20000718 佐藤雅彦・竹中平蔵/青木雄二・宮崎学『経済ってそういうことだったのか会議』&『土壇場の経済学』 / 二年目のギリヤーク尼崎さん

   * [経済ってそういうことだったのか会議 (日経ビジネス人文庫)] 佐藤雅彦・竹中平蔵

   * [土壇場の経済学] 青木雄二・宮崎学

佐藤雅彦・竹中平蔵/青木雄二・宮崎学『経済ってそういうことだったのか会議』&『土壇場の経済学』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」 より

【0 田原の読後コメント】

 経済(学)音痴の私(田原)でも、最後まで読み通せた二冊。しかも楽しみながら。二冊比較して読むと、一冊読むだけより、三倍面白い。
 『経済~』がベストセラーになってるってことは、みんなもやっぱり、経済のこと知りたいんだけどとっかりがない、状態だったのね。



【1 本と作者のデータ】

●『経済ってそういうことだったのか会議
 日本経済新聞社 2000/04/03 ISBN4-532-14824-3
 「あの竹中平蔵と、あの佐藤雅彦が この地球(ほし)の経済をやさしくするどく解き明かす、新・経済の入門書。
 3つの得 竹中語録+佐藤雅彦の経済マンガ+経済基礎用語説明」
(帯)

 佐藤 雅彦(さとう・まさひこ)
 1954年生まれ。東京大学教育学部卒。電通クリエイティブ局などを経て、94年独立。現在TOPICS代表。99年より慶應義塾大学教授。
 90年クリエーター・オブ・イヤー賞、90.91.92年ADC賞受賞。著書に『Kino』『佐藤雅彦全仕事』(マドラ出版)『クリック』(講談社)ゲームソフト『I.Q』(ソニー・コンピュータエンタテインメント)など。

 竹中 平蔵(たけなか・へいぞう)
 1951年生まれ。一橋大学経済学部卒。日本開発銀行、大蔵省財政金融研究所研究官、ハーバード大学客員准教授、大阪大学経済学部助教授等を経て、現在、慶應義塾大学教授。サントリー学芸賞、エコノミスト賞など数多く受賞。
 著書に『対外不均衡のマクロ分析』(東洋経済新報社)『日米摩擦の経済学』(日本経済新聞社)『ソフト・パワー経済』(PHP)ほか多数。

●『土壇場の経済学
 幻冬舎アウトロー文庫 2000/04/25 ISBN4-87728-871-6
 「大量失業、倒産、自己破産、自殺者急増・・・・・・いったい日本はどこまで悪くなる!? 社会の裏の裏まで知りつくした二人が、経済の仕組み、カネのカラクリを徹底解剖。金貸しとの攻防、破綻寸前住宅ローンの起死回生策、資産形成の方法などを過激かつ具体的に伝授。国も会社もアテにできないこの時代、家族と自分を守り抜くには、もはやこれしかない。」(カバー)

 青木 雄二(あおき・ゆうじ)
 1945年京都府生まれ。岡山県立津山工業高校土木科卒。
 代表作に大ベストセラーとなった『ナニワ金融道』。主な著書に『ナニワ金融道』『ナニワ資本論』など。

 宮崎 学(みやざき・まなぶ)
 1945年京都のヤクザの息子として生まれる。早稲田大学方極ブ中退。
 主な著書に『突破者』『突破者の条件』『不逞者』など。



【2 キイワード】

■ 「だんご3兄弟」「ワールドビジネスサテライト」 -----

 「だんご3兄弟」「パザールでござーる」の広告クリエーター・佐藤雅彦さんが、今の日本を代表する経済学者竹中平蔵さんと、経済の話をしたい! ということで生まれた『経済ってそういうことだったのか会議』。

 佐藤雅彦さんの質問は的確。竹中平蔵さんの返答は明解。
 遊びも工夫もたっぷりあって、ベストセラーは当然か。

■ 「キツネ目の男」「ナニワ金融道」 -----

 森永・グリコ事件「キツネ目の男」と決め付けられて、警察の執拗な取り調べを受けた宮崎学さんと、「ナニワ金融道」で大金持ちになった青木雄二さん。ともに、自分の会社を倒産させ、借金地獄を経験した、関西人。しぶとい。見習いたい。金のことで自殺なんかしてられないゾ。



【3 ネット上で知る】

http://miyazakimanabu.com/
 宮崎学ホームページ。一見の価値あり。

http://www.masahicom.com/
 佐藤雅彦「TOPICS」ホームページ。洗練されてます。

http://www.tv-tokyo.co.jp/bangumi/wbs/
 TV東京「ワールドビジネスサテライト」ホームページ。
 平蔵先生がコメンテーターをしている番組。



【4 引用いいとこどり】

■ 実は、竹中平蔵さん、関西の商売人の息子さんだったんだって。

「●大企業の部長より小企業の社長---「世の中は自分の目で見ろ」
 竹中 「自分の目で世界を見ろ」ということなんですよね。「自分の目で世界を見て、自分の目で世界を組み立てろ」。それはまさに、佐藤さんがおっしゃったイメージングだと思うんですね。私がある政府系の銀行に勤めていたときに聞いたことで非常に印象に残ってるのは、「経営者というのは、どんな小さな会社の経営者でも、自分で世界を見る目を持っている。だから、尊敬しなければいけないんだ」という言葉なんです。まだペーペーのときでしたけど、まったくその通りですよね。

 私も少ないながら何人かの社長のヒアリングをさせて頂きましたが、そんなに大きな会社じゃない社長でも、大企業の部長に比べたら全然世の中を見てますよね。それがイメージですよ。「これからどうなるんだ」と。それはリスクを負ってる人の真剣さですよ。

 これに関連する面白い議論があります。たとえば「消費税を大蔵省が通す」というとき、最後の最後、誰を説得するかというと、経団連じゃなく大阪財界なんです。大阪財界の人というのは、一匹狼が多いんです。どちらかというと「オーナー的」な人が多い。ノーベル賞をとった人が何と言おうと、そんなこと関係ないわけです。自分が納得しないものには絶対に首を縦に振らない。「ナニワの商人」の血を引いた人たち。だから、大阪財界の賛成を得られるかどうか、最後の最後まで彼らは心配してたんですね。」
(「起業とビジネス」295-297P)

■ 銀行のTV CF が消えて、消費者金融のTV CFばかり目につく訳。
「サラ金は、今や完全に市民社会に受け入れられ、市民生活には不可欠の存在になった。その急成長、急変貌の秘密は何か。

 「ウォールストリートジャーナル」が指摘しているように、銀行や生命保険などのメジャー金融機関が、国の保護の下で無競争に近い横並び経営を続けてきたのと正反対に、サラ金は国からのなんの援護もなく、しかも世論の袋叩きにあいながらも、独自で編み出した貸し出し・回収ノウハウを武器にして市場を開拓してきた。要するに、武富士などのサラ金だけが資本主義をやってきたのである。サラ金は私のかつての天敵ではあるが、この点は立派なものだと思うのだ。

 ひと昔前、どこの銀行でも三角形のマッチをサービス品として無料提供していた。大蔵省の行政指導は徹底したもので、銀行が客に提供するサービス品の中身にまで口を挟む。どこかの銀行のMOF担が「マッチなどいかがなものでしょうか?」と大蔵省の幹部に伺いをたてたところ、「マッチねえ。どうせ作るのなら三角形のマッチなんか面白いんじゃないか」。

 この一言で、全国の銀行が同じような三角形のマッチを配りまくることになったのだそうだ。銀行がこんなバカなことをやっている時、サラ金は試行錯誤したサービス品を、深夜まで駅頭で配っていたのであった。

 ちゃんと苦労して伸びてきた企業は世界に通用するものになる。現に、なんの庇護もなく独自の才覚でのし上がってきた点や金へのこだわり方など、日本のサラ金はアメリカの金融機関に極めて近い体質を持つに至っている。規制緩和による競争原理・市場原理の導入がビッグバンだとすれば、サラ金はとうの昔からそんなことはやっていたのである。

 だが、サラ金が躍進した決定的な要因は、徹頭徹尾無担保融資に徹した点にあった。人間というのは、もらえるものはひたすらもらいたがるが、その代償は支払いたがらないのである。さらに、代償がなくていいとなれば、必要でないものまで欲しがるものなのである。無担保融資は、人間のこうした心理をたえまなく刺激する。

 (中略)

 「決済先送り」のシステムに加えて無担保融資。これが借金に追い打ちをかけ、知らず知らずのうちに人を借金地獄へと引きずり込んでいく。現代資本主義の大量生産・大量消費を支えるために編み出されたこの新たな決済・融資システムが、一方で、真綿で首を絞めるように借金地獄を仕組んでいくのである。」
(第一章 「仕組まれた借金地獄」から、宮崎学「ソニーと武富士、儲けているのはどっちだ?」)

■ 「市民」にできることは「危機意識」を先送りしないこと?
 「竹中 日本は大変だ大変だと言ってるこの最中、成田空港は日本人でごった返してるわけです。あの喧騒を見た私のアメリカ人の友だちが、とうとう日本人が経済危機のため、国外逃亡を始めたと思ったんです。私が、彼らはバケーションに行くんだと説明しても、最初は信じてくれませんでした。

 今の日本国民の所得は、バブルのピークの頃に比べて一〇%上がっているんですよ。GDPにして五〇〇兆円、一二〇〇兆円の資産を失った国の所得水準が上がっているんです。不況なのが問題じゃないんです。それに対して何の調整もしてこなかったのが問題なんです。韓国でもインドネシアでもタイでも、経済危機の間に、国民は所得を二割くらい下げてるんです。日本だけが一〇%上がっている。日本というのは、これだけの資産を失っている間にも、所得が上がっているという世にも珍しい国なんです。言い換えれば、それだけの経済力があったということです。これだけの経済危機があっても揺るがないほどの体力があった。不況に伴ういろいろな問題を解決するだけのリソースを持っていた。お金も人材もあったということなんです。それなのに、この一〇年間、何の調整もしてこなかったわけです。今からでも、この資産デフレに対応するための調整をしなくてはいけないのに、みんな、問題を先送りしようとするんです。

 佐藤 その「失われた一〇年」に関しても、一般的には関心が低い気がします。韓国で経済危機が起きたとき、みんな自分が持ってる貴金属類を国に供出したり、外貨を使わないように外国旅行は自粛したりって、それこそ国民一丸となって国を再建するぞっていう意欲に燃えてたように見えたんですけど、日本ではそういうことは起こりませんよね。国が大変だ大変だって騒いでいても、それはそれとしてハワイに行く人も多いですよね。僕は今は不況不況と言っても、何かまだ今までの惰性で十分な暮らしができるぶん、かえって僕たち日本人が真剣になれないという気がしています。日本が今、こんな岐路に立たされている状況になってもまだ油断している僕たちの気持ちが一番良くない気がします」
(「競争か共存か」351-353P)





 午後、のしろや秀樹さんとお話する。
 北海道で活躍する、TVレポーター・ラジオパーソナリティー・シンガーソングライター。

 午後七時から、江別市「ドラマシアターども」で、ギリヤ-ク尼崎さんの大道芸を見る(雨天のため室内でのパフォーマンスとなったが)。
 上の娘五歳を連れて、満員の会場に入り、本来の舞台スペース上に、場所を確保する。ギリヤ-クさんの舞踏スペースをぐるりと観客が取り囲む形。
 昨年の公演に続いて二度目の見物なんだけれど、今回は、ギリヤ-クさんの衣装・小道具かばんのすぐ横に座ったので、息の荒いまま、演目ごと着替えをし集中を高める、その横顔を眺めることができた。
 その芸が優れたものなのかどうか、実は自分でも判断できないのだけど(「芸」なのか、という根元からも疑問もあって)、 70歳になろうという人間が「大道芸」を続ける姿勢には、やはり圧倒させられるものがある。

| | コメント (0)

