20110831  『島・倉』・ver.20110831・制作 田原ヒロアキ@ブックスボックス

「RICOH CX5 で一枚だけ撮影。父(1931‐1999)の古いアルバム1P目の5.5cm×5.5cmモノクロ写真を台紙の父の手書きコメントとともに。「30年新築の倉庫 塗料をぬるはボク」。1955年の父の姿。撮影者不明。この倉庫が現「ブックスボックス利尻島スタジオ」。つづく。」ツイッター @booxbox ブックスボックス 田原ヒロアキ より---booxboxをフォローしましょう



2011年7月7日




1955XXXX

1905(明治38)年11月、田原家一族は、福井県坂井郡吉崎村(当時、現あわら市)より、北海道利尻郡仙法志村字ヤマナカ番外地(のちノチュウ六百一番地、さらに御崎拾九番地に変更。現:利尻郡利尻町仙法志字御崎19番地)に転籍。それからちょうど五十年の時を経て、倉庫を新築。撮影者不明。




1957XXXX

「30年新築の倉庫 塗料をぬるはボク」の父・陽一(1931‐1999)は、1957年に千恵子(旧姓・紺 1930‐ )と結婚。福井からの転籍時の戸主は初吉(1863年生)。その長男貞一(1904‐1934)の長子が陽一。その長子が洋朗(1958‐ )、「書くはボク」。撮影者不明。




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田原ヒロアキ(洋朗 1958‐ )。1960年代初頭か。その当時田原家では、なにかの記念写真を、倉庫(「クラ」と呼び習わしていた。現・ブックスボックス 利尻島スタジオ)の入口扉の前で撮影するのが、慣わしとなっていた。母・千恵子が手製した外出着のお披露目か。撮影者不明。扉位置注意。




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ヒロアキと従兄弟の君美(きみよし 1958‐ )さん。ヒロアキのセーターには「HT」のイニシャル。親族による手編みだろう。二人とも、髪は見事な「坊ちゃん刈り」。1960年代に入ると、貧乏な漁師の家でも、子供の頭は、親の手になる丸刈りではなく、床屋に行って刈ったものか。撮影者不明。




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妹・恵理子(1960‐ )。やはり撮影者不明だが、クラの扉前写真は父・陽一が撮ったものと思われる。これも、浴衣お披露目で、記念撮影か。裸足。扉が東面側端に移動していることに注意。北面(正面扉側)に窓がなく、中での作業に支障を来たし、窓設置のため、急遽改築で扉移動したもの、と予測。




1965XXXX

ヒロアキ、小学校入学記念写真。1965年の春先か。ランドセル・学帽は既製品。前年1964年には、東京オリンピックが開催され、自宅でTV中継を見た(マラソンの円谷選手が、競技場内で抜かれて3位になった)記憶がある。60年代日本の経済高度成長の波が、極北の離島まで押し寄せ始めていた。




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ヒロアキ撮影。縦撮りしたものを、上下適宜カットしてトリミング。1960年代後半、小学校高学年。父のカメラで、生まれて初めて撮った一枚。「クラ」の写真から始まったことに、因果・因縁を感じる。細い道路を隔てて建つ自宅一階の窓から撮影。根曲り竹を使った柵。仙法志漁業協同組合のトラック。




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前の写真を撮った直後、カメラを手に外に出て撮影したものか。父陽一と弟博英(1962‐ )。ちょっと笑った顔の父は、右手にヤスの一種・左手にタンク状のものを持っている。クラ東面に、窓を確認できる。左側の垂木の木組みは、漁したものを干すためのものか。画面構成上の癖がすでに現れている。




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父陽一撮影か。クラが建ってからちょうど四半世紀。家の前の空き地に、何番干し目かの昆布。昆布は漁獲後何度か日干しして商品化される。クラ右手に、早くに増設された乾燥機小屋。左手に、自家用自動車(写真中央のトヨタ車)購入とともに増設された車庫。扉もトタン張りに。ペンキの色の選択と対照。




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父陽一撮影か。クラが建ってからちょうど四半世紀。利尻の十月は秋深い。家の前の空き地に積まれた、商品パッケージ化済の、利尻昆布。漁協に集荷され、そこから販売されるもので、写真はその集荷のトラックを待っている間に撮影されたものか。天然昆布か養殖昆布かあるいはその両方か、定かではない。




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ヒロアキ撮影。お盆帰郷中の弟・博英(1962- )。当時ヒロアキは在京都で、独身。博英は在札幌で、夫人の智恵子さん同伴で里帰り中。クラの出入り口戸が、十年前とは違い、アルミサッシのガラス引き戸に。父・陽一の研鑽・努力の結果、養殖昆布漁がうまく行き、家内が経済的に安定していた時代。




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ヒロアキ撮影。クラの二階、南側屋根裏。子供たちが使ったスキーと父陽一が誰かからもらったクロスカントリースキーが、魚網に並んで、保管されていた。クラは、漁師の作業小屋・漁獲物の保管庫であると同時に、家族の物置でもあった。要らないものを処分するうち、これらスキーもどこかへ捨てられた。




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ヒロアキ撮影。クラの二階。ガラス玉。直径二十センチくらいか。魚網がまとめて置かれた場所の梁に、紐でゆわえて下っている。クラの漁具全般、いつの時代のものかどんな漁に使われたものか、もはや判明できない。置く場所があるがゆえ、処分する・捨てるのも手間・費用が掛かるゆえ、このまま放置か。




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父・陽一撮影か。仙法志小学校の鼓笛隊の皆さん?まさに演奏中。もしかして、全校生徒か?現在も活動できているのか?田原家の敷地は利尻町の端にあり、隣の利尻富士町に接している。生徒さん達にとっては、一種の「地の果て」だったかもしれない。左端に、浜仕事用に使っていたジムニーが写っている。




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父・陽一撮影か。山本家御一行様が、四国から利尻島に。自宅前で。前列右から、妻純子・母方祖母紺リツ・義母山本知子・祖父正二・祖母元江。後列右から、ヒロアキ・母千恵子・義妹智恵子(博英妻)・義姉山本由美(純子姉)・義父山本義男。春、四国で結納を交わし、この後、秋、関西で結婚式をする。




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ヒロアキ撮影か。クラ東側横のバラス敷きの昆布干場で、昆布を手にする祖母元江。背後に、浜から昆布を積んできたらしきジムニーと、その横に祖父の後姿、おそらく父の頭。何人かのスカートのご婦人達は誰か不明。クラ(車庫)の壁面には「5.10.3 塗装」のペンキ書き。平成5年=1993年か。




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ヒロアキ撮影。自宅居間。ヒロアキと妻純子(1969‐ )の長子緑(1995‐ )を抱く、祖父正二(1913‐1998)とその隣に座る祖母元江(1909‐1998)。ひ孫を見せに、親子3人里帰りしたものか。緑は、阪神淡路大震災の揺れを、大阪府吹田市で、母のおなかの中で体験している。




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ヒロアキ撮影か。祖父正二。クラ横の干場で、何番干し目かの昆布をいじっている。正二の長兄貞一は、1934(昭和9)年海難事故で死亡。正二は、兄の妻であった元江と、レビレート婚=兄弟逆縁婚。以後、戸主として、黙々と漁仕事を続けてきた。1998年秋に死去。几帳面で大工仕事に長けていた。




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ヒロアキ撮影。クラの前で、地べたに座って作業する父陽一とそれを見守るその孫緑(二歳ちょっと)。父はすでに癌に侵されており、術後の経過をみながら、漁撈を続けている状況。ヒロアキ一家三人は、この年の春、大阪を引き払い、札幌近郊の江別市にJターン。12月には「ブックスボックス」立上げ。




1997XXXX

ヒロアキ撮影。クラの前で、軽トラに寄り掛かる笑顔の母千恵子と路上の指を銜える孫緑。さっきまで父陽一が座っていたと思しき地面には、日干しされる根昆布らしきものが袋の上に。祖母元江が翌年6月に亡くなるので、祖父母・父母、四人が存命していた最後の夏。クラの新築がなされてから、42年後。




1997XXXX

父陽一撮影か。クラの前で、娘緑を運ぶヒロアキ。乗せているのは、土方仕事でよく使われる一輪車=通称「ネコ」。冬に日本海低気圧による荒波に洗われ、でこぼこになる浜の船着場・干場の整地のため、石を運んだりするのに使われたもの。軽トラックの荷台には、縛った昆布の束が、何個か積まれている。




1997XXXX

ヒロアキ撮影。路上の娘緑。影の角度から見て、午前中に撮った写真。左の建物は、実家新築前の旧居を移動して物置にしたもの。その前の軽自動車=ワゴンRは、まだ大阪ナンバーがついたまま。右側車庫には、父陽一所有のトヨタの乗用車。その横のジムニーは浜仕事用。遠い背景の緑地はもう利尻富士町。




1997XXXX

ヒロアキ撮影。路上の娘緑。クラ東側干し場。昆布と洗濯物の二種兼用。昆布は水揚げ直後一度干したものを、時を置いて再度日に晒し乾燥度を高める。娘はまだ、写真を撮られることはもちろん、写真が何かもわからない年頃。結果的に、祖父の代まで続いた昆布漁が実は身近であった証左の一枚、になった。




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父陽一撮影か。四月初旬夕刻、クラの軒下に、魚が干されている。スケソウダラかホッケか。子供の頃は、スケソウダラの寒干しが、周囲の家々同様、一家の貴重な食糧だった。この年の6月、祖母元江死去。秋には祖父正二が亡くなる。父陽一の体は、すでに各所に癌細胞は転移し始めていたのではかったか。




