大丈夫日記 札幌・利尻島行き帰り・20081227-20090103

20081227-20090103 利尻島行き帰り


20090104 利尻を発つ

      
      自宅玄関から撮影
       4日午前7時55分。
       五分後、札幌へ向けて出発。



20090103 浜に降りる

      
      2009年1月3日、午前10時50分
       父親が生前手ずから建てて使っていた作業小屋。年々、崩壊。
       いずれ、この場所に茶室を建てたい。北に利尻山を、南に日本海を望む。

      
      2009年1月3日、午前10時55分
       田原家の澗のある波打ち際まから撮影。
       二つの小屋の、右側が上の写真の、左は祖父が使っていたもの。
       祖父の小屋で、祖父が手ずから作っていた塩ウニは、田原の食の原体験の一つ。
       元旦の写真は、この写真の崖の右突端あたりから撮影したもの
       澗(ま)。広辞苑によれば「湾または海岸の船着場・船曳揚場。北陸地方などでいう語」。

      
      2009年1月3日、午前10時55分
       澗の入口を背後に自シャ真。

      
      2009年1月3日、午前10時55分

      
      2009年1月3日、午前11時00分
       岩の形、水の深さ、すべて身近な景色。

      
      2009年1月3日、午前11時05分
       崖の上に上って。
       二つ上の写真と見比べると、澗の入口の開き方がわかる。
       外海が多少荒れても、澗の中は比較的穏かでいる。



20090101 浜を覗く

      
      2009年元旦、午前9時20分
       田原家が100年近く使ってきた浜へ下る道の途上で、自シャ真

      
      利尻島南部、仙法志御崎の海は穏か。
       島の裏側は大波で、この日も利尻-稚内間のフェリー航路は全便欠航。



20081231 買物に付き合う

      
      利尻島鴛泊の某ホームセンター(日本語英語?) 正午近く
       札幌圏の巨大ホームセンターでもなかなかお目にかかれない、
       ボルト・ナット類の充実した棚。
       冬場のフェリー欠航に備えて、工事作業等の部品・部材を常時在庫する役割を
       このホームセンターが担っているのか?
       買物は普段自家用車のない生活を送っている母親に付き合ったもの。
       生活必需品の細々とした買物で、ボルトを買いに出たわけではない。



20081230 恒例、松浦武四郎さんとのツーショット写真

      
      札幌から利尻島へ向かう途上、小平町にて
       午前10時50分


| | コメント (0) | トラックバック (0)

20080824 賢者の言葉・毛利甚八 『宮本常一を歩く』・「北海道 問寒別・新十津川」

   * [宮本常一を歩く―日本の辺境を旅する〈下巻〉] 毛利甚八




  『宮本常一を歩く―日本の辺境を旅する〈下巻〉』 毛利甚八 (小学館 1998)  「第11章 北海道 問寒別新十津川 1997年5月と6月の旅」より
 一 問寒別へ

 5月中旬のある朝、旭川駅から宗谷本線で北に向かった。名寄までは快速で約一時間半、名寄からは終点の稚内まで約二〇〇キロを四時間弱で走る各駅停車に乗り換える。
 この土地では春は始まったばかりだ。車窓から見える山並みには白い根雪が横たわっている。芽吹いたばかりのミズナラやシラカンバが斜面にぎっしりと並んでいる。その箒型の樹形の先端には薄茶の細やかな若葉がにぎわっていて、煙るように稜線をぼかしている。時々、木立の間にコブシの花の白が豪快に咲き誇っている。それを眺めて時間をうっちゃっていたが、名寄をすぎてからコブシもなくなってしまった。天塩川沿いに密生つすヤナギの新緑だけが唯一春めいた鮮やかさだ。
 名寄から幌延までの間、宗谷本線は天塩川に寄り添うように走っている。土色の水を湛えた天塩川は、北上する列車に併走したり離れたりしながら、ゆったりと北へ向かって蛇行する。川は幌延で西に大きく曲がり、海に流れ込むのである。
 一両編成の列車の座席は約六〇席である。私の前のボックス席を高校生の男の子たちが数人占領していて、歌を歌い始めた。
 ザ・ブルーハーツの「リンダリンダ」なんかを歌う。陽気で調子っぱずれな歌い方だが、一応ハモったりもする。ひとしきり合唱が続いた後、その大部分が美深で降りて、電車の中は静かになった。
 残った高校生の一人が伸びをするように、
 「いいねぇ、今日は、天気が」
 するともう一人が
 「サッカーび・よ・り」
 と、暢気な声で応えた。
 各駅停車でこの広い北海道を移動していると、ゼンマイの伸びた時計が支配する世界に飛び込んだような気分になる。所在なさと至福が入り交じった不思議な時間だ。
 これから私が訪ねるのは天塩郡幌延町にある問寒別という土地だ。
 今から五十二年前の昭和20年(1945)の10月、宮本常一はこの土地を訪ねた。38歳の宮本は大阪府の嘱託の役人という身分であった。
<<十月になると、戦災に遭うた人びとを北海道の原野の開拓のために送りこむことになって、その人たちについてゆくことになった。実はそれまでにすでに二回ほど戦争末期の混乱の中を送っていたのである。私のついていった第三次帰農隊は二千人近かったであろうか。大阪府庁からは四、五人の人がついていった。大阪駅をたって、米原から北陸線にはいって北上したが汽車はのろのろと走り、青森までゆくのに二日かかった。途中の町には灰燼になっているものが多かった。
 津軽海峡をこえて札幌まで来ると、普通はそこで北海道庁の役人に帰農者をわたして帰るのだが、私たちは帰農者について現地までいくことにし、私は天塩地方へ入植する人たちについてゆくことにした。この地方へ入植する人は三百人ほどであったかと思っている>>(「戦争中の食料対策」 『民俗学の旅』 宮本常一 講談社学術文庫)
 昭和19年1月、宮本は戦争の激化のために昭和14年から続いた民俗採訪の旅を中断し、奈良県郡山中学の歴史の教師となった。東京を去り、一年四ヵ月を奈良で過ごすのである。
 宮本の自伝を読むかぎり、奈良での教師生活は幸福だったようだ。教鞭をとるかたわら暇さえあれば生駒山を散策し、また学校の周りにある薬師寺、唐招提寺、菅原寺、西大寺、法隆寺、法起寺、法輪寺などの名寺を訪ね歩いた。そして歴史の教師という特権で仏像の蓮華座に上がり込み、仏像を手でさわりながら鑑賞したというのだから今では考えられないほどのどかな話である。
 しかし敗戦の年の春、宮本は突然請われて大阪府の役人となる。戦時下の生鮮野菜の供給対策をたてるため働いて欲しいと、大阪府知事に頼まれたのであった。宮本には白羽の矢が立ったいきさつには多くの人の動きがあるのだが、元々は元農務官僚でもあった柳田国男の推薦があったからだという。
 宮本は古い自転車に乗って大阪府下の村を歩き回り、野菜の苗の生産状況を調べ、山村に不足していた肥料用屎尿の輸送方法を整え、篤農家や農事試験場で仕入れた栽培知識を農家に伝えた。そうするうちに敗戦を迎えた宮本は入植者を連れて北海道にでかけるのである。
 私は宮本の自伝『民俗学の旅』を読みながら旅をしているのだが、宮本が北海道を旅する前後の文章は実に興味深い。
 奇妙な物言いかも知れないが、私は宮本の文章の、その筆圧の高さや息づかいに惹かれてふらふらと旅に出る。文章の奥にある感情の起伏に目をこらし、味わうために、宮本の訪ねた土地に身を置いてみたくなるのである。
<<天塩線を幌延までいって、そこの役場で、それぞれ入植地別に隊が組まれた。私は問寒別に入植する人たちについて問寒別までいった。入植地は駅から三里も奥だという。入植者たちはそこで地元の人たちにひきとられて奥地にはいることになる。(中略)駅のあたりは一面のススキ原である。その彼方に人びとは住んでいるという。(中略)トロッコの位置へ機関車が出てきた。小さな機関車である。その後ろへ貨車とトロッコをいくつかつないだ。人びとは貨車に乗り荷物はトロッコにつけたが、貨車に乗りきれない人はトロッコに乗った。空は雲って暗く重い。雪になるかもしれぬ。汽車は動き出した。そして枯原の向こうに消えていった。見送る者は私と幌延の役場の吏員の二人だけであった。私は入植者の運命に空の暗さのようなものを感じずにはおられなかった>>(引用同前)
 宮本は問寒別の駅で入植者を見送った後、「見捨ててきた」という思いを抱いた。現地の宿舎までついていかなかったことを後悔するのである。
 宮本は入植者と別れた後、それ以前に北海道に入植した人々を訪ねる決心をし、遠軽、留辺蕊、津別、中佐呂間などを訪ね歩き、最後に明治期の大洪水のために奈良県吉野地方の十津川村から北海道に移住した人々が住む新十津川を訪ねて聞き取りを行っている。
 旅に出たついでに目的地以外の土地を訪ね歩いたのは宮本らしいといえば宮本らしいが、それはあくまで「見捨ててきた」罪悪感がそうさせたのである。
 現在の天塩郡幌延町は人口約三〇〇〇人、約一万一〇〇〇頭の乳牛と約一〇〇〇頭の肉牛が住む酪農の町であり、一方で原子力発電所の廃棄物処理の研究所誘致でゆれる過疎の町だ。
 問寒別は問寒別川という幌延町最大の天塩川支流が流れる地域で、その谷の深さは約二〇キロに及ぶ。現在の問寒別は、いかにも北海道のイメージに似つかわしい、広大な牧草地が広がる土地である。
 この地の開拓が始まったのは明治38年のことだ。
 開拓に入った人々はまず家造りから始めなければならない。蔓で縛った叉木で合掌小屋(おがみごや)の骨格を作り、ヤナギの枝を垂木として差し渡すと松の葉や葦を屋根材として載せて小屋を作った。その小屋で雑魚寝をしながら、払い下げを受けた国有未開発地の開墾を始めるのである。アカダモやナラ、ヤチダモ、ヤナギなどが茂る原野を伐採し、地は覆うクマザサやネマガリダケを払い、火をつけて焼き畑開墾をする。拓いた土地には当座の食料となる裸麦、豆類、唐黍、カボチャなどを植え、開拓が進むと換金作物となる菜種を植えるようになった。
 開拓当初は野ネズミの大群に作物を食い荒らされ、蕗や川魚、貝などで命をつないだこともあったという。
 その後、この土地では林業が興り、第一次世界大戦の影響で農作物高騰による好景気があった。問寒別川州域で白金が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、後にクロームの採掘場が生まれた。大正期には馬鈴薯による澱粉作りが始まっており、昭和13年から酪農も始まった。戦時中の換金作物は軍用馬の飼育に使われる燕麦であった。
 「私の家族は大正9年、私が5歳の時に和寒から問寒別に移ってきたんです。父親は百姓でしたが、夏は砂金掘り、冬は林業で樵をして現金収入を得ていました。男はそういう仕事で忙しいですから種播きと収穫の時に働いて、草取りなどは妻の役目です。作物は馬鈴薯、南瓜、燕麦、アマなど。燕麦は軍馬用の飼料として売れましたし、アマは医療用の繊維の材料になったんです。この土地の人は大きな貧乏という柱と闘いながら生きてきたんです。女の人は苦労しましたね」(元農協職員・佐々木泰幹さん 大正4年生まれ)
 幌延町のスナックで樺太から引き揚げてきた女性に話を聞く機会があった。彼女の父親は樺太でニシン漁を営む網元であった。敗戦の年、一家は樺太のニシン御殿を捨てて自分の漁船に家財を詰め込み、稚内に逃げ帰ってきたのだという。
 幌延に落ち着くことになって小学校へ行ってみると、農家の子供たちの着物は継ぎ当てだらけであった。
 「私はセーラー服を着てね、革靴で学校に行ったでしょ。そのせいでいじめられてねぇ」
 女性はそう言って笑った。
 当時、農家の子供たちの弁当の中身が燕麦だったのを見て驚いたという。それほどに貧しかったのである。
 幌延町史の正式な記録によると、昭和20年に大阪から問寒別に入植した人々は六戸であった。家族を含めた全員の人数は記録にない。
 記録に残っているのは次の六人の人々である。
 高島正重
 林田幸吉
 鈴江威
 稲嶺盛次
 中里政清
 橋本要
 ただし昭和25年7月に発行された『問寒別郷土史』(幌延村立問寒別小学校開校四十周年記念編纂)には<<昭和二十年十月に大阪より開拓者として豊神に十二戸が移住し>>とあり、比較的新しい記憶を基に記録されたものであろうから、それなりに信憑性があると考えられる。
 とすれば宮本が問寒別で送った人々は最低十二戸の家族で、そのうち六戸がまもなく問寒別を去ったのだろう。また六名のうち高島正重氏と林田幸吉氏をのぞく四名は昭和23年から24年の間に離農してしまった。
 高島正重氏と林田幸吉氏の二人は、今も問寒別や幌延に住む人たちの記憶に残っていた。
 「林田幸吉さんはここに来る前は音楽家だった。名前は忘れましたが何か特殊な吹奏楽器をやっていて、コロムビアレコードで吹き込みの仕事をしていたと聞きました。その楽器があれば飯を食えたんだが、戦時中で楽器が手に入らないので開拓にやってきたという話でした。何をやっても子供だけは育てなければならん、そういう気持ちで働いていたようです。暇な時に、口でメロディを口ずさみながら、指を動かしていることがあって、弾き方を忘れないようにそうするんだと言ってましたね」
 そう語る幌延町の元助役・加藤良美さん(大正14年生まれ)は、昭和27年から約一〇年の間、農協の営農指導室で開拓係を務めた人だ。仕事柄、大阪から入植した二人とつきあいがあったという。
 「高島正重さんは元警官だったはずです。他の人は用意されていた開拓地に入ったんですが、高島さんはケナシポロ川という川の上流にある北大演習林の中で開拓を始めた。真面目な人でね、ネマガリタケの生えた土地を刈って畑を拓くにはどうするんだと尋ねて鎌を使えばいいと教えられたらしい。普通開墾に使う鎌は腰だめで振り回すような大きな鎌だけど、誰かが見に行ってみると高島さんは小さな草刈り鎌で刈っていたらしい。それで笑われていましたね」(加藤良美さん)
 高島氏は演習林の中で開拓を始めたために、補助金が申請できない。そこで開拓係だった加藤さんが別の開拓地に移るように勧めたが、高島氏は聞き入れなかった。
 「ここに入ってすぐの頃、十分な食料がなかったせいか子供たちがクル病で苦しんでいてね。子供をこんな格好にした土地だから、俺は移らん。そう言っていました」(加藤さん)
 開拓をする人々にはいくつかの補助金が出たが、そのうちのひとつに開拓をした土地の五割に補助金が出る制度があった。一反につき四〇〇〇円から七〇〇〇円で、一〇反を拓けば最低四万円になる。開拓をしている間はそれが現金収入となるのだが、いったん開拓が終わると作付けに手間取られるようになる。そかし、拓いた土地は食えるほどの収穫をもたらさない。地元で生まれた農家ですら難渋する土地を畑作だけで経営することはひどく難しかった。
 宮本と一緒に汽車に揺られ、問寒別にたどり着いた人々は楽団員、写真屋、うるし塗りの職人、警察官、着物の絵紋描きといった職業を持っていた人々だった。
 辺境の農民や漁民を見てきた宮本にとって、彼らが開拓にどれほどの適性を持っているかはひと目でわかったはずである。嘱託とはいえ、宮本は初めて役人という立場で歴史に加担した。それは明らかに戦後動乱期の無責任な棄民政策の手足として働くことであった。
 「大阪の人は住む家も食い物もない人たちで、北海道行ったら簡単に食えると思ってきたんじゃないかな。戦前に開拓で入った人たちは自分が望んできたから誰も恨むこともない。
 ところが農家もやったことない人たちがやってきて、来てみたら土地は悪いし、作物はできない。当時は正しいと思ってやった政策には違いないけれど、だまされて入ってきたと感じたのが実状でしょう」(佐々木泰幹さん)
 この北海道の旅から一九年後の昭和39年、宮本は利尻島を訪ねる機会を持った。利尻島へは稚内から船で渡るのだが、宗谷本線で稚内に向かうには問寒別と幌延を通過しなければならない。その時、宮本は問寒別に立ち寄らなかった。いかにも気弱な次の記述が残っているだけだ。
<<私のつれていった仲間は天塩・幌延地方へ入植する人たちであった。秋一〇月の半ばで野は稲が黄にうれ、山は黄葉の美しいときであったが、敗戦にうちしおれて皆元気がなかった。その人たちをはげまし勇気づけながら、幌延までたどりついて見ると、地元の人は実に冷たかった。そこへ入植者を捨てるようにして立ち去った。(中略)また近いうちにやって来ますからと約束しつつ、つい再訪の機会を失なって二〇年近い歳月が流れた。あの人たちはどうしているのだろうかと思いつつ、いまは音信もたえたままになっている。二〇年の間に北海道の天地がどんなにかわったかも、せめて汽車の窓から見たいと思った>>(「利尻島見聞」『宮本常一著作集5 日本の離島第2集』 未来社)
 宮本常一を追って旅を続けるうち、私は宮本の生涯にある疑問を持つようになった。これまで書いてきたように、宮本はある時は寝食を忘れて調査を続ける猛烈な民俗学者であり、ある時は離島振興法の制定に奔走するロビイストであり、ある時は温厚な文体で古き良き日本人を描く作家であり、ある時は自らを「大島の百姓」と呼ぶ農民であった。
 そして、その人生全体を眺めてみると、宮本の行動の重心は数年から一〇年の単位で次々に変化しており、なにより人生全体を貫く宮本本人の欲望が見当たらないのである。
 いったい宮本は何者でありたかったのか? 旅を続ければ続けるほど、その謎は大きくなっていった。
 そしてようやくたどり着いた結論は、宮本は限りなく宗教者に近い存在だということだ。
 民俗学、政治、農業指導、地域開発といった宮本の手がけたテーマはあくまでその時々の手段であり、宮本にはどうしても達するべき人生の目的はなかったように見える。宮本にとって旅を続けることそのもの、旅の中で人とふれあい何かの役に立つ瞬間だけが人生の意味であった。
 私がこう考えたのは宮本が中世の遊行僧・一遍を評した次の一節をみつけたからだ。
<<一遍は民衆を固定した地域社会の中に見出したのではなく、旅することによって、地域社会をこえることによって、見出したのである。旅をしてみなければ民衆全体を発見することはできなかった。共通の観念をもちつつも、それに気付いていない人びとが地域毎によどんでいる。その人たちが目ざめて手をつなぎあう。それは旅すること以外に目をひらきようのないものであった>>(「旅の遺産」『宮本常一著作集31 旅にまなぶ』 未来社)
 これは一遍の旅を評しながら、他の誰よりも宮本常一本人の旅のスタイルを的確にとらえた言葉である。
 私は北海道の旅が宮本を全面的に変えたのだというつもりはない。しかし、戦時中に渋沢敬三の庇護のもとで収集した膨大な民俗学の取材ノートと原稿を空襲で失ったその直後の経験であっただけに、問寒別への旅が宮本に己と学問の無力さを痛感させたのは確かだと思う。
 問寒別の開拓地で一五年にわたって耐えた高島正重と林田幸吉の両氏も昭和36年には問寒別を離れた。
 高島氏は引き止める人に向かって、
 「タバコを拾って生きるとしても、ここにいるよりはましだ」
 そう答えたという。
 幌延町に二人の消息を知る人はなく、今はケナシポロ川の支流に「高島の沢」という名前がつけられ、開拓の名残を伝えている。 