20000710 小林信彦 『現代<死語>ノートⅡ』 / 手紙を書く

小林信彦 『現代<死語>ノートⅡ』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」 より

【1 本と作者のデータ】

 『現代<死語>ノートⅡ
  岩波新書 2000/01/15 ISBN4-00-430651-5

   * [現代“死語”ノート〈2〉1977‐1999] 小林信彦

 「二十年前のあなたは<フィーバー>それとも<それなりに>?<花キン>の賑わいから、<同情するなら金をくれ>が出てくるバブル後へと、激しく変貌する社会をもっともよく映した流行語を、ユーモアたっぷりに描いていく同時代観察エッセー。一九七七年から九九年までをおさめた、待望の続篇。ほんのきのうのことを、見つめてみませんか。」(カバー)
 「本書に収録された言葉 翔んでる~/フィーバーする/それなりに/なめ猫/逆噴射/新人類/レトロ/花キン/リゾート法/下血/おやじギャル/イチゴ世代/3K/ほめ殺し/同情するなら金をくれ/アムラー/メークドラマ/たまごっち/不適切な関係/だんご3兄弟・・・・・・」
(帯)

 小林 信彦(こばやし・のぶひこ)
 1932年東京・東日本橋生まれ。
 1955年早稲田大学文学部英文学科卒業
 現在-作家
 小説 『唐獅子株式会社』(新潮文庫)
    『ちはやふる奥の細道』(新潮文庫)
    『ぼくたちの好きな戦争』(新潮文庫)
    『怪物がめざめる夜』(新潮文庫)
    『イーストサイド・ワルツ』(新潮文庫)
    『ムーン・リヴァ-の向こう側』(新潮社)ほか
 評論 『日本の喜劇人』(新潮文庫)
    『一少年の観た<聖戦>』(筑摩書房)
    『和菓子屋の息子』(新潮社)
    『人生は五十一から』(文芸春秋)ほか



【2 キイワード】

■ 「<町殺し>」 -----

 「1987年(昭和62年)
 この年の出来事は、なんといおうと、田中角栄の<列島改造計画>時をはるかに超えた地価の高騰である。(中略)
 世田谷区、目黒区は、この年、平均上昇率が四〇パーセントを超したというが、ことは役所の数字で、現実はもっと高い。ぼくは世田谷区のはずれに住んでいるが、この辺りでさえ坪六百万円を超えていた。もちろん、銀座、新宿の目抜きの場所は、坪一億円を突破した。
 値上がりだけでなく、不動産業者と暴力団がビル用地を探して、土地を買いあさる--いわゆる<地上げ>が横行し、都心の個人住宅や商店は立ち退きを余儀なくされた。都心の夜間人口が減り、放火、詐欺が多くなった。<地上げ>がらみの殺人も珍しくはなかった。
 東京オリンピック、列島改造に続く三度目の<町殺し>が東京を襲った。」
(本文87-88P)

 1997年刊の『現代<死語>ノート』では、<もはや戦後ではない>という流行語の出た一九五六年から一九七六年(ロッキード事件の年)までの「死語」をカバー。 2000年刊の『現代<死語>ノートⅡ』では、副題「-1977~1999-」と一九四五年から一九五五年の「死語」を紹介。
 かくして、首都で生まれ育った小説家が、戦後日本を「死語」を通して見通す、「歴史書」が完成。

 楽しみながら、ときに笑いときに怒りを感じ、一読できるありがたさ。
 新書には珍しく、二冊とも索引付。Ⅱには二冊分の主要人名索引も付いて、これで資料(史料?)性もぐっと増しました。

■ 日本語の現場「すっとこどっこい」-----

 1999年(平成11年)の最後を飾る(死後間もない?)死語は、「すっとこどっこい」。

 「<すっとこどっこい>
 はるか昔に死滅して、落語の中にだけ残っていた<馬鹿野郎><間抜け>の意味の言葉だが、近年、十代のアイドルが「すっとこどっこいのこの私が・・・・・・」と喋るのを耳にするようになった。
 一方、大川興業総裁・大川豊は「週間プレイボーイ」に。「政治の現場すっとこどっこい」を連載中であり、十一月二日号で西村真悟(当時・防衛政務次官)から「核武装の準備を討論・・・・・・」云々の発言を引き出し、西村が辞任する羽目になった。
 これぞ、<死語>の逆襲、効用というべきか。」
(本文200-201P)

 日本語はフレキシビリティーに富んだ言語なのだ、と前向きに考えるべきか、「すっとこどっこい」な言語と認識するべきなのか。日本語(つまりは日本人)とはなんなのか、考えさせられる一冊です。

■ オタク「カルト」「系」の先駆者小林信彦-----

 いまは新潮文庫で入手可能な『日本の喜劇人』。晶文社の単行本『定本・日本の喜劇人』しかなかった頃、『日本の喜劇人』はまさしくオタク「カルト」「系」の本でした。(実は私も単行本・文庫本双方を十回近く読んだ人間です)

 <カルト>について書かれた<カルト>的一文。1992年(平成4年)

 「<カルト>
 実はかなり古い言葉で、たとえば「カルト・ムーヴィー」というアメリカの大判の本は、<一般に評価されていないが実は有識者に支持されている古今の映画>を集め、ぼくの知る限りで、1、2、3と三冊出ている。中には、フランク・タシュリン監督の「女はそれを我慢できない」のような、文字通り、ごく一部の熱狂的支持者をもつ作品も含まれている。cultには<崇拝><あこがれ><信仰>の意味がある。
 日本で一般化したのは、フジテレビのクイズ番組「カルトQ」がきっかけで、きわめて特殊な、特定の知識を競うものだった。(たとえば、トイレの一部を見ただけで、そのデパートの名を当てるような。)おたく的な大衆に対して番組が成立する見本でもあった。
 本来の意味合いでの、カルト作家、カルト監督といった言葉も巷で使われた。ただし、オウム事件以後、<カルト>は肯定的な響きを失う。」
(131P)



【4 引用いいとこどり】

■ 実は小林信彦さんは「河合美智子」ファンだった?1997年(平成9年)。

 「<オーロラ輝子>
 主演映画まであるわりに地味な河合美智子が、大阪の演歌歌手<オーロラ輝子>として歌う「夫婦みち」はNHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」の劇中歌である。
 いかにもの衣装と、ど演歌のパロディ寸前の歌が演歌不振の時代にヒットして、本物の「紅白歌合戦」に出場するにいたった。もちろん、<オーロラ輝子>として。
 こうなると、相米慎二監督の「ションベンライダー」に始まり、澤井信一郎監督の「恋人たちの時刻(とき)」のヌードシーンを経てのアート・フィルム、インデューズ映画出演のキャリアはどうなるのかという気がするのだが、<オーロラ輝子>の輝きがすべてを圧してしまう。NHKの他のドラマにも<オーロラ輝子>で出てきたのは、何をかいわんやであった。」
(182-183P)



 「北海民謡の父 -今井篁山(こうざん)の生涯-」著者の藤倉徹夫さんに手紙を出す。
 藤倉 徹夫 様
 はじめまして。
 私は、野幌東町在住の田原洋朗と申します。
 先日、藤倉様のお書きになった『北海民謡の父 -今井篁山の生涯-』を拝読し、大変感銘を受けました。
 そのことをお伝えしたかったこと、また今井篁山その人への興味もわき、藤倉様にさらに今井篁山についてご教示いただければと思い、このように突然のお便り差し上げる次第です。どうぞご無礼お許しください。

 さて、私は今、電子出版物の企画・制作・販売を仕事にしております。
 それらの業務のなかで、民族音楽のCDの制作も行っているのですが、このたび、プロデューサーとして若手津軽三味線奏者のソロデビュー作を作ることとなりました。
 日本の民謡に関する知識がほとんどないことに今更ながら気づき、音源・資料等いろいろあたっているうちに、藤倉様のご本にめぐり合いました。しかも、その題材となった今井さんは、この江別に大いに縁のある人ではありませんか!

 そのようなわけで、謡い手としての今井篁山、プロデューサーとしての今井篁山、江別の人今井篁山、それぞれに興味を感じております。
 まことに勝手なお願いではありますが、藤倉様のご教示をいただければ、と思っております。お忙しいこととは思いますが、ご連絡いただければ幸いです。

 ますますの、ご健康ご活躍をお祈りいたします。

2000年7月10日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20000522 吉岡嶺二 『北前海道カヌー膝栗毛』 / 新田少年のCDのタイトル名は?

吉岡嶺二 『北前海道カヌー膝栗毛』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」 より

【1 キイワード 「サラリーマンは気楽な稼業ときたもん」か?】
 副題は、「敦賀-青森間一二〇〇キロ 中年カヌーイスト冒険航海記」。「中年」と「カヌー」の間に、「サラリーマン」の語を入れると、より正確になります。
 『北前海道カヌー膝栗毛』著者の吉岡嶺二(よしおか・れいじ)さんは、一九三八年、旧満州ハルビンに生まれ。
 サラリーマン生活を続けながら、休暇を利用し、カヌーで本州・四国九州の沿岸をすべて漕ぎ渡ったという奇特な方。

 第一弾「東海道中カヌー膝栗毛―鎌倉‐京都間一〇六五キロ 中年カヌーイスト単独航海記」では、鎌倉・腰越海岸から京都までの一〇六五キロ。第二弾「奥の細道カヌー膝栗毛―鎌倉~青森間1200キロ中年カヌーイスト単独航海記」では、鎌倉から青森まで一二○○キロ。第三弾が『北前海道カヌー膝栗毛』。
 その後、「山陰・瀬戸内カヌー膝栗毛―敦賀‐大阪間1400キロ 中年カヌーイスト冒険航海記」(ここまですべて「山と渓谷社刊」)を出され、九十年代に入り、「ぐるり九州島カヌー膝栗毛」、「四国三十三ヶ所カヌー膝栗毛」を私家版として出版。

■ 「サラリーマンは気楽な稼業ときたもん」か? 
 若き日の植木等さんが「サラリーマンは気楽な稼業ときたもん」と唄う映画の一シーンを利用したCF、最近よく目につきます。
 自ら「尺取虫方式」と名づけた、サラリーマン吉岡嶺二さんのウィークエンド・アドベンチャーは、サラリーマンでなければ成し遂げられなかった快挙かもしれません。

 休暇を利用しての、やりたい事、目標があって、そのことに関して、周囲・職場からの理解が得られて、ほんとにやりたい事やってしまう。
 吉岡さん、日本一幸福なサラリーマンではないでしょうか。

 行く先々での人との出会い・交流は、確固とした趣味を持った人ならでは。サラリーマンが気楽な稼業かどうか、今のぼくにはわかりませんが、こういう勤め人生活なら、悪くないですね。

■ 北前・昆布ロード 
 そもそもこの本を手に取ったのは、裏日本・環日本海の大物流ルートであった、北前船の航路「昆布ロード」について書かれた本を探す過程で。どんな学者さんの本もさすがに、実際日本海沿岸を船に乗って書いてはいませんが、吉岡さんは本物の船乗りだった(笑)。

