者の言葉・日高敏隆 『帰ってきたファーブル』・「動物学から見た世界 八、生物学独自の方法をさぐる」

     * 日高敏隆 『帰ってきたファーブル 現代生物学方法論』 講談社学術文庫



  「帰ってきたファーブル」 『帰ってきたファーブル』 1993 人文書院)より、「動物学から見た世界」、「八、生物学独自の方法をさぐる」全文引用

 「生物学に特有のものとして、「種」の問題がある。自然に多少とも親しもうと望む人々が、まずこの植物は何という種であり、こちらのそれとよく似てはいるがじつは別の何という種である、ということから学びはじめる、あの「種」についての問題である。
 だが、種の問題は、きわめてしばしば、進化の問題にすりかえられてしまう。つまり、いま、地球上にこんなにたくさんの種の生物がいるのは、じつは進化の結果であるのだから、それらを進化の系列の上に並べてみれば、これほど多様な種をうまく整理して理解することができるというわけである。
 こうして、アメーバから人間にいたる全動物を、簡単なものから複雑なものへというスケールに従って配列した系統樹の概念が、人々の心に深く刻みこまれ、生物学の研究も、つねにこの系統樹を頭におきながらなされてゆくようになった。そして、この進化とか系統樹とかをつねに念頭において研究することこそ、生物学独自の研究方法であるという認識も、きわめて一般的なものになった。
 けれど、まえにすでに述べたように、進化ということは、星についても、物質についても、原子についてもいえる。それはけっして生物学独自の問題ではない。したがって、種の問題を進化の問題にすりかえることは、生物学独自の問題を、安易に生物学以外の問題に解消してしまうことになる。
 たしかに進化の問題は、生物学にとってきわめて重要であって、生物学はそれを避けて通ることはできない。しかし、種の問題を進化の問題に解消することは、「いったい種というものは何なのか、なぜこんなに多くの種がいなくてはならないのか、いや、そもそも、なぜ生物は『種』というかたちをとってしか存在しえないのか」というような根本的な問題を忘れさせるがゆえに、かえって、われわれを進化の問題へのまじめな追求からそらせる結果になるようにみえるのである。

 適応という言葉の魔術
 進化の問題と関連して、きわめてしばしば使われるものに、「適応」という言葉がある。この言葉ないし概念は、あまりによく説明として使われるので、いまでは「神」というのと、ほとんど変わりがなくなってしまっている。
 ある動物の体の構造や機能を詳しく調べてゆくと、それがその動物の生活にとって、じつにうまくできていることがわかる。そして、「なぜそんなにうまくできているか」という問いに対しては、「それは適応の結果である」という答えがつねに通用する。何のことはない。この答えからは、「それは神の御意志である」というのと、なんら違わないのではないだろうか?
 構造と機能という概念も、たいへん曖昧に使われている。構造を「つくり」といいかえるのはいいとして、機能を「はたらき」といいかえるとき、この概念の曖昧さ、いや、この概念の把握の曖昧さがよくわかる。「はたらき」とはアクションである。物理学においても化学においてもアクションは存在し、われわれは、重力や電磁波や原子団や電子のアクションをいくらでも論じることができる。しかし、もしそれらのものの「機能」つまりファンクションを論じようとしたら、どうしてもそこに一つのシステムを想定して、そのシステムのなかにおける、それらのものの「役割」を考えねばならない。
 化学においてはファンクショナル・グループ(分子の中の機能団)などというものが存在するけれども、物理学においては、関数という意味ではなくて役割という意味でのファンクションが論じられることは稀であるようにみえる。しかし生物学においては、ファンクションないしもっと直接にロール(役割)という言葉が、たえず使われている。
 それは、生物が、個体としても種としても、つねに一つのシステムであり、しかも自己保存的なシステムであるからである。生きているかぎり、生物はつねにこのようなシステムとしてしか存在しえないのであって、わざわざなんらかのシステムを想定するまでもなく、目の前をチョロチョロ走っているゴキブリは、すでにそれじだいが一つのシステムなのだ。したがってわれわれは、そのゴキブリの肢、触角、眼、翅、そして一本の毛についてさえ、「はたらき」を論じることはできない。われわれにできるのは、その「機能」つまり「役割」を知ることだけである。