   * [民俗学の旅] 宮本常一


20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20080813 旅の時間・利尻島行き帰り・昆布干しの夏

2008年8月8日

  
   11:18 小平町

  
   12:51 遠別町

  
   14:53 稚内市

  
   15:06 稚内市

  
   16:16 日本海海上

  
   16:45 日本海海上

  
   18:37 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:37 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:37 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:38 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:38 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:39 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:39 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:40 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:40 利尻町 仙法志 御崎


2008年8月9日

  
   10:23 利尻町 仙法志 御崎


2008年8月10日

  
   6:22 利尻町 仙法志 御崎

  
   11:52 利尻町 仙法志 御崎

  
   11:52 利尻町 仙法志 御崎

  
   11:52 利尻町 仙法志 御崎

  
   11:53 利尻町 仙法志 御崎

  
   11:54 利尻町 仙法志 御崎

  
   12:03 利尻町 仙法志 御崎

  
   12:03 利尻町 仙法志 御崎

  
   12:12 利尻町 仙法志 御崎

  
   12:12 利尻町 仙法志 御崎

  
   12:21 利尻町 仙法志 御崎

  
   16:49 利尻町 仙法志 利尻町立博物館

  
   16:54 利尻町 仙法志 利尻町立博物館

  
   16:58 利尻町 仙法志 利尻町立博物館


2008年8月11日

  
   10:52 利尻町 沓形 島の駅(渡辺商店石倉)

  
   10:46 利尻町 沓形 島の駅(渡辺商店石倉)

  
   10:46 利尻町 沓形 島の駅(渡辺商店石倉)

  
   10:47 利尻町 沓形 島の駅(渡辺商店石倉)


2008年8月12日

  
   6:56 利尻町 仙法志 御崎

  
   6:58 利尻町 仙法志 御崎

  
   6:58 利尻町 仙法志 御崎

  
   6:59 利尻町 仙法志 御崎

  
   6:59 利尻町 仙法志 御崎

  
   8:16 利尻冨士町 鴛泊

  
   11:06 稚内市 寒流水族館

  
   11:07 稚内市 寒流水族館

  
   15:00 小平町

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20080526 (制作)業務日誌・霰なのか雹なのか・人の朗読会@札幌と自分の講座講師@東京

 ○月×日

 某所で、某書類に、判を押す。

 一件落着。

 まずは、一安心。次なる展開へ。
 


 ○月×日

  

 嵯峨治彦・たなかたかこ夫妻&しゅんたろう、ご近所のマイティ・ゴッチをご招待して、田原自宅でお食事会。

 田原家一家を含めて総勢8人。

 メニューは、パンとケーキを除いては、全部田原の手製。評判はまずまず。

 しゅんたろうくん、なんとも言えず、かわいい。嵯峨家ご一同と、ついに「家族ぐるみのつきあい」になったわけで、感慨深い。
 
  


 ○月×日

  

 霰なのか雹なのか。降る降る。叩きつけるように。

 その激しさに、出先の軒先で、立ち尽くす。眺める。

 山下達郎の失恋の歌に出てきそうな風景。

  


 ○月×日

 食事会イベントも終え、講師を仰せつかった22日の東京講座に向けて、映像作品編集に励む日々。

 そんな中、17日は、欠かせない外出。

  

 星野桂子さんの朗読会@加藤多一展

 確信を持って語る人たちは美しい。

  

  

  

 見習わねば。

 帰宅後、映像作品編集。


 ○月×日

  

  

  

  

 東京初日。

  

  

  

 品川のホテルから、ご近所、御殿山の「原美術館」へ。

  

  

  

  

  

  

 ホテルに戻って、ベッドでぐだぐだ。

  

 旅先で、本当なら行動的に動くべきときに、惰眠を貪るのは気持ちがいい。数少ない旅の経験だけれど、ローマとニューヨークで眠ったそんな眠りの時間は、至福の時だった。旅の疲れと、いつもとは違う空気、都会のざわめき、目覚めたときの「ここはどこ」感。

  

  

  

  

 2007年は、結局、北海道から出なかった。得たものも多かったが、失ったものも多かった、のかも知れない。


 ○月×日

 東京、講座(「<三井不動産S&E総合研究所 協賛講座> 【地域のエッジ@東京エッジ】 日本を元気にする地域キーマンの連続講座 第3回 利尻島から札幌そして世界へ ~北海道のレーベル「ブックスボックス」奮闘の11年間~ 」)、当日。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

 「田原ミサキ」名義での、利尻島をテーマにした映像作品4本も上映。

 ちょうど十年前の1998年4月、タルバガンのCD『大地に立つ』を発表してから、2005年のタルバガンの『野遠見』までが、田原のCD制作者としての時代だった。

 2008年5月、ついに、利尻島御崎の田原家の「ホームビデオ」を、臆面もなく、公開に至ってしまった。

 多分、自分の今までの人生の傾向(成行き?)からして、生きていれば、2015年くらいまでは、この「利尻島ホームムーヴィー」シリーズを、編集しては発表していくことになるんだと思う。

 講座に参加いただいた方々の反応は、こちらが予想していたより、好意的なものだった。
 ご来場の皆様、スタッフの皆様、ありがとうございました。

 7月、札幌で上映会をしたい。

 8月は、利尻で。


 ○月×日

 東京、3日目。

  

  

 墨田区で、KNさんと昼食。
 楽しい時間をありがとうございました。

   CLICK!

  

  

  

  

 午後、上野で、IJさんと「薬師寺展」。
 高校の修学旅行以来、約30年ぶりに対した、日光・月光菩薩に感銘。

 夜、札幌着。


 ○月×日

 講座会場に、メイン使いのノートパソコンのACアダプタを忘れてきたことに気付く。

 日常業務ができない。間抜けだ。

 それでも全然あせる気持ちもなくて。

 新しいものが生まれてくる予感に満ちている。

 (って、サボってんじゃねえぞ!)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20071010 利尻の忠犬ハチ公・「旅の時間」の時間・003

WRさん、こんにちは。

 例のブツは届きましたでしょうか。
 「闘病記」執筆(?)用にでも使ってもらえたら、こちらもうれしいです。

 で、今回は、8月の利尻島帰郷の話がまだだったような気がするので、そのへんのことを。いやもう季節は巡って、札幌周辺でも初雪でも降りそうな気配なんだけどね。まあ、しばしおつきあいください。

 利尻に帰るたび、というか利尻のこと考えるたび、ご先祖様たちは、なんで北海道の、よりによって離島の、しかもその中のもっとも小さな村の、さらにそのはずれに住まうことを選んだんだろうって、思うんだよね。
 今年の春、宮本常一さんの「利尻島見聞」という文章を読み返してたら、
 「同行の役場の方がかつて野中という利尻町との境の部落へ税金をとりにいって、一軒一軒あるいているうちに、どうも相手のうけ答えの様子がおかしいので、よく聞きただして見ると、そこは東利尻町ではなくて利尻町であったという。利尻島とはそういうところである。そして鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形をのぞいては資本家らしい資本家もおらず、一見ほぼ相似た経営をいとなむ、所得格差のきわめて少ない平和な島だとも言えるのである。」
という一節に出くわしてびっくりしたんだけど、文中の「野中」は「のっちゅう」という村落で、そちらから「一軒一軒あるいて」利尻町に入った、初めの家がウチなんだよね(笑)。危なく二重徴税されるところだった? 「うけ答えの様子がおかしい」って(笑)。まあ、宮本さんに「利尻島とはそういうところである」というサンプルにしてもらえたら光栄だけど。
 宮本さん利尻島訪問は1964年の夏。こちらは5歳。その前後、役場(隣町のね)の人間に対応するとすれば、それは1998年没の祖父正二だったと思う。なんか、若かりし日のじいちゃんの困った顔が目に浮ぶ。

 というわけで、我が家の東側のお隣さんは利尻富士町(旧東利尻町)の住民。そのお宅までは、百数十メートルの間隔があって、そのちょうど真ん中あたりが村界で、一帯がゆるやかな窪地になっている。こちらが小学生の頃まではその窪地に、昔の鰊番屋の遺構(というか廃屋)が残っていて、ヤン衆が使ったであろう小さな小皿なんか見つけては遊んでいたりしたもんだけど。今は丈の低い雑草が茂る野原になっていて、昔の番屋の面影などはどこにもない。
 母親の話では、そのお宅のご主人Iさんが、この春、突然亡くなられたんだという。ご存知の通りうちの母親は春先から、癌の手術で数ヶ月札幌に出て来てたんだけど、その間のことだったらしい。心臓のほうの病気での急死。

 上の宮本さんの文章にもある通り、今も、島に残っている漁師たちは、うちの父・祖父がそうであったように、資本らしい資本も持たない「小前」の個人事業主。Iさんもそうだった。ただ、所属する自治体が違うと所属する漁業共同組合も違い、漁協が違うと漁場もコンブ漁・ウニ漁等の漁獲日・種類も違い、お隣さんとはいえ、またその家の間の微妙な距離もあって、ほとんど行き来がなくって。
 近所付き合いの固いうちの母親にしても、Iさん宅を飛ばして、その一軒向こうのSさんとは仲良くしてて、モノのやり取り(息子一家、つまりは我が一家、が帰郷すると、新鮮な海産物が届けられることになったりする)もこまめにあるのだけれど、Iさん一家とのやり取りを見聞きしたことがない。

 で、表題の忠犬ハチ公なんだけど、実は、このIさん宅の飼い犬のこと。
 こいつがちょっと困ったやつで、利尻富士町で用足しして、野中(のっちゅう)の村落を貫く細い旧道を車で走っていると、必ず道に飛び出し車体に体をぶつかるように吠え掛かる。道を歩いて行く人にも同様。剣呑だ。
 この8月の帰郷でも、例によって車に向かって来やがるんで、いつか間違って(あくまでわざとじゃなく)轢いてやろう(って、わざとか)と思ったくらい。帰宅後、その犬が、鰊番屋の跡地の古井戸にはまった話(Iさんが必死になって探したらしい)なんかしていたら、そこで母親が、そのIさんが亡くなったと言い出した(それまでお隣さんの死の話がされなかったわけで、それでつきあいの程がわかろうかというもの)。

 で、そこで改めて思い出したことがある。
 そして、実は、年に何度か思い出すことでもある。

 子供のころ、Iさん家には、こちらと同学年の女の子がいたように記憶している。なにせ上に書いたような事情で、付き合いもなく、学区も違いで、定かには覚えていないのだけど。
 その癖、なにかの折、例えば、野中村落にもまだ人家人口が多かったころ存在した雑貨屋さんに買物に行ったときや浜辺でそれぞれ遊ぶときなど、ちら、ちらと見かけたように思う。子供同士の気安さで、一言二言言葉を交わしたりしたのかもしれない。そしておかしな話なんだけど、その女の子が本当にこの世に存在した(する)のなら、その子はきれいな顔立ちをしていた。印象的な瞳の。(男ってバカだね。っていうか、オレがバカなのか。笑)。
 過疎・高齢化の土地だからね、子供たちは、大人になったら家を離れ、都会に出て行くのが通例(こちらもその一人)。大人になってから、その女の子を見た記憶は、自信を持っていえるけど、ない。

 さらに不思議なことに。

 こちらは小学校の高学年だったと思う、夏のある日、突然、どこから現れたともしれない男に、これまた突然、その女の子は元気か、と聞かれたのだった。
 家の東側の小さな空間で遊んでいたのだと思う。そこは、冬に吹く猛烈な山背風(東風)を防ぐ、高さ二メートルを越える竹囲い(竹と言っても利尻に自生する根曲り竹なんだけど)が七・八メートルの幅で作られていて、家とその囲いの間の、かぼちゃが植えられていたり鬼百合の花が咲いているような陽だまりの小さな場所。そう、鬼百合の花にやってくるキアゲハはむさぼるように蜜を吸うんで、子供にも簡単に捕まえられるんだ。
 東利尻町の徴税役人同様、その男も、我が家が正統的なIさん宅の隣家と思ったのだろう。さらには、その女の子の消息を、同じ年恰好の子供が知らないはずがないと思ったのだろう。

 記憶では、こちらはその男に対して、元気だと思う、と言っている。おそらくはおどおどと。じいちゃんが、隣町の徴税吏に、事情を言い出しかねたように。
 さらに記憶では、その男は、あの子は自分の子供なんだ、と告げた。
 なんと。
 これには返事をした記憶がない。今、自分が外面だけ子供になってその場にいたとしても、おそらくは返事のしようもないだろう。
 そして、男は、もと来た道を、利尻島を循環する道道の方向へ、去って行った。

 夢・幻のような気もするんだけど、娘が小学校高学年になった今、それが夢・幻であったとしても、自分にも、その男の抱いていた感情の一端を理解できる。男は、島に住んでいたのか、島の外から来たのか? どちらにしても、その両方の事情なりのやるせなさが残る。
 それが夢・幻であっても、あの夏の日のおどおどした少年は、その男のその時期の年齢とそう遠くない(あるいは今のこちらのほうが年長かもしれない)ところまで歳を重ねた。その男のその後の生活を思う。もしかしたら、娘の住む隣家の、バカ面をした子供の不確かな一言でも、生きるよすがになったかもしれないと。

 その女の子もその親(自称)の存在も不確かなんだけど、Iさんの死と、利尻の忠犬ハチ公が今も道行く車に飛びかかっていることは間違いない、と思う。
 あと、島には島の暮らしがあり、人間が生きて、そしてやがて死んでいくことには変わりがないということも。

 さて。


 東京でのWRさんの暮らしが健やかなものでありますよう。
 とってつけたようでゴメンよ(笑)。
 こっちも元気に暮らすからね。


P.S.
 それにしても。
 Iさんは、そのことを、知っていたのだろうか?




20070926 上方と下つ方(かみがたとしもつかた)・「旅の時間」の時間・001

20071003 ヤノベケンジの大冒険の旅・「旅の時間」の時間・002

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20070817 旅の時間・利尻島行き帰り・ガスっけ

20070105

  20070105/13時36分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 松浦武四郎さんとセルフ・ツーショット・ポートレート
  



20070809
 やや八ヶ月ぶりに利尻島へ向かう。

  20070809/11時31分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 松浦武四郎さんと長女とセルフ・スリーショット・ポートレート
  

  20070809/14時50分 稚内港で、鴛泊行きのカーフェリー待ち
  

  20070809/16時36分 日本海上、東日本海フェリー上
  

  20070809/16時38分 日本海上、東日本海フェリー上
  

  20070809/16時54分 鴛泊港入港間近、利尻山の裾野(利尻富士町野塚あたり)が見える
  

  20070809/17時12分 下船
  

  20070809/17時59分 実家前に建つ倉 1955年建造
  

  20070809/18時00分 実はこの倉が、ブックスボックスの利尻島スタジオ兼ギャラリー
  

  20070809/18時01分 実家前の浜 濃霧(ガス) 今回の滞在中、自宅がある仙法志地区はずっと「ガスっけ(気)」だった
  

20070810

  20070810/07時43分 ご近所からのいただきもの
  

  20070810/08時56分 今に残る紺漁業部の鰊場の袋澗(ふくろま)を、利尻島を一周する道道から撮影 その鰊場の親方であった紺宗治は田原の母方の祖父
  

  20070810/09時00分 袋澗に下りていく
  

  20070810/09時05分 長年の風雪・波浪によって、破断されつつある、袋澗の鉄筋入り防波堤
  

  20070810/09時09分 袋澗の防波堤 袋澗を西側から望む
  

  20070810/09時16分 袋澗を東側から望む 上の写真のリバースアングル
  

  20070810/09時24分 この日は同行したS氏と、紺の袋澗から、田原家の澗までの海岸線(利尻島の最南端)をトレッキング 海岸の植物群
  

  20070810/09時25分 崖の草中にジグザグの道の痕跡 昔の漁労で使用したものらしい
  

  20070810/13時45分 午後、利尻町立博物館訪問 館内展示の鰊場コーナー
  

  20070810/13時45分 利尻町立博物館展示 紺の鰊場の番付板 昭和二十年代に書かれたもの 鰊漁のあった各年の漁場の構成員とその序列がこれで知れる 実は田原の母(親方の娘だった)の手によって書かれたもの
  

  

  

  20070810/13時48分 利尻町立博物館展示 市街図 こういうものを作って何かの役に立つと思われるほど人口があったということ 利尻町仙法志の一番端っこにあたる田原家も一応かかれている
  

  20070810/15時37分 丸い島の、田原家の真裏にあたる鴛泊地区に行ってみると、晴れていた!
  

