20091114 賢者の言葉・浦達也『ザ・コミュニケーション』より・「メディアはメッセージ」
「メディアはメッセージ」 浦達也『ザ・コミュニケーション―届く映像メッセージ
マクルーハンの再評価
マクルーハンは一九八〇年の大晦日に亡くなりました。狂乱ブームが去ったあと、十年以上の空白をおいて、今再びマクルーハンを再評価しようとするきざしが見え始めています。ただし今度は竹村ルーハンではなく、オリジナルのマクルーハンの方です。
なかでも「メディアはメッセージである」というコンセプトは、やはり大変すごいことを言っていたのだということが分ってきました。現在の情報環境、メディア状況をとらえるのに、これ以上に有効なコンセプトはありません。またこのことばぐらい、多くの人が引用し多様な解釈をしたものもありません。二十年前のマクルーハンのことばが一人歩きをしているわけで、この辺が如何にも天才の言説らしいところです。
さて、この「メディアはメッセージである」ですが、
メディア=伝達手段、媒介物
メッセージ=伝達内容、コード化された話題内容
と常識的に解釈して、そこで何故メディアがメッセージなんだ、というように逐語的にとらえたのでは、このコンセプトの深いところは見えてきません。
前述の後藤和彦さんは、実にうまい言い方をしています。
かれの理論には一種の汎メディア主義みたいなところがあるでしょう。何もかもメディアなのね、何もかもメディアで、メディアのメディアだったりね。あのぐらいめちゃくちゃになると、何でも言えるようになっちゃうんで、非常にいいかげんだと思うけれども、一度すべて人間が作り出したものはメディアである。それは言葉から何からですね。そういうふうにしてしまうと、世の中違ってみえるということも確かにあるんですね。だからマクルーハン理論の一番元は、あらゆるものをメディアとして捉えるような、人間世界のイメージの仕方みたいのものがあって、それが学者にアッピールするよりは、芸術家にアッピールしたり、デザイナーにアッピールしたりした所以だろうと思うんですね。(鼎談「やっぱりマクルーハンは新しい」『メディア・レビュー』誌、八二年四月号の中の後藤氏の発言)
マクルーハン理論が学者より芸術家やデザイナーにアッピールした、ということは非常に興味深いところです。学者は何よりもまずことばの厳密な概念規定をし、そこをよりどころに理論を構築します。
ところがマクルーハンは、世界をイメージでまずとらえます。極論すれば、ことばの概念規定などはどうでもいいわけで、この場合メディアをキーワードにして、それで今までよく分らなかったものが説明出来るようになり、世界の全体像がクッキリ見えて来れば、そのキーワードは有効だったとする、そういうやり方です。
こうしたもののとらえ方は、マジメ主義の学者なら卒倒するでしょうが、芸術家たちは感性でパッと分ってしまうことなのです。
「メディア即メッセージ」を原典で読む
マクルーハンはコミュニケーションに関心をいだく人には、決して無視出来ない存在です。ところが前述のように彼の思想はあまり細部の概念規定にこだわらず、全体像をイメージでつかむことが肝要です。
「メディアはメッセージである」というコンセプトを、イメージということになれば多様な解釈も可能で、正解は一つだけというようなものではありません。
しかしそうは言っても、原典を読んだうえでの自己流の解釈ならまだいいのですが、他人の解釈の孫引で、いくら何でも違うなと思う読み方もあるので、ここは一応まともに原典(といっても翻訳ですが)にあたってみることにします。(以下、引用はすべて『人間拡張の原理―メディアの理解』後藤・高儀訳、竹内書店新社刊によります。なおこの本は決して分り難いものでなく、今でも、というより今こそ新鮮味を増しているので、皆さんに一読をおすすめします)
さてマクルーハンは、メディアを従来のように搬送伝達のための単なる機械・道具としてではなく、「人間の拡大」とみて、「人間の相互関係と行動の尺度や形態をつくり出し制御したりするもの」としてとらえます。
このようなメディアに対する広いとらえ方が必要なのは、人間と機械の関係が変ってきたからです。一昔前なら機械を使うのはあくまで人間であり、機械(メディア)が意味とかメッセージを持つことはあり得ないことでした。ところが、
オートメーションは、一時代前の機械技術が破壊したもの、つまり仕事と人間の深い関与を人間の新しい役割としてつくり出したのである。人間の関与の仕方は機械の場合は断片的、集中的、表面的なのに対し、オートメーションは全体的、非集中的で深みを持つ。(同書)
マクルーハンが、『人間拡張の原理』を書いた一九六四年当時の技術の最先端はオートメーションでしたが、現代のエレクトロニクス技術や、バイオテクノロジーを考えると、機械(メディア)自体が意味やメッセージを持つという考えは、一層説得力を増しています。
どのようなメディアや技術でも、その「メッセージ」が人間に関係するようになると、それによって尺度が変わり、あるいは進度が変わり、あるいは基準が変わってくる。鉄道は、走ること、輸送すること、あるいは車輪、線路を人間社会に持ち込んできたのではなく、まったく新しい種類の都市や仕事やレジャーを生み出して、従来の人間の昨日を促進し、また規模を拡大したのである。(前掲書)
ここでマクルーハンは、「メディアの内容は、われわれがそのメディアの本性を知るうえにかえって妨げになることの方が多い」と警告しています。
この例では、鉄道メディアの内容は「走ること、輸送すること」ですが、そのことにのみ関心を寄せると、メディアの本質である人間と社会への影響、「まったく新しい種類の……」以降の重要な本質的意味やメッセージを見逃してしまいます。「どんな技術も、既存のものにそれ自体をただ付加するだけではない」からです。
特殊化された部分に注目することから全分野を注目することになり、いまやわれわれは極めて自然に「メディア即メッセージ」ということができるようになった。電気の速度と全体的視野を知る以前には、メディアがメッセージであるということは明白ではなかった。この絵はなにについて描いた絵か、と人がよく尋ねていたように、メッセージは「内容」と思われていたのである(前掲書)
この「電気」のところに現代の「エレクトロニクス」が加わることによって、「メディア即メッセージ」の意味はより重いものとなります。
テレビというエレクトロニクス・メディアが、それ自体メッセージを持って過去の歴史になかったような拡がりと深さで、「まったく新しい人間環境」を作り出しているのです。
マーシャル・マクルーハン@Wikipedia
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