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ヒロアキ撮影。クラ横車庫に大きな蜘蛛とその巣。父陽一は1999年12月死去。父の最後の車は弟博英がもらいうけ、小樽に。主も車も無くなった車庫に、蜘蛛の巣がかかった。弟から借りる形で、自分が利尻まで運転してきたのだっけ。田原はこの頃利尻島をテーマにDVD作品を作ろうと苦闘していた。




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ヒロアキ撮影。クラ車庫横、まだそれほど積もっていない雪の中、何年も前から、放置されている漁具。中に縄を通す、陶製の錘の一種か。なぜこの場所に誰の手によって打ち捨てられているのか、定かではない。2001年11月末から、カメラはキャノンのデジカメ「IXY DIGITAL 200」に。




20031230

ヒロアキ撮影。クラ二階、西側の網・漁具置き場。午前十時半。父陽一の死後、近所の漁師さんが使える網を物色し持参。子供の頃、うず高く積まれた網の隙間に潜り込んで、兄弟たちとかくれんぼして遊んだものだが。天井近くの大きなガラス玉たちは、もう何十年もそこの位置に置かれたままかもしれない。




20031231

ヒロアキ撮影。自宅二階窓から、午前九時のクラと海・空。2003年大晦日。この時点では、雪の多くない冬だ。この月半ば、サダム・フセインがアメリカ軍によって拘束されている。この年5月初旬、小惑星探査機「はやぶさ」打ち上げられ、2010年6月の地球に帰還まで、宇宙空間を放浪することに。




20031231

ヒロアキ撮影。クラ東面。車庫の上の雪。田原が小学生の頃、このクラ周辺には三家族が住み、世帯数3・人口14人(うち未成年者6名)。2003年末時点で、2世帯・2人(高齢者2名)。建物数は6棟で、むしろ増えている。1999年夏を最後に、その年の末の父陽一の死を最後に、漁もなくなった。





20031231

ヒロアキ撮影。クラ一階東側の物置き場。祖父正二は手先の器用な人で、このクラで根曲り竹を使って籠を編んだ。主に、海が荒れて沖に出られない、出稼ぎのない、冬に。右側に写る根曲り竹の束は、もはや祖父が手にしたものとは思われない(母千恵子が、畑で植える豆の蔓をからませるのに例年使用)が。




20040102

ヒロアキ撮影。年が明けて正月2日目午後三時半。 浜=田原家の澗(ま=入江)に続く道の上で、海を眺めるように座る姉妹。姉緑8歳、妹ひかり5歳。凪。二人の目には何が映っているのか。この後、浜に下りたのか、引き返したのか。この月半ば、鳥インフルエンザ発生。年末に、スマトラ島沖地震発生。




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ヒロアキ撮影。クラ裏面南側物置場、東面扉押さえ棒(簡易じょっぴん)。打ちつけてある釘を支点に回せば、扉が開けられる。扉本体の建付けもイイカゲンなら、止め棒三本の取付けもイイカゲン(一本は完全に用を成していない)。クラ全体に用が足せるならそれで良しという基本理念(?)が垣間見える。





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ヒロアキ撮影。クラ裏面南側物置場、中に保管されている漁撈用木製鉾の持ち手(アタマ)部分。こちらはさすがに、実際に手にして長時間作業する道具だけに、イイカゲンなところなく整形・加工されていて、ある種の美しささえ感じる。それもこれも、このまま放置され朽ちていくものと思って間違いない。




20040104

ヒロアキ撮影。午後一時。自宅裏の利尻島を循環する道道から、田原家住居・クラ全景。手前の木立ちは天然自然のものではなく、晩年園芸趣味が高じた父陽一が島外から取り寄せては植え根付かせ作庭したもの。住居とクラの間を道道から枝分かれした生活道が東西に走る。自宅は正面南向き、山を背に建つ。




20040104

ヒロアキ撮影。午後一時。クラ二階網置き場にあった、名札代わりの木片。「仙法志」村落の「田原」家のもの。前浜ではなく、ちょっと出張って何かの漁をするとき・したとき使ったもか。これも、わかればいい・使えればいいの類なので、整形・加工はイイカゲン。これらももう二度と使われることはない。




20040105

ヒロアキ撮影。午前七時半。クラ東側車庫の扉にじょっぴんをかる母千恵子。正月里帰りの長男家族(わが家)が都会に戻る。一時的に本来の車庫になっていた車庫の扉を、冬の強風にいたずらされないよう封鎖する。こちらの扉の建付けもイイカゲン、錠前替わりの閂もイイカゲン。手の施し様も必要もない。




20040806

ヒロアキ撮影。長男家族(わが家)の夏の帰郷。手前次女ひかり6歳、後緑9歳。クラの前の「半ケツ」の若者は、彼女たちの従兄弟の一人(田原の妹恵理子の息子)。男の子たちは三人兄弟で、路上でキャッチボールをするか、屋内でゲームをするか。たまには浜に下りて、水辺で遊ぶ。そのときは付き合う。




20050608

西暦2005年。この年11月には、戸籍謄本の記述に従えば、田原家入植100周年となる。こちらも、移動の多い年だった。年始は利尻、3月アメリカ(ニューヨークとテキサス州オースティン)、4月関西、5月札幌展覧会@中森花器店、6月利尻(クラで初めての展覧会、黒田晃弘さんの実演個展)。→




20050608

→8月利尻に家族で帰郷、9~11月タルバガンツアーで東京・関西・四国(ツアー便乗一人旅)・札幌、12月東京・横浜トリエンナーレ・利尻。/写真は、クラ二階に展示された、杉吉貢画伯の水墨画(モデルは、ダンスの岩下徹氏)。DVD「自由・交感 岩下徹・杉吉貢・畑中正人」の一年でもあった。




20050608

クラ二階。西面窓からの光の中、杉吉貢画伯の水墨画。その場にあること・いることに、なんの違和感もない。西面窓は安全管理上の理由で、数年後には外から板を打ちつけられ、密閉されることになる。この年のこの展示が、最後の光だったのか。(画面下の緑色の網を、2011年展覧会で使うことになる)




20050615

クラ一階。似顔絵アーティスト黒田晃弘さん、前日利尻島入り。早速、クラで創作活動開始。ジャージ姿の子供たちは、仙法志小学校の諸君(田原の後輩たち)。ソファーの女性二人は、先生。茶色の後姿が、黒田晃弘氏。島の人を描いて、島の人と交流し、島で飾り、何枚かを横浜トリエンナーレへ持参。→




20050615

→黒田さん描く「島の人」が次々「島・倉」に飾られていく。左上の、顎が用紙下まで突き抜けて行ってしまっているのが、田原。今描かれているのは、女性教師お二方。陽気に話を続け、ときになぜかイタリア民謡を歌いする。クラが建ってちょうど五十年でもあった。祖父正二が冬にはここで竹籠を編んだ。




20050615

→子供達の過半は、島の生まれではなく、海浜留学で島外からやって来た。島の子はもちろん、そんな子供たちに、そして黒田氏に、「島・倉」はどんな風に映ったのか。/田原は、デジカメで写真を撮りつつ、ヴィデオカメラで映像も撮影する。やがて、その写真・映像は、この「島・倉」で展示公開される。




20050807

8月、この年の三度目の帰省。クラ二階、南面の窓と、東南角に飾られた、杉吉貢画伯の水墨画。即興音楽に合わせ踊る、岩下徹氏の即興ダンス演技を、杉吉氏がこれまた即興水墨画で描くシリーズ中の、代表作。DVD「自由・交感 岩下徹・杉吉貢・畑中正人」のジャケットスリーブに使用された絵の原画。




20050807

クラ二階、階段を上りすぐの物置兼作業場と、奥の網置場を仕切る、金網使用の間仕切りに掛けられた、杉吉貢画伯水墨画。モデルは岩下徹氏。この絵は、母千恵子が購入、展示終了(つまり田原が札幌に戻った)後、自宅に持参。いずれ、クラ=ブックスボックス 利尻島スタジオ で展示される日もあろう。





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明けて2006年。正月三日午後一時。クラの東横から、運良く山頂まで見通せた、冬の、雪の、利尻山を撮影。利尻島・仙法志字御崎の田原家の、利尻島での101年目=第二世紀が始まった。百年間、人・物・世間、有為転変は多々あったろうが、この山の遠景だけは、昔とそう変わらないのかもしれない。




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20110812

2011年東日本大震災の年。1995年阪神淡路大震災の年に生れた長女も高校入学、歳月の経つ速さ。「ブックスボックス 田原書店 「手製本と古書」展」北海道ツアー2011@クラ=利尻島スタジオ。一階、64葉のクラ写真を展示。小さな土地の小さな歴史を、内包しつつ開放する試み、の始まり。




20110815

「ブックスボックス 田原書店 「手製本と古書」展」@クラ=利尻島スタジオ、無事終了。田原は家族と車で札幌へ戻る。56年目のクラ、東北側屋根は傷み、会期中に雨漏りがして中の階段を濡らした。このクラそのものが、利尻島・田原家の56年(あるいは106年)かけて作られた「作品」。つづく。


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20110814 利尻島スタジオ・ブックスボックス 田原書店 手製本と古書 展・その三

「こちら札幌 これから利尻島に向かいます。300キロ、車で走ります。「ブックスボックス 田原書店」展@利尻島スタジオ。次女と利尻山登山予定(13日?)。なぜか読書中の谷崎『細雪』(現実逃避 w)、島で読了か?道中写真撮ります。15日夜札幌帰着予定です。暑いですね、皆様ご自愛下さい。」ツイッター @booxbox ブックスボックス 田原ヒロアキ より