  

  

  

  

20070811

  20070811/13時16分 晴れない
  

20070812

  20070812/12時25分 2日前のトレッキングコースを逆ルートで
  

  

  

  20070812/12時27分 S氏に加え、娘二人も同行 彼女らには結構ハードな道行
  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  20070812/14時03分 トレッキングを追え、「始点」の終点へ帰りつく
  

  20070812/14時58分 利尻町立博物館展示 長野重一さん1956年撮影の写真展示の中の一枚 撮影場所は仙法志本町 真ん中に立っていてこちらを見ているのは、なんと父と結婚する前の母「紺千恵子」
  

  20070812/17時52分 夕方また浜歩き わずかに残る、高島漁業部の鰊場の石組み 紺の袋澗と高島の鰊場の間に、「小前の者」であった田原家の入り江(澗)が並ぶかたち 今はどこの澗も漁労の痕跡が残るばかりで使われることはない 日本海の冬の波浪が、年々、その痕跡も消し去っていく
  

20070813
 離島の日。

    20070813/09時22分 ブックスボックスの利尻島スタジオ兼ギャラリーの倉の二階 奥のスペースには、使われることのなくなった(そしてもう二度と使われることのない)漁網の山
  

    20070813/09時22分 ブックスボックスの利尻島スタジオ兼ギャラリーの倉の二階 紺漁業部の御膳やら重箱やらもある
  

    20070813/09時24分 帰るという日に天気が良くなった この倉が自分にとっての世界の中心であるらしい、と思いつつ、島を離れることに
  

| | コメント (2) | トラックバック (1)

20070506 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その3

   *

「島めぐり(19) 利尻島見聞」 宮本常一 (全国離島振興協議会 刊 「しま」第41号(第10巻第3号 昭和三十九年十二月二十五日発行)) より。その三。

「 三

 四日には本泊漁村を見、沓形へいって小田桐町長をたずね、さらにこの島の漁業開拓者の一人である荒木健三氏をたずねて島の漁業の変遷についてきた。荒木氏はもとニシン親方であった。そのニシン親方の生きのびている利尻島ではめずらしい一人である。氏はたえず前向きになって歩いた。ニシン場経営にも、独自の才能をふるい、ニシンがだめだと気がついてくると、居を雄忠志内から沓形に移し、釣漁に転じて近海漁業に新らしい活躍の世界を見出した。沓形は今そうした釣魚の基地として活気を見せはじめている。沓形の町は今年五月に大火があって町の中央部の大半が焼けたが、その復興のさまは目ざましく、近代的な建築が立ちならびはじめていた。おそらく火災前とは見違えるような町が生まれるのではないかと思う。ただしこれは商家の場合で、漁家で罹災したものは復興が容易でないだろう。

 沓形からかえって役場で漁業改良普及員の佐賀正美さんから島の漁業の現状についてきいた。佐賀さんはまだ若い。樺太生まれで、終戦をエストルで迎え、内地へかえって来てつぶさに苦労をなめた。引きあげて来たとき小学校の六年生であったという。妹さんと二人で九州にある遠い親戚をたずねていった。しかしそこにもいづらくて、また北海道へ引きかえし、妹とも別々になり、小樽で知人のたすけで中学を出、さらによい先生にめぐりあって高校を出る。そして水産講習所に学んでやっと一人前になり、東利尻町へ赴任して来たのである。ここへ来たのはここから樺太が見えるからでもあったという。清純な若者で、こうした人たちによって、北の海はほんとうにひらかれていくのであろう。利尻島と北の礼文島との間は近い。しかもこの間はオホーツク海から日本海に入ってくる魚の魚道になっている。ここに網をはっておいて、共同経営によって魚をとれば、能率も上り漁民の生活も安定すると佐賀さんは言う。大きい夢であり、たのしい夢であり、現実性のある夢である。われわれも真剣に考えていい問題であり、具体化して見たいものだと思う。

 五日は鬼脇の古老に鬼脇の変遷について話をきくために出かけることにした。神保さんはその途中にある石崎で婦人会の人たちが温室で野菜の栽培をしているのを見学し、またそこの婦人たちから話を聞くことにした。風の強い日であった。海が真白に波立っている。そうした日にも稚内からの連絡船はやって来る。野塚の鼻からはるかな海の彼方を見ていると、真白なしぶきが、大きくもりあがっては消える一ところがある。暗礁があるのかと思っていたら、連絡船が来つつあるのだとのことであった。たくましい船乗たちである。

 さて鬼脇へいって公民館の二階へ松尾重吉氏に来ていただいて話をきく。もと鬼脇村長だった人。開拓者の一人で鳥取から来られた。温厚そのもので一見きわめて平凡に見える人だが、それでいて長い風雪にたえ、しかもその姿勢をくずさなかった人である。開拓者の中にはこうしたタイプの人が少なくない。どのような苦難にもたえていく力を持っている。そして自己主張をすることも少ない。しかし周囲の者からは頼りにせられ、その中心になって相談にのりながら仲間を率いていく。物に執着は持たないだ、仲間の生活は大切にする。そういうタイプの人である。郷里の鳥取県酒津を両親につれられて五才のとき出てきて七十年になる。その間一度も帰郷したことがないし、帰って見ようとも思わぬという。松尾さんにとっては住みついた所がふるさとであり、そこを大切にしなければならないと信じている。この島に住んでいる人たちにはそうした考え方を持った人が少なくないであろう。だからこそ住みついたのである。そして住みついた世界をよりよくしていくことのみが、この人たちの持つ問題を解決していくことになる。

 五時すぎまで話をきいて、石崎まで帰って来ると神保さんも話をきき終えたところであった。そして温室を見せてもらってキウリをいただいた。見事なものである。温室栽培をおこなえば利尻でも生鮮な野菜を十分補うことができる。それはこの島の将来の農業に一つの光明を与えるものでもある。
 
 その夜私は町の有志の人たちと町の寺の庫裡で話しあいをした。話しあいをしながらいろいろの夢がわいて来るのをおぼえた。島の主峰利尻岳の裾野、海抜三百メートル以下はゆるやかな傾斜で牧野としても十分利用できる条件を持っている。しかもその面積が島全体の面積の三分の二を占めているのである。かならずやこの原野の開発に島民も真剣にとりくむ日が来るであろうと思われる。

 さらにまた島は道路その他の土木事業がきわめて盛んであり、それが自治体体制を次第にととのえていくであろうと思われるが、同時に道路の整備や漁港の整備が漁業の近代化をすすめていくのではないかと思う。今日まで島の沿岸に散在する漁家は家のまえの海に澗とよぶ船つなぎ場をつくり、また船をひきあげるようにしている。そのことが漁船を大きくせず、近海はすばらしい漁場でありながら、そこへ出ていくだけの能力を持つ漁船は少なかった。しかし鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形などの漁港が整備せられると、そこを中心にして漁船が大形化し、散在漁家もそこを基地にして漁業の近代化がおこるのではないかと思う。そのために散在漁家から漁港までの道がよくなければならぬ。裾野の開拓も同様である。

 ただ問題は最近出稼者が非常にふえたことで、東利尻町だけでも千人に達するという。しかしこの人びとの持ち帰る金は三千七百万円ぐらいだといわれている。出稼ぎはそれほどもうかるものではない。どうしても島内の生産をあげる工夫をするよりほかに根本的な解決策はないと思われる。収入さえ上れば人はそこにとどまるものである。礼文島は利尻島に比して一戸当りの収入が二倍近くにのぼっている。そして礼文には青年も少年もたくさん残っている。私の眼にはさいはてという感じはしなかった。利尻島にも内地の島々に見られるような老化現象はそれほど強くあらわれていない。

 とにかく私の眼にはこの島はいろいろのことが今はじまったばかりであるという感じがする。そして新らしい方向を見出すために、各部落ごとに公民館をもうけ、できるだけ住民の話しあいの機会を作ることが何より大切ではないかと思った。鬼脇公民館はすばらしい建物だが、こういう設備を十分使いこなしてもらいたいものである。」
 宮本常一 wiki


20070429 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その2

20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

| | コメント (1) | トラックバック (0)

20070429 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その2

   *

「島めぐり(19) 利尻島見聞」 宮本常一 (全国離島振興協議会 刊 「しま」第41号(第10巻第3号 昭和三十九年十二月二十五日発行)) より。その二。

「 二

 作物が十分作れず、そのうえ長い冬がある。そういう所へ人が住みついたのは内地のどの海岸よりも多く魚がとれたからで、それ以外にこの島に人を住まわせた条件はない。魚のとれない寒い冬をわざわざこの島ですごすこともないから、初めのうちは漁期だけ人が来て冬は帰っていったようである。それが番屋の制度を生んだ。大きな資本を持ったものが、漁場の近くに大きな納屋を造り、漁期になるとヤン衆(漁業労働者)をつれてやって来、そこに住まわせ、番屋の近くの海にニシン建網を張ってニシンをとる。そして漁期をすぎるとヤン衆は内地にかえり、また番屋の親方たちも島を去っていく。親方たちは北海道西南部の海岸に本拠をおいている者が多かった。

 ただ江戸時代にアイヌ人と交易した運上屋や、ニシン粕やニシン油を上方の商人に売り、また島民の必要物資を買い入れる問屋たちは事業の都合で島で越年する者もあった。越年する人たちはそういうところに集まり住んだ。鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形などに市街地らしいものができて来たのは、そこに問屋が居住したからであった。

 だがニシンの漁場は島沿岸全体にわたっており、番屋も島の周囲に散在していた。そして親方たちは建網でニシンをとっていたのであるが、それだけではニシンはとりきれぬほど押し寄せた。そういうことを伝え聞いた東北・日本海沿岸の小漁師たちはわずかの縁故をたよりにこの島にわたって、番屋と番屋の間の空間の地に小屋を建て、小さい磯船一艘を持ち、刺網をつかってニシンをとることにした。まったくささやかな暮らしであるが、運が向けば建網を買い入れ番屋を作って親分衆になれる機会もある。

 この仲間は冬になっても郷里へ帰れなかった。往復に多くの日数を要し、また費用もかかる。船便さえも親方たちのように容易には得られない。そこでやむなく越年する者が多くなった。親方たちからは小前の者となかば軽蔑されていたが、この島の土になる運命を背負っているだけに、島で一年間を生きぬく工夫をしなければならなかった。と同時に彼らはまた彼らで誇りをもっていた。小さいながらも独立した経営者で誰に使われるものでもない。しかし番屋のヤン衆たちは親方にムシケラ同様に使われる。ヤン衆たちは青森・秋田の海岸地方の農民が多かった。それがニシン季節になると船頭につれられて番屋へやって来る。ヤン衆たちのふるさとの家も貧しい。自分の家の働きだけでは生活がたたないから北のはてまで出稼ぎに来るのである。それが番屋で男ばかりの、うすよごれた生活をつづける。小前の者の生活は、それにくらべればはるかに幸福であった。家もあれば妻もある。子供もいる。北のはてまで夫についてやって来るような女には根性があった。どこまでも夫によりそい、男を助けようとする心意気があった。

 建網にはニシンしか入らなかったが、小前の者の刺網にはニシンの時期がすぎるとホッケがかかった。それにイカ・タコがとれる。夏になればコンブがとれる。秋から冬にかけてはタラが来る。漁具と漁法をかえれば一年間稼ぐほどの仕事はあった。そこでこの仲間はしっかりと利尻の島に根をおろして来たのである。そしてその生活も徐々に向上して来た。それはその住家を見ればわかる。

 いっぽうニシン漁には豊凶がはなはだしく、それがまた不漁になっていって昭和三十年頃を境にして企業的な経営を成り立たせなくしてしまった。そしてニシン建網業者は完全に敗退してしまうのである。この親方たちは北海道本土・本州などに本拠を持っている者がほとんどであるから不漁とともに内地に引きあげ、ヤン衆たちも季節労働者であるからニシンが来なければ来なくなる。こうして島ははじめて島居住者たちのものになって来たのである。この島の海岸に点々として同じような大きさの家が、散在して連なるともなく連なっているのは、かつて小前の者とよばれた独立漁民の家なのである。そしてどこが部落の境であるかもわからない。

 同行の役場の方がかつて野中という利尻町との境の部落へ税金をとりにいって、一軒一軒あるいているうちに、どうも相手のうけ答えの様子がおかしいので、よく聞きただして見ると、そこは東利尻町ではなくて利尻町であったという。利尻島とはそういうところである。そして鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形をのぞいては資本家らしい資本家もおらず、一見ほぼ相似た経営をいとなむ、所得格差のきわめて少ない平和な島だとも言えるのである。

 私はこの集落景観と、このような集落景観の生まれて来る過程について深く考えさせられた。考えて見るとこの島にはこのような景観が生まれて来るまで、島に自治行政というものはなかった。ニシン親方たちはこの島の本当の住民ではなかったし、その人たちは島民全体の幸福などというようなものを考える余裕すらなかった。彼らはただもうかりさえすればよかったのである。しかしそういう人たちが住んでいるから島としての地方行政事務があったのだし、島の行政事務もそうした親方たちを対象にしてなされていて、そこには自治体らしい気配は少なかったと言っていい。

 だから島を見ないで島に関する報告だけ読んでいるととんだ錯覚をおこすのである。「さい果ての島にいまはニシンがとれなくなって、火のきえたようにさびれている。」そういう印象がつよい。しかし島に来て見ると没落したのは少数のニシン建網漁者であり、大半の島民は逆にその生産に生活にこれまで以上の工夫がなされ、この島を自分たちの安心して住める島にしようとの努力がうかがわれる。

 言いかえると、いろいろの夾雑物がなくなって島民たちを主体とした島になり、島民が島全体のことを考えるようになり、やっと島が自治体として発足しはじめたのである。それはニシンのとれなくなった昭和三十年頃からのことである町村合併もそうした転機の中でおこなわれた。

 しかし、自治体の一員としての意識はまだ低く、自治体としての力は弱い。そのことは利尻町も東利尻町も町長が輸入町長であることによって推定せられる。自治体の自治力の弱い所では輸入町長を迎えることが多い。利尻町の小田桐町長は北海道庁に勤務し、東利尻町の小松町長は稚内市役所の助役をしていた。

 由来北海道の開拓村は開拓集団の仲間意識は強いけれども、集団と集団との連合意識は弱く、むしろ対立意識がつよい。そうしたものの中からは自治精神は生まれない。自分たちの仲間をこえて、他の仲間と手をとり、共通の幸福を見出そうとするところに自治の精神は生まれ、かつ発達する。この対立を解消し連帯・連合の体制をつくるために指導者を他から迎えることは多く、北海道にあってはそうして真の自治体をつくりあげていった町村が少なくない。利尻島はいまその段階にある。幸いにして利尻島は実によい指導者を町長に迎えている。ある意味では利尻島自治の歴史はやっと始まったばかりであると言っていい。

 私が島に来て第一に見たのはそうしたものであった。鴛泊を出て、姫沼を見、水力発電所・鬼脇公民館・鬼脇港・漁協・保育所・沼浦ミンク飼育場・南浜漁港・沓形港などを見学して鴛泊の宿へかえったのは夕方であった。天気は鬼脇についた頃から回復し、沼浦では紺碧の空にくっきりとそそり立つ利尻岳を仰ぐことができた。(つづく)」
 宮本常一 wiki


20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

| | コメント (1) | トラックバック (0)

20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

   *

「島めぐり(19) 利尻島見聞」 宮本常一 (全国離島振興協議会 刊 「しま」第41号(第10巻第3号 昭和三十九年十二月二十五日発行)) より。

「 一

 北海道東利尻町の小松町長はその少年時代を青森県三本木の渋沢農場で過ごされ、私の世話になっている渋沢家とは因縁浅からざる人であり、そういうことがわかってから急に親しくおつきあいするようになった。そしてぜひ一度北海道の島を見に来るようにとすすめられてきたが、私にはなかなかその間がない。小松さんは大へんな愛書家であり、また読書家で、東京へ出て来ると神田の古本屋をあるいてめずらしい書物をさがし、また親しくしている人の著書をさがす。私の著書なども実によくあつめていられるが、その私の書物の中に北海道の島について書いたものがほとんどないのを見て、とにかく北海道の島も歩いて批判もしてほしいという。そこで本夏(昭和三十九年)は青森県下下北半島の九学会連合の総合調査もあり、それにかけて北海道へわたることにした。

 北海道へは昭和二十年の秋にいった。当時私は大阪府につとめていた。大阪市はその年空襲のためにすっかり焼野原になってしまい、戦災者の処置に困って北海道への移住をすすめた。それに応募した者が、一万人近くもあったであろうか。それを幾組かにわけてわれわれが引率していくことになった。私はその第三回目であったと思うが、千人あまりの人をつれて北海道へわたった。私のつれていった仲間は天塩・幌延地方へ入植する人たちであった。秋十月の半ばで野は稲が黄にうれ、山は黄葉の美しいときであったが、敗戦にうちしおれて皆元気がなかった。その人たちをはげまし勇気づけながら、幌延までたどりついて見ると、地元の人は実に冷たかった。そこへ入植者を捨てるようにして立ち去った。第一回・第二回に入植した人たちはどうしているだろうと、そのことが気になって、北見地方にすでに入植している第一回・第二回隊の様子を見るために、一ヵ月あまりもう雪の降りはじめた原野をあるきまわった。最後に石狩平野の新十津川村をおとずれたときは雪が一尺近くも積もっていた。

 また近いうちにやって来ますからと約束しつつ、つい再訪の機会を失なって二十年近い歳月が流れた。あの人たちはどうしているだろうと思いつつ、いまは音信もたえたままになっている。二十年の間に北海道の天地がどんなにかわったかも、せめて汽車の窓から見たいと思った。

 七月三十一日青森の野辺地をたって海を渡った。近頃は仕事に追われて、下北へたつときは記憶喪失症ではないかと思うほど物忘れが強くなっていた。それが下北で比較的のんびり調査している間にすこし元気を回復した。とにかく北海道は何とか歩いてこられそうだが、できるだけ無理をしないことにし、汽車も坐ってゆけるようなスケジュールを組んで、利尻島の鴛泊についたのは八月三日の昼前であった。小松町長の要請もあって、東京から来た神保さんもいっしょに島を廻るのであるが、これまた過労で元気がない。その上北海道は暗うつな天気がつづいていた。真夏だというのにジャケツの必要なほど寒い。

 だが日本の北端というのにそこには私の想像したよりもずっと活気のある町があった。そして鴛泊の港に上陸する人びともほとんどリュックを背負っているのが印象的であった。若い仲間で、いわゆる観光客ではない。持金がないから稚内から引きかえそうと思ったが、無理して来た。島へは泊らないで日帰りするのだと話している女学生もいた。若い人たちは上陸するとすぐ四方へ散っていった。私たちは小松町長に迎えられて町役場へいった。町は海から低い海蝕崖をのぼった上にある。明るい近代的な硝子で張りめぐらされた建物である。夏はよいが冬は寒いという。こうした所にまでこういう建物が建てられるようになった。中央の文化の波が時をおかず押しよせて来るのである。

