大丈夫日記 札幌・利尻島行き帰り・20081227-20090103

20081227-20090103 利尻島行き帰り


20090104 利尻を発つ

      
      自宅玄関から撮影
       4日午前7時55分。
       五分後、札幌へ向けて出発。



20090103 浜に降りる

      
      2009年1月3日、午前10時50分
       父親が生前手ずから建てて使っていた作業小屋。年々、崩壊。
       いずれ、この場所に茶室を建てたい。北に利尻山を、南に日本海を望む。

      
      2009年1月3日、午前10時55分
       田原家の澗のある波打ち際まから撮影。
       二つの小屋の、右側が上の写真の、左は祖父が使っていたもの。
       祖父の小屋で、祖父が手ずから作っていた塩ウニは、田原の食の原体験の一つ。
       元旦の写真は、この写真の崖の右突端あたりから撮影したもの
       澗(ま)。広辞苑によれば「湾または海岸の船着場・船曳揚場。北陸地方などでいう語」。

      
      2009年1月3日、午前10時55分
       澗の入口を背後に自シャ真。

      
      2009年1月3日、午前10時55分

      
      2009年1月3日、午前11時00分
       岩の形、水の深さ、すべて身近な景色。

      
      2009年1月3日、午前11時05分
       崖の上に上って。
       二つ上の写真と見比べると、澗の入口の開き方がわかる。
       外海が多少荒れても、澗の中は比較的穏かでいる。



20090101 浜を覗く

      
      2009年元旦、午前9時20分
       田原家が100年近く使ってきた浜へ下る道の途上で、自シャ真

      
      利尻島南部、仙法志御崎の海は穏か。
       島の裏側は大波で、この日も利尻-稚内間のフェリー航路は全便欠航。



20081231 買物に付き合う

      
      利尻島鴛泊の某ホームセンター(日本語英語?) 正午近く
       札幌圏の巨大ホームセンターでもなかなかお目にかかれない、
       ボルト・ナット類の充実した棚。
       冬場のフェリー欠航に備えて、工事作業等の部品・部材を常時在庫する役割を
       このホームセンターが担っているのか?
       買物は普段自家用車のない生活を送っている母親に付き合ったもの。
       生活必需品の細々とした買物で、ボルトを買いに出たわけではない。



20081230 恒例、松浦武四郎さんとのツーショット写真

      
      札幌から利尻島へ向かう途上、小平町にて
       午前10時50分


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20080824 賢者の言葉・毛利甚八 『宮本常一を歩く』・「北海道 問寒別・新十津川」

   * [宮本常一を歩く―日本の辺境を旅する〈下巻〉] 毛利甚八




  『宮本常一を歩く―日本の辺境を旅する〈下巻〉』 毛利甚八 (小学館 1998)  「第11章 北海道 問寒別新十津川 1997年5月と6月の旅」より
 一 問寒別へ