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2011年8月14日



09:01 利尻島スタジオ、水平線。自宅二階から撮影。この日は一日、曇天・降雨の繰り返し。



09:03 利尻島スタジオ南面。厚い雲に覆われ、利尻山の裾野すら見えない。



09:05 浜=田原家の澗(ま=入江)近くの海岸を、崖の上から撮影。波、高し。



09:06 浜=田原家の澗(ま=入江)近くの海岸を、崖の上から撮影。手前の廃屋小屋は、父の漁業作業場。



10:11 利尻島スタジオ。島在住のオバ(亡父の妹たち)二人が、盆帰りのついでに、展示見物。男性の後ろ姿は、従弟。



10:11 利尻島スタジオ。島在住のオバ(亡父の妹たち)二人が、盆帰りのついでに、展示見物。田原家の先祖は、福井から、この地に1905年に移住してきた。



10:22 利尻島スタジオ東面。洗濯物を取り込んだ人たちの群。



13:06 午後。利尻島スタジオ。自宅二階の窓から撮影。



13:07 利尻島スタジオ。自宅二階から、窓を閉めてガラス越しに撮影。



13:58 利尻島スタジオ。背面=南面の物置スペースとその扉。増築されたものか。



14:00 利尻島スタジオ。背面=南面の物置スペース扉に何年か前に撮った写真を置いて撮影(今回の展示物中の一枚)。



14:02 利尻島スタジオ。背面=南面の物置スペース内部。中の木は、風雪・雨・日光にさらされることもないので、生木に近い色をしている。



14:05 利尻島スタジオ内部。展示物を裏側から撮影。



14:06 利尻島スタジオ内部。梁の釘に引っ掛けられていた、大きなイカの疑似餌。足、多過ぎ。亡父が、大物(近海マグロとか)釣りをしようと購入したものか。有限会社ブックスボックスのゆるキャラに任命。ゆるキャラ名「イカガスカ」。利尻から札幌へ拉致して帰ることにする。



14:09 利尻島スタジオ内部、二階南面窓。海に面し、冬はまともに日本海低気圧の暴風雪をくらうので、防護用の板を打ちつけられていて、窓としての用を半ばなしていない。が、倉自体もう使う人間もいないので、同じことか。



14:09 利尻島スタジオ内部、二階西面窓。同様に塞がれている。窓の下には、こちらももう使われることのない漁網などの漁撈道具がうずたかく積まれている。



14:47 利尻島スタジオ、正面=北面。自宅一階から撮影。



14:52 利尻島スタジオ、撤収作業を開始する。



14:54 利尻島スタジオ、撤収作業を開始する。下一列撤収。



14:57 利尻島スタジオ、撤収作業を開始する。半分撤収。



14:59 利尻島スタジオ、撤収作業を開始する。上一列残し撤収。



15:02 利尻島スタジオ、撤収作業を開始する。撤収完了。



15:02 利尻島スタジオ、階段。雨漏りで濡れて酷い。倉自体、いつまで持つか。改修すべきなのか?朽ちるにまかせるか?



15:03 利尻島スタジオ内から撮影。窓の外は雨。

15:50 久米信行さん (twitter : @nobukume)より、ご連絡あり。 「ブックスボックス 田原書店 手製本と古書 展」@利尻島スタジオ、ご来訪くださるとのこと!



16:32 利尻島スタジオ、急ぎ再展示。



16:43 利尻島スタジオ遠景。レンタカーで移動の久米さんが通り過ぎてしまわないよう、道路脇で待っている間の一枚。



16:44 利尻島スタジオ遠景。道路脇で待っている間の一枚。おかげさまで、初めて撮るアングルで撮影できた。



17:32 利尻島スタジオ内。久米さんご到着。日も翳ってきたので、急ぎ展示をご覧いただく。写真撮影の久米さんの姿を撮影。



17:32 利尻島スタジオ内。いやあ、本当に、久米さんと、利尻で、しかも自分チで会えるなんて。感激。



17:46 浜=田原家の澗(ま=入江)近くの海岸を、久米さんには、登山用レインウェアの下を着用いただき、プチトレッキング。利尻の海岸と荒波を撮影する久米さんの姿を撮影。

久米さん、遠いところ、ありがとうございました! 東京からだと千何百キロくらい?



19:56 久米さんとは、自宅で我が家の家族を交えての歓談後、お別れ。自宅居間のソファーで、久米さん近著 『人づきあいが苦手な人のための「コミュ力」の鍛え方』 拝読中、の図。中一次女撮影。ご本の見返しに、墨書いただく。「最高の孤独 至高のひととき」。「孤心とうたげ」という語をふと思い出す。それぞれの「孤心」をそれぞれ豊かに保ちつつ、よい「うたげ」でその豊かさを共有しお互いを楽しむ。超訳してしまえば、「よい旅を!」ということかも。
よい旅を!



2011年8月15日



15日 07:08 利尻島スタジオ。利尻島を離れ、札幌に向かう。


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20110813 利尻島スタジオ・ブックスボックス 田原書店 手製本と古書 展・そのニ 12日残りと13日登山

「こちら札幌 これから利尻島に向かいます。300キロ、車で走ります。「ブックスボックス 田原書店」展@利尻島スタジオ。次女と利尻山登山予定(13日?)。なぜか読書中の谷崎『細雪』(現実逃避 w)、島で読了か?道中写真撮ります。15日夜札幌帰着予定です。暑いですね、皆様ご自愛下さい。」ツイッター @booxbox ブックスボックス 田原ヒロアキ より

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2011年8月12日



12日 14:59 浜=田原家の澗(ま=入江)へ下りる道すがら。イブキジャコウソウの群落とマルハナバチの仲間。



12日 15:00 浜=田原家の澗(ま=入江)へ下りる道すがら。中一次女の後姿と正面に見える澗。



12日 15:01 浜=田原家の澗(ま=入江)へ下りる道すがら。父が使っていた作業小屋廃屋とその向こうに見える利尻山。



12日 15:01 浜=田原家の澗(ま=入江)へ下りる道すがら。望遠レンズで、海岸近く岩場のてっぺん、カモメの住処を撮影。澗の主は、田原家の人々ではなく、今や、彼ら。



12日 15:03 田原家の澗(ま=入江)の海岸近くまで下りてきた。左上の倒壊廃屋は、祖父が使っていた作業小屋。もう四十年以上前、祖父はよくここで塩ウニを作っていた。



12日 15:04 田原家の澗(ま=入江)近くの海岸。



12日 15:09 田原家の澗(ま=入江)近くの海岸。



12日 15:10 田原家の澗(ま=入江)近くの海岸。ムラサキウニの殻。カラスが漁撈して、食べた痕。



12日 15:15 田原家の澗(ま=入江)近くの海岸。イワベンケイ。上から撮影したわけではなく、水平に撮った。そういう風に植生している。



12日 15:17 田原家の澗(ま=入江)近くの海岸。ノコギリソウの仲間(アカバナエゾノコギリソウ か?)。



12日 15:19 田原家の澗(ま=入江)近くの海岸。かつては田原家のポンコ(ディーゼル駆動船)の船着場だった場所が、一面の海浜野生植物のお花畑になっている。



12日 15:20 田原家の澗(ま=入江)近くの海岸。中一次女。彼女はこの風景をどんな風に記憶に留めるのか。



12日 16:57 利尻島スタジオ、西日を浴びている。



12日 16:58 利尻島スタジオ、階段に展示の手製本豆本も、西日を浴びている。



12日 17:00 利尻島スタジオ、南面。利尻山から完全に雲が切れた。



12日 17:00 利尻島スタジオ、南面。利尻山から完全に雲が切れた。利尻山アップ。



12日 17:02 利尻島スタジオ、西面。また明日。



2011年8月13日



13日 06:30 朝六時半。利尻山登山道鴛泊コースへ向かう。木々の梢の間に、山頂がちらと見えている。



13日 07:04 利尻山登山道鴛泊コース、4合目 野鳥の森。同行の中一次女。彼女が強く登山を望んだ。昨年は、天候悪化とタイムアウトで7合目まで登って下山。今年はどうなるか。



13日 07:40 利尻山登山道鴛泊コース、5合目 雷鳥の道標。中一次女、撮影。自分は、利尻で雷鳥を見たことはない。



13日 08:08 利尻山登山道鴛泊コース、6合目。この辺りから強風が吹き始める。写真も水平がとれていない。海の向こうに礼文島。手前の緑の丘陵は鴛泊ポン山。



13日 08:31 利尻山登山道鴛泊コース、7合目付近。強風、強まる。雲の動きが速い。



13日 09:17 利尻山登山道鴛泊コース、7合目付近。イワギキョウ。



13日 09:36 利尻山登山道鴛泊コース、8合目。利尻山山頂を望む。ほどなく、雲に隠れ、この日は二度とその姿を現さなかった。



13日 09:36 利尻山登山道鴛泊コース、8合目。中一次女、昨年の高度記録を更新。


13日、この後、山頂を目指すも、強風とそれに伴う雲の雨に、9合目で登頂断念。下山することに。大人でも、踏ん張らないと立っていられないほどの風。風速15メートル毎秒ぐらいか。



13日 13:20 利尻山登山道鴛泊コース、下山中。望遠レンズで、鴛泊港を撮影。船が港を出て行く。海に突き出ているのは、ペシ岬。


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20110812 利尻島スタジオ・ブックスボックス 田原書店 手製本と古書 展・その一

「こちら札幌 これから利尻島に向かいます。300キロ、車で走ります。「ブックスボックス 田原書店」展@利尻島スタジオ。次女と利尻山登山予定(13日?)。なぜか読書中の谷崎『細雪』(現実逃避 w)、島で読了か?道中写真撮ります。15日夜札幌帰着予定です。暑いですね、皆様ご自愛下さい。」ツイッター @booxbox ブックスボックス 田原ヒロアキ より