 まず何よりも島を一通り見たいと思った。理想としてはテクテクあるいて見ることだが、能率をあげるために自動車をつかってできるだけ多くのものを見ることにした。

 利尻島はすでに本誌に何回か紹介されているので数字はできるだけはぶくことにするが、中央に利尻岳という火山がそびえ、周囲に」ゆるやかにのびる裾野を持つ楕円形の島で、海岸にそうて一周する道路が通じている。そして民家は北の鴛泊、南の鬼脇、西南の仙法志、西の沓形にやや密集して市街地を形成し、その余は海岸にそうてばらばらに散在している。

 私たちは鴛泊を中心にして、島を東からまず一周してみることにした。地図をひろげて見て気のつくことは先住民ののこしたと思われる地名のすくないことである。本泊・鴛泊・湾内・野塚・鰊泊・旭浜・石崎・二つ石・清川・鬼脇・金崎・沼浦・南浜(以上東利尻町)・野中・御岬・政泊・神磯・長浜・久連・蘭泊・沓形・種宮町・新湊・栄浜(以上利尻町)はいずれも内地人が居住してからつけられた地名と思われる。先住民ののこした地名と思われるものは人の住んでいない所に多く、人の居住するところにあるものは雄忠志内(東利尻町)・仙法志・神居(以上利尻町)などごくわずかにすぎない。

 内地人がこの島に住みつきはじめた頃には北端の富士岬付近には少数のアイヌ人が住んでいたようであったが、他はほとんで無人の世界で、明治の中頃までは山林が海岸まで覆うていたという。そういうところへ内地人が来て思いのままに住みついたのである。内地風な地名の多いのは継承すべきそれ以前からの地名のなかったことに起因すると思う。

 そしてこの島はまず海岸がひらけていったのである。このことはいったい農作物もろくにできないような島になぜ人が住みついたかということについて考えて見るとわかる。農業をするためにここに来たのではない。農以外の生業で生活がたつ見込みがあったからここに来て住みついたのであって、この島の場合はニシンが多量にとれたため、それを目あてにやって来たのである。だから島民は長い間山に背を向け、海の方ばかりを見て生活して来た。

 ある時期に製紙会社が来て海岸に近い裾野地帯のエゾマツやトドマツをパルプ材として伐った。そのあとにはもう木が生えなくて、東海岸はイタドリ、西海岸はカヤ類が密生して来た。そして立木は海抜二百メートル線から上にのこった。そこは国有地になっている。この材木を伐っていった人たちは島の住民たちにはほとんど無関係に等しかった。そして島民にとっては村の背後に木が立っていようがいまいが大して変わりはなかったのである。ただ海の方を向いていさえすれば生活がたてられたのである。」
 宮本常一 wiki

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20070106 あけおめ・ことよろ・利尻島行き帰り

 あけましておめでとうございます。
 ことしもよろしくおねがいいたします。



 年末年始、実家のある利尻島へ、行って帰ってきました。
 降雪も少なく、日和も穏やかで、よい正月でした。

  2006年12月30日 7時50分 江別を出発
  
  20061230/8時02分 新篠津村に入る 道道139号線上
  
  20061230/8時12分 当別町に入る 道道887号線上
  
  20061230/8時20分 月形町に入る 国道275号線上
  
  20061230/8時37分 浦臼町に入る 国道275号線上
  
  20061230/9時09分 新十津川町に入る 国道275号線上
  
  20061230/9時26分 北竜町に入る 国道275号線上
  
  20061230/10時07分 留萌市内 国道232号線上
  
  20061230/10時13分 小平町に入る 国道232号線上
  
  20061230/10時31分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 松浦武四郎の功績をたたえるモニュメント
  
  20061230/10時31分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 花田番屋
  
  20061230/10時32分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 日本海沿岸
  
  20061230/10時43分 苫前町に入る 国道232号線上
  
  20061230/10時47分 苫前町 風力発電用の風車群
  
  20061230/11時01分 羽幌町に入る 国道232号線上
  
  20061230/11時21分 初山別村に入る 国道232号線上
  
  20061230/11時44分 遠別町に入る 国道232号線上
  
  20061230/12時02分 天塩町に入る 国道232号線上
  
  20061230/12時18分 幌延町に入る 道道106号線上
  
  20061230/12時23分 幌延町 風力発電用の風車列 道道106号線上から
  
  20061230/12時27分 幌延町 セルフポートレート 車は愛車「白ゴリ号」 ジムニーです
  
  20061230/12時28分 幌延町 フリーズ・ドライ・はまなす
  
  20061230/12時29分 幌延町 風力発電用の風車列
  
  20061230/12時36分 豊富町に入る 道道106号線上
  
  20061230/12時52分 稚内市に入る 道道106号線上
  
  20061230/14時06分 稚内港 サイドミラーの中の、カーフェリー入港
  
  20061230/16時00分 もうじき、利尻島鴛泊港に入港
  
  20061230/16時19分 利尻町に入る 道道105号線上
  
  20061230/16時45分 実家近く、利尻町と利尻富士町、町堺の三叉路 江別を出てから九時間
  



  20061231/11時12分 田原家 年越準備完了の神棚
  
  20061231/13時07分 家の玄関から数十歩でこの風景 ここで、明治以来営々田原家の漁労が営まれた
  
  20061231/13時08分 上の写真と同じ撮影場所から東方を望む
  
  20061231/13時09分 上の写真と同じ撮影場所から西方を望む
  



  20070101/09時37分 利尻山 好天、山頂まで見えた 家の玄関から十数歩でこの風景
  
  20070101/12時32分 浜辺の雪中に動物の足跡 哺乳類? 野生?
  
  20070101/12時33分 浜辺の作業小屋 1999年に亡くなった父が、生前、養殖昆布の漁労で使っていたもの 秋に入り口の戸が飛んでしまった ほどなく倒壊することだろう
  
  20070101/12時33分 上の小屋の向かいに建つ作業小屋 1998年に亡くなった祖父が、生前、使っていたもの 母の嫁入り前からの建物らしく、建ったのは50年以上前ということになる 崩壊寸前 ここで作られた祖父手製の「しおうに」は絶品だった
  
  20070101/12時33分 もう使われることのなり磯舟用のウィンチ(巻き上げ機)
  


  20070102/14時01分 実家内 祖父母・父の遺影
  
  20070102/14時02分 実家前の倉 これも築後50年を越える 実はこれが「利尻島スタジオ」兼「ミサキ倉ギャラリー」の正体だったりする
  
  20070102/14時13分 実家近く
  


  20070103/08時48分 実家内 絵の中の家と山景
  
  20070103/10時06分 実家近く 好天の三が日だった
  
  20070103/15時09分 利尻町 沓形の温泉 ロビーに、長野重一さん撮影の1955年当時の利尻の写真が展示されていた
  
  20070103/15時37分 利尻町 サイドミラーの中の日没
  


  20070104/09時12分
  
  20070104/12時55分 田原家の澗(ま) 「澗」は、広辞苑によれば「湾または海岸の船着場・船曳揚場。北陸地方などでいう語」 漁労の場でもある この日は、すごい引き潮
  
  20070104/13時04分 実家は利尻町の一番端っこにある
  
  20070104/13時04分 町堺の元利尻町民
  
  20070104/13時05分
  
  20070104/13時09分
  


  20070105/07時39分 朝日を浴びる利尻山
  
  20070105/07時40分 朝焼けの中の「利尻島スタジオ」兼「倉」ギャラリー
  
  20070105/08時49分 利尻富士町 鴛泊港 利尻山とフェリー
  
  20070105/08時50分 利尻富士町 鴛泊港 サイドミラーの中の利尻山とフェリー
  
  20070105/11時26分 稚内市 海の向こうの利尻島 道道106号線上
  
  20070105/11時29分 稚内市 海の向こうの利尻島
  
  20070105/13時36分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 松浦武四郎さんとセルフ・ツーショット・ポートレート
  


 倉ギャラリー * *
 長野重一 * * *
 松浦武四郎 * *

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20060820 越後妻有的利尻島・昆布の呪縛・伊丹-苫小牧

   * [大地の芸術祭 2006―越後妻有アートトリエンナーレ] 大地の芸術祭東京事務局 編

 午前9時、NHK教育『新日曜美術館』。特集「アートが彩る里山 越後妻有アートトリエンナーレ2006」。

里山を舞台に行われる現代美術の祭典「大地の芸術祭」越後妻有アートトリエンナーレ。アートによって過疎・高齢化の問題を抱える地方の町を活性化させるのが目的だ。第3回目が7月23日から新潟県十日町市・津南町760平方kmを会場に開催されている。越後妻有の魅力を再発見させ、地元の人々に誇りを取り戻させる、地域の特性を生かした作品群。総合ディレクター・北川フラム氏とともに会場を巡り、紹介する。 NHKオンライン ホームページ http://www.nhk.or.jp/ より
 17日、「過疎・高齢化の問題を抱える」利尻島から帰ってきたばかりということもあって、いろいろ考えさせられる。

 正午、等々力政彦さんに教えられた、札幌・清田区のうどん店に。麺は美味しかったけど、かつお出汁に違和感。利尻昆布の呪縛か(笑)。

 高校野球決勝、駒大苫小牧対早稲田実業、延長15回、決着つかず、翌日再試合ということに。
 南北海道代表の田中投手は、兵庫県伊丹市の出身とか。1988年ころの生まれなら、1995年のあの震災を体験していることになるなあ、なんて、野球とは関係ないこと考えたり。
 目的があるとはいえ、伊丹から苫小牧への転地のときは、別天地を訪れた気がしたことだろうなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20060220 利尻島で漁師・ではなく・今ここで

 改めて考えると不思議な気持ちになるが、自分が生まれた時将来なるだろう職業として真っ先に考えられたのは、「漁師」だった。

 利尻島の田原家は1905年に「仙法志字御崎」に居を定め、以来父が亡くなる1999年まで代々その地で漁業を営んできた。

  
  実家横から見る、利尻山 2006/01

 父は1931年生の「本家の長男」。ぼくはその第一子で1958年生。

 父はなぜ跡を継げと言わなかったのか?

 一つは、おそらく「職業の選択肢」の問題だろう。

 父の世代は戦前の家族制度の中で、生地で生業を継ぎ一生を終えるのが常道だった。

 それに対してぼくは、1974年高校入学のため島を離れ、以来戻っていない。

 そのとき札幌に出たぼくには、無限の選択肢があった。

 父母祖父母は、そのことに、子の孫の未来を預けたのだと思う。

 北の孤島で、漁で生計を立てるのはつらく厳しい、それしか選び取れないのはあまりにかわいそうだ、と。

 で結局、自分は何を選んだのだろうと改めて考えると、また不思議な気持ちになる。

 中学を出て漁師になって、そのまま続けて(続いて?)いれば、今頃その道三十余年のベテラン。
 それは本当に不自由なことだったのだろうか?

 職業選択の自由はまた、独立独歩でやっていくなら、新しい場所と人間関係と技術を、一から開拓・開墾しなければならない、ということでもある。
 そしてそれは、なかなか困難なことだ。

 さて、2005年から、北海道の田原家の二世紀目が始まった。

 「自由」を活かし切るのは難しいけれど、後に続く者たちのためにも、やらなきゃね。

 先に逝った者たちが残してくれた「自由」なのだし。

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20051016 黒田晃弘・利尻-横浜-新日曜美術館・円空?

 黒田晃弘さんは、似顔絵アーティスト。
 現在、「横浜トリエンナーレ2005「アートサーカス」」に参加中。
 16日、「横浜トリエンナーレ」特集の、NHK-教育「新日曜美術館」に登場。
 毎週かかさず見るTV番組に、身近なアーティスト、うれしかった!

 今年の6月14日から21日まで、黒田さんは、利尻島の田原の実家に滞在。
 島の人の顔を何枚も描きました。こちらを:http://booxbox.cocolog-nifty.com/tahara/2005/06/20050622_a3c8.html


2005/06/14 利尻島到着当日の黒田さんと、モデルになってくれた、田原の小・中時代のクラスメート・旧姓S田さん、とその似顔絵


2005/06/15 田原の母校の仙法志中学校の後輩たちが、美術の授業時間を利用して、アトリエ化した田原家の倉を訪問


2005/06/15 仙法志中学校の先生お二人が、モデルに

 その中の気に入った絵を引っさげての、横浜入り。
 そのときの絵の何枚かも、TV画面に映っていました。

 紙に墨で描く似顔絵、という超アナログな手法。
 が、黒田さんはれっきとした現代作家です。
 似顔絵を描いて売って生計を立てています。
 その点は、普通の似顔絵描きと変わりはありません。

 似顔絵は、普通、「物」として、似顔を依頼した人の手に渡ります。
 黒田さんの似顔絵は、モデル以外の第三者(ときには作家本人)の手にも渡ります。
 なぜなら、似顔絵を描くこと・その作品群を、「表現」と捉えているからです。
 よい「表現」には、評価(とそれに対する作家の反応)が当然ついてきます。

 現代美術に特有、宿命といってもいいかもしれません、の「作家性」。
 それは、へたな作家のものならうるさいだけです。
 黒田さんは、「作家性」と無縁の、「似顔絵描き」という行為にこだわりました。
 そこで、逆に、大いなる「作家性」を発見・発現してしまったわけです。

 目立ちますよね、周りが「デジタル現代」してるなか、いまどき手描きですから。
 だからこそ、利尻島あたりの一般ピーポルにも受け入れられたのでしょう。
 描かせてもらう描いてもらう、という、うるわしい関係が出来上がったのです。
 直接対面し対話し、共同で作品を作る、実は、これこそ「現代的」なのでは?

 黒田さんの意識も、現代作家的・戦略的です。
 似顔絵はすべて、作家自身によって撮影され、デジタル画像として残されます。
 実はその撮影は、名札を持ったモデルさんの写真とセットになっています。
 日付とモデルの記録とともに、データベース化されるのです、作家自身の手によって。

 黒田さんが今のまま活動を続ければ、数万枚に及ぶ作品群を残すことでしょう。
 コンセプト・フォーマットの優れた同一性、多様性は損なわれない、という優れた。
 それはまた、データベース化されている以上、容易に回顧・全集化が可能です。
 一点一点、自分のものにしようとするコレクターが当然現れるかと思います。

 円空の木彫り仏像を思い出します。
 あれも、コンセプト・フォーマットは同一ですが、多様性に富んでいます。
 旅の記憶、人の記憶とともにあります。
 黒田さんも、旅をし、絵を描き続けることで、現代の円空たりえるかもしれません。

 一番最初に会ったとき、基本的・基礎的な肉体トレーニングの話をしました。
 絵を描くなら、デッサン。
 アナログな行為、そこからしか始まらないでしょう、というような話。
 黒田さんが、今後も、そのデッサンの力を生かし、活躍されることを祈っています。

 新日曜美術館、山根基世アナウンサーも、描いてもらってました。
 描きあがった絵を見るときの、原初の喜びとも言えそうな、うれしそうな顔。
 自分の似顔はいま利尻島にあります。
 また描いて欲しいなあ、いろいろ話をしながら。


NHKオンライン ホームページより
新日曜美術館
 「体感!アートサーカス 横浜トリエンナーレ2005」
前9・00~10・00
(再)後8・00~9・00
 2001年に始まった現代美術の祭典横浜トリエンナーレ。その第2回展が、9月28日から、山下埠頭でスタートする。テーマは「日常からの跳躍」。見る-見られるというスタティックな関係を越えて、アーティストと観客が、わい雑に交流する場を出現させようと言うのだ。世界30か国から86作家が参加する。
 会場には、常時、何人もの作家たちが常駐し、作品に手を加え続ける。前衛作家の堀尾貞治は、当日から会場の壁に絵を描き始め、トリエンナーレ最終日まで毎日、会場の壁に描き続ける。タイの映像作家ウィットを中心にしたプロジェクトでは、ミュージシャンやアーティストたちがカフェや食堂など7つの部屋を作り、独特の熱気あふれるバンコクの街を表現する。
 また、会場の外、山下公園では、中国の作家ジャン・ジェが、半分地中に埋まった家を建てる。観客はその家の瓦を持って帰り、その後作家にその瓦の近況を報告するという、インタラクティブな作品を制作する。また、パリを拠点に活躍する桃谷恵理子は、横浜にアパートを借り、会期中、そこに住みながら、さまざまなアーティストとコラボレーション作品を展開する。総合ディレクター・川俣正氏とともに、会場を巡り、アートとの新鮮な出会いを体験できる横浜トリエンナーレを紹介する。

| | コメント (1)

20050828 宮本常一・の道をゆく・旅人化作戦

   * [宮本常一 写真・日記集成 全2巻・別巻1] 宮本常一

 『宮本常一 写真・日記集成 全2巻・別巻1』(毎日新聞社 20050331)という本が出たらしい。
 日本列島隅々、距離にして地球四周分近い十六万キロ、時間にして四千日、泊まった民家千軒、という旅をした民俗学者・宮本常一。その13000余日分の日記と、生涯に撮影した100000点に及ぶ写真の中からセレクトされた3000枚の写真が収録されているとのこと。
 欲しい・・・。が、六万円という値段はちょっと・・・。

 というところで、その宮本さんを知る「旅」の最初の一歩になりそうな一冊を発見。『佐野真一責任編集 宮本常一 旅する民俗学者』(河出書房新社 20050415)
 佐野真一谷川健一の特別対談、宮本さんの単行本・著作集未収録文(水上勉との対談もあり)、渋沢敬三司馬遼太郎網野善彦高田宏池内紀のエッセイ、と盛り沢山。

 当然、わが故郷・利尻島も、宮本常一さんは訪れています。
 『宮本常一の写真に読む失われた昭和』(佐野真一 平凡社 20040618)中に、宮本さん撮影の利尻の写真を二枚発見。61P「ミンクの飼育小屋。ミンクの毛皮は美しく丈夫なことから珍重され、漁民の副業として飼われた。北海道利尻島。昭和39年8月3~6日」。105P「コンブ採り。今も昔も主要なコンブ生産地は北海道である。全国生産量のほぼ95%を占める。北海道利尻島。昭和39年8月3~6日」
 ちなみに、利尻でのミンク飼育は現在行われていません。それに対してコンブ漁は主たる収入源として今も続いています。

 昭和39年、1964年といえば、東京オリンピックの年。田原は、翌年の春から小学生。そんな年の八月、宮本さんと利尻の道のどこかで接近遭遇していたのだ・・・。
 宮本さんの約10万点の写真は、調査資料などとともに、宮本さんの故郷山口県周防大島の文化交流センターに展示されているらしい。いかねばなるまい、1964年の利尻を見に・・・。イサム・ノグチに続いて、今度は「宮本常一」ツアーだ!