 サラリーマン冒険家吉岡さんに負けないように、「北前ルート」を勉強して、自営業者研究家でも目指そうかな。

 『北前海道カヌー膝栗毛』読了後、読み始めたのは、司馬遼太郎さんの『菜の花の沖』。来年、竹中直人さんの主演でドラマ化されるようでこれも楽しみ。

【2 ネット上で知る】
http://peach.mis.ous.ac.jp/~horizon/harappa/_news/_news98/news98-28.html
 最新刊『四国三十三ヶ所カヌー膝栗毛』を紹介したページ。
 「定年後はのんびり旅ができると楽しみにしていたのに、役員に昇格するという内示を受け取ってしまった困惑」なども書かれているそうです。

【3 引用いいとこどり】
■ 「裏日本」出身者は大いに共感するでしょう。

「十二時十分、柏崎。
  突堤の先から港内をのぞいてみるだけで、寄り道をしていくこともない。この港もまた北前船の回船と共に栄えてきたのであるが、越後地方一帯の物資の集散地であると同時に、小千谷縮布(ちぢみ)の仲買人が旅立っていく港でもあった。商人達は高級な反物を担いで京大阪に出向き、中央の文化を持ち帰って特有の風土を築いてきた。こうした気風から柏崎は諸国の文人墨客が集まるところとなり、芭蕉も近松も、また近代文学黎明期以後も、この地を舞台とした数多くの文学作品が生まれ、「文学都市」と呼ばれるに至ったという。日本海を旅して思うのだが、こんな所にと思うような土地でありながら、中央との繋がりが残されて、その土地の人々の誇りになっていたり、またそうした繁栄がすっかり忘れさられていることに驚くことが多い。裏日本などという軽率な一語で片づけられてしまっているが、東京偏重の現代より行政も文化もかえって公平に広がっていったように感じられる。近代都市に変貌してしまった今日なお、柏崎には文学作品を生み出した風物が残されているのだろうか。「夜泣く鳥の悲しさは、親を訪ねて海越えて、月夜の海に消えてゆく」この海岸に立っているという浜千鳥の歌碑の一節である。子供の頃に口ずさんだ、詩も曲も涙が溢れるほどに悲しく懐かしい童謡を、ぼそぼそと唱いながら過ぎていく。」
(149-150P)

吉岡嶺二(よしおか・れいじ 1938- ) 山と渓谷社1989/08/30----ISBN4-635-28013-6




 夜、東苗穂の 新田「少年」昌宏 www.nittaoyako.com/ さん宅で、カホン奏者の 金井秀正 さんとの、CD録音へ向けてのリハ。
 新田君、幸せそう。

  新田昌弘CD「SHAMISEN KID」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20000309 ダニエル・キイス 『アルジャーノンに花束を』 / 死とは電子掲示板に書き込みできなくなること

ダニエル・キイス 『アルジャーノンに花束を』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」 より

ダニエル・キイス(Daniel Keyes 1927- ) 早川書房1999/10/15----ISBN4-15-110101-2

   *

【1 本と作者のデータ】
 「32歳になっても幼児の知能しかないパン屋の店員チャーリイ・ゴードン。そんな彼に、夢のような話が舞いこんだ。大学の偉い先生が頭をよくしてくれるというのが。この申し出にとびついた彼は、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に、連日検査を受けることに。やがて手術により、チャーリイは天才に変貌したが・・・超知能を手に入れた青年の愛と憎しみ、喜びと孤独を通して人間の心の真実に迫り、全世界が涙した現代の聖書(バイブル)」(カバー)
 ダニエル・キイス(Daniel Keyes)
 「1927年ニューヨーク生まれ。ブルックリン・カレッジで心理学を学んだ後、雑誌編集などの仕事を経てハイスクールの英語教師となる。このころから小説を書きはじめ、1959年に発表した中篇「アルジャーノンに花束を」でヒューゴー賞を受賞。1966年にはこれを長篇化した『アルジャーノンに花束を』でネビュラ賞を受賞した。その後、オハイオ大学で英語学と創作を教えるかたわら執筆活動を続け、『五番目のサリー』『24人のビリー・ミリガン』などを発表。現在は教職を退き、フルタイムの作家生活を送っている。フロリダ州ポカ・ラトン在住。」
版元 早川書房 1999/10/15 ISBN4-15-110101-2

【2 キイワード】
■ 「死とは電子掲示板に書き込みできなくなること」
 「死とはモーツァルトが聞けなくなることだ」と、かのアインシュタインさんの従兄弟、音楽学者でモーツァルト研究者のアルフレート・アインシュタインさんが言ったそうです。
  JAVASCIPT AND HTML AND MORZART http://village.infoweb.ne.jp/~fwga0010/
というホームページを運営されていたT先生の死を、T先生が管理人の電子掲示板の書き込み(もちろんご本人ではありません)で知りました。
 昨年、ある彫刻家の個展で偶然知り合ったTYさんが、T先生が指揮者を務める市民楽団のコンサートマスターをされていて、その方の紹介でT先生とお会いすることになりました。
 場所は、昨年春開校したばかりのデジタル系専門学校。T先生はそこの校長の職にあり、「いい講師がいなくて」というT先生の言葉をよく聞かされていたTYさんが、ぼくのことを推薦してくださったもの。

 講師着任のお話をすすめてくださるはずのT先生が病(膵臓癌)に倒れたこと(というかぼくの実力では結局勤まらない仕事だったでしょうが)で、話は伸び伸びになり、昨年末の二度目の面談で、「保留」を言い渡されました。

 当時ぼくの父はすでに治療不能の末期癌で病床にあり、それに比べ、T先生よく回復されたなあと思い、その健在ぶりを、ときどき掲示板を眺め喜んでいました。
 その掲示板を久しぶりに見たのはつい一時間ほど前。先月末にお亡くなりになったと、教え子らしき人が書き込んでいました。ご冥福を。

 上のURLにアクセスしてみました。つながりました。JAVASCIPTで書かれたであろう、カレンダーは正確に3月9日をさし、アクセスカウンターはカウントを続け・・・。
 「teacup」の無料掲示板も誰かが書き込みを続ける限り、消滅しない。

  正直言って、自分が書き込めない電子掲示板が、自分のいないまま継続されていくことを考えると、ゾっとします。おかしな「死の恐怖」。
 そういったある種の、現実の残酷さを生きながら体験することになった青年の話が、「アルジャーノンに花束を」です。

 世界的な大ベストセラーであり、有名な作品ですから、お読みになった方も多いことでしょう。
 なぜ、この本がそんなに長く強烈に人々に愛されることになったのか。

■ 「モーツァルトが聞けなくなってもいいじゃないか」
 ぼくがこの本を読むきっかけは、病床の父に与えられました。
 末期癌であることを告知され、自分の死期も薄々悟っていながら(あるいはそれゆえに)、最後まで好奇心を持つことを忘れなかった父は、NHKの「クローズアップ現代」に登場したダニエル・キイスさんを見て、ぼくに「アルジャーノンに花束を」を買ってくれと頼んだのでした。
 ベッドの枕元の「アルジャーノンに花束を」は結局読まれることはありませんでしたが。
 仮通夜の夜、葬式の日の夜(12月30日でした)、そして2000年問題の大晦日「アルジャーノンに花束を」を読みながら、Y2Kを迎えました。

 なんでもできるようになったチャーリイの結末での「退化」は幸せなものでした。
 超知能の天才が、知恵遅れの青年にもどる過程で、その残酷さから、完全解放されるのですから。
 この本が長く愛されているゆえんでしょう。

 賢い人間でいつづけるのも大変。なんでもできてみんなに期待される人はもっと大変。なんでもできるから、なにかをみつける時間もない。
 これは現代人なら、だれしも多少は持つ悩み。だれしも賢くならなければ、というプレッシャーを受けている。

 でもそれってほんとにそう? という軽やかな異議申し立てが「アルジャーノンに花束を」のなかにはあります。

 さて。

 自分は自分が聞けるだけのモーツァルトを聞いた、と思ってアインシュタインは逝ったのでしょうか。そうであってほしい。

 幸い、父は母に「幸せだった」と言ってから逝ってくれたようです。
 これは有難い。本当にエライと思う。
 「見るべきほどのものは見つ」の境地だったのかもしれません。

 ぼくは「掲示板の恐怖」から解放された状態で、その日を迎えることができるでしょうか。
 無理かな。
 ま、それはそれでいっか! という境地に運んでいってくれるのが、この「アルジャーノンに花束を」かも。

【3 ネット上で知る】
■ http://in.flite.net/~dkeyes/
 Daniel Keyes ホームページ。
 講演・サインの告知ページを見る限りでは、キイス先生、けっこうまめに動いている。三月十二日はマイアミビーチだ。

【4 引用いいとこどり】
■ 早川書房から昨年「ダニエル・キイス文庫」が刊行されました。
 その「日本語版文庫への序文」から。

「チャーリイはこう述べている。「知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ。しかし知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです・・・これをひとつの仮説として示しましょう。すなわち、愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ、知能というものは精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症ないしは精神病すらひきおこすものである。つまりですねえ、自己中心的な目的でそれ自体に吸収された、それ自体に関与するだけの心、人間関係の排除へと向かう心というものは、暴力と苦痛にしかつながらないということ」」(8-9P)





 8日深夜、何気なく電子掲示板の巡回閲覧をしていて、T先生の死をT先生の電子掲示板で知る。
 もちろん、その死の報告は、他人の(T先生の教え子らしい)書き込み。

 三か月近く書けないでいた「PORQUE? Book Review」、 ダニエル・キイス 『アルジャーノンに花束を』 の巻を、書く。
 T先生のことも書いた。
 アインシュタイン にとって、死とは モーツアルト を聞けなくなることだったが、いまのわれわれには、死とは自分の電子掲示板に書き込みできなくなることなのだ。

 平成十一年度青色申告、書類を税務署に提出。

 『冠婚葬祭』 宮田登 (岩波新書 1999/09/20)ISBN4-00-430630-2、読了。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

19991213 パッチ談義 / 高木仁三郎 『市民科学者として生きる』

 真冬の寒さ。
 もうパッチ(ズボン下@関西)をはくべき年頃かと。
 掲示板 http://www.booxbox.com/bbs/ に「パッチ談義」書き込み。

 タルバガン等々力政彦氏と、「TAIGAM」を、ラルフ・レイトン氏の「Friedns of TUVA」ホームページ上で販売してもらうか否か、相談メールをやり取り。
 金銭的な面でのメリットはまったくと言っていいほどなし。売値が安すぎる(日本のCD価格が高すぎるんだけど)ため。
 いっそ、アメリカ盤を作ってもらい、「Friedns of TUVA」が版権を持っているコンテンツの日本語版を booxbox から出せないものかと思い、等々力氏にその旨メール。





 高木仁三郎 『市民科学者として生きる』  「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」 より

【1 本と作者のデータ】
「「市民科学者として生きる
 専門性を持った科学者が、狭いアカデミズムの枠を超え、市民の立場で行動することは可能なのか。長年にわたって核問題に取り組み、反原発運動に大きな影響を与えてきた著者が、自分史を振り返りつつ、自立した科学者として生きることの意味を問い、希望の科学としての「市民の科学」のあり方を探る。」(カバー)
 「がんと闘いながら 明日への夢を語る 専門家と市民のはざまで模索を続けた一科学者の生き方」
---
 高木 仁三郎(たかぎ・じんざぶろう)
 「1938年 群馬県生まれ。
 1961年東京大学理学部卒業。日本原子力事業、東京大学原子核研究所、東京都立大学などを経て
1975年に原子力資料情報室の設立に参加し、86年から98年まで代表
1997年ライト・ライブリフッド賞受賞
  現在  高木学校主宰
  著書  『プルトニウムの未来』(岩波新書)
      『新版 元素の小事典』(岩波ジュニア新書)
      『宮澤賢治をめぐる冒険』(社会思想社)
      『市民の科学をめざして』(朝日選書)ほか」