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2011年8月12日



04:34 夜明け。実家の二階から撮影。利尻島スタジオの倉と、海と空。



08:10 利尻島スタジオ東面と、道を挟んで建つ実家。



08:11 利尻島スタジオ北面、入口。



08:12 利尻島スタジオ、入口を開ける。



08:12 利尻島スタジオ、入口入ってすぐ真ん前の、二階への階段。



08:13 利尻島スタジオ、階段登り切り。



08:13 利尻島スタジオ、二階内部。



08:18 利尻島スタジオ、一階内部。二階の網置き場から持ってきた、適当な大きさの網を、梁に適当に打ちつけられた、何かをひっかけるための無数の釘に、適当にひっかける。



08:24 利尻島スタジオ、その網に、今回の展示のメインである、64枚の利尻島スタジオ=倉にまつわる写真(葉書大を台紙に布裂をあしらってアルバム様式にしたもの)を、クリップ留めしていく。



08:34 利尻島スタジオ、全部で横四列並ぶうちの上の段、16枚。



08:44 利尻島スタジオ、三列目に入った。中一次女が撮影。



08:45 利尻島スタジオ、中一次女が撮影。外に出てもらって、中を撮ってもらったら、次女と実家が写り込んだ。



08:46 利尻島スタジオ、中一次女が撮影。



08:56 利尻島スタジオ、三列目完了。



09:06 利尻島スタジオ、写真展示完了。窓を開けて、外から撮影



09:06 利尻島スタジオ、いつもの、田中先生の筆になる、「手製本と古書 ブックスボックス 田原書店」の看板を掲げる。展覧会・展示会・個展、開催だ。



09:10 利尻島スタジオ、階段の一段ごとに、一冊の田原の作った手製本豆本を配置。



09:10 利尻島スタジオ、階段の一段ごとに、一冊の田原の作った手製本豆本を配置。ああ、この倉は、手の器用だった祖父が、冬の、海が荒れて沖に出られない時期に、根曲り竹を材料に手籠やら背負い籠を作った場所でもあった。また展示の機会があるなら、祖父の遺品の小さな籠やら笊やらを飾ろう。



09:16 利尻島スタジオ、二階の展示は今回はほどほどに。



09:17 利尻島スタジオ、写真展示を妻が見ている。



09:22 利尻島スタジオ、写真展示を母と妻が見ている。高一長女はカメラが構えられたのを見て逃げ出す途中。就学以前の彼女の写真(今は亡き父、長女にとっては祖父、との倉の前で取られたものなど)も、何点か展示されている。



12:37 午後、自宅裏。オニユリの花の蜜を吸う、アゲハ蝶。多分、ミヤマカラスアゲハ。



12:40 利尻島スタジオ南面と、遠くに、山頂に雲の利尻山。



12:53 高山植物で、本来利尻山の高地に生育するリシリヒナゲシが、すっかり低地に根付いてしまった。利尻島スタジオ入口のバラス石が敷かれた地面。



12:54 利尻島スタジオ東面。利尻富士町鬼脇字野中(のっちゅう)に続く路上から撮影。



14:35 利尻高校校長の橋本先生@利尻島スタジオ。先生が古くから関わりを持っておられる、音楽家近藤等則さんの、利尻島でのライブ “地球を吹く in 利尻島 2011” (9月18日)の話などをし、最後に看板を持っていただいて記念撮影。橋本先生、ありがとうございました。


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20110811 利尻島行・午前八時札幌発・午後六時利尻島実家着

「こちら札幌 これから利尻島に向かいます。300キロ、車で走ります。「ブックスボックス 田原書店」展@利尻島スタジオ。次女と利尻山登山予定(13日?)。なぜか読書中の谷崎『細雪』(現実逃避 w)、島で読了か?道中写真撮ります。15日夜札幌帰着予定です。暑いですね、皆様ご自愛下さい。」ツイッター @booxbox ブックスボックス 田原ヒロアキ より

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2011年8月11日



11:59 松浦武四郎像@にしん文化歴史公園(小平町・道の駅「おびら鰊番屋」向かい)



12:01 松浦武四郎像と日本海@にしん文化歴史公園(小平町・道の駅「おびら鰊番屋」向かい)



14:46 利尻島の島影。オロロンライン(道道106号線)路傍@稚内市



14:46 利尻島の島影。オロロンライン(道道106号線)路傍@稚内市



14:47 利尻島の島影と同行の家族。オロロンライン(道道106号線)路傍@稚内市



17:00 稚内から利尻島鴛泊港に向かうフェリー上。島影@日本海



17:22 稚内から利尻島鴛泊港に向かうフェリー上。島影@日本海がだんだん近づいてくる。



17:39 稚内から利尻島鴛泊港に向かうフェリー上。甲板上部デッキで撮影。島影@日本海がぐんと近づいた。



18:32 利尻町仙法志御崎の実家に到着。まずは、「ブックスボックス 田原書店」展の会場となる「利尻島スタジオ」を撮影。北面。薄っすらと、西日が当っている。



18:33 「ブックスボックス 田原書店」展の会場となる「利尻島スタジオ」南面と山頂に雲の利尻山。薄っすらと、西日が当っている。



18:47 「ブックスボックス 田原書店」展の会場となる「利尻島スタジオ」北面屋根とその上に浮かぶ月。

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20110707 ツイッターより・RICOH CX5 で一枚だけ撮影・「30年新築の倉庫 塗料をぬるはボク」

「RICOH CX5 で一枚だけ撮影。父(1931‐1999)の古いアルバム1P目の5.5cm×5.5cmモノクロ写真を台紙の父の手書きコメントとともに。「30年新築の倉庫 塗料をぬるはボク」。1955年の父の姿。撮影者不明。この倉庫が現「ブックスボックス利尻島スタジオ」。つづく。」ツイッター @booxbox ブックスボックス 田原ヒロアキ より---booxboxをフォローしましょう

      
      2011年7月7日

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大丈夫日記 札幌・佐久間恵中心の~「アトムの子」ならぬ「ゲゲゲの子」・20100823-29

20100829 佐久間恵中心の
  
   * 原弘 『原弘 デザインの世紀』 平凡社


午前 データ作業 NHK「日曜美術館」「ポスター誕生 パリジャンの心を盗め!」 外伝 『生きものの建築学』読了/午後 M19書庫 手製本制作 一晩接着剤の乾きを待った「相田みつを」、改善ならず再補修 文庫本HC化二冊半 朝TVの引率で、在庫の『デザイン大系 第一巻 ポスター』(ダヴィッド社 1954)を眺める 原弘・勝見勝・河野鷹思編著 勝見氏によるポスターの通史あり シェレ、ロートレック、ミュシャ、カッサンドル、それぞれ適宜紹介 六時、大丸藤井セントラル 和紙の品揃え確認 悪くない 今後は当面「ペーパーショップサクマ」「紙のめぐみ」「セントラル」随時巡回で紙素材を確保しよう 地下鉄大通り駅から真駒内駅 構内通路・車中、本日開催「北海道マラソン」に参加されたと思しき市民ランナーの皆さんを多数見かける クレイジーな暑さ、8月末の札幌で30度越え、であったろうに… 自分はこのまま一度もフルマラソンを走らないまま一生を終えるのだろうか
「 おわりに

 (前略)

 人間の生活環境という問題に立ち返って考えるとするならば、現代の建築や都市は、いまだ"巣"にまでその内容を昇華し得てはいない。ひと言でいえば、動物の巣に対して、人間の生活装置は、環境に対してあまりにも攻撃的(オフエンシイブ)だ。動物の巣は、いかなる生物のそれであれ、常に防御的(ディフェンシイブ)であることに本質がある。自然の変化であれ、天敵と呼ばれるような捕食者の存在であれ、そうした外から襲ってくる危険に対して、彼らの生活装置(巣)はいつでも防御的であり、そのディフェンスの姿勢のなかに、彼らの"建築"に特有の外形のさりげなさ、そしてそのことと表裏をなして、インテリアの居心地(アメニテイ)のよさが実現している。近代から現代にかけての建築は、工業化という圧倒的な波のなかに揉まれるうちに、この動物の"建築"の本質をいつのまにか逆転して、外形において目立ち、内部においていかにも寒々した……、といった種類の建築を大量に実現してしまっているのである。人間が自分たちの自然のなかにおける存在の小さい(スモール)ことを実感し、しかもその小ささ、たよりなさを、あえて「美しい」と感じうるためには、私自身をふくめて、私たちの感性面から、近代において降りつもってきたくもりをぬぐい取って、再び透明なものにみがき立てなければならないだろう。そうした鏡面のなかに、やがて、新たな人間の巣の像が結ぶにちがいない。こうして私は動物の建築の門口に立って、やっと案内を乞うところに来たばかりなのである。」 『生きものの建築学』 259-260ページ




20100828 人妻万華鏡
  
   * 五味文彦 『平家物語、史と説話』 平凡社選書


午前 データ作業 外伝/午後 自転車でM19書庫 手製本制作 一冊目構成失敗・修正 二冊目P・T氏「相田みつを」補修 日短く、自転車夜走りを避け早々帰宅/夜 発送作業 南郵便局 『生きものの建築学』読書/今週の棚出し 「HWBH2388 建築 雌の視角 長谷川尭 1978 相模書房 3000円」「HWBH2389 建築の生と死 長谷川尭 1978 新建築社 3000円」「LIBH2474 木下順二 ラジオ ドラマ選集 木下順二 1954 宝文館 3000円」「LIBH2449 人妻学校 白川渥 1963 講談社 2500円」「HTBH2458 京都社会史研究 同志社大学人文科学研究所 編 1971 法律文化社 3000円」「ETBH249 日本仏教曼荼羅 ベルナール・フランク 仏蘭久淳子訳 2002 藤原書店 2500円」「HTBH2500 平家物語、史と説話 平凡社選書 五味文彦 1987 平凡社 2500円」「LIBH2462 万華鏡 サンリオSF文庫 レイ・ブラッドベリ 川本三郎訳 1986 サンリオ 2000円」 等々