 トータルなかたちでの比較
 いままで述べてきたことは、ぼくが考えている「比較」の方法と関係がある。
 一つの例として、チョウとガを比較してみるとしよう。従来いわれている比較の概念によれば、この問題は、進化の問題に結びつけねばならない。人はそのために、たとえばチョウの翅とガの翅とを、形態学的に「比較」する。どちらがより原始的な形に近いか、どちらがより特殊化しているか。正式な結論はさておくとして、かりにチョウの翅のほうが、想定される原始的形態により近かったとしよう。すると次は、ガがその夜行性の生活にいかに適応しているかを調べることになる。ガの眼はきわめてよく発達しており、眼のなかの色素の移動によって、暗いところでは著しく感度を挙げることができる。これは適応である。ガは体温調節の機能もよく発達しており、いろいろな方法によって体温を高め、冷え込む夜でも活発に飛びまわることができる。これは適応である、などなど。
 それはたしかに間違いではない。ただ、もしそのような比較から得られた結論が、チョウよりガのほうがより特殊化していて、よりよく適応しているのだ、ということであるとしたら、より原始的であまり適応していないチョウが、なぜ今日まで存続し、今日なお繁栄しているか、ということに対する説明は、ついになされずじまいになってしまうことになる。まじめに進化を理解しようとしたら、それでは困るのだ。
 実際にチョウを調べてみれば、チョウがその生活にじつによく「適応」していることがわかる。彼らは色に頼る。種によって多少違うけれど、ある色のものが目に入ったら、彼らはすぐに口吻を伸ばし、そのものに飛んでゆく。それが花でないことも何度かはあるだろうけれど、そのような失敗は無視できる。樹液のように、あまり定まった形や色のないものを食物にしている種は、まず樹木を探す。なぜなら、樹木のないところに樹液はないからである。このときも、褐色のような色が手がかりとなっている。それからあとは、おそらくは樹液の匂いを触角で感知して、だいたいの場所を知り、そのあたりにとまって歩きまわりながら、今度は肢の先にある一種の味覚器で、樹液の源をみつけだす。
 チョウのオスがメスを探すときも、色が頼りである。このことについては、まえに多少述べたから、ここでは繰り返すまい。いずれにせよ、彼らはまず視覚的情報を第一の手がかりにしている。このことは、光のある昼間に活動する昆虫としてみれば、明らかに合理的なことである。そして、メスの翅も、体に比べて大きくなり、色彩的にも派手になっている。
 けれど、食物を探すにせよ、異性を探すにせよ、チョウが視覚的情報つまり光に依存する以上、そこには一つの重大な利益と不利益が同時に生じてくる。それは、光が直進するという物理的事象に由来するものである。光は直進するから、チョウがある物体を認知したら、そこへ向かって直進すれば、かならずその物体にいきつくことができる。事実、チョウは花ないしメスを見つけたとき、急激に飛行方向を転換し、そちらへ直進する。
 けれど、もしその物体とチョウのあいだに、一枚の木の葉が介在していたら、チョウがその物体を見つけることは不可能となる。もしチョウが、ジェット機のようにまっすぐ飛んでばかりいるとしたら、彼らの探索の範囲は著しく限定されることになろう。彼らはたえず上下左右に揺れながら、いろいろな角度からものを探して飛ばねばならぬはずである。
 一方、異性の発見と認知の手がかりが翅の色であることによって、チョウの翅は胴に比べて大きくなり、胴そのものも、きわめてほっそりしたものになった。その力学的な結果として、チョウはけっして一直線に飛ぶことはできず、上下にふれながらしか飛べぬようになった。空気の流れが多少乱れていれば、彼らの飛翔はますますふらつくことになる。このことと、まえに述べた要請とは、矛盾しなかった。
 そればかりでなく、次はどこへ行くかわからないチョウのふらふらした飛びかたは、彼らの恐ろしい敵である鳥からも、彼らを守ることになった。鳥はその飛翔の力学的原則からいって、急速な方向転換ができない。まっすぐチョウをねらってきた鳥は、チョウがフワッと位置を変えてしまうと、もはやなんともしようがないのである。
 これを「適応」といえばいえるだろう。けれど、そういってみたところで、説明が深まるわけではない。むしろぼくは、これらのことのあいだに、たんに矛盾がなかったのにすぎないと考えたい。矛盾がなかったからこそ、彼らはいままで存在してきたのである。
 もし適応であると考えるなら、現実に生きている生物は、どの種もすべて適応している。しかも、じつによく、じつに巧みに適応している。より適応したものなど、考えることができない。
 もちろん、体の一部を切り離して、そこだけ比較してみるなら、一連の種のあいだに一つの系列をつくってみることはできる。けれど、その系列のなかのもっとも下に位置するもの、つまり、もっとも原始的なものが、それより上位のものに比べて、けっして生活のうえで下手なのではない。その種の全生活を他の種の全生活と比較してみるとき、われわれはもはや、どちらがより適応しているか、などとはいえなくなる。現在の環境のなかでは、どちらもほとんど完璧といえるくらい適応しているし、もし環境が変わったとすれば、どちらも同じくらい不適応である。
 それは、ある部分が一見未発達と思われたとしても、それは、その部分の使いかたの巧みさか、使いかたの違いか、あるいは他の部分の発達によって、かならず補いがついているからである。スケールはけっして一つしなかないのではない。
 ようするに、動物の世界、いや、もちろん植物も含めた全生物の世界でわれわれが見るものは、脊椎動物、哺乳類、人間へと向かう一つのベクトルの上での進歩あるいは停滞ではなくて、ベクトルでもスカラーでもない、パターンの相違なのである。
 このことは、すでに古くレヴィ=ストロースが、人間の社会についていっている。しかし、その後一般の世界に生じた認識の変化は、後進国という言葉を発展途上国といいかえる程度のことにすぎなかった。唯一のベクトルを信じる精神は、なんら消滅していない。
 生物学においても、この精神は生きつづけている。だが、一つのベクトルを想定したうえで、比較、進化、適応を論じて、いったい何が得られるのであろうか。
 ぼくは、動物の種というものが、一つ一つユニークな生存のパターンだという認識に立って、トータルなかたちでのその比較を行ってゆくことこそ、いまは必要なのだと考えている。それは、物理学の方法とはまったく違う、生物学独自の方法といえるだろう。技術としてどんなものを使うかは問題ではない。使える技術は何でも使ったらよい。重要なのは、種の問題を進化の問題に解消してしまわないことである。
 ただ、このような比較の方法によって、今後どのような道が開けてゆくか、ぼくは、これといった展望をもっているわけではない。科学のおもしろさは「模索」にあるのであって、模索につきまとう不安こそ、われわれをかきたてるものではないだろうか。」(184-192ページ)