【2 キイワード】
■ 推進者はインサイダー、反対者はアウトサイダー
反原発運動の活動家として名高い高木仁三郎さんの本を手にとったのは、やはりあの東海臨界「バケツ」事故がきっかけでした。
 日本国民のみならず世界が、日本の原子力産業・原子力行政の「インサイダー」業務ぶりに驚いたわけですが、原子力黎明期のインサイダーから「過激な」アウトサイダーへと、劇的な転回をした高木さんの次のような証言は、説得力があります。

 ちなみにこの本はあの事故の直前に発売されました。

「この世界(田原注・原子力産業のこと)では、最初から推進・反対の色分けが重要で、推進者はインサイダー、反対者はアウトサイダーとして締め出されていく。原子力の会社に入ったからといって、当時はまだ原子力発電も行われていない頃で、皆が原発推進の妥当性を確信していたわけではなく、とくに私のいた研究部など何をやるか手探り状態だった、にもかかわらず、原発推進の旗振り役を暗に期待されていく。
 このような特徴は、国際的に原子力産業には共通で、おそらく軍事開発から始まり常に軍事的に機微な側面を抱えるこの技術の性格と、産業が技術の成熟を待たずに強引に政治的に形成されてきたことから来ているにちがいない。しかし、後年の私の経験からして、日本の原子力産業の閉鎖性と構成する個々人の判で押したような均質性は世界的にもとくに異常である。
---
 思うに、日本型企業の前近代的性質と、先端的な原子力産業とが、閉鎖性と没個性という点で、奇妙な一致点を見出し、ムラ社会的とよく表現される独特な体質をもった原子力産業が形成されていったのではないだろうか。」
(87-88P)

■ 「本気」
 私もどうも、「見る前に跳」び、「歩きながら考える」タイプのようです(困ったもんだ)。下の「本気」文には励まされます。
 「反原発というのは、何かに反対したいという欲求でなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である。」
 すごい言葉ですね。

「総じて、大きな失敗や挫折へと導かれても少しも不思議でないような、無謀でひとりよがりの試みが、多くの人々の好意的な支えによって、一応社会的な意味のある営みとして評価してもらえる形で結実し得たことは、大きな幸運と呼ぶべきであろう。当初は将来についての明確な見通しなどなく、「見る前に跳べ」式に始めて、後は「歩きながら(走りながら?)考える」式で夢中に生きてきただけだ。
  (中略)
 幸運という言葉はふさわしくないかも知れない。私が病に倒れた時、友人のKさん夫妻が、長野県の別所温泉まで行って、安楽寺の住職さんの書の額を買い求めて来てプレゼントしてくれた。次のような書だった。
    本気
  本気ですれば
  大抵のことができる
  本気ですれば
  何でもおもしろい
  本気でしていると
  誰かが助けてくれる
---
 Kさんは、これはお前のことだよ、というのである。
  (中略)
 この「本気」を、もう少し分析していくと、確信と希望ということに尽きると思う。理想主義者の私は、核のない社会が必ず実現する(出来うれば自分の目の黒いうちに)ことへの強い確信をもっている。さらにそのことのために本気になれば、私自身が少なくとも一人分の貢献ができるだろうことへ、確信と自信をもっている。だから、私はいつも希望をもって生きていられる。先天的な楽天主義者と評されたが、それでよい。生きる意欲は明日への希望から生まれてくる。反原発というのは、何かに反対したいという欲求でなく、よりよく生きたいという意欲と希望の表現である。」
(220-222P)

【3 ネット上で知る】
■ http://www.jca.ax.apc.org/cnic/
 原子力資料情報室 日本語ホームページ。
 NPO「原子力資料情報室」。賛助会員になることで、われわれも、その活動をバックアップできます。
http://www.rightlivelihood.se/index.html
 the Right Livelihood Award official website

 ライト・ライブリフッド賞(RLA)は、「環境、平和、人権の分野では「もうひとつのノーベル賞」と呼ばれる賞」(5p)。高木さんは1997年度の受賞者。
 Award Recipients 1980-1998 http://www.rightlivelihood.se/recipients.html
 を見て、日本人受賞者の少なさがちょっとさびしく感じられるのは私だけでしょうか。

【4 引用いいとこどり】
■ この本は「癌闘病記」でもあります。
 読了した11月1日は私の父の68回目の誕生日(いかりや長介さんと同生年月日!)でした。
 実は父は私の故郷の利尻島で闘病中で、その病状の推移は、下記引用文中の高木さんのそれとよく似ているのです。
 この本を手にするまで、いささか滅入っていた(この歳になって父から与えられたものにむくいられるものがないなんて!)のですが、下の「死の予感のもとで」を読んで、少し気が晴れました。
 先日、NHKの「クローズアップ現代」にダニエル・キイスさんが出演したのですが、その番組を病室で見たらしい父から『アルジャーノンに花束を』を買って欲しいというリクエストを受けました。
 近々、見舞いに行く予定ですが、そのときまでに私も「アルジャーノン」を読み終え、その本の話でも父とできればと思っています。

 「気力」という言葉を実感しました。

「死の予感のもとで
 この章の記述は、私のこれからの人生への展望とそれに関連して新しい世紀に向けた構想と期待について語るべきためのものだ。しかし、私はそれを私の病床での体験から始めないわけにはいかない。
---
 原発の大腸がんの手術のための入院から、今、本書の最後の部分にとりかかっている一九九九年五月まで、約一〇カ月が過ぎた。その間に大腸がんの手術、転移した肝臓がんの摘出手術、転移したリンパ節の腫れへの抗癌剤治療などと一〇カ月程の間に大小五回の入退院を繰り返し、半分以上を病床で過ごして来た。
---
 実は、本書の草稿のほとんどは、抗癌剤治療中の癌研付属病院のベッドの上で下書きされたのである。先行きの見通しが分らない段階で、作業の終結を急ぎたかったという理由の他に、ベッドの上の作業がふさわしいかも知れないと漠然と感じた、という内的な動機もある。
---
 病床にあって、肉体的に極度に苦しんだ時期、いったんは近い将来の死を覚悟した時期もあったので、どう死んでいくべきか、というようなことを、自分の残りの人生の重要な要素として、かなり考えた。病床にあると、かなり本が読めるだろうと思っていたのだが、実際には痛みや下痢などの症状、点滴、眼や手足、腰の疲れなどでほとんど本は読めず、その分だけ、CDの音楽をバッググラウンドにしながら、ひたすら物を考えていた。
---
 心の問題として現実に死に備えようとしてみると、まったくこれまで考えてもみなかったことなので戸惑うことが多く、心は乱れた。ある時は、数カ月のうちに自分は死ぬのではないかと思い、ある時は少なくとも四、五年は大丈夫だろうとも思った。今は、予測できない要素も多いので、とりあえず今世紀末(二〇〇〇年末)までは、生きてある程度の活動を続けられる、それ以内ならそれはそれで受け容れる、それ以上生き延びられるようなら、「おまけ」として楽しもうと、勝手に心に決めた(また変るかもしれないが)。そして、もう寿命問題には、なるべく悩まされないようにと思った。そう思ったらずい分気持が楽になった。
---
 そうなると、考えることは、遠くない将来の死を設定したうえでの、その期間をどう生きるかという問題と、死の瞬間にどう備え、死後をどう考えるかという問題が残る、この後者の方には、すでに何冊もの本がある(その多くは宗教的ないしスピリチュアルなもの)が、当面の私の関心の対象ではない。
---
 少なくとも「来世」を信じる立場ではないから、死後の問題も、私がこれからの余生をどう生きるかという中で考えていくしかない。私は次のように考えた。
---
 人が死ぬと、大勢の人が集まってきて弔いを言い、追悼の意を表明する。私自身も少なからぬ追悼文を書いた。それ自体に嘘はないが、死者自身はもはや聞く耳をもたないから、それは死者の家族やまわりの人に献げるものだったり、自分自身の気持の整理や決意の表明だったりする。それが宗教的にも、また、とくに死者の家族との関係にお いても大きな意味をもつことは否定しないが、私は、死者本人にとっては、「哀悼の意」など意味がない、それだったら生前にもっと話したり、共に作業をしておくべきだったといつも思う。人々が忙しいから、なかなかその余裕がないということもあるが、もっと大きな理由は、人の死が突然に訪れたり、もうほとんど何もできないような病状になってから周囲に知らされるからである。
---
 しかし、ガンという病気は不思議な病気で、多くの場合、ある時に確実に死は訪れるし(もちろん消えてなくなる場合もあるのだが)、そのことを予期できる。しかもその間本人は多くの場合、案外元気で動くこともできるのだ。そであるならば、この時に、死すべきものと生き残るべきものの交感を、涙など交えずに(涙してもよいが、後向きでなく)、前向きにやっておくべきではないか。
---
 私はそう考えた。そのように、この期間を積極的に利用することで、私のメッセージをより直接的に多くの人に伝えられるし、私が死んだ後も、多くの友人たちを通して私の歩んで来た道、志、反省などが、後の世代に生きていくことができるのではないか。「来世の生まれ変り」は信じないが、自分から打って出て、私の命を次の世代につないでいくことができるのではないか。生前葬という考えがあり、それを実行している人はいるが、もっと積極的に私は考えているつもりだ。
---
 そう考えると、死を予期するということが、少しも悲しいことでも、恐ろしいことでも、後向きのことでもなく、きわめてポジティブな意味をもって私の胸いっぱいにひろがってきた。
---
 最初からそこまで意図したことではなかったが、そういうメッセージをなるべく本書に盛りこみ、それを携えてなるべく多くの全国の人々に会い(エネルギーが許すなら行脚し)、交感し、明日への希望について語りたい。そうすることで私は明日を生きることができるし、今日生きる力も新たに湧いてくる。不安の中で気持が揺れる部分がないと言えば嘘になる(私のように脆弱にできている人間にとってはあたり前のことだ)が、死の予感を生きる力にできるという確信は、まったく予想もしなかった形で私をとりこにした。」
(234-237P)

高木仁三郎(たかぎ・じんざぶろう 1938-2000) 岩波新書1999/09/20---ISBN4-00-430631-0



| | コメント (0) | トラックバック (0)

19991103 長谷川真理子 『科学の目 科学のこころ』 / 自営業者には休日なんてないのさ

長谷川真理子 『科学の目 科学のこころ』  「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」 より

【1 本と作者のデータ】
 「「科学の目 科学のこころ
 膨大な科学的知識の消化よりも、科学の基本にある考え方や意味についての確かな理解こそ、現代の私たちにとっては大切なことだろう。著者は、根っからの理科系でも文科系でもないと自称する生物学者。クローン羊の誕生、ムシの子育て、イギリスでの見聞など、多彩な話題をおりまぜながら、科学と人間と社会について考えるエッセイ集。」(カバー)
 長谷川 真理子(はせがわ・まりこ)
 「1952年 東京都生まれ。
  専攻  行動生態学
  現在  専修大学法学部教授。
  著書  『進化とはなんだろうか』(岩波ジュニア新書)
      『クジャクの雄はなぜ美しい?』(紀伊国屋書店)
      『オスとメス=性の不思議』(講談社)ほか 」

【2 キイワード】
■ 「サイエンティフィック・リテラシー」
 「ウラン・バケツ」事件から一ヵ月たちました。
 インサイダーたちだけで密室内で決定される事柄に対して、第三者によるチェック機関や情報公開が必要なのは確か。
 でもその情報を読みこなせるだけの「科学的識字」能力がないとしたら・・・。

「ここで取り上げたいのは、サイエンティフィック・リテラシー scientific literacy ということだ。これは、識字(文字の読み書きができること)のことをリテラシーというように、科学の考えに習熟していることをさす。二〇世紀も終わろうとする世界に住んでいる私たちは、これからの世代に対して、どこまでのサイエンティフィック・リテラシーを求めるべきなのだろうか?」(56-57P)

 「たとえば、医療におけるインフォームド・コンセントの問題、せっかく患者の人権を尊重し、自らの治療に関する自己決定の機会を与えようとしても、患者自身に、科学的にものを考える態度がなければ始まらない。個々の事実はそのとき教わればよいが、基本的な科学の方法に慣れていなければならない。また、環境にやさしい商品を選ぼうとしても、何に注意し、何を信用してよいのか、情報を整理し、情報の価値を判断し、複数の可能性を査定するなどの思考方法が必要である。

 また、オウム事件のときにさんざん言われたが、自分の研究だけの狭い視野しか持ち合わせていない科学研究者を作っていくのは危険である。科学の方法とその限界、科学と社会の関係など考えたこともない研究者は、やはりサイエンティフィック・リテラシーに欠けるといえるだろう。」
(57-58P)

 自然環境破壊は、直接的な被害だけではなく、人間の「サイエンティフィック・リテラシー」を低下させるという間接的な被害をもたらすのではないでしょうか。
 自然の「自然」な姿を知らない人には、自然環境の破壊も何もないわけですから。
 それにしても、「ウラン・バケツ」みたいなものをチェックする機能のない「原子力推進国家」、考えようによっては独裁政権国家より危険です。国際的な懲罰とか監査とかないものでしょうか? すでにあったんでしょうか?