 1970年3月13日撮影の、大阪万博の写真も収録。宮本常一は、大阪万博に何を見たのか。

 佐野真一さんの一連の宮本常一本、どれも読み応えあります。
 『宮本常一が見た日本』(NHK出版 20011025) NHK教育テレビ「人間講座・宮本常一が見た日本」のテキストをベースにしたもので、宮本常一の生涯とその仕事を理解するよいきっかけになる一冊です。
 『旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三 』(文藝春秋 199611) 宮本常一もすごいが、その活動を支えた渋沢敬三という人間もすごい。
 その渋沢敬三とは何者だったのか、を知るには、『渋沢家三代』(文藝春秋 199811)

 田原と同い年(1958年生)、第一次オタク世代の毛利甚八(漫画『家裁の人』原作者というのが一番通りがよいか)さんも、優れた「宮本常一の旅人」。
 その成果が『宮本常一を歩く―日本の辺境を旅する』上・下巻(小学館 19980510)
 宮本常一の旅の足跡を辿る旅。同世代として、うれしくもあり、うらやましくもあり。毛利さんの写真もいいです。

 で、結局、宮本常一って、誰? という方のために、「原典」を。
 『忘れられた日本人』(岩波文庫 198401)

 たとえば、その中の「土佐源氏」という一文。
 これを読んで「旅人」にならなきゃ、嘘でしょ。


| | コメント (0)

20050807 利尻島・ウニ・コンブ

   * [アイヌ式エコロジー生活―治造エカシに学ぶ、自然の知恵] さとうち藍 関戸勇写真

 利尻町立博物館で礼文島・利尻島を特集した雑誌『旅』2005年6月号を発見。さとうち藍さんの記事「利尻 世界一のウニを育む海へ」(写真・関戸勇)を読む。
いろいろと利尻に関する旅のレポート文を読んだが、このさとうちさんの文章は、正確・的確・簡潔。三日間の滞在で、一日ごと、バフンウニ漁(浜言葉で「ガンゼ」)・昆布漁・ムラサキウニ漁(浜言葉で「ノナ」)を体験できる運の強さ(?)も持ち合わせていらっしゃるよう。
その「世界一」とかいうウニを今回の帰省でも当然のごとく食べているわけで、なにが「世界一」なのかよくわからないけど、新鮮なものを現地で食べておいしいのは確か。「世界一」かどうかは知らないけど、「幸せモン」ではあるかとちょっと思う。

「長いトゲのあるムラサキウニを獲る漁師の姿を目で追った。それまで出会った漁師のさまざまな言葉が頭をよぎる。舟を足で繰れるようになった、一人前の男になったときの喜び、山にエゾマツを採りにいき、削ってマッカを作る話。六月の漁の初日の興奮のようす。「初日を見なけりゃ」と何度もいわれた。
海に馴染み、昆布を採り、ウニを獲る。海は人間の狩猟本能を満たすと同時に、自然と一体化して生きる喜びを体感させてくれる。利尻の獲れたての生ウニの、とろけるような甘さを味わいながら、自然に身を投げ出して生きる人々に出会えることこそ、この島の真の魅力だと感じた。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20050805 利尻島・宿命の越境者・ドウス昌代の岩見沢

   * [イサム・ノグチ―宿命の越境者〈上〉] ドウス昌代

 『イサム・ノグチ 宿命の越境者』上(ドウス昌代 講談社 20000410)読了。
20050724、NHK教育の『新日曜美術館』はイサム・ノグチさんの特集だった。広島平和記念公園の原爆慰霊碑のデザインにまつわる話(イサム・ノグチさんは、敵勢ガイジンであるという理由でデザイン案が採用されることがなかった)で、丹下健三さんとの関わりにも興味がわいたし、なによりゲスト出演されたドウス昌代さんの姿立ちと話っぷりとその内容に強い印象を受けた。
早速、『イサム・ノグチ 宿命の越境者』を手にとった次第。

イサム・ノグチの最後・最大の「彫刻」作品である札幌・モエレ沼公園の7月1日のグランドオープンもあってその仕事・人間性が再注目されているわけだが、ドウス昌代さんの本を読んで、イサム・ノグチを再検討・再発見することは素晴らしいことだと考えた。
上巻では、その出生から46歳(ちょうど今の自分と同年代)前後までのイサム・ノグチの半生が描かれている。
ノンフィクションライターとしてのドウスさんの着眼・取材・叙述の確かさ。ぐいぐい引き込まれる。1938年北海道岩見沢市生まれとのこと。今は、ドウスさんの生き方・人となりにも強い興味をいだいている。

| | コメント (1) | トラックバック (2)

20050804 利尻島・東京するめクラブ・サハリン

   * [東京するめクラブ 地球のはぐれ方] 村上春樹・吉本由美・都築響一

 利尻島で、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上春樹吉本由美都築響一 文藝春秋 20041115)読了。
吉本さんのことはよく知らないが、村上さんと都築さんらとともに旅をし、それが本になったら、それが面白くないわけがない。しかも行き先は、名古屋・熱海・ホノルル・江の島・サハリン・清里。
利尻島は、距離的に、サハリンにごくごく近い。ずっと訪れてみたいと思っている。でも本当に行くとするならホノルルの方が近い。

334P「村上 日本の地方都市では、選択肢が、サハリンなんかに比べると確かにいっぱいあるんだけど、面白いかって言われると面白くないんだよね、選択肢自体が。うるさいだけ。ところが、サハリンは選択肢なんてそもそもないわけじゃない。そのへん、実にがらんとしているというか、さっぱりしているというか。/吉本 別に何にも選択しなくても、そのへんにポーッと立ってて見ているだけでもけっこう楽しいし、歩いているだけでもね。道が広ーくて大きい木がいっぱい立ってて、野の花がざっくばらんにあちこち咲いていて。日本の田舎って、することがありすぎるのかもしれない。あっち行きたいとか、こっちにも行きたいとか。」

自然の面で昔の利尻の面影があるのではという期待があってのサハリン行き希望なのだが、上のような文章を読むと、生まれ育ったころの利尻の「豊かで退屈な時間」も経験できるのではないかと思ったり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20050803 江別・稚内・利尻島

 朝八時、江別市の自宅から、実家のある利尻島へ向けて、車で出発。
 午後三時半、稚内からのフェリーに乗り、実家に到着したのは、六時ちょっと前。

   * [利尻の見える風景] 宮本誠一郎

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20050622 昨日まで利尻島

昨日まで利尻島。

写真は、利尻山を横目に、道道を運転する田原。撮影は、助手席に座っていた、似顔絵画家の黒田晃弘さん。
9日から19日まで、実家の「倉」(築50余年)を改装してギャラリー化、14日以降は黒田さんが利尻入り、島の人の似顔絵を50余枚、描いた。

おかげさまで、利尻では、今まで会う機会もなかった利尻の人に会うことができてよかった。
1905(明治38)年に今の利尻町仙法志字御崎に、田原のご先祖が移住、今年でちょうと一世紀。新世紀を迎えるためのちょっとした試みが、今回の「利尻島ミサキ「倉」ギャラリー」の開設。
その百年と、倉の五十年と、黒田さんに描かれる今の利尻の人(自分も含まれているのかな・・・?)を、映像作品として定着させる予定。

朝から、島ではこなせなかった雑務をこなす。本当に「人生とは雑事との戦いである」と思う。
モノを作る環境を作り出すこともせずにモノを作り始めて、まあ結果運良くいろいろ作ってこれたわけだけど、今、その環境の不整備に苦しめられている、といったところ。
自分自身のマネージメント能力の低さも含めて。

今日は、ずいぶん気温が高かったみたい。
黒田さんも無事、次の似顔絵描きの地・帯広に無事到着したらしい。よかった、よかった。
緑が濃い。そして美しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20050130 死後の世界

 夜、うまく眠れず。

 朝、普段より早起きして、普段とは違う服装(リーバイス501ではなくウールのスラックス、ジャケットにネクタイ)をして、自分にとっては朝早い電車で、札幌へ向かう。午前中は、北海道大学構内で、放送大学大学院の単位認定試験。前々日までのレコーディング作業の疲れと寝不足もあって、体調は良くない。

 案の定、途中、JR厚別駅あたりから、おなかの不調。「まずい」と悟って、次の白石駅で下車。ギリギリのタイミングで駅トイレの個室に飛び込んだと思ったものの、ズボンを下ろすやいなや、盛大な下痢便。トイレットペーパー・ティッシュの類から、いつもの501なら右後ろのポケットに必ず入っているバンダナもなく、拭けない。

 JRの電車本数は少ない、試験に遅れるわけにもいかないということで、無理矢理、ズボンを上げるが、当然、下着を汚してしまう。やれやれ。いくらなんでも、これでは歩けない。遠くまで行けない。

 実際は下痢便でトランクスがエライことになっている情けない46歳なのだが、知らんぷりをして近所のコンビニへ。コンビニって本当に便利だね、トランクスとウェットティッシュと、HBの鉛筆(試験答案用。いかに自分がこの日気が回っていなかったか、よくわかる)を購入。その足でふたたびさっきの個室へ。

 さて、今度は個室で着替えをしなければならない。ご存知のように、駅のトイレがきれいであったためしはない。そこで下半身裸になって、501でもそんなところで汚したくはないが、汚せないスラックスを脱がねばならない。今年の田原はまた特に寒がりで、防寒・登山用のタイツまではいている。靴下も二枚だ・・・。靴はどうして脱いで、どうやってそこに立つのか。そして、そうしている間にも、試験開始の時間は迫る。

 なんとか、服を汚さないように、汚れた下着がスネにつかないように下半身裸になって(奇跡だ!)、ウェットティッシュで、お尻をふく。何枚も使う。新調トランクスを、慎重にはく。タイツ、靴下二枚、スラックス、靴(たまたまこの日、服装の都合上、いつもの登山靴ではなく、古いデザートブーツ、っていまでもいうのかな、をはいていて、この靴を足場に着替えることができたのだった。登山靴ならアウトだったろう)。古い下着よ、さようなら。コンビニトランクスの袋に、粗相パンツと粗相ウェットティッシュを押し込んで、備え付けの屑入れに入れる。お掃除のおばさん、ゴメンなさい。

 電車を二本乗り過ごしたことになる。予定より、約三十分の遅れ。受験票を確認すると、遅刻も何分かは許されているらしい。

 遅刻して、試験会場に入室。さっきまで、うんちをもらしていた男は、『国際関係論』の答案に向かっている。発展途上国の開発の問題は、なぜ当事国だけではなく、国際社会全体がその問題にあたらなくてはいけないのか。欧米で地域主義化が進む中で、それでも日本は東アジアでアジア諸国と連携していく必要があるのかないのか、自説をどちらかにとり、その立場にたって、その必要・不必要を論ぜよ。みたいな、論述問題。



 午後、またいろいろあったのだが、もうこれ以上、書く気力がない。
 ものすごくいろいろなことを考えた・考えさせられた一日だった。
 そのうち、人生の中のある特殊な一日として、この一日の有様を映像化するなりテキスト化するなりして、世に出すことがあるかもしれない。

 一つだけいえば、一番、長く・多く考えていたのは、「死後の世界」のことだった。
 自分が死んだらどうなるかの「死後の世界」ではなく、自分が死んでいなくなった後のこの世の姿=「死後の世界」について。
 前者の意味での「死後の世界」は、ない、と思っている。かなりの確信でもって。あるとしたら、迷惑至極だ。

 まあ、所詮、うんこたれの言うことだから、あてにはならないが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20041010 利尻:氷河地形観察会

 在利尻島スタジオ。

 午前九時、利尻町立博物館。氷河地形観察会に参加するため。

   * [利尻・礼文自然観察ガイド] 杣田美野里・宮本誠一郎・佐藤雅彦

 博物館の佐藤 雅彦さん発行の博物館たより「リイシリ」の23(10)-214.MMから引用すると:
「■氷河(の痕跡)を見に行こう!
 昨年、当館の助成事業によって利尻島の氷河について調査をおこなった近藤玲介さんが、観察会を開くために再びご来島してくださいます。今回の観察会は、昨年見つかったという氷河の証拠を巡るツアーで、林道を歩きながらモレーンと言われる氷河が運んだ岩の跡や氷河湖があったとされる堆積した層の変形などをのんびりと見て歩きます。秋の一日、かつてあった氷河を想像しながら、氷河の専門家である近藤さんの解説付きで、ヤムナイ沢をごいっしょに散策してみませんか?
---
事業名:プチ巡検「利尻山豊仙沢の氷河地形と堆積物」
講 師:近藤玲介氏(明治大学大学院文学研究科地理学専攻 博士後期課程)
日 時:10月10日(日) 午前9時から12時まで
場 所:豊仙沢および博物館講習室
内 容:豊仙沢においてモレーン堆積物露頭と氷河末端の湖の堆積物変形構造の露頭などを観察し、利尻の氷河について学ぶ
申 込:10/7までに氏名、連絡先などを博物館まで連絡すること
集 合:利尻町立博物館に9:00までに集合
日 程:09:00 博物館集合、オリエンテーション
    09:05 講師による氷河についての説明(講習室)<事前学習>
    09:30 博物館出発
    09:50 じゃり道入口着
    10:00 河原着
    10:15 終点着、万年雪の方へ
    10:45 標高300m付近へ林道をたどり、周辺にある露頭観察しながら下山していきます<露頭観察>
    11:45 河原着、まとめ
    12:00 解散
持ち物:河原を歩くことがあるので、トレッキングできる装備を用意してください。基本的に林道を歩きますが、時々、沢で露頭を観察したりすることもあります。軍手、カメラ、双眼鏡などもあると便利でしょう。装備がわからない人は事前申し込みの時にご相談ください。
その他:雨天やガスなどで露頭が見えない場合は中止。
    緊急連絡先は担当学芸員の佐藤まで。
---
<講師からひとこと>
---
 みなさまこんにちは。明治大学大学院の近藤です。私は利尻山に氷河があったのではないか?という仮定を立てて、その証拠を見つけるべく利尻周辺の谷をうろうろしていました。その結果、数は少ないですがいくつかの決定的な証拠が見つかり、「やっぱり利尻山には昔氷河があったんだ!」という結論に至りました。最新の年代測定法の結果、少なくとも約2万年前に氷河が存在していたこともわかりました。
 皆様が御存知の通り利尻山は火山ですから、溶岩などによる火山に関わる地形が利尻山の姿の基本を形作っています。しかし、現在見える利尻山の雄大で険しい谷に刻まれた景観(カタチ)を作り上げる過程には、「氷河」という現在の日本にはもう存在しない自然のパワーが一役買っていたのです。今回の巡検では豊仙沢におけるいくつかの現地調査地点で、氷河が作った地形・関連する堆積物を実際に見ていただき、氷河があった時代を想像していただくことを目的としています。「氷河が作った地形に興味がある」、「別に興味はないけど秋の林道を散歩してみたい」いずれの方もお気軽に御参加ください。」

 田原のジムニー「白ゴリ」号、山道で、活躍。ジムニーにしてよかった。
 ビデオの撮影もよくできた。よかった。

 途中、利尻島の氷河地形にただならぬ興味をいただいている等々力政彦氏から偶然電話が入ったりして、なんだかおかしかった。等々力氏も、田原の状況を聞いてびっくりしていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20041008 秋の利尻

 利尻島スタジオ。

 午前、母親を利尻町の国保病院に送る。

 午後、仙法志郵便局から、北海道・本州へ郵送物。
 利尻町立博物館を訪問。学芸員の佐藤雅彦さん、課長さんの西谷榮治さんと歓談。
 いろいろ情報をもらう。佐藤さんには、10日の氷河地形観察会への参加をお願いし、西谷さんからは歴史関係の資料をもらったり貸してもらったり。沓形大火を取材した東京12チャンネルの当時のTV番組や利尻麒麟獅子舞を取材した鳥取の放送局のTV番組のビデオあり。長野重一さんの利尻での全撮影ポジの紙焼きも再度借りる。

   * [利尻・礼文自然観察ガイド] 杣田美野里・宮本誠一郎・佐藤雅彦

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040920 国立公園になって30年

 午前。
 江別市ふれあい農園。今年のじゃがいも最後の収穫。利尻島スタジオのほうでも、畑作したい。
 十一時、NHK「にっぽん夏紀行「大海女 島に生きる」」という番組。石川県舳倉島のあわび採りの海女さんとその旦那さんやお弟子さん(十八歳・茶髪・まだ船酔い中)を紹介。印象に残る。

 午後。
 昨日パンクした車の後輪の処理で、近所のカー用品店へ。明日メーカーに在庫問合せとのこと。替えなくても大丈夫なようなことも言っていた。

   * [利尻・礼文自然観察ガイド] 杣田美野里・宮本誠一郎・佐藤雅彦

 二時、北海道ローカルの民放番組を見る。
 なんでも30年前の今日(昭和49年9月20日)、利尻礼文国定公園が、利尻礼文サロベツ国立公園に「昇格」したのだとういう。で、俳優・村野武範さんが、公園のある幌延町・豊富町・稚内市・利尻富士町・利尻町・礼文町をめぐって、見る・食べる・遊ぶ、する番組になったらしい。
 昭和49年といえば、高校に通うために、利尻島から札幌に出てきた年。

 十月、柳瀬美保レコーディング@東京のため、誕生日割引での航空チケット予約。
 田原の東京滞在は、10月19日から22日までになる。

 その後はほとんどコンピュータに向かいもろもろゆるゆる作業。深夜まで。
 嵯峨治彦さんと、電話で、明日の中森花器店に関して、打ち合わせ。

 腰痛、あまりよくならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040828 西村英樹遺稿集「バックミラー」が届く

  

 「歴史は過去を振り返るだけのためにあるのではない。
  前に進むためにこそ、バックミラーはあるのだ。
          (西村英樹著『夢のサムライ』あとがきより)
」(遺稿集1ページ)