『帰ってきたファーブル』@非人称芸術研究室・糸崎公朗ブログ3

   * 糸崎公朗 『東京昆虫デジワイド』 アートン

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20100906 賢者の言葉・赤松啓介 『夜這いの民俗学』・「夜這いの民俗学」より

     * 赤松啓介 『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』 ちくま学芸文庫



  「夜這いの民俗学」 赤松啓介 『夜這いの民俗学』 (明石書店 1994)より引用

 「平時なら、戦争反対、自由を平和をというのは容易である。いまでも極楽トンボどもがわめいている。しかし、最も必要な時になって殆どの人間が沈黙してしまったのも事実であった。特に、日本の科学者、知識層の迎合、腐敗は、「惨」としかいうべき言葉はなかった。民俗学、考古学も同じことで、戦後、長老、大家連中で、戦時下の執筆文章、論文を読んで冷汗三斗の思いをしない者はあるまい。抵抗する勇気がないのなら、せめて書かなければよいのである。」(11ページ)

 「僕は、共産党はあまり好きでなかったが、当時、反戦を掲げたグループで共産党の他に闘う者はなく、社会党や労農党、大本教とかいってもみんな転向してしまっていた。自然と共産党と接触しながら動くしかなく、後に四年間もムショ暮しをすることになったわけだが、パクられるまで、共産党の中央委員だの地方委員だという大幹部があれほど警察側にペラペラしゃべっているとは想像もしていなかった。虐殺された人間がいたことは事実だが、スパイ査問のリンチ事件を含めて、他の殆どが警察でいろいろと供述し、その調書が証拠として残っているから仕方がない。彼らのタテマエとホンネはまるで違うのであった。虐殺もリンチ事件もその距離が大きすぎた結果としての悲劇である。生きて虜囚の辱しめを受けるなと大言壮語した皇軍が、ついには全軍捕虜のバカらしさを演じたのと根は一つで、日本人のタテマエさえ立派であれば、ホンネはどうあろうと別のことだという便利主義、インチキ思考の典型だろう。そういう思いがあって、僕たちは、共産党とは逆に自分の足元から運動を構築していくことになったのだ。」(13ページ)

 「ただ、ムラの女どもに夜這いをかけたり、仲居、酌婦をくどくためにだけ走り回ったわけでなく、あくまで戦時体制下の村落社会の矛盾と相剋の中でいかにして反戦の思想と行動を貫くかが課題であったが、これに最も共鳴し、協力もしてくれたのが、ムラの女頭目たちだった。特高も学歴がないというだけで、彼女たちをみくびりすぎていた。
 特高は僕の尾行もするし、仲良くしていた茶屋やヨロズ屋の嬶や後家も掌握していた。戦争が終わって彼女らに会うと、(特高は)うちへも来たでえ、共産主義たら無政府主義たらいう難しいこと、わしらにわかりまっかいな、あの子、オメコさせ、させいうてきたさけん、したぐらい覚えてまっせ。なんべんぐらいしたんじゃ。サア、なんべんかわからんくらいさせたわ。アホ、どっちがふいたんじゃ。そらチャウスのときは、うちがこないしてふいたるし、あの子が上のときはこないしてふいてくれて。アホ、もう、ええわ、いうて行きよった。
 当時、特高の刑事は関係したというと、どっちがどないしてふいたと調べるのが常套であった。直接取り調べるときのための材料にしたのである。
 彼女らは尋常小学校もロクに出ていなかったが、見るべきものはちゃんと見ていた。新聞や「キング」「家の光」ぐらいは読んでいるから、市川房枝や他の女性運動家たちの裏切りも知っていた。戦後、彼女たちが復活しても信じる者はだれもいない。それは厳しいものであった。運動ができん時代は、なにもせんでもええやないか、わざわざ敵の太鼓をたたいてやることない、というのが頭目たちの私への意見だった。」(15-17ページ)