■ 「コンコルドの誤り」
 同意語句を知っています。
 「わかっちゃいるけどやめられない」(青島幸男作詞「スーダラ節」)。

「コンコルドは、開発の最中に、たとえそれができ上がったとしても採算の取れないしろものであることが判明してしまった。つまり、これ以上努力を続けて作り上げたとしても、しょせん、それは使いものにならない。ところが、英仏両政府は、これまでにすでに大量の投資をしてしまったのだから、いまさらやめるとそれが無駄になるという理屈で開発を続行した。その結果は、やはり、使いものにならないのである。使いものにならない以上、これまでの投資にかかわらず、そんなものはやめるべきだったのだ。
 このように、過去における投資の大きさこそが将来の行動を決めると考えることを、コンコルドの誤りと呼ぶ。」
(14P)

 「コンコルドの誤りは、人間の活動にしばしばみられる。元祖のコンコルドもそうだが、作戦自体が誤っているのに、これまでにその闘いで何人もの兵隊が死んだから、その死を無駄にすることはできないといって作戦を続行するのもその例である。過去に何人が犠牲になったかにかかわらず、将来性がないとわかった作戦はすぐにやめるべきである。」(15-16P)

 「大陸移動説を提出しウェーゲナーに対し、その当時のアメリカ地質学会の大物の一人は、「大陸が安易に動くなどという考えが許されるならば、われわれの過去数十年の研究はどうなるのか?」といって反対したというが、これなどは、過去の投資に固執する考えを如実に表わした言葉といえるだろう。

 ところで、コンコルドの誤りは、人間が動物の行動を解釈するときに犯す過ちであって、動物自体がコンコルドの誤りを犯しているのではない。コンコルドの誤りは誤りなのであって、誤りであるような行動は進化しないはずだからである。ではなぜ人間の思考はコンコルドの誤りを犯しがちなのだろうか? この誤りには、何か人間の思考形態に深くかかわるものであるように思われる。」
(16-17P)

 その思考形態が選択したのが「大量生産・大量消費」の世界?
 「原発推進」が「コンコルドの誤り」でなければよいのですが。

【3 引用いいとこどり】
■ 国連の発表によれば、先月、世界の人口は六十億を越えました。

「実際問題として、地球の生態と人口がどのような軌跡をとるかは、生態学者や経済学者のモデルが誤差の範囲内で正しく現実を予測し得たかどうかとは別に、多くの人々の運命を左右する。そして、悪い運命のほとんどは、途上国の人々に襲いかかるのだ。
 現在の地球人口は、先進諸国と途上国とで、約一対四の割合で分布している。そして、この二つのグループは、「金持ち」と「貧乏人」として世界を二つに分けている。「金持ち」の年間人口増加率はたった〇・一%だが、「貧乏人」の増加率は一・八%である。「金持ち」の幼児死亡率はたった〇・九%だが、「貧乏人」のそれは六・四%である。「金持ち」の平均年間GNPは一万九三一〇USドルだが、「貧乏人」のそれはたった一一二〇USドルである。そして、「金持ち」の一人である日本人が想像するのとは違って、「金持ち」の人口密度が一平方キロ当たり二二人なのに対し、「貧乏人」のそれは五五人である。

 これらの数字だけからでも、「金持ち」がいかに楽な暮らしをし、「貧乏人」がどれほどひどい生活状態にあるかが予測される。「金持ち」国の上から二〇%が、世界の富の八四・七%を支配しているのに対し、「貧乏」国の下から二十%は、世界の一・三%の富しかもっていない(一九九一年において)。この不平等は、以前から指摘されているにもかかわらず、近年、差はますます広がりつつある。」
(146-147P)
□ なんだかネガティブな引用ばかりになってしまいました(陳謝!)。
 著者長谷川真理子さんの「目」「こころ」は優しく柔らかなもの。
 読んでみて確かめてちょ!

長谷川 真理子(はせがわ・まりこ1952- ) 岩波新書1999/07/19---ISBN4-00-430623-X






 画像処理仕事@「OLD BRICK HOUSE」。午前十時半から午後四時。

 仕事場での様子を「BooxBox BBS注文の多い掲示板」への書き込みから引用。

[AREA]りんだ・りんだ 投稿者:BooxBox 田原ひろあき  投稿日:11月04日(木)20時12分30秒
 札幌の女性DJ りんだ さんから届いた、 タルバガン http://tarbagan.net/ 出演のラジオ番組収録CDを 嵯峨治彦 http://tarbagan.net/saga/ さんから借りて聞きました( 等々力政彦 http://tarbagan.net/riki/ さんに送るもの)。
放送は今年の7月6日、収録は7月2日( 「TAIGAM」 www.booxbox.com/works_a901.htm の録音当日!の夜)。


  タルバガンCD「マイ・タイガ -タイガム-」


放送局は 「AirG」 、番組は 「インディーズマニア」 。

 番組名通り、札幌近辺のインディーズを紹介するというもので、常連リスナーはいきなり馬頭琴やら喉歌やらが聞こえてきて驚いたことでしょう。
 ライブ情報も 「キタラ小ホール」 、他の正統派(!?)インディーズが正統なライブハウス等での演奏らしいのに比較すると、なんだかおかしい。 

 DJのりんださんは若くてかわいいいまどきの女の子。かつ賢げで礼儀正しい。
 一度彼女に会ったことのある田原はすっかりファンになっていて、放送局に向かう二人が羨ましかったさ。(田原は録音場所の 芸術の森 アトリエでお留守番)
 しかし帰ってきた 等々力 さんもけっこう「りんだファン」化してたぞ。

 今日画像処理現場@OLD BRICK HOUSE(Hard to Find CD [OLD BRICK HOUSE]のジャケット写真の建物!)でなにげに AirG を聞いていたら、りんだ さん登場。
 近々、四丁目プラザ @札幌中央区の 自由市場 で行われる放送局のフリーマーケットに自作アクセサリーを出品させるらしい。(オヂサン、行っちゃおうかな)

 番組内では、 セルジュ・ゲインズブール (正しいフランス語の発音を反映しているとは思えないんだけど・・・)の話をチラとしてました。
 四十歳フランス男ゲンズブールが出会ったのが、二十二歳イギリス女 ジェーン・バーキン 。以後十数年、あの関係が続く・・・。

 でまあ、一人、画像処理仕事をしながら、「オヂサン」とは?とか考えてたのさ。考えても考えなくても「オヂサン」なんだけどさ(爆)。
 大体が、若くてかわいい女の子がいたらファンになっちゃうね。節操がない。
 でもゲンズブールみたいに、ウケちゃったらそれはそれで大変かなと。

 以上まったく脈絡のないオヂサン系戯言書き込みでした。
 サッカー・ナビスコカップをTVで見る。「鹿島アントラーズ対柏レイソル」。
 レイソルPK戦で勝利。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

19991007 池澤夏樹 『むくどり最終便』

池澤夏樹 『むくどり最終便』
  「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」 より

【1 本と作者のデータ】
  「秘境とインターネット。DM撲滅の秘策おしえます。駅弁、緑閃光、ポル・ポトの死。旅、風、手、本、花。水着の少女たち。百年待とうか。夜の野外。東経123度45分6・789秒。むくどり作家はどこに飛ぶ?
   馬毛島を提案します/模型趣味回顧/アラスカに咲く花/鉄道食における陶器利用の研究/パスタ・ブリッジ/カレーへの決意/鬼の目にも自然保護/いまどきの敬語/バリで公金横領について考える。沖縄県知事候補大田昌秀応援演説--「目次」から」(カバー)
---
 池澤 夏樹 (いけざわ・なつき)
 「1945年 北海道生まれ。
  埼玉大学理工学部中退。
  75年から3年間、ギリシャに滞在。
  1988年 『スティル・ライフ』で第98回芥川賞受賞。
  1993年 『マシアス・ギリの失脚』で谷崎潤一郎賞受賞。
  現在  読売新聞に『すばらしい新世界』連載中。
  著書  『夏の朝の成層圏
      『バビロンに行きて歌え
      『マリコ/マリキータ
      『母なる自然のおっぱい
      『南鳥島特別航路
      『ハワイイ紀行
      『エデンを遠く離れて』ほか多数 」


【2 私の身に何が?】
■ 「書評」についての文章でいろいろ考えました
 「あなたが本屋さん」という文章。いろいろ考えさせられます。
 1998年前半に書かれたらしい池澤さんの文章を引用しますと、

「出版点数があまりに多いので、読者も自分がどういう本が読みたいのかわからなくなっている。一年に数万点も出たのでは、その時々、市場に提供されている本全部を知るなんて普通の人にできることではない。広告にはいいことしか書いてない。もう一つ踏み込んだ情報が欲しいと消費者は考える。
 そこで書評屋という商売が成立するわけだ。広告ではなく中立の立場からいい本を紹介する仕事。新聞や雑誌には必ず書評欄があるし、書評の専門誌、専門書もいろいろ出ている。
---
  書評者の任務は本の内容を紹介すると同時に、自分の責任においておもしろいですよと推薦することだ。読者がその本を選ぶ指針になるわけで、取り上げる一冊ごとに書評者自身の眼力が問われる。あの人が推しているのだからと買ってつまらなかったら、次から信用されない。」

 信用されているだろうか・・・。
 さらに。amazon.com(http://www.amazon.com/)を念頭に置いているんですよね。

「アメリカでおもしろいシステムが作られた。ホームページはだれでも開くことができる。そこで、自分のページを作って、読んでおもしろかった本について自分なりの書評を掲載する。おもしろかったと思うものを力を込めて推薦する。それを読んだだれかがこのホームページ経由でその本を買った場合、書評者に何パーセントかのコミッションが入る。
 つまり、個人単位の書評サイトを統括するネット上の仮想書店を作るわけだ。注文はすべてオンラインで受け、商品は郵便や宅急便で届ける。その気になれば今すぐ日本でも作れるはずだ。」

 その後、日本でも、こういうページが立ち上がりました。
 ブックレビュー http://www.bookreview.ne.jp/
 しかし、すでに、書評・書評ページを書評する眼力なしには、情報の海に沈むしかない状況になりつつあるようで・・・。