 「 編集すればメディアになる
----
 編集というのはそういうもので、たまたま本を作るというところでやれば本の編集者になるし、映画監督だって結局編集をやるんだから。テレビ番組だってなんだって、編集というプロセスを通さないと、メディアっていうのは絶対につくれない。編集すればメディアになるけど、編集しなければ単なる情報の山。その中に価値はあるんだけど、意味はないんだ。その編集のキーになるのは企画さ。
----
 企画書を出してスケジュール組んで、そうやって仕事をコントロールして、一人でこなして・・・。
----
 だから、けっこう仕事をやっているんだ。ミニコミセンター時代からずっと今まで。作家じゃないから作品としては残っていないんだけれども、やれ、どこどこの要覧だ、観光パンフだ、チラシだ、自費出版だ、なんだかんだってすごい量をやってる。それを全部ざーっと並べたら、こんなに一人の人間ができるのかっていう量になると思うよ。
----
 じゃあ、机に向かってパソコンにへばりついてわーっとやっているかといえば、けっしてそうではなくて、ほとんどビール飲んでて、行き先はわかんない、みたいな・・・(笑)。
----
(2003年7月22日 入院中の札幌厚生病院前庭にて談)
」(遺稿集254-255ページ)



 2004年8月8日、西村英樹さんの遺言により、故郷利尻町沓形で散骨が行われた。

 その日、田原も利尻にいた。故郷利尻町仙法志字御崎のブックスボックス・利尻島スタジオ。
 西村さんの遺骨が還っていった海からほど遠くない海岸で、海へ向かう道を「再構築」

 それから数週間後、札幌に隣接する江別市の自宅に、西村英樹遺稿集「バックミラー」が届く。

 北海道にJターンして住み、メディアを作っていく人間として、西村英樹さんという優れた先達(しかも同郷の!)の知遇を得たことは、有難いことだった。

 その早過ぎる死はまったくもって残念。
 けれども、その死は、「掲載した原稿は、驚くべきことに、闘病中、ご自身が選んでおられた」(「西村英樹遺稿集発刊に寄せて」遺稿集2ページ)というように、西村さんらしいものだったというしかない。



 自分も含めて、北海道に住む人間の誰もが、北海道の向かうべき道を「再構築」してゆくべき時期が来ている。

 その導き手として、少なくとも自分は、西村さんのことを忘れないし、この遺稿集「バックミラー」は、その「道」の道標となることだろう。



 こちらの書評「西村英樹『夢のサムライ 北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成』」も、よろしければ、ご覧ください。

 こちらのマニュフェスト「「利尻島スタジオ」いよいよ動き出します!」も、よろしければ、ご覧ください。



 Googleで「西村英樹」で検索してみて、宗谷支庁出身の世界的音楽家・畑中正人さんもまた西村さんに大きな影響を受けたことを初めて知った(こちらの2004年7月23日分記事ご参照のこと)。


 それにしても。

 「西村英樹」で検索して、2004年8月28日現在、Jリーガーではない西村英樹さんに関するインターネット上のデータでトップに来ているのが、田原の書評であるのはどうなのか(その少し下に畑中正人さんの上のデータが現れる)。

 西村英樹の仕事をインターネットを使って知ろうとした人間に、田原の文章は最適なものとはとても言えないだろう。
 WEB上でも、西村さんの仕事を体系的に知ることができないものなのか。

 と言ったら、「言い出しっぺなんだから、田原さん、やんなよ」と、西村さんになら言われそうな気もする。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040818 利尻島から帰ってきました

 8月15日。


海から利尻山を撮影するために、磯舟に乗せてもらいました。


夕方、オタドマリ沼から夕暮れ時の利尻山を撮影しました。


 8月17日。


鴛泊港の見送り風景。


そして船は行く。


十月、再上陸予定。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040814 利尻島スタジオから 涼しいのだ


利尻空港送迎デッキから見る利尻山。


千歳-利尻間就航のジェット機。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040812 利尻島スタジオから 八月の花々

 11日は、コンブ漁。Mさんちのコンブ干しのお手伝い。
 そのせいで、今日は筋肉痛。

 でも元気に、甥っ子三人と上の娘と、車で島内一周。
 8月の花をロケハン。


イワギキョウ?


ヤムナイ沢雪渓。万年雪?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040810 利尻島スタジオから 秋の気配

2004年8月9日


車窓から撮影するため臨時・簡易撮影車にしてみました。


結構時化てます。


秋空にしか見えない。


2004年8月10日

涼しい一日だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040808 利尻島スタジオから 趣味の草刈り機

まずは写真を。

写真左上から右下へ、「く」の字型に「道」がついているのが見える。これは利尻島スタジオのある実家からかつての田原家の船着場に続く道。さらに昔は、高島さんという人が経営する「鰊場」が使用していた道。

今、「使用前」の写真も撮っておけばよかったと後悔しているんだけど、これは草刈り機「使用後」に撮影したもの。

写真右中の小さな入り江(これも実はかつての鰊水揚げに利用された入り江)で拾う利尻産のリシリコンブを、実家近くのコンブ干し場まで持ち運ぶのに、草丈高くては足元が危ないので、草を刈ってくれと母親に頼まれてした作業の結果。

上の写真程度刈ろうが刈るまいが、このような場所では、多湿の国・日本ゆえに、「自然」に対して、ほとんどなんの影響もない。来年はまた草ぼうぼう。

けれども、確かに、保護・保全しなければならない「自然」もどこかにあんだろうなあとは思う。

それを見極める感性は、実は、小さな自然破壊を自ら行いその結果を見ることからしか身につかないのではないか。

という言い訳を胸に、ガソリンを継ぎ足し、なんだか「趣味」の領域に入ってしまった、草刈り作業を再開する。

そうして「道」は、必要以上に整地化され、必要以上に伸びていく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040806 利尻島スタジオ周辺 花のある風景

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040805 利尻島へ向かうフェリー上から

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040704 佐呂間在住の建築家・五十嵐淳さん

 2日夜、ICCで開催された、日本建築家協会北海道支部住宅部会主催の「2004住宅賞候補スライドレビュー」を見学させてもらいました。
 業界の人(とその候補者たち)が集うなか、数少ない門外漢として、楽しく過ごしました。
 それにしても、熱い集まりでした。六時に始まったプレゼンが終了したのは、なんと十一時過ぎ!

 特に、佐呂間町在住の建築家・五十嵐淳さんの建築物「トラス下の矩形」が気になりました。
 で、早速、WEB検索。

   五十嵐淳さんホームページ:http://jun-igarashi.web.infoseek.co.jp/

 いやあ、素晴らしい才能ですね。
 うれしい出会いと発見。

 さて。
 この6月の大半を、「利尻島スタジオ」と称した実家で過ごしたわけですが、つらつら思ったのは、「仕事」に集中できるスタジオ建てたいなあ、ということ。今は本当に「実家」そのまんま、日常そのまんま、なんで。

 建築家にとっても面白い土地なんじゃないかと思う。
 海が見える・北海道が見える・利尻山が見える。入り江が二つあって、標高差10メートルあって、磯浜と船着き場と埋められた井戸と鰊場跡の石垣がある。海辺の高山植物・エゾカンゾウ・ハマナス。鳥たち。広さは・・・、どこまで家の土地なのか、自分は把握してない。

 海近く(冬の大しけでも波にさらわれない高さ)に、小さな小屋がある。
 二十平米ほどの掘っ立て小屋で、父親が養殖昆布漁をやっていたころの作業場。
 まず、その場所に、新しい建物を建てることから始めたい。
 そして、昔のお寺さんが寺院内に小さなお堂をたくさん持っているみたいに、敷地内に六個くらいの建築物を持ちたい。

 というような「夢想」を引き出させるだけの力が、五十嵐さんの建築物にはある。

 いつか、クライアント・施主さんになってみたいなあ・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040630 六月の××の歌を忘れない

 今年もまた半分が行ってしまいました。

 一昨日28日、利尻島から江別市に帰着。
 利尻島に向け、発ったのは6月3日。
 長袖シャツで出かけ、半袖シャツで戻ってきました。

 利尻島では、実家(公称:利尻島スタジオ)で寝食。
 いろいろビデオ撮影しました。
 これからも撮りためて、ぼちぼち編集して、いい音楽つけて、来年の今頃には、利尻をテーマにした、DVD一巻が出来上がっているはず。
 予価2940円(税込)。
 そして今後は、地球上のいろんなところを撮影して、作品化していくはず。
 次は、東京。
 続いて、関西・お遍路・沖縄・・・。

 ディスクの中のミクロコスモス。
 モニターの中の、ワールドワイドなピクニック。

 そこそこよいカメラ(SONYのDSR-PD150)を使っているので、楽しい。
 裸の眼にしか見えないものがあるように、ビデオの眼にしか見えないものもある。
 撮影後、モニターで確認して初めて現れてくる、何か。
 花の姿。
 風の行方。
 波の気まま。
 雲の盛衰。
 空の名残。
 それを見つめる、自分の裸の眼。

 手が切り刻み、貼り付け、新しい世界を造る。
 切り取られた風景・時間の、再構築・再分割・加工。
 そして意味付け。
 物語。

 行ってしまった時間がよみがえり、眼から耳から、自分のなかに入り込んでくる。
 突き刺さると言ったほうがいいのかな。

 そんな時間を持て余しつつ、今年の残り半分もさっさと行ってしまうのかと思うと・・・。
 それはそれでいいような気もする。

 歌も忘れていいんだよね。
 他の誰かに伝えられ、歌い継がれていくならば。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040618 利尻 島の生活 2004.06.18

 利尻滞在もあっという間に、二週間経過してしまいました。
 ずっと海・山・花、ヴィデオ撮影してて、昨晩長根あきさんのCD中の1曲・グローバルワークスCD中の1曲分の映像クリップのデモ版が完成しました。
 晴れたら車であちこち行ってカメラを回し、天気が悪いときは家(一応、ここでは「利尻島スタジオ」と言わねばならないか・・・)でマックで映像編集。そんな生活です。
 母親の手伝いをして、家庭内の細々した作業に、時間を割かれることもあり、なんだか一日一日の過ぎ去っていくスピードがとても早いような。

  

 今後の予定ですが、あさって20日、仙法志地区の夏祭りで、何十年ぶりだかに復活し奉納されるという、長浜麒麟獅子という神楽舞があり、その撮影が、今回の滞在のクライマックスになりそうです。鳥取からの移住者が守っていた獅子舞の頭面が、地元の子孫さんの思いが実り、ついに奉納実現、ということです。ご本家鳥取の師匠さんたちとの交流もあり、なかなか盛り上がっています。
 麒麟の王国 http://www.east.tottori.tottori.jp/
 それにしても、意外なところで、絶妙なタイミングで、「神楽」に出会ってしまいました。いい感じです。

 以上、曇り空の利尻島から、ブックスボックス・田原ヒロアキの一報でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040609 利尻 島の生活 2004.06.05-08


オダマキ。野生種?園芸種?


エゾキケマン?ていうのか、な?


自宅前から利尻山を望む。自分にとっては一番身近な山の姿。


大空沢(おおからさわ)。


チシマザクラ。


日没。富士岬。沖合いの島は礼文島。


ヤムナイ沢、雪渓。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040604 利尻 島の生活 2004.06.03/04


稚内から利尻島鴛泊港へ向かうカーフェリーの船中から望む利尻山。2004年6月3日


高山植物リシリヒナゲシが、なぜか海抜10メートルほどの実家の自宅前にたくさん咲いている。2004年6月4日


ご近所さんからいただいたホッケをさばいた後の、スプラッタ画像。こういうのに弱い人、ごめんなさい。おさかな嫌いにならないでね。ホッケの頭も煮付けにするとおいしいんだけど、この季節のホッケは小さすぎてそれもできないみたい。身のほうは現在なま干し中。ホッケのその後画像、乞うご期待(って誰もそんなもの期待しないか・・・)。

次回はもっときれいで心安らぐ画像をアップします。多分・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20040122 利尻島出身者の奇遇

 1月27日、ICC:http://www.icc-jp.com/ での谷本光DVD:http://www.booxbox.com/works_b401t.htm 完成記者発表会に向けて、プレスリリースつくり。
 トライフェイス・中野さんと、DVDジャケット類のデザインの最終調整。

 午後七時、大阪在住時代、たいへんよくしてもらったK藤さん(同い歳)が来道。とある非営利団体の職員になっており、その団体の皆さんと飲み会。
 そこで、利尻島出身の女性に会い、彼女が1999年12月末に利尻島で亡くなった父親が、たいへんお世話になった看護婦さんだったことを知って、お互いびっくり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030813 「夢のサムライ」逝く

 午前、「Mikrokosmos」。
 正午、谷本光くんと円山で待ち合わせ。音響機器の受け渡し。

 午後、ICC。
 企画会議。といっても自分一人だけなんだけど。

  

 K田さんから、西村英樹さんの訃報を聞く。
 ショック。やはり癌が転移していたとのこと。残念。若過ぎる。
 19990304 西村英樹 『夢のサムライ 北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成』 / BALLET MECANIQUE

 夕刻、野幌森林公園。久々の散歩。

 夜、野幌・「ラウンジ れんか」。8月19日のタルバガンのライブの打ち合わせ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030808 利尻・雨・江別

 「注文の多い掲示板」から引用。

[2413] (2003/08/08 20:21:06) 田原ひろあき@ブックスボックス
ただいま帰りました@マルチレス系
 雨模様の中、利尻から江別に帰り着きました。途中、小平町で雨による通行止めがあって、迂回。普段より五十キロほど余計に走ってしまいました(稚内から370キロ)。幌加内・沼田・北竜のあたり、そば畑が花盛り。
 7日は念願の利尻山登山を果たしうれしかった。その余波の筋肉痛を両足に感じながら書き込みしています。

●やなせみほっほうさん
>テント芝居の「風狂フーガ」とういう劇団のでっか~い看板

 どこで見られるんでしょうか?

●小松崎健さん
>京都のアイリッシュ・バンドCraic

 9日のジョイント見に行きたい!
 しかし、天候が心配。

●ボラクさん
>栗山町で「のどうた合宿」

 9月13日は、先約が入ってます・・・。
 夜顔出したいけど、何時になることやら・・・。

 利尻、良かったです。
 五十歳くらいまでに、利尻をテーマにしたちょっと大き目の作品を作りたいと思っています。
 ボラクさんに限らず、皆さん、利尻へどうぞ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030807 利尻山初登頂

 朝早く実家を出て、利尻山登山。午前十時半、山頂。

   * [利尻―山の島 花の道] 宮本誠一郎・杣田美野里

 午後三時、帰宅。
 午後五時、墓参。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030806 ヤムナイサワ

 朝、HBC-TVに谷本光くん登場。

 午後三時、車で利尻島一周。ヤムナイサワへ。

 夜、浮島祭。

   * [利尻・礼文自然観察ガイド] 杣田美野里・宮本誠一郎・佐藤雅彦

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030805 おいねさん

 利尻。
 沼浦、鬼脇登山口。

 吉村昭ふぉん・しいほるとの娘」読了。

 レアルマドリーFC東京


| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030804 母に付き合って病院

 利尻。

 午前、「漱石が見た物理学―首縊りの力学から相対性理論まで」再読。

 午後、母に付き合って病院。

   * [科学史年表] 小山慶太

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030802 稚内公園のロープウェイ

 午前八時、利尻に向かい、江別発。

 午後一時半、稚内。 
 フェリーボートの時間待ちで、稚内公園。

 午後五時、利尻着。
 午後七時、JリーグTV観戦「神戸対横浜」。

   * [利尻・礼文自然観察ガイド] 杣田美野里・宮本誠一郎・佐藤雅彦

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030713 稚内・バルセロナ・江別

 韓国の女子大生・朴智仁さんホームステイ三日目。

 午後、江別市・やきもの市。一人でかける。
 出展中の猪風来さんにご挨拶の後、稚内出身で現在スペイン・バルセロナ在住の建築家田中裕也(たなか・ひろや)さんの講演を聞く。強く印象に残る。

   * [ガウディの建築実測図集] 田中裕也

 実は、田中さんの実家である稚内の「天北庵」というお蕎麦屋さんには、利尻への行き帰りに何度も利用しており、店内の壁に飾られたガウディの実測図に由縁・由来をいつも疑問に思っていたものだった。
 中沢新一さんに「野性のエレガンス」と題された文章があるが、田中さんから受ける印象はまさしく「野性のエレガンス」。畏友・等々力政彦さんの印象とよく似ている。

 帰宅後、朴さんと田原一家で、かまめし屋で夕食。七時過ぎ、北海道浅井学園大学の韓国研修生さんたちが集う寮に朴さんを送る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030624 利尻島より江別に帰着

 撮影したDVを見てから、その内容にしたがって、もう一度書きたい。

   * [利尻・礼文自然観察ガイド] 杣田美野里・宮本誠一郎・佐藤雅彦

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030623 月曜日

 撮影したDVを見てから、その内容にしたがって、もう一度書きたい。

   * [利尻の見える風景] 宮本誠一郎

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030622 利尻・日曜日

 撮影したDVを見てから、その内容にしたがって、もう一度書きたい。
 日本代表・コンフェデ。

   * [北海道よくばり一人旅―利尻・礼文・釧路湿原] 今野忠敬

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030621 利尻・土曜日

 撮影したDVを見てから、その内容にしたがって、もう一度書きたい。

   * [利尻島・礼文島―北海道 山の花図鑑] 梅沢俊

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030620 利尻・金曜日

 撮影したDVを見てから、その内容にしたがって、もう一度書きたい。
 日本代表・コンフェデ。

   * [野口健 ECO×TOUR 礼文島・利尻島の旅]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030619 利尻・木曜日

 撮影したDVを見てから、その内容にしたがって、もう一度書きたい。

   * [利尻・礼文自然観察ガイド] 杣田美野里・宮本誠一郎・佐藤雅彦

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030618 実家のある利尻に夕方着きました

 日本代表・コンフェデ。

   * [利尻礼文・知床・大雪植物手帳―花の楽園北海道の植物約300種を色別検索 (大人の遠足BOOK―植物手帳)] 村田正博

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20030529 利尻での死亡交通事故

 父のいとこの小坂さん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20020804 寝込む

   * [クローズアップ虫の肖像―世界昆虫大図鑑] クレール・ヴィルマン フィリップ・ブランショ 奥本大三郎

 午前、家族で「江別市ふれあい農園」。大根とミニトマトを収穫。その足で野幌森林公園の大沢口へ。草原で虫採り。下の娘は本当に虫が好き。
 午後、利尻で撮影した映像を、妻の実家でも見てもらえるように、DVからVHSにコピーする。ズームもパンもほとんどない「静的」なもの。五時過ぎから、NHK-TVで利尻島に取材した番組。数年前の同様番組で使われていた映像を転用しているよう(いっしょに見ていた妻もそう感じていたらしい)でちょっと興醒め。「自然」と「気候・風土」をごっちゃにしないようにしたいもの。
 体調悪く、夕食後すぐから寝込む。微熱あり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20020801 父との思い出とニシキギンポに再会

 利尻を発ち、江別へ向かう。午前8時40分、鴛泊港を出る。
 十時過ぎ、稚内着。時間もあることだし、ノシャップ岬へ向かう。三十年近く前、父親と寒流水族館を訪れたことがあって、その地を再訪してみたかった。曇天で風が強い。水族館は、驚くほど小さかった(入場料は高かった)。説明書きの字札も古びていて、開館当時から変わっていないのではないか、と思えるほど。
 話題(?)のニシキギンポの水槽があった。こんな形で会おうとは。隣の水槽にはムロランギンポ。こいつは子供のころ、よく釣れた記憶のある「ガンズ」そのものだった。
 あのとき、父と子は、それなり満足して水族館を後にした記憶がある。我々の目は必要以上に肥え、快楽に対して必要以上に贅沢になっているのだろうか?