 「アジワイとは、手工業関係でいうコツみたいなものだが、コツが全く技能練磨的であるとすれば、アジワイはそれに人格的熟度をプラスしたようなものである。単に上手というだけでは良い作物は作れない。他の百姓と全く同じ方法、手順で作っていても、作物に良否が出てくる。定型通りやりながら、具体的な場所の土質や作物の成育状況を考えてそれに適したように修正してやることをアジワイといった。作物は生き物だからこうして欲しいといっているので、それに合った方法を考えて施してやるのだということであった。それで百姓仕事も大変なものだとあらためて認識するわけだが、そのうち男と女との間にも、性交技能にもアジワイがあると教えてくれる。」(19-20ページ)

 「ざっと紹介したように、夜這いは、戦前まで、一部では戦後しばらくまで、一般的に行われていた現実であり、実に多種多様な営みであったが、このような重要な民俗資料を、日本の民俗学者のほとんどは無視し続けてきた。
 民俗学の泰斗といわれ、「郷土研究」や「婚姻の話」を著している柳田国男は、僕の郷里から目と鼻の先の出身で、子供のころから夜這いがおおっぴらに行われているのを見聞きしながら育ったはずだが、彼の後継者同様に、その現実に触れようとはしなかった。彼らはこの国の民俗学の主流を形成してきたが、かつてはムラでは普通であった性習俗を、民俗資料として採取することを拒否しただけでなく、それらの性習俗を淫風陋習であるとする側に間接的かもしれないが協力したといえよう。そればかりか、故意に古い宗教思想の残存などとして歪め、正確な資料としての価値を奪った。そのために、戦前はもとより、戦後もその影響が根強く残り、一夫一婦制、処女・童貞を崇拝する純潔、清純主義というみせかけの理念に日本人は振り回されることになる。
 自分たちの倫理観や、政治思想に反するものの存在を否定するなら、そうした事実を抹殺するしかない。農政官僚だった柳田が夜這いをはじめとする性習俗を無視したのも、彼の倫理観、政治思想がその実在を欲しなかったからであろう。
 しかし、僕の基本的な立場はあるものをあるがままに見ようではないかということだった。そして、あるがままに見れば見るほど、現実は実にさまざま、多様なのであった。
 そもそも柳田の方法というのは、全国からいろいろな材料を集め、自分に都合のいいように組み合わせるといったものである。夜這い一つとってみても、隣村同士でも多様なのに、あちこちの県のムラから広範囲に類似のネタを集めて一つのことを語ろうとする。僕に言わせれば、アホでもできるということになる。
 僕が田舎に帰ったころ、柳田は山村調査を実施しているが、採集手帳を読むと、小作とか地主とかいった現実に存在する言葉が全くない。それでいて彼は「常民」というコンセプトを持ち出してくるのだから、柳田さんはもうあかんわ、ということになる。それは、戦前までの政府が、労働者を資本家も含めて勤労者、地主も小作も日雇いも含めて営農者と呼んだように不自然な造語にしかすぎない。」(33-34ページ)

 「最近『スカートの下の劇場』を書いた上野千鶴子さんと対談したが、あの人も形式論理的で、右と左、上と下、前と後ろといった具合に、パーッと二つに分けなければ気がすまんような学者である。そして、こっちはこう、あっちはこう、と認識できなければくそおもしろくないといったタイプだった。
 僕の若衆入りの師匠さんは三十三の御寮人さんで、単独指導してくれたが、お乳をうまいことどんなふうに吸えばいいか、どんなふうにすれば女も気持ちええかとか、腰巻きのハズし方とかいろいろ手をとってちゃんと教えてくれた。『スカートの下の劇場』を読んで、日本の腰巻きと西洋のパンティ、ズロースとは根本的にちがうことはわかったが、そこには、ぬがせる作法がまったく書いていない。物足りず、具体的におもしろくないのである。
 腰巻きを解くのは簡単なようだが、女の方が協力してくれないと、美しく開帳できるものではなく、肌の美しい女が開帳したときの一瞬の香というものは、実に男冥利に尽きるのであった。自分で腰巻きを解いて待つのは、主人と愛人に対してだけで、夜這いでも腰巻きを解いて待っていてくれるようになったら愛人で、いわば結婚しようという意志表示にもなった。こうした肉付けがあってこそ学問もおもしろく、リアリティもでるのである。」(36-37ページ)




   * 柳田國男 『柳田国男全集 17 俳諧評釈・西は何方・村のすがた・婚姻の話』 筑摩書房



   * 上野千鶴子 『スカートの下の劇場』 河出文庫

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20100803 賢者の言葉・関山和夫『説教の歴史』・「埋もれた芸能」より