■ 「六年は長い歳月かどうか」について考えました
 六年間にわたって「週刊朝日」に連載された「むくどり通信」は、六冊の本になりました。
 『むくどり通信』『むくどりは飛んでゆく』『むくどりは千羽に一羽・・・・』『むくどりの巣ごもり』『むくどりとしゃっきん鳥』そして『むくどり最終便』。
 「むくどり通信」を手に取ったのが今年の五月。作家の六年を六か月足らずで読み終え、「六年は長い歳月かどうか」について考えました。この六年、何が変わり何が変わらなかったのか。。

 東海村臨界事故なんかを見ると「臭いものにはフタ」体質は変わらないのか(ついでにいえば、「臭いものは臭い!」という人は追放、「大田昌秀はなぜ嫌われたか」というのが「むくどり」シリーズのブービーメーカー文、体質も変わってないかも)と悲観的になってしまいます。

 同時に、この六年間のインターネット世界の進展を見ると、まだ望みがないわけでもないのかな、とも思ったり。

 生かすも殺すも、ですが。

【3 引用いいとこどり】
■ 「夢のような話」@「家の中の発電所」- - - - - - -

「(前略)どうもぼくは国単位の大きな社会をあまり信用していないらしい。分散型の、せいぜい村単位の、ローカルなシステムがいい。実際にはまったく無理な話なのだが、できることなら自給自足で暮らしたい。電気も自分の家で作りたいと思っている。だから燃料電池に興味を持った。しかし、そうなると、ガスの供給に縛られる点が中途半端。
 いちばんいいのは太陽光や風力で発電することだ。これならば自分の家の敷地内で完結する。ただ、この種の自然エネルギーに頼る場合は、供給と需要の差を吸収してくれるような効率のいい電池が必要になる。電気自動車の研究に期待しよう。あとは暮らし方を変えて、節約の姿勢を身につけること。
---
 夢のような話だけれど、二昔前、自分専用のコンピューターは夢のまた夢だった。」
(114P)

□ 原子力、危ないんじゃないの、というと、「電力の三割はすでに原子力でまかなわれている」とか「じゃあ、電気のない生活ができるのか」という、反駁がすぐ返ってくるのですが。
 じゃあ、あなたの子孫が未来永劫、核廃棄物に埋もれて暮らしていくのがわかっていてもあなたはそれをよしとするか、という問いには、誰も「よしとする」とはいえないこの現実。
 うーむ。われわれが「核」に慣れっこになっているのと、JCOの人達がウランに慣れっこになっているのと、どっちもどっちのような気もしてくる・・・。といってもしょうがないんで・・・。

 まず、電力消費量を減らしましょう。代替エネルギーの実現化に力を注ぎましょう。その過程での、不便・貧乏に耐えましょう。
 夜更かししちゃいかんよ、ってもう深夜二時半か。
 途遠し・・・。

池澤 夏樹(いけざわ・なつき1945- ) 朝日新聞社1999/05/01---ISBN4-02-257371-6



| | コメント (0) | トラックバック (0)

19990901 池澤夏樹 『むくどりは飛んでゆく』 / 風の盆的偶然

池澤夏樹 『むくどりは飛んでゆく』  「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」 より

   * [むくどり通信 雄飛篇] 池澤夏樹

【1 本と作者のデータ】
  「沖縄に巣をかまえた「むくどり」作家 コザのライブハウスや座間味島の清明祭に顔を出し、年間170日を海外に飛ぶ。ダライ・ラマの説教を聞いても雑念は去らず、インドネシアでさわやかなえびを食べる。」(カバー)
 池澤 夏樹 (いけざわ・なつき)
 「1945年 北海道生まれ。
  埼玉大学理工学部中退。
  75年から3年間、ギリシャに滞在。
  1988年 『スティル・ライフ』で第98回芥川賞受賞。
  1993年 『マシアス・ギリの失脚』で谷崎潤一郎賞受賞。
  現在  読売新聞に『すばらしい新世界』連載中。
  著書  『夏の朝の成層圏
      『バビロンに行きて歌え
      『マリコ/マリキータ
      『母なる自然のおっぱい
      『南鳥島特別航路
      『ハワイイ紀行
      『エデンを遠く離れて』ほか多数 」

2 私の身に何が?】
■ 資金調達法について考えました
 「まとまったお金」という文章には沖縄の「模合(もあい)」のことが書かれています。
 日本古来の庶民の資金調達法として存在した「頼母子講」「無尽」。それが「模合」という名前で沖縄には残っているのだそうです。

 ポルケ読者エレーナ・ジャマモトさんの名作『南米ホラ話、これでいインカ』にも、こんな文章がありました。

「ペルーの日系人社会には「タノモシ」という集会がある。 頼母子(たのもし)講のシステム(無利子、無担保の民間相互貸し付け)の変形なのだが、現代の日本では耳にしなくなった言葉である。鎌倉時代から始まったといわれる金融制度が、ペルーの日系社会にまだ生きていたのだ。
 タノモシは、インカ時代から続く末裔ケチュア族の、アイユ(親族集団)によるアイニ(相互扶助)によく似ている。タノモシの金銭の融通と、アイニの労働力の交換の差こそあれ、それぞれの家庭の事情や人脈などの情報が交差している様子に接すると、より強い血族の団結を求めているようにも思える。」
(アンデスのクランデリスモ(呪術的世界)より)

 池澤さんの文章を引用しますと

「模合と呼ばれるこの制度を説明しておこう。十人ぐらいで毎月集まって、一定の金額を出す。そしてその月ごとに籖を引いたり、お金が必要な人が名乗り出たりして、集まった金額を受け取る。その人は次の回からは払う額に少々の利子を付けるから、早く落とした人ほど最後までの間にたくさんの利子を払わなければならない。これがいかに盛んかは、沖縄の文具店では「模合帳」という特別の帳面を売っているぐらいだと言えばわかるだろう。」

 いままで自己資金のみで細々とやってきた田原ですが、その方法も今制作中のタルバガン2nd CD までかも。
 これからどう資金調達するべきか考えなくてはならないのですが、私が計画する規模の事業なら、金融機関や公的資金に頼るという方策とはべつに、サポーターシップ的「模合」制度を導入することも可能かと思いました。

 一定金額の制作費援助をお願いし、完成後、ソフトとともにお預かりした金額をお返しする。ソフトが利子になるわけですか。
 CDジャケットには、模合参加者の名前がクレジットされる。
 法的に可能なのでしょうか? 

 それはともかく。
 市民金融の会社が今大繁盛しておりますが、いいのか悪いのか。
 金融機関の再編とともに、一般庶民は「平成の頼母子講」システムを構築していくことも必要なのではないか?

 ネットワーク社会には、そんな新しい社会システムの可能性が眠っているかもしれません。

■ 「コンブロード」について考えました
「二番が那覇、水戸がビリ」という文章には北海道昆布の流通のことが書かれています。
 日本海=北前船航路=昆布の道、に関心を持ち続けてきた田原にはわが意を得たり、の内容。
 池澤さんの文章を引用しますと

「日本の各地での昆布の消費についておもしろい統計がある。塩昆布と佃煮まで含めて最もたくさん昆布を買っているのは富山の市民。煮物用の昆布に限定すれば最大の消費者は那覇の住民。逆に昆布にいちばん縁のない生活をしているのが水戸。」

 日本海の北前船(先日佐渡の音楽集団「鼓童」の音楽祭に参加するため佐渡島まで行ったのですが、鼓童のマンジメント会社は「北前船」という名称でした)航路は、北海道(当時は蝦夷)から世界有数の商都大阪まで、さまざまな物資を運搬したわけですが、特に昆布は、さらに南へ、ついには中国まで流れていったのです。
 琉球を支配化においた薩摩藩が、琉球王国を使っての中国との貿易で莫大な利益を上げ、それが倒幕の資金となったのは有名な話。
 その中国貿易で、実際船を管理していたのは、富山の廻船問屋で、役得で漢方薬の材料を受け取る。富山の売薬さんはその足で日本中の地域情報を収集し、薩摩藩にリークするという、スケールの大きな話。

 その当時からの人の流れが、今の私が北海道に住む由縁に繋がっていくわけです。

 周縁(北海道・日本海側・沖縄)の土地が、元気になることが、この国全体の元気回復につながる、なんて大きくでたいものです。

【4 引用いいとこどり】
■ 「高橋竹三対大工哲弘」@「けんか三味線」- - - - - - -

「(前略)まいったと言いながら、昔々、八重山民謡のこれまた名手大工哲弘が那覇の琉球新報ホールという舞台で高橋竹山さんにコロされかけた話を思い出した。コロされるのはもりろん芸の上の話。竹山さんの津軽三味線と大工の三線で早弾きの技巧を競いあったあげく、大工の方が負けて引き下がった。この一件は沖縄では語りぐさになっている。加賀の山中で竹山さんのお弟子の三味線を聴きながら、なるほどそういうこともあったかもしれないと納得した。
  (中略)
 一方、沖縄の三線はまるで違う。競争の興奮ではなく、場を盛り上げて、踊りを引き出し、そこにいる全員を楽しませるために弾く。共同体の繁栄を祈り、神々を喜ばせ、生きて世にあることの幸福を確かめる。一九七三年のあるコンサートの席で高橋竹山は「三味線を弾くということは辛いもんでありました」と語っているが、沖縄の三線弾きにはこれは理解できない言葉だろう。好きで好きで、おもしろくてしかたがないと思って弾いているうちに腕が上がる。三線とはそういうものだ。
 コロされかけた数日後、大工哲弘は石垣島の会場でやはり竹山さんと対決することになり、今度は島の名曲「とぅばらーま」をゆっくりと延々と弾いて歌って、雪辱を果たした。勝負の姿勢を捨てて、八重山の歌本来の力を悠然と見せた。こういうことができるから歌はおもしろい。」
(14-16P)

□ 血のにじむような努力が、一人の天才を生み出すことはあっても、そこから自然な環境を生まれるということにはならないようです。

■ 「風力発電の風車」@「ナウシカの発電所」    - - - - - - -

「風車と木の写真が載っていたのは『ここまできた風力発電』という本である(松宮 著、工業調査会刊)。タイトルのとおりの正直な内容の本で、要するに風の力で発電しようという技術と計画が今どういう段階にあるか、世界の現状を紹介してある。
 風はいつでも吹いているし、なんといってもただだ。高い重油を燃やして二酸化炭素を出す火力発電や、危なくて後始末も厄介な原子力発電に比べたら、安くて安全でいいことばかり。日本中にこれを並べればいいではないかと、宮古島の風車を見た時に思った。しかし、この本を読んでみると、素人が考えるほど簡単なことではないようだ。
  (中略)
 ヨーロッパには二〇三〇年までに電力の一〇パーセントを風力発電で供給しようという計画があるという。肝心の日本について松宮さんは「遅れているものの、すこしずつ前進している」と書いてある。
 『風の谷のナウシカ』が住む村にはたしか風車が並んでいた。あれと同じように、日本中の小高い丘に大きな風車が立ちならぶ日が来るのだろうか」
(208-209P)

□ 1994年末に書かれたらしき文章。五年の歳月を経て、まだ日本中とはいかないものの、風車の風景が随所で見られるようになりました。


池澤 夏樹(いけざわ・なつき1945- ) 朝日新聞社1995/05/01---ISBN4-02-256848-8


 「PORQUE?」「むくどりは飛んでゆく」。

 富山で風の盆、始まる。
 因縁めいた話になった。

 BooxBox BBSへの自己書き込みの引用。

[AREA]風の盆@富山 投稿者:BooxBox 田原ひろあき  投稿日:09月02日(木)00時11分01秒
  今作りたいなあと思っている音楽作品は、北海道から日本海沿岸、大阪・沖縄をつなぐコンブ・ロード「昆布の道」をテーマにしたもの。
 今でこそ「裏」になってしまった日本海側がかつては物・人・文化の一大流通路だった、ということを、音楽を通して表現してみたい。

 アイヌの音楽に始まって、琉球民謡で終わる、んじゃないかな、きっと。
 演奏される曲は当然、いわゆる民謡になるんでしょうが、もちろん民謡系の人が歌うわけではない。ソウウフラワーモノノケサミットの「貝殻節」が一つの目安。
 あと、タルバガンの「メジェゲイ/こきりこ節」(これはちょっと過大評価?)