 5月中旬のある朝、旭川駅から宗谷本線で北に向かった。名寄までは快速で約一時間半、名寄からは終点の稚内まで約二〇〇キロを四時間弱で走る各駅停車に乗り換える。
 この土地では春は始まったばかりだ。車窓から見える山並みには白い根雪が横たわっている。芽吹いたばかりのミズナラやシラカンバが斜面にぎっしりと並んでいる。その箒型の樹形の先端には薄茶の細やかな若葉がにぎわっていて、煙るように稜線をぼかしている。時々、木立の間にコブシの花の白が豪快に咲き誇っている。それを眺めて時間をうっちゃっていたが、名寄をすぎてからコブシもなくなってしまった。天塩川沿いに密生つすヤナギの新緑だけが唯一春めいた鮮やかさだ。
 名寄から幌延までの間、宗谷本線は天塩川に寄り添うように走っている。土色の水を湛えた天塩川は、北上する列車に併走したり離れたりしながら、ゆったりと北へ向かって蛇行する。川は幌延で西に大きく曲がり、海に流れ込むのである。
 一両編成の列車の座席は約六〇席である。私の前のボックス席を高校生の男の子たちが数人占領していて、歌を歌い始めた。
 ザ・ブルーハーツの「リンダリンダ」なんかを歌う。陽気で調子っぱずれな歌い方だが、一応ハモったりもする。ひとしきり合唱が続いた後、その大部分が美深で降りて、電車の中は静かになった。
 残った高校生の一人が伸びをするように、
 「いいねぇ、今日は、天気が」
 するともう一人が
 「サッカーび・よ・り」
 と、暢気な声で応えた。
 各駅停車でこの広い北海道を移動していると、ゼンマイの伸びた時計が支配する世界に飛び込んだような気分になる。所在なさと至福が入り交じった不思議な時間だ。
 これから私が訪ねるのは天塩郡幌延町にある問寒別という土地だ。
 今から五十二年前の昭和20年(1945)の10月、宮本常一はこの土地を訪ねた。38歳の宮本は大阪府の嘱託の役人という身分であった。
<<十月になると、戦災に遭うた人びとを北海道の原野の開拓のために送りこむことになって、その人たちについてゆくことになった。実はそれまでにすでに二回ほど戦争末期の混乱の中を送っていたのである。私のついていった第三次帰農隊は二千人近かったであろうか。大阪府庁からは四、五人の人がついていった。大阪駅をたって、米原から北陸線にはいって北上したが汽車はのろのろと走り、青森までゆくのに二日かかった。途中の町には灰燼になっているものが多かった。
 津軽海峡をこえて札幌まで来ると、普通はそこで北海道庁の役人に帰農者をわたして帰るのだが、私たちは帰農者について現地までいくことにし、私は天塩地方へ入植する人たちについてゆくことにした。この地方へ入植する人は三百人ほどであったかと思っている>>(「戦争中の食料対策」 『民俗学の旅』 宮本常一 講談社学術文庫)
 昭和19年1月、宮本は戦争の激化のために昭和14年から続いた民俗採訪の旅を中断し、奈良県郡山中学の歴史の教師となった。東京を去り、一年四ヵ月を奈良で過ごすのである。
 宮本の自伝を読むかぎり、奈良での教師生活は幸福だったようだ。教鞭をとるかたわら暇さえあれば生駒山を散策し、また学校の周りにある薬師寺、唐招提寺、菅原寺、西大寺、法隆寺、法起寺、法輪寺などの名寺を訪ね歩いた。そして歴史の教師という特権で仏像の蓮華座に上がり込み、仏像を手でさわりながら鑑賞したというのだから今では考えられないほどのどかな話である。
 しかし敗戦の年の春、宮本は突然請われて大阪府の役人となる。戦時下の生鮮野菜の供給対策をたてるため働いて欲しいと、大阪府知事に頼まれたのであった。宮本には白羽の矢が立ったいきさつには多くの人の動きがあるのだが、元々は元農務官僚でもあった柳田国男の推薦があったからだという。
 宮本は古い自転車に乗って大阪府下の村を歩き回り、野菜の苗の生産状況を調べ、山村に不足していた肥料用屎尿の輸送方法を整え、篤農家や農事試験場で仕入れた栽培知識を農家に伝えた。そうするうちに敗戦を迎えた宮本は入植者を連れて北海道にでかけるのである。