     * また又「日本の放浪芸」



  「埋もれた芸能 節談説教の衰退」 関山和夫 『説教の歴史 仏教と話芸』 (岩波新書 1978)より引用

 「伝統につながることなしには絶対に存在し得ない既成教団が、布教法だけ伝統確認をしないのが私には不思議に思われる。伝統的なものを改良しよう、改革しようということは、説教に限らずあらゆる面で明治以後の日本人にいわれたことであった。浄瑠璃・歌舞伎・邦楽などの世界でもすでに明治のころに改良運動があった。その後、紆余曲折を経て今日に至ったが、太平洋戦争後、伝統芸術再検討の声があがり、大勢の人々の手で伝統再確認の仕事がなされ、現在では伝統継承の上に立つ新文化の創造という大きな目標のもとに進展しつつある。ところが、仏教界の動きはそれらに比してひどく遅れをとっている。特に気になるのは布教界の動きだ。現代の日本仏教界の動静を宗教新聞などで見ると、いかにも布教が活発のように見えるが、演説説教における伝統再検討の仕事が十分に行われているとはいえないふしがある。」(197-198ページ)

 「仏教における情念の復権は、現代仏教界の重要な課題ではなかろうか。昭和四十八年八月四日に金沢市の東別院で「節談説教を聴く会」(司会=小沢昭一、解説=関山和夫、説教実演=寺本明観、川岸不退、広陵兼純)が開かれた時は、猛暑の中を満堂の聴衆がつめかけ、能登節や加賀節の懐かしさに聴衆はうっとりしたようであった。この時に聴衆の一人として参加された国文学者の藤本徳明氏は「節談説教の衰退は、同時に、それを否認したところの、宗門自体の衰退」とし、「低俗な大衆の支持を失うとき、組織体は、いかに高度な知識人を多く擁していようとも、衰弱の運命を免れない。宗教や、政治や、その他もろもろの文化現象において、この法則は貫かれている」(昭和四十八年八月二十九日付「北国新聞」)と、情念の説教の必要性を鋭い感覚と学的根拠をもって述べられた。傾聴すべき発言であった。」(201ページ)

 「苦悩に満ちた人間社会の中にあって、信仰や祈念を背景に、人々の希求する条件のすべてを満たすために幾多の説教者は身を投じた。説教は悲嘆慟哭、憤怒勇猛のあらゆる陰翳を伴いながら、無限の世界からおのずから湧き出る、人間の生命の根源であった。教団発展のためにも最大の力を注いだ説教者たちは、命がけで全国を歩いて布教に専念し、長い歴史を通じて底辺の庶民たちから渇迎された。そして、すでに述べたように、各時代を通じてさまざまな形態をもちながらも一貫してそれぞれの時代に適応した文化を創造することができた。説教と平曲・浄瑠璃・祭文・落語・講談・浪曲などとの強い絆がそれを立証している。今後は、節談説教にかわって仏教界の何が日本の新しい文化を創造するのであろうか。」(205ページ)




   * 小沢昭一『日本の放浪芸 オリジナル版』 岩波現代文庫


   * 谷口幸璽著 関山和夫監修 『「節談」はよみがえる―やはり説教は七五調』 白馬社

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20091226 賢者の言葉・志村ふくみ 鶴見和子・「我感じるゆえに我あり」

   * [いのちを纏う―色・織・きものの思想]



  「色の思想」 志村ふくみ 鶴見和子 『いのちを纏う 色・織・きものの思想』 (藤原書店 2006年)より引用

志村 シュタイナーがいってる言葉なんですけど、「植物は全存在で匂いを嗅いでいる」。それから「植物の葉っぱは全存在で味を味わっている」。それから「植物の根は土の中で、土の中のことを全部覗いて見て知っている」。そして「もし人間がそこまでの感性があったら、もう気が狂うか、人間存在を失うか、ドーッと匂いが来たり味がきたら、生きていけないので、グーッと閉じられていく、ごく一部だけを人間は与えられている」。そのごく一部だけで、今私がいったようなことを感じる方もいるし、全然感じない方もいる。夢の中でもそうやってご覧になる方もあるんだけど、決定的に違うのは、「閉ざされているがゆえに、知性とか意志とか感情を人間は与えられている、それが人間のもっとも高貴なものだ」と書いているんです。だから、そうでしょう。みんなわかっていたら、なんにも知性なんて発達しないですよ。わからないけど、ちらっと見た時にすごいから考えますよね。


自然と響き合って生きていくことが大切



鶴見 面白いわね。というのは、今西錦司さんが、デカルトは間違っている、「我惟うゆえに我あり」、そこが間違いだと。じゃあ、どうやって直したらいいか。手をぶつける、痛い、だから「我感じるゆえに我あり」と、そういうふうに言い換えれば自然と人間がともにあって、同じものからだんだん進化してきた。だから人間と自然の中の事物は、全て一つのものから出てきたということがわかるんだと。だから「我惟うゆえに我あり」といった途端に、自然と人間ははなれてしまう。そういうことをいったの。
 それは、あの方が仏教を一番基礎においているから、そういう考えをしたんだという人がいるけど、私は、オランダの女王が「価値変化の道すじについて」という国際シンポジウムを企画されて、そこへ招ばれて行って、今西錦司の話もしたの。そうしたら、全く同感したというオランダ人の気象学者が、人間が科学を精密にしていけばいくほど、天気予報は当たらなくなる。そういったの。それでデカルトは間違っていると、同じことをいったのよ。
 私、びっくりしたの、「我惟うゆえに我あり」じゃなくて、「我感じるゆえに我あり」に直せば、自然とともに生きることが出来ると。そしてそういう実例を自分の日常生活のなかで話したの。それで二人で共鳴して、とてもおもしろかったの。だからヨーロッパでもそういうデカルト批判というのは出てるの。