 でもって、最近は日本の民謡のCDを図書館から借りてきて聞いてる(セコイ!)
 でもって、ちょっと悲しくなる。それで聞く民謡って詰まらない。
 人口わずか二十数万人のトゥバ民族が「民謡ユニット」フーンフールトゥを生んでいるのに、と思うとなんかもやもやする。

 たとえば「鼓童」なんか一年の三分の一を海外で公演しているそうですが、あの 演奏が日本のルーツミュージックなのか、と聞かれるとちょっとそうは思えない。
 日本人が日本の音楽をやっているにしては、エキソチシズム過多ではないか、という考えが頭を離れない。どんな体力勝負の楽曲も、頭脳労働者の仕事に見え。

 沖縄って、やっぱりすごいと思う。北海道の昆布(確か日高産が多いはず)を、完全に自分たちの食材に発展昇華させてしまったように、自分たちの音楽的なアイデンティティを失わないまま、外来音楽を飲み込んで新しい音楽を作り出す。音楽が完全に生活の一部になっているから、打たれても、音楽から立ち直ってく。

 風の盆のことを書こうと思ったのに・・・。

 今日借りてきたのは「決定版日本の民謡8中部・北陸」ビクター「VICG-2066」。
 胡弓が使われている富山県の民謡が耳につく。「越中おわら節」「麦屋節」「新川古代神」。胡弓はないが、「こきりこ節」「帆柱起し音頭」。
 母方の祖先は富山の出なんだよなあ、と思い起こして、本棚の一冊の本に目が。

 「林秋路板画集 越中おわら風の盆」という本。確か親戚かなんかで、と母親が言ってたっけ、と思いながら奥付けを見ると、発行日がなんとちょうど二十年前、1979年9月1日。おやおやまあまあ、ってんで、母親に事実関係を確認のため電話。
 「風の盆」というと、「そうだ、今日からだ」というではないか。

 なんと越中八尾(やつお)では今日から三日間、風の盆のお祭りの日だとか。
 でまあ、その林秋路さんとは、私が今の自分の娘くらいの歳に、遊んでもらっていたらしい(もちろん、全然記憶なし)。母方の祖父の妹さんの嫁ぎ先だそうで、まあ、それなりに歓迎されたものらしい。

 CDジャケットは秋路さんの板画で決まりだな、って気がはやい(笑)

 たぶん、これはすごい!というような民謡の作品もあることでしょう。私が知らないだけで。みなさん、いい音源があったらどうぞ教えて下さいまし。
 あと、このアーティストがこの曲をやったら面白かろうとか。こんな楽器を使えとか。

 それにしても、富山の胡弓、どこから入って、どうして富山だけに残っているのでしょう。誰か知りませんか? 文楽では使ってますが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

19990817 柏木博 『日用品の文化誌』 / タルバガンは千匹に一匹

柏木博 『日用品の文化誌』   「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」 より

1 本と作者のデータ】
  「今や生活に浸透した様々な<もの>やメディアは、どのように生み出され、受け入れられていったのか。紙コップ、電灯、スーツ、ラジオ・・・登場したときのエピソードや、意外な展開を紹介しながら、産業や社会への影響にとどまらず、人々の感覚や思考の変容をもたらした、多くの「日用品」をたどって、二十世紀の文化様式をとらえ直す」(カバー)
---
 柏木 博(かしわぎ・ひろし)
 「1946年 神戸市に生まれる。
  1970年 武蔵野美術大学卒業。東京造形大学教授を経て
  現在  武蔵野美術大学教授。デザイン評論家。
  著書  『芸術の複製技術時代』(岩波書店)
      『ユートピアの夢』(未来社)
      『20世紀をつくった日用品』(晶文社)
      『デザインの20世紀』(NHKブックス)
      『家事の政治学』(青土社)ほか多数」


【2 私の身に何が?】
■ 三部構成の三番目「受信と発信」が印象的

 身近な日用品が、「住居と食事」「身体と世界」「受信と発信」の三パーツにわけて紹介されています。
 「住居と食事」には、「現代住宅・洗濯機と洗剤・紙製品・加工食品、魔法瓶、電子レンジ・電灯・オフィス家具」、が登場。

 同様に、「身体と世界」には、「ミシン・スーツ・寒暖計・X線・内燃機関」が、「受信と発信」には、無線・携帯ラジオ・ゼムクリップ、鉛筆・カタログ・エレクトリックギター・幻燈・写真装置」、が登場。

 日常、どこにいる時間が一番長いかといったら、ネットワークにつながったコンピュータの前、という生活をしている田原ですから、当然「受信と発信」をもっとも興味深く読みました。

■ なぜ「ゼム・クリップ、鉛筆」が「受信と発信」なのか
 「受信と発信」とくれば、ついつい電気的なものを想像しがちですがそこであえて、「ゼム・クリップ、鉛筆」を取り上げたのは著者の見識でしょう。(「整理と編集の発想」と題されたその文章は、【4 引用いいとこどり】をご覧下さい。
「Made in USA Catalog」を本棚から引っぱり出してしまった
 「カタログ」は「情報を知るための情報」という文章に。
 「アメリカを知る百科全書」シアーズ・カタログという「あらゆる人々が市場になる消費社会のための道具」の紹介に始まり、六十年代末のカウンターカルチャー的ライフスタイルのための「ホール・アース・カタログ」登場まで。

 別冊宝島の第一冊目「全都市カタログ」(もちろん「ホール・アース・カタログ」の影響ありあり)を70年代に熟読し、「Made in USA Catalog」(読売新聞社)などという大メディアのサブカルチャー悪ノリ系雑誌を今だに持っている田原には、楽しく読めました。

■ 立ち読みのススメ
 立ち読みするなら、この「カタログ」@「情報を知るための情報」とその次の「エレクトリックギター」@「二〇世紀を動かした楽器」。
 特に後者は、著者の音楽の趣味が如実に出てて、笑えます。

【3 引用いいとこどり】
■ 「ゼム・クリップ、鉛筆」@「整理と編集の発想」- - - - - - -

「鉛筆は情報の記録や情報交換のための道具であり、記憶や思考の持続に深く関わっている。それに対して、クリップは、情報を操作することを助ける道具だと言えるだろう。クリップという言葉は、書類を留めるという意味の他に、新聞などの記事を切り抜くとか、雑誌から写真を切り抜く、あるいは短縮するといった意味がある。したがって、もともと情報を加工することに関わるような意味を持っている。実際、クリップ(ペーパー・クリップ)は、記録された情報を、そのときどきの目的にしたがって、選択し、仮に束ねておくための道具で、いわば情報の切り取り(カット・アップ)と集約といった作業に関わっている。カットとペースト・アップの作業に関わっていると言い換えてもいい。また、クリップは、本のページに付箋のような、つまりブックマーク(あるいはブックマーカー)の役割も果たす。
 (中略)つまり、こうした作業は、いわば情報の編集作業である、同じ情報をどう編集するかによって、わたしたちが対象とする情報環境はまったく異なった相貌をもって現われてくる。この編集という作業は、わたしたちの思考のあり方、対象を捕える方法に関与している。(中略)こうした、わたしたちの思考のあり方の基本にあるものを、あの小さなクリップは助ける重要な道具として使われてきたと言えるだろう。」
(157P)

■ 「カタログ」@「情報を知るための情報」    - - - - - - -
「重要なことは、世界とそれを情報化(道具化)したものとの反転を意図的に試みたことである。つまり、カタログは、世界を知る道具である。それは、現実世界(マクロコスモス)を圧縮したミクロコスモスである。そのミクロコスモスを編集しなおす(解釈しなおす)ことによって、マクロコスモスとしての現実世界を変化させる可能性があるということだ。カタログは、かつての百科全書と同様に、そうした可能性を持った道具になりうるのである。」(175P)

■ 「口琴」@「二〇世紀を動かした楽器」    - - - - - - -
「時代、文化と支配的楽器
 振り返ってみれば、文化はつねに政治的な力あるいは権力として機能してきた面がある。これは美術や文学だけではなく、音楽もまた例外ではない。時代における支配的な音は、支配的な文化と深く関わっている。したがって、ものというレベルで見るなら、支配的な楽器とそうではない楽器とに分かれる傾向があるように思える。
---
 たとえば、今日、少数民族の使う楽器にはおおよそ弱音楽器が多い。たとえば、口琴や一弦琴といった楽器である。口琴はさまざまな形状のものがあるが、基本的な構造としては、弁を口の中に入れて指で弾く楽器で、頭蓋をいわば共鳴器にして音を響かせるものである。素材は金属のものもあれば、木を使ったものなどもある。口琴はもちろん日本にも存在する。また、ロシアや中国など世界のさまざまな地域に見られる。少数民族の間では口琴は現在も演奏されている。弱音楽器なので、演奏すると言っても、演奏者本人をふくめて、ごく近辺にいる人にしか聞くことができないほどに微弱な音である。したがって、ほんの数人、時には愛する人ひとりだけに聞かせるためにのみ演奏されることになる。」
(176P)

■ 口琴のか弱さと対照させるかのように、パワー・マス・商業主義的 楽器として「エレクトリックギター」が紹介されるわけです。

柏木 博(かしわぎ・ひろし1946 ) 岩波新書1999/06/21---ISBN4-00-430619-1





 朝日新聞のWEBによれば、
 忌野さんのパンク「君が代」発売中止

 歌手の忌野清志郎さん(48)が10月14日に発売を予定していたアルバムCDが、パンクロック版「君が代」を収録しているという理由で、急きょ発売中止になった。決断を下したポリドールは「政治的、社会的に見解の分かれている重要事項に関して一方の立場に立つかのような印象を与えるおそれもあるため、発売を差し控えるのが適当と判断した」と説明している。

 このアルバムは忌野さんが率いる「リトル・スクリーミング・レビュー」の「冬の十字架」。「君が代」は全7曲の2曲目に録音されていた。歌詞やメロディーは原曲を生かしながら、パンクロックに編曲されているという。

 忌野さんらはレコーディングを始めていたが、国会での国旗・国歌法案審議が大詰めを迎えたころ、ポリドール側から「君が代」を外すよう求められた。

 忌野さんは、RCサクセション時代の1988年にも反原発ソング「ラヴ・ミー・テンダー」を、当時の所属レコード会社から発売中止にされたことがある。
  (12:08)
 メジャーだけどやる気のないパブリッシャー・・・。
 キヨシローさん、BooxBox からどうぞ。

 江別市情報図書館。 借りた本:

●「溺レる」川上弘美(文芸春秋 1999/08/10)ISBN4-16-318580-1
●「裏日本-近代日本を問いなおす-」古厩忠夫(岩波新書・新赤版522 1997/09/22)ISBN4-00-430522-5
●「むくどりは千羽に一羽・・・」池澤夏樹(朝日新聞社 1996/05/01)ISBN4-02-256960-3
●「西ヨーロッパ世界の形成 世界の歴史10」佐藤彰一/池上俊一(中央公論社 1997/05/10)ISBN4-12-403410-5