20100827 21世紀中年
  
   * 堤幸彦監督 『20世紀少年 BDセット』 紀伊國屋書店


午前 データ作業 ホームヘルパー関連講習受講の妻を札幌市街地まで車で送る 南郵便局・北洋銀藻岩、払出し・振込 金の(苦しい)工面は死ぬまで続くだろう、まあ普通のこと/午後 M19書庫経由でS先生宅 買取はお互い納得の取引内容 帰宅後早速引取分登録作業/夜 TV放映の「20世紀少年 <最終章>ぼくらの旗」視聴 監督堤幸彦氏は1955年生(大阪万博時、中3か)、原作者浦沢直樹氏は1960年生(同じく小5か) 田原は1958年生(同じく小6か)で、同世代人の・同世代人による・同世代人のための映画を見ている感 「本格科学冒険映画」と銘打つも、そんなわけで・そこは・実は・逆に・極私的な・良い意味でも悪い意味でも、「ホームムービー」なのではと ロックは知っていても、戦争を知らない子供たち 三週連続の放映、またお金がどっと動く 子供たちの「ホームムービー」でも社会的経済的に成り立ってしまうところに、この万博世代の勝利(感)と虚脱(感)



20100826 メディアも世界も「増改築」される
  
   * 水木しげる 『総員玉砕せよ!』 講談社文庫


午前 データ作業 外伝 「ゲゲゲの女房」ページに「水木しげるさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス」へのリンク発見 水木氏分はもちろん、他の方々の映像にも見入って、昼下がりまで それでもまだほんの一部 圧倒的/午後 車でM19書庫、掃除機持参で掃除/夜 登録・発送作業 南郵便局/上の「戦争証言アーカイブス」はWEBページ上にただ、インタビュー映像・音声(証言者以外の映像が挿入されることもない)と、その発言の文字起こしウィンドウが配置されているだけ それでも見始めるとまったく目が離せない 本編(?)のTV放映を見ていないまでも、WEB配信の方が、内容の質量の充実度・視聴者の自由度において、優っているのではとどうしても思ってしまう TVというメディアも「増改築」されて止まないということで/「民主化」が世界全体ですごい速度で進む 特権階級は数少なく利小さくなる 「自由公正な民主選挙の実施」「サッカーワールドカップの隆盛」「インターネットの普及」 民主選挙は独裁者を殺し、体一つの才能努力が最貧国最貧層出身のプロフットボール億万長者を生み、どんな圧政の現場も数時間後には世界中に画像映像配信され圧政者の行動を規制する そして何より、上の三つは、宗教・民族に関わらず、世界共通に採用され(つつあ)るシステム システムが共有・共用されている限り、戦争も起きない/NHKを含めたマスメディア(の人々)もまた「民主化」の波に洗われている 「マス」であることの特権性・必要性・必然性は消えつつある むしろそれは当人にとっても周囲にとっても危険で意味のないことだ というような意識を皆持ち合わせるようになっていくことが、実は一番の「民主化」なのかもしれない そんな意識が一番薄いのが政治家かも 戦争を開始・継続した人々からいまどきの代表選を戦うような人達まで 絶滅危惧種?/無闇に悲観することもない 今の世界の「増改築」は、それほど悪いものではない



20100825 増改築が続く
  

      
      2008年8月12日の倉・「ブックスボックス 利尻島スタジオ」


午前 データ作業 外伝 『生きものの建築学』読書/午後 発送作業 南郵便局・銀行/夜 利尻島御崎 田原家近辺の写真のスキャニング作業開始 住居前に向かい合うように建つ「倉」(木造の倉庫兼作業場)関係の写真から それらも含め、今後田原が作っていく作品の核となるであろう素材たち WEB、というか当ブログ、でまずは公開・展開していこう 1955(昭和30)年、戸籍上1905(明治38)年に当地に移住した田原家にとってはちょうど50年目、に建てられたもの 建築当時の出来ての倉を塗装する独身時代の父の写真と、その倉を小学生の田原が撮影した写真から始まる 実は、今、勝手に、「ブックスボックス 利尻島スタジオ」と称しているのがまさしくこの倉 成り行き次第で、改造・改築・増築・新築、行われる可能性大 ブックスボックス法人化は2006年 利尻島御崎 田原家の2世紀目が始まっている 本日の『生きものの建築学』読書がまさしく、そんな内容の部分で

      
      小学生の田原が撮影した写真(1960年代後半) 実は生れて初めて撮った写真 なんの因果でこれを撮ったものか

      
      写真が貼られたアルバムの横に「30年新築の倉庫 塗料をぬるはボク」と手書きメモ
 スキャンした写真を見ていて初めて気付いたのだが、明らかに入口のある場所が違う!
 入口を付け替えて横移動したものか、建物の向かって左部分をちょん切ったものか
 


「 増改築が続く

 シロアリがそのダクトと外気との間に通気のための穴をあけたりふさいだりすることは、いわばお手のものであろう。それはともかく、巣の材質および構成もそのために、巧妙な処理がなされていることも忘れてはならない。好天の続く季節には、内部の汚れた空気の排出は、通気チャンネルから薄い土の層を通して比較的容易にできるし、そのたまに例の表層の襞が有効に働く。同時にこの外殻から新鮮な外気をも取り入れることができる。一方雨の日には外殻の襞は濡れて、その呼吸効率は減少する。しかし外殻の襞をつたわって大部分の雨は流れ落ちてしまい、それだけ早く乾燥するようになっている。ただ長期に続く雨の季節の調査記録がないのでわからないと、リュッシャーは断っている。

 ただこのすぐれた観察者が、マクロタームの"建築"について強調していることのなかで注目すべき点は、彼がその建築が決してどの時点においても完成した状態を示すことなく、いつでも彼らの建設の精力的な過程を示していると、報告している点であろう。シロアリは、彼らの集合住宅(むしろ都市と呼ぶべきだろう)を、いつでもある部分を取りこわしたり、また新しくつくりかえたりして再開発している。「実際のところ、私たちはダイナミックな過程のひとつの場面を見ることができるにすぎない。というのも、シロアリはいつでも働いており、ある部分をこわしたり、他の個所をつくりなおしたり、塚を拡張したり、さまざまな細部を改造したりしている。構造はいつでも変らずにあるが、しかしそれは原則として、である」(M・リュッシャー『空調されたシロアリの巣』)。

 たしかにこのように指摘されてはじめてわかるのだが、シロアリに限らず動物の建築はたしかに、人間の記念碑(モニュメンタル)な建築作品などとは違って、ある時点において完成し、その完成した状態で動かさない、あるいは動かせない、ようなそんな代物ではない。彼らの家は、常にダイナミックな建設の過程(プロセス)を示しているのであり、どこかの時点で完成して、それ以上の変化はない、といったことはないだろう。それがあるとすれば唯一、彼らが自分たちの巣を捨てた時以外には考えられない。いうまでもないことだが、人間の一部の建築の場合のように、それは建築家の"作品"ではないし、施主の愛玩物でもない。反対に彼らの巣は、その事によって自然の中で文字どおり常に生きているのだ。しかしよく考えてみれば、人間の建築や都市の大部分のものもまた、ほんとうに生きている建築は、その建築にかかわる人々によって、いつでもなんらかのかたちで手を加えられており、そうした不断の増築意地作業によって、必要な機能が保たれてきたことを思い出すことにもなる。拭き掃除に精を出す妻や、雨もりを防ぐために屋根に登る夫のうしろ姿に、働きもののシロアリの活動をモンタージュして考えるのも、決して不謹慎なことではあるまい。

 人間の家のなかで竣工時と全く変らずに使われ続けているものは少ない。必ず改築や増築がくりかえされ、そのような"増殖"のなかで、建物は生き生きした表情を保っているものなのだ。それが止まった時、建物は死に、あるものは建築博物館の「展示物」になる。」 『生きものの建築学』 121-122ページ




20100824 不自然な真実
  
   * マルク・ソーテ 堀内ゆかり訳 『ソクラテスのカフェ』 紀伊國屋書店


午前 データ作業 十時M19書庫 東京定例セリ市への出品作業 S・I氏合流/午後 荷造りを終え出荷 売上金額が気になるが、まずは書庫が片付いてホッとする 二時過ぎ帰宅 「ソクラテスのカフェ」に電話 ギャラリー使用日程の件 担当N氏不在、来年1月最終週開催したい旨、伝言願う 古書組合会計事務作業 うまく行かず悩ましい T氏より電話 31日夜に買取決定/暑い夏だったが、北海道(札幌近辺)は、さすがに朝晩、秋の気配 先月出掛けた恵庭市カリンバ遺跡のことが頭に浮かぶ 約3000年前そこで暮らした人々はどういう気候の中で生活していたのかと 図らずも人類史上未曾有の人口爆発地球温暖化の時代に生まれついたわけで、いつの時代と比較しても、実際に今を生きる分にはあまり意味がないんだろうけど、つい考えてしまう 人間が地球(の自然)に与える人為的ダメージはいかほどのものなのか、実はそれも「自然」の一部ではないのか、などど



20100823 「アトムの子」ならぬ「ゲゲゲの子」
  
   * 長谷川尭 『建築逍遥―W・モリスと彼の後継者たち』 平凡社


午前 データ抹消登録作業 外伝 長谷川尭『生きものの建築学』(平凡社 1981)読書開始 中学生の長女も今日から新学期 サボっていた筋トレ再開 正午前後の各局TVニュースを見ながら/午後 通常業務 南郵便局・銀行 登録作業/夜、翌日の準備でM19書庫へダンボール移送/NHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」を観ている これだけマジメに観るのは「ちりとてちん」以来か 放送終了後評価が上った「ちりとて」に対して放映中「ゲゲゲ」は高視聴率を維持 納得 まず単純に主役の二人が魅力的 絵になる TVの世界では稀有なことでは 大多数の視聴者同様、自分も「ゲゲゲの子」(山下達郎「アトムの子」をもじって)なんだと実感 水木作品の魅力がドラマの背景・土台にあることは大きい 1922年生の水木さん、兵隊になっても戦死せず、四十過ぎに漫画家デビュー、以来五十年近く第一線 長生きも才能の一つなんだろう 手塚治虫との対照がますます面白い