志村 そうです。ものすごく出てます。それでゲーテも、「人間が自然を離れたことによって、全部、今日の間違いが起こってきた」といっているんです。その通りです。だからヨーロッパがちょっと間違ったのは、デカルトのそこらへんから間違っていることがずいぶんありますよね。

鶴見 私がアニミズム、アニミズムというと、みんなに笑われるけど、アニミズムという言葉が悪ければそんな言葉は使わなくていいの、自然と語り合って生きていく。それでいいのよ。玉響なのよ。自然と響きあいながら生きていけばいいのよ。
 だから科学至上主義とか、科学を否定するんじゃなくて、根本にあるものをもう一度考え直さなくてはいけないわよ。

志村 そうですね。ほんとうにそうです。そのことが今一番大事なことなんですよね。

鶴見 そうなのね。色ということを通して、ようく教えていただいたわ。

志村 いいえ、そんな。だから東洋の思想の中にはすでにあるわけでしょう。自然と人間とが共生しあう精神みたいなものが。だけど西洋の人は、今の我を強調するために方向を間違ってきちゃった。

鶴見 そうなの。「我惟うゆえに我あり」から間違ってきたの。だって動植物は言葉をもたないけど、感じることは一緒なのよ。東洋にはもともとあるのよ、自然と人間が共生するような原理が。曼荼羅にしてもね。

志村 そう。すごく感じます。西洋のものにはとても教えられるけど、結局東洋の原理の中に包含されているということを感じますね。

鶴見 それで私みたいな重度身体障害者になると、植物に近いのよ。というのは、植物が優しい手と荒い手を感じわけているから、優しい手で世話する人に会うと、どんどん育つのよ。荒っぽい人がいくら水をかけても、枯れちゃうのよ。それが不思議なの、感じるのよ。

志村 そうです、自然に近い、染色がそうなんです。一緒にうちで染めをやってましても、なんかきれいな色が出てくるのと、全然あせちゃうのがあって、同じ植物なのになぜだろうと思って不思議でした。今おっしゃる、荒い手と優しい手なんです。

鶴見 「荒い手とやさしき手を感じ分ける植物のように介護さるる身」という歌を作ったんだけどね。それを相手にいうことは出来ないの、結局、植物の方が敏感なのよ、人間より。

志村 そうです。面と向かってそんなことはいえません。ほんとにそう。

鶴見 こういう重度身体障害者になって、初めて植物の気持ち、鳥の気持ち、人間以外の生き物の気持ちがわかるの。今日は気持ちよさそうだなと思うと、とってもいい日なのよ、天候がいい。鶯の鳴き方が違うんだもの。

志村 ねえ。気持ちがわかりますわね。鳥の鳴いている声でもね。違うでしょう。ほんとにそう。呼びかけてくれているように思いますよ。植物が染めてっていってるのと同じような気がしますよ。



   志村ふくみ@Wikipedia

   鶴見和子@Wikipedia

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20091211 賢者の言葉・吉野弘・「ほぐす」

   * [二人が睦まじくいるためには]



  「ほぐす」 吉野弘『二人が睦まじくいるためには』 (童話屋 2003年)より引用

小包みの紐の結び目をほぐしながら
思ってみる
――結ぶときより、ほぐすとき
すこしの辛抱が要るようだと

人と人との愛欲の
日々に連らねる熱い結び目も
冷めてからあと、ほぐさねばならないとき
多くのつらい時を費すように

紐であれ、愛欲であれ、結ぶときは
「結ぶ」とも気付かぬのではないか
ほぐすときになって、はじめて
結んだことに気付くのではないか

だから、別れる二人は、それぞれに
記憶の中の、入りくんだ縺れに手を当て
結び目のどれもが思いのほか固いのを
涙もなしに、なつかしむのではないか

互いのきづなを
あとで断つことになろうなどとは
万に一つも考えていなかった日の幸福の結び目
――その確かな証拠を見つけでもしたように

小包みの紐の結び目って
どうしてこうも固いんだろう、などと
呟きながらほぐした日もあったのを
寒々と、思い出したりして



   結び目@Wikipedia

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20091114 賢者の言葉・浦達也『ザ・コミュニケーション』より・「メディアはメッセージ」

   * [メディア論―人間の拡張の諸相]