 で、「むくどりは千羽に一羽・・・」をすぐさま読み終える。

 南幌町INさんが投稿してくれた雑誌「BE-PAL」での「タルバガン」記事を見たという人からCDの注文あり。謝々。
 もっとちゃんと営業活動しなさい、ということか・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

19990808 星野道夫 『旅をする木』 / ボビーに首ったけ

星野道夫 『旅をする木』
   「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」 より

【1 本と作者のデータ】
「広大な大地と海に囲まれ、正確に季節がめぐるアラスカ。1978年に初めて降り立った時から、その美しくも厳しい自然と動物たちの生き様を写真に撮る日々。その中で出会ったアラスカ先住民族の人々や開拓時代にやってきた白人たちの生と死が隣り合わせの生活を、静かでかつ味わい深い言葉で綴る33篇を収録。 解説・池澤夏樹」(カバー)

 星野道夫(ほしの・みちお)
 「1952年 千葉県市川市に生まれる。
  1971年 初めてアラスカに渡り、シシュマレフ村でエスキモーの家族と一夏を過ごす。
  1976年 慶應義塾大学経済学部卒業。
      動物写真家田中光常氏の助手を経て、アラスカ大学野生動物管理学部に留学。
      以後、アラスカの自然と動物そして人間を撮り続ける。
      (中略)
  1996年 取材先のカムチャッカ半島クリル湖畔でヒグマの事故により急逝。」(「星野道夫の世界」展チラシより)」


【2 私の身に何が?】
■ 1999年06月21日、『旅をする木』を読みました。
 昨年、『地球交響曲第三番 ガイア・シンフォニー3』関係者(監督龍村仁さんとボブ・サムさん)と接近遭遇する機会があり、星野道夫さんのことが気にはなっていました。
 今年に入ると、池澤夏樹=星野道夫ファンのG-WhoさんのWeb管理者に任命され、G-Who氏の手になる熱烈ミチオ讃歌文を何度も読むことに。

 そんな折、北海道各地を巡回していた「星野道夫の世界」展が、札幌にやってきました。デパートのイベントホールで写真を見、生原稿を見して、売店で買ったのが『旅をする木』と雑誌「SWITCH」1998年一月号特集「星野道夫[星を継ぐ者たち]」。

■ その日の私のWeb上日記を自己引用しますと。

「帰り道、札幌丸井今井で開催中の「星野道夫の世界」展に寄る。
 あの事故は1996年のことだというから、その報道を大阪で聞いたのだろうか。星野さんの名前は知っていたので驚いたが、その死が自分の内部に何か影響を与えるということはなかった。
 がしかし、どういう縁か、今年になってG-Whoさんのホームページ作りに関わるようになり、池澤夏樹・星野道夫という二人の「巨人」について教えられることが多くなった。
 写真を見て、星野さんの本を一冊初めて読んで(「旅をする木」文春文庫ISBN4-16-751502-4)感じたこと。
 星野道夫はいい奴。
 生まれながらにしていい奴で、いい奴のまま育ち、いい奴として死んだ。
 そういう意味では、カリブーもグリズリーもハクトウワシもゴマフアザラシもオオカミもいい奴。
 そういういい奴が、人間の形をしていたというのは、ほとんど奇蹟に近い。

 利尻島での冬の通学路を思い出した。
 山は雪雲の彼方にかすみ、出稼ぎに出た民家は玄関・窓に板切れを打ち着けられ、地吹きが舞う道路に車はもちろん人が通ることもない。片道4キロの道のりを毎日、私は何を思い歩いていたのだろう。
 暗くうねる日本海に目をやると、海獣の群れが見えることがよくあった。トドだろうか。
 火山島の火山の裾野、火山灰土に広がる笹っ原の雪原。貫通する海辺の一本道路。身近に人間の気配もないまま、凍るような海を泳ぐ、哺乳類の姿にしばし見とれる。

 長らく、もしかしたら今も、自分をとらえて離さないイメージがある。
 波打ち際の道路に立ち、海を眺めポカンと突っ立つ子供の姿の遠景。
 そう私自身。
 それを見ているのは海獣の目で、その視線を自分のものとしているのも、この私自身。

 そんな「胡蝶の夢」のような瞬間があったことを、星野道夫を写真を見て、思い出した。
 強烈に。

 G-Whoさんに紹介されていた、鳥海さんの電子掲示板「BBS 地球の自転軸を星野道夫に傾ける」に書き込みをする。

 「みなさん、はじめまして。
 田原ひろあき@江別市/北海道と申します。
 こちらの掲示板はG-Whoさん経由でやってきました。
 鳥海さんとはG-Whoさんのところで「音楽談義」させてもらってます。
 (中略)
 おそらくそういうのは百人に一人もいないと思いますが、一番印象に残った写真は、引き潮のときの入り江を撮ったものでした。その写真だけは時間をかけてじっくり見ました。

 私は、北海道の利尻島というところの生まれで、自然を眺めるときの水準器をそこの四半世紀前の自然によっています。今現在の利尻の自然状態は水準時に比べるべくもありません。たいへん悲しい。

 その星野さんの入り江の写真は、圧倒的でした。無数のイトマキヒトデ、多足紫色の一見グロテスクなひとでが二つ、水の中では戻した干しシイタケのようにふくらむいそぎんちゃく状の生き物、つぶ貝つぶ貝つぶ貝。色色色、生き物生き物生き物。

 久々、私の水準器のレベルを越えた北の海を見ました。

 ワイドレンジで捉えた雄大な自然、地上の細かな植物群、撮影者の愛情を感じさせる動物写真、どれも素晴しい。

 その写真群の中に、一見さりげない入り江の写真が入りこんでいることで、そんな写真を撮られているということで、私はより星野道夫さんを信頼したいという気持ちになりました。」」

■ 朋友池澤夏樹さんの解説「いささか私的すぎる解説」がまたよい。

「書物にできることはいろいろある。知識や情熱を授け、一時の楽しみを与え、ことの道理を示し、見知らぬ土地に案内し、他人の人生を体験させ、時には怒りを煽る。しかし、結局のところ、書物というものの最高に機能は、幸福感を伝えることだ。
 幸福になるというのは人生の目的のはずなのに、実は幸福がどういうものか知らない人は多い、世の中にはこうすれば幸福になれると説く本はたくさんあっても、そう書いている人たちがみな幸福とは限らない。実例をもって示す本、つまり幸福そのものを伝える本は少ない。つまり、本当は誰もわかっていないのだ。

 『旅をする木』で星野が書いたのは、結局のところ、ゆく先々で一つの風景の中に立って、あるいは誰かに会って、いかによい時間、満ち足りた時間を過ごしたかという報告である。実際のはなし、この本にはそれ以外のことは書いていない。」

 「たとえば彼の人生が平均よりも短かったとしても、そんなことに何の意味があるだろう。大切なのは長く生きることではなく、よく生きることだ。そして、彼ほどよく生きた者、この本に書かれたように幸福な時間を過ごした者をぼくは他に知らない。三年近くを経て振り返ってみて、あんないい人生はなかった、とぼくは思えるようになった。」

【3 ネット上で知る】
http://www.age.ne.jp/x/toriumi/hoshino/h_cont.htm
 鳥海さんの「地球の自転軸を星野道夫に傾ける」ホームページ
 これだけのファンを持った写真家を幸福というべきか、これだけ一人の写真家を愛するにいたったファンを幸福というべきか。

【4 引用いいとこどり】
■ 「もう一つの時間」という文章から。 - - - - - - - - - - - -

「「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
 「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンパスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」

 「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって・・・・その夕陽を見て、感動して自分が変わってゆくことだと思うって」

 人の一生の中で、それぞれの時代に、自然はさまざまなメッセージを送っている。この世へやって来たばかりの子どもへも、去ってゆこうとする老人にも、同じ自然がそれぞれの物語を語りかけてくる。」

 「やがてぼくは北海道の自然に強く魅かれていった。その当時、北海道は自分にとって遠い土地だった。多くの本を読みながら、いつしかひとつのことがどうしようもなく気にかかり始めていた。それはヒグマのことだった。大都会の東京で電車に揺られている時、雑踏の中で人込みにもまれている時、ふっと北海道のヒグマが頭をかすめるのである。ぼくが東京で暮らしている同じ瞬間に、同じ日本でヒグマが日々を生き、呼吸をしている・・・確実にこの今、どこかの山で、一頭のヒグマが倒木を乗り越えながら力強く進んでいる・・・そのことがどうにも不思議でならなかった。考えてみればあたりまえのことなのだが、十代の少年には、そんなことがひっかかってくるのである。自然とは、世界とは、面白いものだなと思った。あの頃はその思いを言葉に変えることは出来なかったが、それはおそらく、すべてのものに平等に同じ時間が流れている不思議さだったのだろう。子どもながらに、知識としてではなく、感覚として世界を初めて意識したような気がする。」

 「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。」
星野道夫(ほしの・みちお 1952-1996)   『旅をする木』 文春文庫1999/03/10---ISBN4-16-751502-4





 午前「サクレツスポーツアワー」というTV番組。あのロナウドが出ているのもすごかったが、その前に横浜ベイスターズのローズの小特集がありその印象も強い。
 私は大洋ホエールズ時代の横浜ベイスターズファン(なんじゃそりゃ???)で、昨年の優勝はやはりうれしかった。特定の球団を応援するということはないのだけれど、やはりベイスターズに勝ってほしい。じりじりと地力がついてきたところに、権藤監督というすぐれたディレクターを得て去年のあの成績になったのでしょう。

 で、その番組中でローズとともに紹介されたのが、ホエールズ時代からの国際スカウト担当牛込さん。
 本当に弱かったころから、本国アメリカでは活躍できていなかったものの日本の野球にフィット活躍しそうな選手を次々獲得してきた人。
 シピン・ポンセ・パチョレック。
 ローズも牛込さんの強力プッシュが球団側を動かしたそうで、そのローズ今や日本野球史上最高の外国人選手との呼び声も高い。

 対して阪神球団は・・・。
 古ぼけた大リーガーを高額で獲得、日本人選手の年俸は買い叩き。活躍できない外国人選手を手みやげつきで解雇、では、集団全体のモティベーションが絶対に上がることはないだろう。

 春先低迷していたベイスターズもちゃんと優勝争いにからみはじめた。この日の試合は、先発全員安打・先発全員得点(何十年ぶりだかの記録らしい)・22安打16得点。チーム打率がちょうど三割、これもほとんど史上初らしい。相手は首位の中日、投手は今まで好成績をおさめている武田投手。それがボコボコである。接戦などというものではない。勢いの差が歴然としてしまった。
 どうも今の横浜の選手たちは「勝てる」という確信を持って試合を楽しんでいるらしい。開幕時からずっと、だからバタバタしない。
 そしてそのチームの中軸四番に座っているのが、ボビー・ローズ。

 常に全力を尽くすこと。それができる人らしい。

 午後、千歳空港に義理の父を迎えにいく。
 利尻への旅行を計画して、まずは江別の孫の顔を見てということ。

 私の予定がまったくたたない(タルバガン新作CDのジャケット制作・ミックスダウン共、私の予定よりは大幅に遅れていて、出来上がり期日が全然読めない)ため、勝手に、妻子を車で利尻に連れていってもらうよう頼んであるのだった。JRの予約はキャンセル。

 夜、義父と家族四人で、野幌の郷土料理店。
 ヤツメウナギを初めて食べる。秋、石狩川でとれるらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