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大丈夫日記 札幌・年々近づいてくる終戦の日~あまく危険な香り・20100809-15

20100815 年々近づいてくる終戦の日
  
   * 小林信也 『カツラーの秘密』 新潮文庫


午前 日本の古本屋・アマゾンMPの出品再開 データ抹消登録作業/午後 M19書庫 手製本作業 文庫HC化3・布裏打ち1 THさん引取依頼FAX/利尻島雑感 法事の日、檀家になっている寺の住職、相変わらずお経下手、カツラーであるのもどうかと 午後「アイランドリシリイン」で会食 飽食だと思う 12日午前利尻島スタジオ・R19書庫普請妄想 午後利尻町交流促進施設「どんと」内郷土資料室(図書室)へ 『花森安治の仕事』チラ見 鴛泊港の岸壁で、ユースホステルの若者達が、島を離れる客に送別の歌(吉田拓郎氏の「落陽」など)を聞かせる風習は途絶えたのか としたらそれはいつ/子供の頃は、子供心に、先の戦争は遠い過去の出来事だった 年齢を重ねるごとに、それが「つい最近のことだったのだ感」が強くなる TVの戦争特集番組で、爆笑問題太田光氏が同様趣旨発言 実際に戦争を体験した人々はより「つい最近」感が強くなっているのではないか、と



20100814 オホーツク海
  
   * 菊池俊彦 『オホーツクの古代史』 平凡社新書


午前 利尻島(の実家)を去る 八時半カーフェリー乗船 十時半稚内着 道道106号線 前日前夜、利尻はそうでもなかった(登山したんだから)のだが、宗谷支庁内は記録的豪雨 豊富町・幌延町通過、天塩町では天塩川増水・濁流、道端の低地のそこここが水没 嫌な予感/午後 遠別町に着いて、国道232号線が初山別村内での崖崩れで不通と知る それでも道道の迂回路ありとのこと、そこに向かうもそれも到着直前に通行止めに 国道40号はすでに中川町・音威子府村近辺で不通 陸の孤島状態 長旅を覚悟し来た道を戻る 豊富町から道道84号 猿払村・浜頓別町 国道238 オホーツク海を左手に枝幸町・雄武町・興部町・紋別市 国道273 滝上町 浮島峠・浮島トンネルを通って上川町 浮島インターで旭川紋別自動車道 日が暮れる 旭川で道央自動車道 札幌インターで高速下車 午後十時、札幌市南区自宅へ到着/紋別市・滝上町辺り、初めて通ったと思う 北海道の広大さと、地域格差(僻地の荒廃・原野化と札幌の一極集中・大都市化)を強く感じた そして疲れた



20100810-13 利尻行き 2010 夏

20100811

      
      2010/08/10 7:55
      札幌市南区 自宅ベランダから撮影した風景
      間もなく利尻島へ向けて車で出発

      
      2010/08/10 11:20
      小平町 道の駅おびら鰊番屋 今年も恒例の松浦武四郎さん(の像)とのツーショット写真
      ここまでの経路は、札幌インターから道央道―深川留萌自動車道―国道233―国道232

      
      2010/08/10 15:45
      稚内市 ハートランドフェリー埠頭
      これから乗船するカーフェリー

      
      2010/08/10 17:10
      利尻島近海 日本海海上
      厚い雲で、利尻山はもちろん、島影もほとんど見えない

      
      2010/08/10 17:12
      利尻島近海 日本海海上

      
      2010/08/10 17:40
      まもなく、利尻島鴛泊港入港

      
      2010/08/10 19:37
      利尻島御崎 自宅前
      何日か前に先着していた弟がバーベキューの食事を用意 食後、炭火を眺めて、宵闇の

20100811

      
      2010/08/11 9:37
      帰郷の主目的である、祖父母・父の13回忌法要の当日会場 といっても自宅内 参列者十数名 優れた「節談説教」を聴く、なんて目には全然あえなかった

      
      2010/08/11 14:42
      自宅前の浜に降りる

      
      2010/08/11 14:44
      自宅前の浜に降りる

      
      2010/08/11 14:50
      自宅前の浜に降りる

      
      2010/08/11 15:06
      自宅前の浜に降りる

      
      2010/08/11 16:59
      利尻島御崎 自宅二階北向きの窓から撮影した風景


20100812

      
      2010/08/12 17:41
      利尻島御崎 自宅裏から南方向を撮影した風景

      
      2010/08/12 17:42
      利尻島御崎 自宅裏から北方向を撮影した風景


20100813

      
      2010/08/13 10:03
      次女と利尻山登山 鴛泊コース、五合目

      
      2010/08/13 10:33
      次女と利尻山登山 鴛泊コース、六合目
      天候・登山開始時間を考え、この日は七合目まで 利尻山初登山の次女、頑張った




20100809 あまく危険な香り
  
   * 山下達郎 『FOR YOU』 (TR13 「あまく危険な香り」)


午前 外伝 TV『流星の絆』/午後 通常業務 M19書庫 S・I氏より電話 16日古書買取共同決定 4時奈良県人Hさんと再会 利尻島を含む北海道周遊の旅の途中 先日市川義一氏にご案内いただいた「D×M」でお茶 田原が利尻島で何をしたいのか・何ができるか・どうやっていくか、対話 高度経済成長時代の企業戦士で、今は悠々自適の第二の人生を送っておられるH氏に色々ご助言いただく 7時半帰宅 発送作業 翌日からの利尻行き荷造り/中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』読了 中沢氏はあまく危険な香りを放つ美文を書ける人だと思うが、この本ではその特質がさらに際立っていて読ませる 手軽な新書版なんだけど、網野善彦の仕事を理解したい人には必読書だろう 中沢家の人々の実録・年代記の側面もあって、その観点から読むのも面白い 澁澤敬三のアチック・ミュージアム=日本常民文化研究所の副産物とも言えるわけで、澁澤人脈にも思いを馳せる
「「平泉澄はアジールの主体のことを考えていないからさ。根源的な自由を求める心というのが、人間の本質をつくっている。だから人類はそれぞれの社会的条件に合わせながら、さまざまな形態のアジールをつくり出すんだ。未開社会には未開社会の自由の空間というのがあったし、古代社会には古代社会の自由を表現するための、都市というアジールができた。中世は沸騰する宗教の時代だから、アジールは寺社の権威を借りて、自分を実現しようとした。そういうものをつくり出そうとしているのは、人民の中にひそんでいる自由への根源的な希求なんだよ。そのことが平泉澄という男には、まったく見えていない。君の言い方を借りれば、女性の本質がわかっていないのに、女性を愛して、そのことを権威のある人からなんか言われると、あれは一時の気の迷いだったと言って、平然とその女性を棄ててしまえる感性さ。平泉澄がたいへん秀才であったことはたしかだよ。でも、それだけでは人間はだめなんだということが、そのあとの彼の行動を見ているとよくわかる」」『僕の叔父さん 網野善彦』89ページ

「 この仮面の神と貨幣がじつによく似ている、と私は言いたいのである。貨幣は具体的な使用価値と抽象的な交換価値のあいだを、柔軟きわまりない能力で行ったり来たりする。さあ跳べ、ここがロドス島だ。貨幣は飛躍するのである。飛躍して、違う存在のレベルのあいだを自在に行ったり来たりする。そして、商品の所有者と商品との「縁」を切り、「無縁」となった商品たちが完全な平等の資格で立ち並ぶ「市場」に集合してくるのをうながしているのも貨幣ならば、貨幣量の多い少ないという年齢階梯制にも似た「数量階梯制」をもって、商品が行き来するその空間に秩序と正義を打ち立てているのもまた、貨幣なのである。

 仮面儀礼を生み出してきた野生の思考と貨幣経済の土台をつくり出している思考とは、心のまったく同じ構造から生み出されている。民俗学と経済学を結びつけている真実の環が、まさにここにあると言っていい。『神話論理』と『資本論』とが同じ場所で語り出され、おたがいの理解が響き合うような空間をつくり出すことが不可能でないことを、『無縁・公界・楽』は証明しようとしたのである。

 だから、原初の森の中にひっそりとつくり出されていた古代のアジールと、中世の商人たちが貨幣の力と平等な人間関係をもとにして生み出そうとしていた自由の空間とが、同じ原理のもとに作動していたのではないか、という網野善彦の直観は、まったく正しいものであったと私は思う。『無縁・公界・楽』を受け入れるのを、多くの歴史学者は拒否することで、自分の身を守ろうとした。これはこの本の中で動いている網野さんの思考の大胆な運動に、そうした歴史学者たちの思考がついていけなかったためだった。それほどに根源的な思想が、ここには語られているのだ。そのためにこの本は、網野さんの著した多くの著作の中で、いまだに正確な理解のおこなわれていないほとんど唯一の書物として、孤独のうちに佇んでいる。網野さんは『無縁・公界・楽』を未来に向かって投げ出した。私たちの時代は、その未来にまだ追いついていない。」『僕の叔父さん 網野善彦』104-105ページ



 

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大丈夫日記 札幌・利尻島行き帰り・20081227-20090103

20081227-20090103 利尻島行き帰り


20090104 利尻を発つ

      
      自宅玄関から撮影
       4日午前7時55分。
       五分後、札幌へ向けて出発。



20090103 浜に降りる

      
      2009年1月3日、午前10時50分
       父親が生前手ずから建てて使っていた作業小屋。年々、崩壊。
       いずれ、この場所に茶室を建てたい。北に利尻山を、南に日本海を望む。