  「メディアはメッセージ」 浦達也『ザ・コミュニケーション―届く映像メッセージ』 (誠文堂新光社 1983年)より引用
 マクルーハンの再評価
 マクルーハンは一九八〇年の大晦日に亡くなりました。狂乱ブームが去ったあと、十年以上の空白をおいて、今再びマクルーハンを再評価しようとするきざしが見え始めています。ただし今度は竹村ルーハンではなく、オリジナルのマクルーハンの方です。
 なかでも「メディアはメッセージである」というコンセプトは、やはり大変すごいことを言っていたのだということが分ってきました。現在の情報環境、メディア状況をとらえるのに、これ以上に有効なコンセプトはありません。またこのことばぐらい、多くの人が引用し多様な解釈をしたものもありません。二十年前のマクルーハンのことばが一人歩きをしているわけで、この辺が如何にも天才の言説らしいところです。
 さて、この「メディアはメッセージである」ですが、
 メディア=伝達手段、媒介物
 メッセージ=伝達内容、コード化された話題内容
と常識的に解釈して、そこで何故メディアがメッセージなんだ、というように逐語的にとらえたのでは、このコンセプトの深いところは見えてきません。
 前述の後藤和彦さんは、実にうまい言い方をしています。
 かれの理論には一種の汎メディア主義みたいなところがあるでしょう。何もかもメディアなのね、何もかもメディアで、メディアのメディアだったりね。あのぐらいめちゃくちゃになると、何でも言えるようになっちゃうんで、非常にいいかげんだと思うけれども、一度すべて人間が作り出したものはメディアである。それは言葉から何からですね。そういうふうにしてしまうと、世の中違ってみえるということも確かにあるんですね。だからマクルーハン理論の一番元は、あらゆるものをメディアとして捉えるような、人間世界のイメージの仕方みたいのものがあって、それが学者にアッピールするよりは、芸術家にアッピールしたり、デザイナーにアッピールしたりした所以だろうと思うんですね。(鼎談「やっぱりマクルーハンは新しい」『メディア・レビュー』誌、八二年四月号の中の後藤氏の発言)

 マクルーハン理論が学者より芸術家やデザイナーにアッピールした、ということは非常に興味深いところです。学者は何よりもまずことばの厳密な概念規定をし、そこをよりどころに理論を構築します。
 ところがマクルーハンは、世界をイメージでまずとらえます。極論すれば、ことばの概念規定などはどうでもいいわけで、この場合メディアをキーワードにして、それで今までよく分らなかったものが説明出来るようになり、世界の全体像がクッキリ見えて来れば、そのキーワードは有効だったとする、そういうやり方です。
 こうしたもののとらえ方は、マジメ主義の学者なら卒倒するでしょうが、芸術家たちは感性でパッと分ってしまうことなのです。


 「メディア即メッセージ」を原典で読む
 マクルーハンはコミュニケーションに関心をいだく人には、決して無視出来ない存在です。ところが前述のように彼の思想はあまり細部の概念規定にこだわらず、全体像をイメージでつかむことが肝要です。
「メディアはメッセージである」というコンセプトを、イメージということになれば多様な解釈も可能で、正解は一つだけというようなものではありません。
 しかしそうは言っても、原典を読んだうえでの自己流の解釈ならまだいいのですが、他人の解釈の孫引で、いくら何でも違うなと思う読み方もあるので、ここは一応まともに原典(といっても翻訳ですが)にあたってみることにします。(以下、引用はすべて『人間拡張の原理―メディアの理解』後藤・高儀訳、竹内書店新社刊によります。なおこの本は決して分り難いものでなく、今でも、というより今こそ新鮮味を増しているので、皆さんに一読をおすすめします)
 さてマクルーハンは、メディアを従来のように搬送伝達のための単なる機械・道具としてではなく、「人間の拡大」とみて、「人間の相互関係と行動の尺度や形態をつくり出し制御したりするもの」としてとらえます。
 このようなメディアに対する広いとらえ方が必要なのは、人間と機械の関係が変ってきたからです。一昔前なら機械を使うのはあくまで人間であり、機械(メディア)が意味とかメッセージを持つことはあり得ないことでした。ところが、
 オートメーションは、一時代前の機械技術が破壊したもの、つまり仕事と人間の深い関与を人間の新しい役割としてつくり出したのである。人間の関与の仕方は機械の場合は断片的、集中的、表面的なのに対し、オートメーションは全体的、非集中的で深みを持つ。(同書)

 マクルーハンが、『人間拡張の原理』を書いた一九六四年当時の技術の最先端はオートメーションでしたが、現代のエレクトロニクス技術や、バイオテクノロジーを考えると、機械(メディア)自体が意味やメッセージを持つという考えは、一層説得力を増しています。
 どのようなメディアや技術でも、その「メッセージ」が人間に関係するようになると、それによって尺度が変わり、あるいは進度が変わり、あるいは基準が変わってくる。鉄道は、走ること、輸送すること、あるいは車輪、線路を人間社会に持ち込んできたのではなく、まったく新しい種類の都市や仕事やレジャーを生み出して、従来の人間の昨日を促進し、また規模を拡大したのである。(前掲書)