 私は宮本の自伝『民俗学の旅』を読みながら旅をしているのだが、宮本が北海道を旅する前後の文章は実に興味深い。
 奇妙な物言いかも知れないが、私は宮本の文章の、その筆圧の高さや息づかいに惹かれてふらふらと旅に出る。文章の奥にある感情の起伏に目をこらし、味わうために、宮本の訪ねた土地に身を置いてみたくなるのである。
<<天塩線を幌延までいって、そこの役場で、それぞれ入植地別に隊が組まれた。私は問寒別に入植する人たちについて問寒別までいった。入植地は駅から三里も奥だという。入植者たちはそこで地元の人たちにひきとられて奥地にはいることになる。(中略)駅のあたりは一面のススキ原である。その彼方に人びとは住んでいるという。(中略)トロッコの位置へ機関車が出てきた。小さな機関車である。その後ろへ貨車とトロッコをいくつかつないだ。人びとは貨車に乗り荷物はトロッコにつけたが、貨車に乗りきれない人はトロッコに乗った。空は雲って暗く重い。雪になるかもしれぬ。汽車は動き出した。そして枯原の向こうに消えていった。見送る者は私と幌延の役場の吏員の二人だけであった。私は入植者の運命に空の暗さのようなものを感じずにはおられなかった>>(引用同前)
 宮本は問寒別の駅で入植者を見送った後、「見捨ててきた」という思いを抱いた。現地の宿舎までついていかなかったことを後悔するのである。
 宮本は入植者と別れた後、それ以前に北海道に入植した人々を訪ねる決心をし、遠軽、留辺蕊、津別、中佐呂間などを訪ね歩き、最後に明治期の大洪水のために奈良県吉野地方の十津川村から北海道に移住した人々が住む新十津川を訪ねて聞き取りを行っている。
 旅に出たついでに目的地以外の土地を訪ね歩いたのは宮本らしいといえば宮本らしいが、それはあくまで「見捨ててきた」罪悪感がそうさせたのである。
 現在の天塩郡幌延町は人口約三〇〇〇人、約一万一〇〇〇頭の乳牛と約一〇〇〇頭の肉牛が住む酪農の町であり、一方で原子力発電所の廃棄物処理の研究所誘致でゆれる過疎の町だ。
 問寒別は問寒別川という幌延町最大の天塩川支流が流れる地域で、その谷の深さは約二〇キロに及ぶ。現在の問寒別は、いかにも北海道のイメージに似つかわしい、広大な牧草地が広がる土地である。
 この地の開拓が始まったのは明治38年のことだ。
 開拓に入った人々はまず家造りから始めなければならない。蔓で縛った叉木で合掌小屋(おがみごや)の骨格を作り、ヤナギの枝を垂木として差し渡すと松の葉や葦を屋根材として載せて小屋を作った。その小屋で雑魚寝をしながら、払い下げを受けた国有未開発地の開墾を始めるのである。アカダモやナラ、ヤチダモ、ヤナギなどが茂る原野を伐採し、地は覆うクマザサやネマガリダケを払い、火をつけて焼き畑開墾をする。拓いた土地には当座の食料となる裸麦、豆類、唐黍、カボチャなどを植え、開拓が進むと換金作物となる菜種を植えるようになった。
 開拓当初は野ネズミの大群に作物を食い荒らされ、蕗や川魚、貝などで命をつないだこともあったという。
 その後、この土地では林業が興り、第一次世界大戦の影響で農作物高騰による好景気があった。問寒別川州域で白金が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、後にクロームの採掘場が生まれた。大正期には馬鈴薯による澱粉作りが始まっており、昭和13年から酪農も始まった。戦時中の換金作物は軍用馬の飼育に使われる燕麦であった。
 「私の家族は大正9年、私が5歳の時に和寒から問寒別に移ってきたんです。父親は百姓でしたが、夏は砂金掘り、冬は林業で樵をして現金収入を得ていました。男はそういう仕事で忙しいですから種播きと収穫の時に働いて、草取りなどは妻の役目です。作物は馬鈴薯、南瓜、燕麦、アマなど。燕麦は軍馬用の飼料として売れましたし、アマは医療用の繊維の材料になったんです。この土地の人は大きな貧乏という柱と闘いながら生きてきたんです。女の人は苦労しましたね」(元農協職員・佐々木泰幹さん 大正4年生まれ)