      
      2009年1月3日、午前10時55分
       田原家の澗のある波打ち際まから撮影。
       二つの小屋の、右側が上の写真の、左は祖父が使っていたもの。
       祖父の小屋で、祖父が手ずから作っていた塩ウニは、田原の食の原体験の一つ。
       元旦の写真は、この写真の崖の右突端あたりから撮影したもの
       澗(ま)。広辞苑によれば「湾または海岸の船着場・船曳揚場。北陸地方などでいう語」。

      
      2009年1月3日、午前10時55分
       澗の入口を背後に自シャ真。

      
      2009年1月3日、午前10時55分

      
      2009年1月3日、午前11時00分
       岩の形、水の深さ、すべて身近な景色。

      
      2009年1月3日、午前11時05分
       崖の上に上って。
       二つ上の写真と見比べると、澗の入口の開き方がわかる。
       外海が多少荒れても、澗の中は比較的穏かでいる。



20090101 浜を覗く

      
      2009年元旦、午前9時20分
       田原家が100年近く使ってきた浜へ下る道の途上で、自シャ真

      
      利尻島南部、仙法志御崎の海は穏か。
       島の裏側は大波で、この日も利尻-稚内間のフェリー航路は全便欠航。



20081231 買物に付き合う

      
      利尻島鴛泊の某ホームセンター(日本語英語?) 正午近く
       札幌圏の巨大ホームセンターでもなかなかお目にかかれない、
       ボルト・ナット類の充実した棚。
       冬場のフェリー欠航に備えて、工事作業等の部品・部材を常時在庫する役割を
       このホームセンターが担っているのか?
       買物は普段自家用車のない生活を送っている母親に付き合ったもの。
       生活必需品の細々とした買物で、ボルトを買いに出たわけではない。



20081230 恒例、松浦武四郎さんとのツーショット写真

      
      札幌から利尻島へ向かう途上、小平町にて
       午前10時50分


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20080824 賢者の言葉・毛利甚八 『宮本常一を歩く』・「北海道 問寒別・新十津川」

   * [宮本常一を歩く―日本の辺境を旅する〈下巻〉] 毛利甚八




  『宮本常一を歩く―日本の辺境を旅する〈下巻〉』 毛利甚八 (小学館 1998)  「第11章 北海道 問寒別新十津川 1997年5月と6月の旅」より
 一 問寒別へ