 ここでマクルーハンは、「メディアの内容は、われわれがそのメディアの本性を知るうえにかえって妨げになることの方が多い」と警告しています。
 この例では、鉄道メディアの内容は「走ること、輸送すること」ですが、そのことにのみ関心を寄せると、メディアの本質である人間と社会への影響、「まったく新しい種類の……」以降の重要な本質的意味やメッセージを見逃してしまいます。「どんな技術も、既存のものにそれ自体をただ付加するだけではない」からです。
 特殊化された部分に注目することから全分野を注目することになり、いまやわれわれは極めて自然に「メディア即メッセージ」ということができるようになった。電気の速度と全体的視野を知る以前には、メディアがメッセージであるということは明白ではなかった。この絵はなにについて描いた絵か、と人がよく尋ねていたように、メッセージは「内容」と思われていたのである(前掲書)

 この「電気」のところに現代の「エレクトロニクス」が加わることによって、「メディア即メッセージ」の意味はより重いものとなります。
 テレビというエレクトロニクス・メディアが、それ自体メッセージを持って過去の歴史になかったような拡がりと深さで、「まったく新しい人間環境」を作り出しているのです。




   マーシャル・マクルーハン@Wikipedia

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20091031 賢者の言葉・鶴見俊輔・『悼詞』(と『徒然草』)より

   * [悼詞] 鶴見俊輔

   * [徒然草 (ワイド版 岩波文庫]



  「須田剋太 (すだ こくた 画家 1906-90)――鉢の木」 鶴見俊輔 『悼詞』 (編集グループSURE 2008年)より引用
 小学校の読本で「鉢の木」のすじがきをおぼえた。その話が自分の中によみがえってきたのは、近ごろのことだ。
 この話の主人公は佐野常世だと思っていた。領地を追われた彼は、尾羽打ちからして、人里はなれたところに身をひそめている。そこに北条時頼(前の執権)が旅僧の形でたずねて来て、雪にふられて困っているので一夜の宿をとたのむ。主人は、彼をとめて、あばら家で寒いからと言って、秘蔵の盆栽をたいて、物語りする。
 今はこのようにおちぶれているが、いざ鎌倉というときには、やせ馬に槍をたずさえてうちのり、出陣するつもりだという。
 時頼はひろく天下を見てまわったあとで、鎌倉にもどり、諸国の武士に集合の命をくだす。かねての言葉どおりかけつけた佐野常世に、雪の夜のもてなしを感謝し、不当な裁判の故にうばわれた領土を彼にもどす。
 私の中に六十年あまりのこっていたこのあらすじでは、佐野常世が主人公である、ところが、このごろになって河村能楽堂で見た能では、こんなあばら家ではと言って宿をことわるのは主人の佐野常世であり、雪がふってくるのを見て、おとめしたほうがいいと主人に説くのは妻である。その言葉をいれて、主人は旅僧を追いかけ、ともなってもどる。部屋をあたたかくし、かゆでもてなすうちに、主人が、訴訟の次第にふれ、しかしいざ鎌倉のときには、と語るのを、じっとききいる妻の面に、表情の変化がうつり、この劇の主人公は、この妻であると感じた。こどものときに出合った物語が、自分の中に、姿をかえてゆく。
 「鉢の木」は、もう一度、私に生きてかえってきたことがある。飯沼二郎氏と私とが出していた雑誌「朝鮮人」に毎号表紙を無料でいただいていた須田剋太氏を私は夏に会食にさそっていた。
 その最後になった年に、八十をこえた須田さんは誰もつれずにふらりとあらわれた。今日は映画を見たかえりということだった。夕食を終わり、ひとりでかえってもらうのは不安なので、私は同行した。西宮にある須田さんのお宅についたのは夜半すこし前だったが、ここまできたのだからあがっていってくださいよ、と須田さんは言い、すでに寝ている夫人をおこすでもなく、おてつだいをおこすでもなく、二階に案内して、自分の寝室の前のベランダにおいてあるヒノキづくりの臼二つをあわせた上で、さかだちをして見せた。それが健康法ということだった。それから、下におりて、二つおいてある自作のオブジェ二つから、一つをえらんでもっていってくれと言う。お茶一杯出すこともない。それが須田さんの鉢の木だと思った。須田さんに会う最後の機会だった。



 『徒然草』 「第二百十五段」  『新訂 徒然草』 西尾実・安良岡康作校注(岩波文庫)より引用
 平宣時朝臣、老の後、昔語に「最明寺入道、或宵の間に呼ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様なりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのまゝにて罷りたりしに、銚子に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭さして、隈々を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。



   鶴見俊輔@Wikipedia

   須田剋太@Wikipedia

   北条時頼 = 最明寺入道 @Wikipedia

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