   稚内市立ノシャップ寒流水族館

 霧深く、日本海沿岸の道中の景色は残念ながら楽しめなかった。
 秩父別から高速道路に乗る。江別東インターチェンジで降りる。高速料金が高い。
 江別のほうがやはりちょっと蒸し暑いか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20020730 紺商店の引札

 午前、利尻町立博物館にN谷さんを訪ねる。母方の祖父は利尻で事業をしていたが、その証拠ともいえる「引札」が最近出てきて、博物館に寄贈されたということで、その写真を撮らせてもらう。

  

  

 利尻では、正月、初売りのときに買物に来た客に配られていたものらしい。
 先年、石川県加賀市の北前船の里資料館に行った際、「引札の世界 北前船がもたらした華麗なる広告チラシ」という美しい図録本を買って、利尻にもあったのだろうか、と思っていただけに、実際、やはり北前航路の商業圏として引札が存在し、しかも自分の祖先が使っていたと知り、実物を見て感激した。
 引札の図の部分は、都市部で印刷されていて(紺商店独自のものではない)、屋号の文字をあとで付け加える様式らしい。上記の本の森嘉紀さんの解説によれば、引札は江戸時代に広告媒体として生まれたものらしい。特に北前ルートに永く残ったものなのだろうか。
 母親も上の二枚に見覚えがあるらしく、しきりに懐かしがっていた。

 午後、妻子と沼浦海岸。
 利尻島では珍しい砂浜の海岸で、水着の二人の娘が波打ち際で遊ぶのをしばらく見ている。
 確か昔中学生のころ、学校の炊事遠足で、この海岸で一度泳いだことがある。あの当時、島の人口はどれくらいだったか。父親が生前言っていたように、ほどなくこの島は「ものすごい事になる」だろう。何十年か後、無人島になっていてもまったくおかしくない。
 われわれは「引札」のたどった運命をたどりつつあるのではないか。

 夜、『街道をゆく 35 オランダ紀行』読了。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

20020729 静的な一日

 萩原延壽『遠い崖-アーネスト・サトウ日記抄3 英国策論』読了。吉村昭さんの『ふぉん・しいぼるとの娘』と東洋文庫『ヤング・ジャパン(横浜と江戸)』(J・R・ブラック・著 ねず・まさし・小池晴子・訳 )を関連図書として読んでみたい。

 午後、ビデオ撮影。
 三脚でカメラを固定し、自分の歩く姿も映してみる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20020728 どんと

 午前、朝の船で利尻に着く妹親子を迎えに鴛泊港へ。帰宅後、借りてきたハンディカムを回しながら、利尻島をドライブ。電池切れで途中で撮影中止で、噂(?)の利尻町の新しい施設「どんと」見物に。500人ほどを収容できる立派なホールと資料室(図書舘)。素晴らしい文化施設だが、町の人口が3000人を切るような土地で、維持管理していけるような代物なのだろうか?その土地に「文化」があるのは素晴らしいことだが、身の丈に合わない文化施設が「文化」を生む、とも思えない。行政側に、町村合併への恐怖感があって(利尻島は利尻町と利尻富士町で構成されている)、利尻の場合両町が互いに合併後のイニシアティブをとるために文化施設という形で「既成事実」作る競争をしているようにも見える。小さな島なり(だからこそ?)にどっちの地区から町長を出すかに始まり、それなりもめることだろう。で、補助金を使っての箱物は増え、役場と建設業者の間でのみ金が動き、残りの町民は税金を払いながら年老いていく。利尻だけの話じゃなくて、全国でこんなようなことやっているんだとしたら、やっぱり、おかしい。

  出船の港@YouTube (江利チエミ(1973年) 「どんとどんとどんと」)
  

 午後、神居のK坂さんを訪ね、先年亡くなった大叔母さんへのお供えと昆布集め。いや、久々、大量の昆布を集めた。K坂さんたち(双子の兄弟なので)は働きものだ。

 腰の具合がよくない。

 夜、妹と妻と下の娘と、親類宅を二件訪問。子供がいると、親のほうの会話の間がもてていい、というのはある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20020727 命日

 意外にも、昆布採りの旗があがる。利尻島には四つの漁業組合があって、それぞれがそれぞれの判断で、その日何の漁を行うか、その地域の天候・海上の状況を見て決定する。昔は、漁の開始の合図を、信号旗をあげて知らせていた。その名残で、漁のあることを「旗があがる」というわけ。しかし、今日の漁の時間は四十分という中途半端でかつ短いものだった。
 隣の松下さん、母が手伝いに行っている三上さんの昆布干しを手伝う。昆布干しをするのは何年ぶりだろう。

 父親の月命日。お坊さんが家に来て、読経。
 かつて親しくしていた女性の命日でもあることに改めて気づく。

   * [東京命日] 島田虎之介

 午後、利尻町立博物館にS藤さんを訪ねる。4月に入籍されたそうで、めでたい。
 アンエリスさんの友人で、ニシキギンポの仲間を探している研究者のことを伝える。
 
 三時過ぎ、昆布集め。

 ヴィデオカメラを持って歩いて、いろいろ撮影してみる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20020103 利尻・稚内・岩見沢・江別

 朝八時、実家を発ち、鴛泊港へ。九時過ぎ稚内に向け出航。大時化。
 午後五時前、稚内駅から特急に乗る。午後十時、岩見沢で乗り換え、野幌駅へ。

  
  20020101 @ RISHIRI Island

  
  20020101 @ RISHIRI Island

  
  20020101 @ RISHIRI Island

  
  20020101 @ RISHIRI Island

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20010614 昭和九年十一月利尻島での海難事故

 午前、ICC(http://www.icc-jp.com/)。

 午後、北海道図書館で、昭和九年十一月利尻島での海難事故の新聞記事をチェック。発見できず。朝日新聞だったからな。北海道新聞の縮刷版は置いてない。マイクロフィルムになっているのかな。

 しかし、当時の利尻島の状況を考えれば、事故の報が新聞社・新聞記者まで届かなかった可能性がある。届いても、随分あととか。
 なにしろ北海道新聞・北海タイムスあたりをあたってみよう。

   * [湯川秀樹日記 昭和九年:中間子論への道] 湯川秀樹 小沼通二編

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20010602 利尻にて

   * [利尻・礼文自然観察ガイド] 杣田美野里・宮本誠一郎・佐藤雅彦

 利尻島・仙法志御崎の実家。
 晴れる。利尻山山頂も見えた。

 午前、娘と浜辺を散歩。
 半世紀以上、田原家の労働と生活の場だった浜が今、和人がやってくる前の状態に静かに戻ろうとしている。
 娘、無心に貝殻拾い。

 午後、いとこ(女)の結婚式場に。
 双方、利尻生まれの利尻育ち。これからも利尻で生きていくのだろう。
 披露宴に参加。二百人を超える参加者。ちょっとびっくり。若い二人なので、発起人たちも元気よい。
 島に残る若者は、基幹産業である漁業に就くものはほとんどいないようで、どの子を見てもいまどき(しゃべるとなまりがでるが)。マスメディアの力が極北の僻村にまで及んでいることをいまさらながら確認。
 公務員志向も強いみたい。さて、人口がどんどん減っていった先、公務員さんたちはどうするのやら。

 食べ残し。都会のカラスも飽食しているらしいが、利尻のカラスも負けていないだろうな、と思う。高いコストで離島まで運びこんだ食物を惜しむことなく生ゴミにする。
 二十一世紀も当分飢えて死ぬ人間がなくなることはないだろう。

 娘は、いとこのウェディングドレス姿に夢中。六歳にして、結婚式がある種人生の一大イベントであることをわかっているらしく(まあ、お祭の一種として捉えているんだろう)、今回の利尻行を楽しみにしていた。
 食べ物を大切に、なんて、教えようもないな。「変革」しなきゃ。

 コンフェデレーションカップ、そんなわけで見られず。対カメルーン戦。
 日本にとって素晴らしい試合だったらしいのだが。

 披露宴終了後、親族の二次会(利尻島独特の風習らしい)に参加(することに)。
 娘、寝てしまう。
 オール演歌のカラオケを二十曲近く聞く。
 すごい体験(笑)だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20010601 利尻島へ

 上の娘・六歳を連れ、利尻島へ向かう。

   * [レールファンタジー 汽車旅ロマンin北海道 道北編 スーパー宗谷の旅]

 野幌-岩見沢を各駅停車で、岩見沢から稚内まで特急「スーパー宗谷」。旭川あたりから雨。道北の景色は、やはり「日本的」ではない。一時半、稚内着。

 三時半、稚内港からフェリーで利尻へ。
 五時半、実家に到着。娘が大人しくしてくれて、助かった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20000813 祖父と母の新聞記事

 利尻の昆布漁に関する新聞記事に、田原家のことが紹介されているのを発見。
 新聞は北海道新聞の日曜版、「いつかどこかで 北の遺産は語る」というシリーズの32話。
 「背負いかご 漁師の頼もしき‘相棒’」(背負いかごは「しょいかご」)と発音。

  
  2004年8月9日、利尻町仙法志字御崎、田原家の「船着き場と干場を兼ねる」前浜

 記事一部転載:

「「かご一杯のコンブの重さは、六、七十キロ。竹の弾力性がないと支えきれないね」。天然コンブ漁がピークを迎えた宗谷管内利尻町仙法志地区。早朝の前浜は、竹製の背負いかごを背にした漁師と家族でにぎわう。いそ舟から続々と水揚げされ、二人がかりでかごの中へ。重いかごを背負い、同じ前浜の干場に向かう。

 漁の時間は二時間余り。漁の技術と干場に運ぶスピードが勝負で、かごは船と干場を往復する漁師の頼もしい味方だ。現在はトラックの運搬が主流だが、仙法志では前浜が船着き場と干場を兼ねる地理的条件から、現在もかごが運搬手段として生き延びている。

 かごの材料は利尻島内に自生する根曲がり竹。戦前から漁具や冬囲い、コンブの干場台の材料に活用され、一九五〇年代半ばまで燃料にも使われていた。漁具を自作する傍ら、竹細工を副業とする漁師も多く、二年前に亡くなった仙法志の故田原正二さんもその一人。

 地元の高等小学校を出た田原さんは道(田原注・北海道の意味)の副業講習会で竹細工を覚え、背負いかごから米とぎざるまで、多くの品を製作した。田原家に嫁いだ千恵子さん(六九)は、「竹製品は保管が良ければ何十年も持つ品。『雨に打たれても日にさらすな』とよく話してました」と正二さんを懐かしむ。
 (後略)」

リシリコンブに関する解説も。
「リシリコンブは対馬暖流が流れる日本海、オホーツク海沿岸に幅広く分布。ブランド名「利尻昆布」として出荷されるコンブは宗谷管内枝幸町から稚内市の産までを含み、主に関西圏でだし昆布として重用される。主産地利尻島のコンブ漁の歴史は古く、江戸時代の文献にも漁場が登場する。

利尻島では天然コンブ漁と並行し増殖事業も早くから行われ、一九六五年に利尻・沓形漁協で始まったのが最初。九九年の宗谷管内十漁協のコンブ生産高は天然、養殖を合わせ千八百四十六トン、売上高は三十七億三千万円に上る。」

 記者さんは稚内支局の竹内博さん。
 ちなみに、正二はぼくの祖父で、千恵子は母。

 午後、家族で野幌森林公園の、開拓百年記念塔前の芝生で遊ぶ。
 トノサマバッタ捕りに熱中する。父親一人。
 娘たちは、虫をまともに触れない。触れなくても生きていける。
 いまどきの子供たちの、開拓地を持たないことの不幸。
 虫に触れもしないくせに、人は簡単に殺せる不思議。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20000611 玄能

   * [KAKURI 利五郎 豆両口玄能 185g]

 曇天ときどき小雨ときに雨。
 母親から、板囲いの補修を頼まれた弟と共に、雨の止み間に金槌仕事。
 板囲いは、家を山背の風から守るためのもの。父が作ったものがボロくなり、家具職人である弟が、新作を作ることになったというわけ。
 作業は淡々と、段取りは悪くないよ、進む。法事のために、内地から帰郷したおばたちが一瞬たりとも口を休めないのと対照的に、兄弟は無駄話を一切しない。
 午前中と夕方、合わせて四・五時間ほどで、新しい板囲いの完成。握力がなくなるほど、ハンマーをふるった。気持ちがいい。

 サッカーキリンカップ、日本代表対スロバキア代表。
 1対1のドロー。
 中村俊輔のフリーキック!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20000609 利尻町史

 午前、利尻町立博物館へ。先日、父へ「利尻町史」を供えてくれたN谷さんとお話。
 自然科学系のS藤さんともお話。S藤さんは「経済ってそういうことだったのか会議」の著者の方と同姓同名。

   * [利尻・礼文自然観察ガイド] 杣田美野里・宮本誠一郎・佐藤雅彦

 利尻、寒い。
 ストーブをたいている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20000608 ここ数年何度利尻島へ渡ったろう

 朝八時過ぎ、家族で利尻島へ向かう。祖父母の三回忌と父の一回忌の法要のため。
 午後五時半、利尻着。

 青木雄二・宮崎学「土壇場の経済学」読了。

   *

 お二人とも借金地獄の経験あり。今、立派に社会的に活動なさっていることを思えば、借金、恐るるに足らずか?(いやそんなことはあるまい)
 借金も経済行為の範囲内にあって、必然必要のものであるということ。ただ「絶対」なものであろうはずもなく、「借金」苦なんかで命を絶ったりするのは愚かなことである、ということ。
 借金の踏み倒し方が様々書かれていて面白い。
 先日読んだ「経済ってそういうことだったのか会議」が優等生二人の経済談義だったのと比較するのもまた一興。
 どちらの本でも、不良債権処理に公的資金がつぎ込まれる日本の銀行のあり方に「?」が提示されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

20000124 ただいま服喪中につき

 堺市のおじ宅で起床。
 源八橋西詰の某ホテルで嵯峨治彦氏とおちあい、地下鉄扇町駅から阪急千里線山田駅、モノレールで伊丹の大阪空港へ。
 ぼくはスカイマークで嵯峨氏よりちょっと早く関西を離れる。

  
  20070102/14時01分 実家内 祖父母・父の遺影

 関西滞在中、やはりどこか傍目には沈んだような表情をしていることもあったのだろう、前日「かりゆし」でクリタアサコ嬢に「亡くなった人も生きてる人が楽しそうなほうがうれしいんとちゃう」と「説教」されたのだった。
 飛行機が雲の上に出、シートベルト着用サインが消えるころ、照屋林助さんの『てるりん自伝』を読んではやめしながら、父のことを考えた。

   *

 確かに今明るく楽しい「気分」ではない。「生」よりも「死」について深く考えている。けれども「さびしい」とか「かなしい」という感情は、ほとんどまったくといっていいほど、わいていない。落ち着いたこころもちといっていい。
 自分が現在いだいている感情を形容するのに、一番ふさわしい言葉はなんだろう。
 清々しさ。
 静かな。

 よく生きた人の死には「浄化作用」があって、残された人たちの生を純粋で輝かしいものに変える力がある。
 そんな結論。
 カタルシス。

 父は昭和四十一年の秋、出稼ぎ先の横浜で勤務中の事故で、左足を失った。
 昭和六年、利尻島生まれで、家業を継いで漁師をしていた父の、致命的な大怪我。
 平成十一年十二月満六十八歳で亡くなるまで、人生の半分近くを片足で過ごしたことになるが、おそらく周囲の誰も「足がなくてつらい」とか「足がないからできない」というような言葉を聞かなかった。

 教訓。愚痴・言い訳はしないこと。

 おそらく、重度障害者に対する公的援助金とちょっとした漁で、かつかつの生活は成り立ったかもしれない。
 しかし父はより困難で未踏の道を選んだ。まだ利尻では普及していなかった昆布養殖。失敗の連続、周囲からの嘲笑にもめげず、信念と確信をもってついに養殖技法を確立。晩年は、人にそれを教える立場になっていた。

 教訓。柔らかな意志を持ち続けること。

 都会の人々が「豊かな自然」という形容をつけたくなるような土地に住む人々が、「豊かな自然」を都会人のように意識しているとは限らない。「開発」したほうが金を産むのであれば、「自然」など破壊されてもいいと、「豊かな自然」地区のたいていの人が考える。
 父はそういう意味では、「豊かな自然」地区に珍しい自然愛好家だった。漁師の経験から培われた自然観は自然なものだった。

 教訓。思い込み、経済的事情に依らず、自然を愛しそこから学ぶべし。

 死に臨んで。
 弱い人間だったなら、必要以上に痛みをこらえることもなく、あるいは早期に癌を発見できていたのかもしれない。平成八年、大腸癌の摘出手術。検査・転移・治療・小康・検査・告知・・・。
 病状は、完全に本人に告知された。父の「自然観」は自分の体の行方を見るのにもよく働いたし、抑制のきく精神の前に、善意の嘘も必要なかった。
 おそろしいことに(おそろしいことだとぼくは思う)、父は、周囲に死が怖いとも死にたくない、とも言わなかった。冷静に、自分の寿命を語ることはあっても。
 しかし、生きようという意思を失ったこともなかった。亡くなるほんのひと月前、父は『アルジャーノンに花束を』を読みたいから買って送ってくれとぼくに頼んだのだった。すでに二か月間、痛みに耐えるため、体をまっすぐにすることができなかった病床から。

   *

 教訓。自分の死を目前にして、自分自身であり続けられる精神を、知性的・理性的と呼ぶべし。

 股関節のリンパ腺に癌細胞が転移し、血行不良になった足(残っているたった一本の!)は、どんどん腫れを増し、それにともなう痛みは耐え難いものであったろう。
 晩春、もはや治療法なしと医者から通告された。父は利尻で、最後の漁をすることになる。ばふんうに、天然こんぶ、むらさきうに。夏、五人の孫を含めたたくさんの客の前で、いつもの年と同じように、船で沖に出ていった。すでに痛みから解放されることはなくなっていたにも関わらず。
 九月下旬、ついに入院。利尻島の国保病院を選んだ。

 教訓。働け!