 5月中旬のある朝、旭川駅から宗谷本線で北に向かった。名寄までは快速で約一時間半、名寄からは終点の稚内まで約二〇〇キロを四時間弱で走る各駅停車に乗り換える。
 この土地では春は始まったばかりだ。車窓から見える山並みには白い根雪が横たわっている。芽吹いたばかりのミズナラやシラカンバが斜面にぎっしりと並んでいる。その箒型の樹形の先端には薄茶の細やかな若葉がにぎわっていて、煙るように稜線をぼかしている。時々、木立の間にコブシの花の白が豪快に咲き誇っている。それを眺めて時間をうっちゃっていたが、名寄をすぎてからコブシもなくなってしまった。天塩川沿いに密生つすヤナギの新緑だけが唯一春めいた鮮やかさだ。
 名寄から幌延までの間、宗谷本線は天塩川に寄り添うように走っている。土色の水を湛えた天塩川は、北上する列車に併走したり離れたりしながら、ゆったりと北へ向かって蛇行する。川は幌延で西に大きく曲がり、海に流れ込むのである。
 一両編成の列車の座席は約六〇席である。私の前のボックス席を高校生の男の子たちが数人占領していて、歌を歌い始めた。
 ザ・ブルーハーツの「リンダリンダ」なんかを歌う。陽気で調子っぱずれな歌い方だが、一応ハモったりもする。ひとしきり合唱が続いた後、その大部分が美深で降りて、電車の中は静かになった。
 残った高校生の一人が伸びをするように、
 「いいねぇ、今日は、天気が」
 するともう一人が
 「サッカーび・よ・り」
 と、暢気な声で応えた。
 各駅停車でこの広い北海道を移動していると、ゼンマイの伸びた時計が支配する世界に飛び込んだような気分になる。所在なさと至福が入り交じった不思議な時間だ。
 これから私が訪ねるのは天塩郡幌延町にある問寒別という土地だ。
 今から五十二年前の昭和20年(1945)の10月、宮本常一はこの土地を訪ねた。38歳の宮本は大阪府の嘱託の役人という身分であった。
<<十月になると、戦災に遭うた人びとを北海道の原野の開拓のために送りこむことになって、その人たちについてゆくことになった。実はそれまでにすでに二回ほど戦争末期の混乱の中を送っていたのである。私のついていった第三次帰農隊は二千人近かったであろうか。大阪府庁からは四、五人の人がついていった。大阪駅をたって、米原から北陸線にはいって北上したが汽車はのろのろと走り、青森までゆくのに二日かかった。途中の町には灰燼になっているものが多かった。
 津軽海峡をこえて札幌まで来ると、普通はそこで北海道庁の役人に帰農者をわたして帰るのだが、私たちは帰農者について現地までいくことにし、私は天塩地方へ入植する人たちについてゆくことにした。この地方へ入植する人は三百人ほどであったかと思っている>>(「戦争中の食料対策」 『民俗学の旅』 宮本常一 講談社学術文庫)
 昭和19年1月、宮本は戦争の激化のために昭和14年から続いた民俗採訪の旅を中断し、奈良県郡山中学の歴史の教師となった。東京を去り、一年四ヵ月を奈良で過ごすのである。
 宮本の自伝を読むかぎり、奈良での教師生活は幸福だったようだ。教鞭をとるかたわら暇さえあれば生駒山を散策し、また学校の周りにある薬師寺、唐招提寺、菅原寺、西大寺、法隆寺、法起寺、法輪寺などの名寺を訪ね歩いた。そして歴史の教師という特権で仏像の蓮華座に上がり込み、仏像を手でさわりながら鑑賞したというのだから今では考えられないほどのどかな話である。
 しかし敗戦の年の春、宮本は突然請われて大阪府の役人となる。戦時下の生鮮野菜の供給対策をたてるため働いて欲しいと、大阪府知事に頼まれたのであった。宮本には白羽の矢が立ったいきさつには多くの人の動きがあるのだが、元々は元農務官僚でもあった柳田国男の推薦があったからだという。
 宮本は古い自転車に乗って大阪府下の村を歩き回り、野菜の苗の生産状況を調べ、山村に不足していた肥料用屎尿の輸送方法を整え、篤農家や農事試験場で仕入れた栽培知識を農家に伝えた。そうするうちに敗戦を迎えた宮本は入植者を連れて北海道にでかけるのである。
 私は宮本の自伝『民俗学の旅』を読みながら旅をしているのだが、宮本が北海道を旅する前後の文章は実に興味深い。
 奇妙な物言いかも知れないが、私は宮本の文章の、その筆圧の高さや息づかいに惹かれてふらふらと旅に出る。文章の奥にある感情の起伏に目をこらし、味わうために、宮本の訪ねた土地に身を置いてみたくなるのである。
<<天塩線を幌延までいって、そこの役場で、それぞれ入植地別に隊が組まれた。私は問寒別に入植する人たちについて問寒別までいった。入植地は駅から三里も奥だという。入植者たちはそこで地元の人たちにひきとられて奥地にはいることになる。(中略)駅のあたりは一面のススキ原である。その彼方に人びとは住んでいるという。(中略)トロッコの位置へ機関車が出てきた。小さな機関車である。その後ろへ貨車とトロッコをいくつかつないだ。人びとは貨車に乗り荷物はトロッコにつけたが、貨車に乗りきれない人はトロッコに乗った。空は雲って暗く重い。雪になるかもしれぬ。汽車は動き出した。そして枯原の向こうに消えていった。見送る者は私と幌延の役場の吏員の二人だけであった。私は入植者の運命に空の暗さのようなものを感じずにはおられなかった>>(引用同前)
 宮本は問寒別の駅で入植者を見送った後、「見捨ててきた」という思いを抱いた。現地の宿舎までついていかなかったことを後悔するのである。
 宮本は入植者と別れた後、それ以前に北海道に入植した人々を訪ねる決心をし、遠軽、留辺蕊、津別、中佐呂間などを訪ね歩き、最後に明治期の大洪水のために奈良県吉野地方の十津川村から北海道に移住した人々が住む新十津川を訪ねて聞き取りを行っている。
 旅に出たついでに目的地以外の土地を訪ね歩いたのは宮本らしいといえば宮本らしいが、それはあくまで「見捨ててきた」罪悪感がそうさせたのである。
 現在の天塩郡幌延町は人口約三〇〇〇人、約一万一〇〇〇頭の乳牛と約一〇〇〇頭の肉牛が住む酪農の町であり、一方で原子力発電所の廃棄物処理の研究所誘致でゆれる過疎の町だ。
 問寒別は問寒別川という幌延町最大の天塩川支流が流れる地域で、その谷の深さは約二〇キロに及ぶ。現在の問寒別は、いかにも北海道のイメージに似つかわしい、広大な牧草地が広がる土地である。
 この地の開拓が始まったのは明治38年のことだ。
 開拓に入った人々はまず家造りから始めなければならない。蔓で縛った叉木で合掌小屋(おがみごや)の骨格を作り、ヤナギの枝を垂木として差し渡すと松の葉や葦を屋根材として載せて小屋を作った。その小屋で雑魚寝をしながら、払い下げを受けた国有未開発地の開墾を始めるのである。アカダモやナラ、ヤチダモ、ヤナギなどが茂る原野を伐採し、地は覆うクマザサやネマガリダケを払い、火をつけて焼き畑開墾をする。拓いた土地には当座の食料となる裸麦、豆類、唐黍、カボチャなどを植え、開拓が進むと換金作物となる菜種を植えるようになった。
 開拓当初は野ネズミの大群に作物を食い荒らされ、蕗や川魚、貝などで命をつないだこともあったという。
 その後、この土地では林業が興り、第一次世界大戦の影響で農作物高騰による好景気があった。問寒別川州域で白金が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、後にクロームの採掘場が生まれた。大正期には馬鈴薯による澱粉作りが始まっており、昭和13年から酪農も始まった。戦時中の換金作物は軍用馬の飼育に使われる燕麦であった。
 「私の家族は大正9年、私が5歳の時に和寒から問寒別に移ってきたんです。父親は百姓でしたが、夏は砂金掘り、冬は林業で樵をして現金収入を得ていました。男はそういう仕事で忙しいですから種播きと収穫の時に働いて、草取りなどは妻の役目です。作物は馬鈴薯、南瓜、燕麦、アマなど。燕麦は軍馬用の飼料として売れましたし、アマは医療用の繊維の材料になったんです。この土地の人は大きな貧乏という柱と闘いながら生きてきたんです。女の人は苦労しましたね」(元農協職員・佐々木泰幹さん 大正4年生まれ)
 幌延町のスナックで樺太から引き揚げてきた女性に話を聞く機会があった。彼女の父親は樺太でニシン漁を営む網元であった。敗戦の年、一家は樺太のニシン御殿を捨てて自分の漁船に家財を詰め込み、稚内に逃げ帰ってきたのだという。
 幌延に落ち着くことになって小学校へ行ってみると、農家の子供たちの着物は継ぎ当てだらけであった。
 「私はセーラー服を着てね、革靴で学校に行ったでしょ。そのせいでいじめられてねぇ」
 女性はそう言って笑った。
 当時、農家の子供たちの弁当の中身が燕麦だったのを見て驚いたという。それほどに貧しかったのである。
 幌延町史の正式な記録によると、昭和20年に大阪から問寒別に入植した人々は六戸であった。家族を含めた全員の人数は記録にない。
 記録に残っているのは次の六人の人々である。
 高島正重
 林田幸吉
 鈴江威
 稲嶺盛次
 中里政清
 橋本要
 ただし昭和25年7月に発行された『問寒別郷土史』(幌延村立問寒別小学校開校四十周年記念編纂)には<<昭和二十年十月に大阪より開拓者として豊神に十二戸が移住し>>とあり、比較的新しい記憶を基に記録されたものであろうから、それなりに信憑性があると考えられる。
 とすれば宮本が問寒別で送った人々は最低十二戸の家族で、そのうち六戸がまもなく問寒別を去ったのだろう。また六名のうち高島正重氏と林田幸吉氏をのぞく四名は昭和23年から24年の間に離農してしまった。
 高島正重氏と林田幸吉氏の二人は、今も問寒別や幌延に住む人たちの記憶に残っていた。
 「林田幸吉さんはここに来る前は音楽家だった。名前は忘れましたが何か特殊な吹奏楽器をやっていて、コロムビアレコードで吹き込みの仕事をしていたと聞きました。その楽器があれば飯を食えたんだが、戦時中で楽器が手に入らないので開拓にやってきたという話でした。何をやっても子供だけは育てなければならん、そういう気持ちで働いていたようです。暇な時に、口でメロディを口ずさみながら、指を動かしていることがあって、弾き方を忘れないようにそうするんだと言ってましたね」
 そう語る幌延町の元助役・加藤良美さん(大正14年生まれ)は、昭和27年から約一〇年の間、農協の営農指導室で開拓係を務めた人だ。仕事柄、大阪から入植した二人とつきあいがあったという。
 「高島正重さんは元警官だったはずです。他の人は用意されていた開拓地に入ったんですが、高島さんはケナシポロ川という川の上流にある北大演習林の中で開拓を始めた。真面目な人でね、ネマガリタケの生えた土地を刈って畑を拓くにはどうするんだと尋ねて鎌を使えばいいと教えられたらしい。普通開墾に使う鎌は腰だめで振り回すような大きな鎌だけど、誰かが見に行ってみると高島さんは小さな草刈り鎌で刈っていたらしい。それで笑われていましたね」(加藤良美さん)
 高島氏は演習林の中で開拓を始めたために、補助金が申請できない。そこで開拓係だった加藤さんが別の開拓地に移るように勧めたが、高島氏は聞き入れなかった。
 「ここに入ってすぐの頃、十分な食料がなかったせいか子供たちがクル病で苦しんでいてね。子供をこんな格好にした土地だから、俺は移らん。そう言っていました」(加藤さん)
 開拓をする人々にはいくつかの補助金が出たが、そのうちのひとつに開拓をした土地の五割に補助金が出る制度があった。一反につき四〇〇〇円から七〇〇〇円で、一〇反を拓けば最低四万円になる。開拓をしている間はそれが現金収入となるのだが、いったん開拓が終わると作付けに手間取られるようになる。そかし、拓いた土地は食えるほどの収穫をもたらさない。地元で生まれた農家ですら難渋する土地を畑作だけで経営することはひどく難しかった。
 宮本と一緒に汽車に揺られ、問寒別にたどり着いた人々は楽団員、写真屋、うるし塗りの職人、警察官、着物の絵紋描きといった職業を持っていた人々だった。
 辺境の農民や漁民を見てきた宮本にとって、彼らが開拓にどれほどの適性を持っているかはひと目でわかったはずである。嘱託とはいえ、宮本は初めて役人という立場で歴史に加担した。それは明らかに戦後動乱期の無責任な棄民政策の手足として働くことであった。
 「大阪の人は住む家も食い物もない人たちで、北海道行ったら簡単に食えると思ってきたんじゃないかな。戦前に開拓で入った人たちは自分が望んできたから誰も恨むこともない。
 ところが農家もやったことない人たちがやってきて、来てみたら土地は悪いし、作物はできない。当時は正しいと思ってやった政策には違いないけれど、だまされて入ってきたと感じたのが実状でしょう」(佐々木泰幹さん)
 この北海道の旅から一九年後の昭和39年、宮本は利尻島を訪ねる機会を持った。利尻島へは稚内から船で渡るのだが、宗谷本線で稚内に向かうには問寒別と幌延を通過しなければならない。その時、宮本は問寒別に立ち寄らなかった。いかにも気弱な次の記述が残っているだけだ。
<<私のつれていった仲間は天塩・幌延地方へ入植する人たちであった。秋一〇月の半ばで野は稲が黄にうれ、山は黄葉の美しいときであったが、敗戦にうちしおれて皆元気がなかった。その人たちをはげまし勇気づけながら、幌延までたどりついて見ると、地元の人は実に冷たかった。そこへ入植者を捨てるようにして立ち去った。(中略)また近いうちにやって来ますからと約束しつつ、つい再訪の機会を失なって二〇年近い歳月が流れた。あの人たちはどうしているのだろうかと思いつつ、いまは音信もたえたままになっている。二〇年の間に北海道の天地がどんなにかわったかも、せめて汽車の窓から見たいと思った>>(「利尻島見聞」『宮本常一著作集5 日本の離島第2集』 未来社)
 宮本常一を追って旅を続けるうち、私は宮本の生涯にある疑問を持つようになった。これまで書いてきたように、宮本はある時は寝食を忘れて調査を続ける猛烈な民俗学者であり、ある時は離島振興法の制定に奔走するロビイストであり、ある時は温厚な文体で古き良き日本人を描く作家であり、ある時は自らを「大島の百姓」と呼ぶ農民であった。
 そして、その人生全体を眺めてみると、宮本の行動の重心は数年から一〇年の単位で次々に変化しており、なにより人生全体を貫く宮本本人の欲望が見当たらないのである。
 いったい宮本は何者でありたかったのか? 旅を続ければ続けるほど、その謎は大きくなっていった。
 そしてようやくたどり着いた結論は、宮本は限りなく宗教者に近い存在だということだ。
 民俗学、政治、農業指導、地域開発といった宮本の手がけたテーマはあくまでその時々の手段であり、宮本にはどうしても達するべき人生の目的はなかったように見える。宮本にとって旅を続けることそのもの、旅の中で人とふれあい何かの役に立つ瞬間だけが人生の意味であった。
 私がこう考えたのは宮本が中世の遊行僧・一遍を評した次の一節をみつけたからだ。
<<一遍は民衆を固定した地域社会の中に見出したのではなく、旅することによって、地域社会をこえることによって、見出したのである。旅をしてみなければ民衆全体を発見することはできなかった。共通の観念をもちつつも、それに気付いていない人びとが地域毎によどんでいる。その人たちが目ざめて手をつなぎあう。それは旅すること以外に目をひらきようのないものであった>>(「旅の遺産」『宮本常一著作集31 旅にまなぶ』 未来社)
 これは一遍の旅を評しながら、他の誰よりも宮本常一本人の旅のスタイルを的確にとらえた言葉である。
 私は北海道の旅が宮本を全面的に変えたのだというつもりはない。しかし、戦時中に渋沢敬三の庇護のもとで収集した膨大な民俗学の取材ノートと原稿を空襲で失ったその直後の経験であっただけに、問寒別への旅が宮本に己と学問の無力さを痛感させたのは確かだと思う。
 問寒別の開拓地で一五年にわたって耐えた高島正重と林田幸吉の両氏も昭和36年には問寒別を離れた。
 高島氏は引き止める人に向かって、
 「タバコを拾って生きるとしても、ここにいるよりはましだ」
 そう答えたという。
 幌延町に二人の消息を知る人はなく、今はケナシポロ川の支流に「高島の沢」という名前がつけられ、開拓の名残を伝えている。 


   * [民俗学の旅] 宮本常一


20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

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