 死期を悟ったとき、周囲の人間に感謝の言葉を忘れなかった。

 教訓。自分一人で生きていると思うことなかれ。

 飛行機は千歳空港に向けて、降下しはじめる。
 雪の大地。

 おまえは何者か、とたずねられたら、「利尻の漁師の息子」と答えることにしよう。
 父の「教訓」をクリアできないでいるうちは、「ジュニア」以上のものにはなかなかなれないかもしれないから。
 自分の娘たちに、誇りを持って「私は父の娘」といってもらえるようになったとき、「ジュニア」の文字が消えるだろうさ。

 野幌着。
 亡き祖父の遺伝子を持つ娘たちの出迎え。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

19991010 朝、六時稚内着

 朝、六時稚内着。フェリーターミナルで稚内まで車で来た弟夫妻と落ち合い、船で利尻に渡る。おばといとこの出迎えを受け、利尻町の国保病院に連れていってもらう。

 前日服用した睡眠薬が必要以上にきついものだったらしく、意識朦朧としたままあらぬことを口走る病床の父の姿にショックを受ける。
 午後、座薬の痛み止めを入れ、父を自宅へ連れて帰る。このころには意識もしっかりし、ちょっとホっとする。自宅にもどると、入院中も気になってしょうがなかった鉢植えの数々に水をやり、元気に歩きまわる。親戚・来客にも正確な受け答え。
 午後四時過ぎ、病院に戻る。

 利尻町立博物館の西谷栄治さんと夜に博物館で会う。
 西谷さんは最近HTB 北海道テレビ放送から「利尻島」というまめほんを出された。
 そこで、利尻の別の田原さんに紹介される。田原滝雄さん。
 利尻のインターネット事情、世界のインターネット事情の話をする。

 自宅へもどると、大阪の等々力政彦氏から電話。明日トゥバへ発つという。
 CD [TAIGAM] 中のトゥバの著作権保有者への処遇についての相談。
 よい旅を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

19991002 来週にでもひとまず利尻に一時帰郷しよう

 午前十時から午後五時半まで「OLD BRICK HOUSE」Photo系労働。

 帰宅後、小樽市銭函の弟に電話。利尻の両親の状況について話す。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

19990928 対話すること

 朝九時半から午後十一時まで、「OLD BRICK HOUSE」Photo系労働。途中昼食夕食の時間に自宅に帰る。

  

 朝、音響エンジニアの高橋卓二さんからタルバガンセカンド追加録音分の仮ミキシングCDが届く。
 午後、私は不在だったが、自宅に寄った嵯峨氏に一枚を渡す。

 夕食時、妻から、利尻島の父親が利尻の病院に入院したと、母親から電話があったことを聞く。
 痛みに耐え食事も取らず不眠でいたところ、脱水症状を起したのだという話。
 私にも、将来の不安はないではない。ありすぎるかもしれない。しかしまあ、それはこれか何とでもできる話で、選択の余地はこちらにある。
 父親の病気はもうそういう状況ではないところまで進んでいる。
 父親がわれわれにしてくれたことの、何分かでもしてあげれたら、と頭では思っても、結局、何もできないでここまで来てしまった。
 それなら、今、何ができるのか?
 医者にできないことを、われわれにできるわけもなく。
 まずは気を確かに、家族息災で暮らすこと。世代を超え、世紀を超え、自分の子供たち孫たちが、健やかに生活していくのを、確信してもらうこと。

 無力感は感じる。
 しかし、そのことでメゲてしまうようなことはない。当り前の話なんだけど、「大人」なんだから。
 残された時間をいかに生きるか、という問題は、104歳のサラリーマンにも。うちの一歳の娘にも、この私にも、共通したものなのだから。

 父と、改めて、ゆっくり話がしてみたい。
 しなきゃならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

19990611 四千人足らず

 午後四時から祖母と祖父の一周忌法要。

 それがどういう意味なのか知ってか知らずか、数珠を手に合掌する四歳の娘。

 隣町(利尻富士町)の鬼脇に移動して、会食。
 利尻町の人口は四千人を切ったそうで、これからますます機能不全に陥ること確実。

 開基百年の記念式典は、それなり盛大に行われる様子。

   * [利尻―山の島 花の道] 宮本誠一郎・杣田美野里

| | コメント (0) | トラックバック (0)

19990610 愛あればこそ

   * [利尻島・礼文島―北海道 山の花図鑑] 梅沢俊

 利尻。

 なんだかボーっとしてる。

 午後、新ターミナルが完成した利尻空港へおじおばを迎えに。
 ジェット機が就航するなんて、私らが生まれたころは思いもつかなかっただろうに。

 利尻町立博物館を訪問。
 学芸員のSMさんとしばし歓談。

 礼文町の役場に勤務しているTHさんが作ったという、礼文の花に関するCD-ROMを見せてもらう。
 ファイルメーカーを使用ソフトとして作られたものなのだが、その使い勝手はともかく、コンテンツとそれにかけるTHさんの情熱がひしひしと伝わってくる一枚。
 恐れ入りました。
 なんと複製自由の太っ腹の持ち主でもあらせられるようで、SMさんにMOにコピーしていただき、作品をまるごと入手。

 私も頑張らねば。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

19990609 より北へ

 午前八時半、利尻島へ向けて家族で車に乗り、出発。

 国道275号線(空知国道)から233号線(深川国道)で留萌へ。そこから日本海沿岸を232号線(天売国道)。
 苫前町に一基、羽幌町に二基、稼働中の風力発電用風車あり。でかい。目立つ。
 天塩町から道道(北海道道の意味だよ)106号線(日本海オロロンライン)。
 三百余キロで稚内着。

   * [利尻・礼文自然観察ガイド] 杣田美野里・宮本誠一郎・佐藤雅彦

 風は強いが好天。
 6月の北海道はドライブには最適の土地。
 ときどき泣き叫ぶ子供の声、しょうもない妻の一言二言を聞きながら、軽自動車ではなく、どこかの2シーター車で、どこかの美しい女性を助手席に乗せ、ただ走るだけを目的として走ってみたいものだ、などと考える。

 稚内発15:30のフェリーで利尻島へ。
 五時半ごろ実家着。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

19990304 西村英樹 『夢のサムライ 北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成』 / BALLET MECANIQUE

西村英樹 『夢のサムライ 北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成』
 「ポルケ・ブック・レビュー http://www.booxbox.com/porque/」より

西村英樹 (にしむら・ひでき1954-2003) 北海道出版企画センター1998/06/20---ISBN4-8328-9806-X

 1999年02月23日、『夢のサムライ 北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成』 を読みました。

  

 帯の宣伝コピー:
 「北海道 鹿児島 同時出版 開拓使時代を駆け抜けた、ビールの祖・村橋久成 "明治のサムライ"の<夢>と挫折を一切の虚飾を廃して克明に綴る・・・ 日本の近代国家建設の歴史のドラマがここにある」

 著者紹介:
 「1954年、北海道礼文町に生まれ、利尻町で小中学生時代を過ごす。1979年、早稲田大学文学部美術学科卒業後、札幌市に在住し、編集・出版にたずさわる。おもに「地域」をキーワードに、環境・福祉・まちづくり・文化・コミュニティ・メディアなどをテーマにした出版物を手がけてきた。プランナー、コーディナーターとしても活動。
現在、『サッポロファクトリー通信』編集室長、サッポロビール博物館調査員、札幌大学非常勤講師、札幌国際大学「キャリエ」講師などのほか、フリー編集者として活動。」

 この本に関して、私は幸福な読者です。
 昨年同郷の 西村英樹 さんの知遇を得、何度か会ってお話することができました。 「夢のサムライ」 がDTPソフトで編集されている MAC の画面も見せてもらいました。
 圧巻は、本文中でも紹介されている、 村橋久成 の葬儀にまつわる 黒田清隆 らの書簡資料等を、生で見ることができたこと。西村さんが取材の過程で 村橋久成 のご子孫のご自宅で発見したその資料は、100年のときを越え保存されていたもの。その一部を、まさに 村橋久成 がその端緒を開いた サッポロビール の工場近く、西村さんの仕事場で眺めることができたのです(筆で書かれた書簡などなので、戦後民主主義教育を受けた身には恥ずかしながら読みこなせるものではありませんでしたが)。
 ひょんないきさつで、本書読了の翌日、西村さんご本人に約一年ぶりに会う、というおまけもつきました。



 村橋久成 の人となり。そのエキセントリックさ:

 幕末。薩摩島津藩 の家老格の家に生まれ、国禁を破る形で派遣された藩命による英国留学生の一人に。1866年、帰国。
 洋行帰りの知識をかわれ倒幕軍に参加し、日本各地を転戦。箱館戦争 で 榎本武揚 らの恭順に立ち合う。
 薩摩出身者が多数いた 北海道開拓使 の役人となり、1874年に札幌入り。1875年ドイツ帰りのビール醸造人 中川清兵衛 を雇用し、村橋久成 の「ビールの時代」が始まる。
 1881年、開拓使 を辞職。
 1892年、9月神戸で行倒れているのを発見され、その3日後死亡。翌月、その死を知った薩摩時代開拓使時代の仲間の手によって、東京で葬儀が執り行われる。政府要人として長く明治政府の中心にいた 黒田清隆 も参列。

 村橋久成 の53年のその生涯は、幕末から明治期に生きた人たちの中でも、波乱に富んでいるといっていいのではないでしょうか。

 西村さんは、生まれ故郷であり日本の北の辺境であった 利尻・礼文 と、日本の南の辺境であった 薩摩 の比較から 「夢のサムライ」 を書き出しています。
 ともに 利尻山 ・ 桜島 という、高い山のランドマークが存在し、海によって閉ざされているのではなく、海によって世界に開かれていた土地。もっとも利尻のほうは、オホーツク文化 ・ 山丹貿易 の終幕後、外海に扉を閉ざすことになってしまったわけですが。
 ある時代の「終焉」のときには、中央からではなく「周縁」から、新しい時代を生んでいくニューカマーたちが現われるのかもしれません。ダイナミズムを失った中央に対して、外界との接触が多く活性化した「辺境」の人間たちが、異議申し立てをしていく。
 「周縁」「辺境」の思想が、新しい時代の行動原則を生み出していく。

 村橋久成は、「周縁の人」から「中心の人」へ変わっていくチャンスに恵まれながら、変わることに成功した人々に囲まれながら、新しいエスタブリッシュメントに異議申し立てをし続けるかのように、「辺境の人」として死んでいきます。 



 北海道・札幌:

 開拓判官・ 島義勇 が札幌に乗り込んだのは明治二年。
 このときの札幌中心部の人口は「二戸七人」だったそうです。今、ゆうに二百万の人口を擁する 石狩平野 の百三十年前の話。
 将来ここに世界的な大都市が出現するだろう、という意味の歌を詠んだ島さんの予言は的中しました。
 多い時には国家予算の十分の一を費やされたという明治の開拓使は、「辺境」の開発に邁進します。

 新しい土地で、新しい何かを作り出していこうという意志と能力と権力を持っていた人間にとっては、この北海道はまさしく「夢の土地」であったでしょう。
 本場から来た人々に「本物」といわしめたビールを村橋久成が生み出すまで、それほど長い時間を要しませんでした。
 「夢の土地」に辿り着いた「辺境の人」 村橋久成 の恍惚を思うと、羨望の念を禁じ得ません。

 しかし、当然のことながら、「辺境」は急速にその周縁性を失い、中央志向の落ち着いた生活の場となっていきます。
 おそらく日本のいろいろな地方でももっとも中央志向が強く、また経済的にそちらに頼らざるを得ない状況にあるのが、ここ北海道のようです(私は札幌の東に隣接する人口12万ほどの 江別市 でこの文章を入力しています)。
 虎の威を借るなんとかという諺がありますが、 フロンティアスピリッツ を失った「辺境」の住人は、ただ中央の人間のミニチュアになるしかないのではないでしょうか。おりしもこの二三日、商法違反とかで、 北海道拓殖銀行 の元頭取が何人か逮捕されているのですが、その名が示す通り(開拓と植民)「辺境」に生きる人の頼みの綱だった金融機関が、時を経てその志を失ってぼろぼろになった挙句があの破綻劇であったわけです。

 村橋久成 の挫折の原因は、おそらくそのよく言えば純粋悪くいえばかたくなな「周縁性」フロンティアスピリッツにあったのでしょう。
 自己責任(俺がやらねば誰がやる)のもと自己実現(俺にはこれがある)していく過程で、爆発的な力を発揮する「辺境の人」は、その仕事が一段落し、固定化され、事業として確立された途端に、居場所を失ってしまう。

 今一度、この北海道の地を、開かれた「辺境」として、新しい開拓事業ができないものでしょうか。



 飲み屋での西村さん:

 1999年02月24日、西村さんの同級生で、私に西村さんを紹介して下さった、利尻町立博物館 の 西谷栄治 さんが札幌出張中ということで、夜、集まることになりました。
 メンバーは、上のお二人と、お祖父様が大正から昭和の初期にかけて 利尻仙法志(せんぽうし)村 の村長をしてらしたという 鴨下さん (女性)、 北海道埋蔵文化センター にお勤めで利尻礼文の埋蔵品を西谷さんとともに探ったことのある土肥さんと山下さん(女性)、そして私。

 話題は当然利尻島や開拓時代の札幌について。
 暖房のきいたカウンターだけの小綺麗な飲み屋さんでホッケをつまみながら、サッポロビール を。

 明治は遠くなった、のだろうか?

 前日読み終えたばかりの 「夢のサムライ」 を持参し、西村さんにサインをもらおうと思っていたのですが、西村さんは、ちゃんと私のために進呈分の一冊を用意して下さっていたのでした。
 そのサイン:

 田原洋朗様
 夢みる力が宇宙を廻す
 恵存
           西村英樹 1999.2.24





 12時過ぎ、旭ヶ丘の嵯峨氏宅へ。打ち合わせもろもろ。
 2時、札幌医大病院でリューマチの手術を終えその病棟に入院しているMTさん(利尻島の実家のお隣さん)を見舞う。

 リポー/嵯峨「北海道の春・馬頭琴」 ライブの広報グッヅ作りでばたばた。
 ある種の悪循環。肩に力が入り、眉間に皺がより、心が落ち着かない。そういう人間は周囲を楽しませないし、その跳ね返りの「Evil spirits」波動が自分の身に降りかかることも知っているのだけれど。
 音楽というもっとも人の心を和やかにするアートの現場を作ろうとしているはずなのに・・・。
 まあ、信じて進むしかないが。ちょっと休んだほうがいいのかも。一人で旅をしたい。自分でも歌いたくなる音楽を探そう。

 ポルケ同報、西村英樹 「夢のサムライ 北海道にビールの始まりをつくった薩摩人=村橋久成」 。

 ふたたび音楽の話。
 坂本龍一 の 「BALLET MECANIQUE」 って曲が好きなんだよね。
 詩が 矢野顕子 さんと ピーター・バラカン さんの共作で、曲は坂本さん。
 今その前奏部分がNHKの 「未来派宣言」 のCFに使われてもいる。
 いわく:

 ぼくには はじめと おわりが あるんだ
 こうして ながいあいだ そらを みている
 おんがく いつまでもつづく おんがく
 おどっているぼくを きみは みている


| | コメント (0) | トラックバック (0)

19981001 一昨年、癌の摘出手術を受け

 一昨年、癌の摘出手術を受け、以後抗癌剤を飲み、定期検査を受けていた父が利尻島から来札。二年目の本格再検査のために、厚生病院に入院。

 昼、平岸の天神山国際ハウスに、嵯峨治彦さんとトンコリ奏者小川基さんの演奏を聞きに行く。
 二十名足らずのアジアからの留学生に、日本の文化に触れてもらおうというもの、韓国・中国・台湾・ロシアからの若い女性たち。
 昼食させながらの演奏で、なかなか集中してもらえない場面もあり、傍目に演奏者に対して同情を感じたりもするのだが、最後は皆を立たせ、踊りの輪を作るなど小川氏の健闘が光る。

 夕刻、家族で父親を見舞う。次女とは生まれて初めての対面。長女は歌をうたい、誉められて調子に乗る。
 いまどきは院内感染も怖いと、父親が気を遣っているのもわかるし、早々に引き上げる。
 生・老・病・死に、われわれができることは、あってないようなものなのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

19980816 その雪解け水の行方を追った

 午前。
 札幌市南区のMYさんから電話。「TARBAGAN」CDの注文。
 MYさんは、大麻のフリーマーケットに出店したとき、隣に陣取っていた人で、そのとき手渡しでCDを買ってくれて以来、なんと今日で4枚目のお買い上げ。
 いろんな人に薦めて下さっているそうで、ありがたい話。

  

 午後、Illustratorを使って、CD/CD-ROMのチラシのDTP。
 Illustratorでの版下作りもなんとかマスターできそう。

 夜、TV。
 Jリーグのオールスター戦、セルジオ越後氏がいうほど凡戦とも思えなかった、を午後七時から見る。
 九時からのNHK特集は、「利尻島」がテーマ。高い山に降り積もる大量の雪の、その雪解け水の行方を追った番組。なんと30年のときを声、島の周辺の海底からわきだし、そこの海にさまざまな山の栄養素を運んでいるのだという。
 リシリコンブもそのミネラルによって育てられるわけで、私など、本当に、あの山のおかげで生きてこれたようなもの。
 今年あたりわきだす水は、私がまだ利尻島にいた当時、山に降り積もった雪が解けたものらしい。
 おそるべし。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

19980612 お通夜の準備

 お通夜の準備。
 実家は利尻町仙法志地区の御崎という村落にあって、その御崎の自治会館で通夜が行われる。
 たまたま、漁の狭間、村落単位の行事のない頃合ということで、村落総出でお手伝いをしてもらっている。

 夜、お通夜。
 親類の多いことと父親の普段のつきあいの結果だろう。参列者多数。

| | コメント (0) | トラックバック (0)