 幌延町のスナックで樺太から引き揚げてきた女性に話を聞く機会があった。彼女の父親は樺太でニシン漁を営む網元であった。敗戦の年、一家は樺太のニシン御殿を捨てて自分の漁船に家財を詰め込み、稚内に逃げ帰ってきたのだという。
 幌延に落ち着くことになって小学校へ行ってみると、農家の子供たちの着物は継ぎ当てだらけであった。
 「私はセーラー服を着てね、革靴で学校に行ったでしょ。そのせいでいじめられてねぇ」
 女性はそう言って笑った。
 当時、農家の子供たちの弁当の中身が燕麦だったのを見て驚いたという。それほどに貧しかったのである。
 幌延町史の正式な記録によると、昭和20年に大阪から問寒別に入植した人々は六戸であった。家族を含めた全員の人数は記録にない。
 記録に残っているのは次の六人の人々である。
 高島正重
 林田幸吉
 鈴江威
 稲嶺盛次
 中里政清
 橋本要
 ただし昭和25年7月に発行された『問寒別郷土史』(幌延村立問寒別小学校開校四十周年記念編纂)には<<昭和二十年十月に大阪より開拓者として豊神に十二戸が移住し>>とあり、比較的新しい記憶を基に記録されたものであろうから、それなりに信憑性があると考えられる。
 とすれば宮本が問寒別で送った人々は最低十二戸の家族で、そのうち六戸がまもなく問寒別を去ったのだろう。また六名のうち高島正重氏と林田幸吉氏をのぞく四名は昭和23年から24年の間に離農してしまった。
 高島正重氏と林田幸吉氏の二人は、今も問寒別や幌延に住む人たちの記憶に残っていた。
 「林田幸吉さんはここに来る前は音楽家だった。名前は忘れましたが何か特殊な吹奏楽器をやっていて、コロムビアレコードで吹き込みの仕事をしていたと聞きました。その楽器があれば飯を食えたんだが、戦時中で楽器が手に入らないので開拓にやってきたという話でした。何をやっても子供だけは育てなければならん、そういう気持ちで働いていたようです。暇な時に、口でメロディを口ずさみながら、指を動かしていることがあって、弾き方を忘れないようにそうするんだと言ってましたね」
 そう語る幌延町の元助役・加藤良美さん(大正14年生まれ)は、昭和27年から約一〇年の間、農協の営農指導室で開拓係を務めた人だ。仕事柄、大阪から入植した二人とつきあいがあったという。
 「高島正重さんは元警官だったはずです。他の人は用意されていた開拓地に入ったんですが、高島さんはケナシポロ川という川の上流にある北大演習林の中で開拓を始めた。真面目な人でね、ネマガリタケの生えた土地を刈って畑を拓くにはどうするんだと尋ねて鎌を使えばいいと教えられたらしい。普通開墾に使う鎌は腰だめで振り回すような大きな鎌だけど、誰かが見に行ってみると高島さんは小さな草刈り鎌で刈っていたらしい。それで笑われていましたね」(加藤良美さん)
 高島氏は演習林の中で開拓を始めたために、補助金が申請できない。そこで開拓係だった加藤さんが別の開拓地に移るように勧めたが、高島氏は聞き入れなかった。
 「ここに入ってすぐの頃、十分な食料がなかったせいか子供たちがクル病で苦しんでいてね。子供をこんな格好にした土地だから、俺は移らん。そう言っていました」(加藤さん)
 開拓をする人々にはいくつかの補助金が出たが、そのうちのひとつに開拓をした土地の五割に補助金が出る制度があった。一反につき四〇〇〇円から七〇〇〇円で、一〇反を拓けば最低四万円になる。開拓をしている間はそれが現金収入となるのだが、いったん開拓が終わると作付けに手間取られるようになる。そかし、拓いた土地は食えるほどの収穫をもたらさない。地元で生まれた農家ですら難渋する土地を畑作だけで経営することはひどく難しかった。
 宮本と一緒に汽車に揺られ、問寒別にたどり着いた人々は楽団員、写真屋、うるし塗りの職人、警察官、着物の絵紋描きといった職業を持っていた人々だった。
 辺境の農民や漁民を見てきた宮本にとって、彼らが開拓にどれほどの適性を持っているかはひと目でわかったはずである。嘱託とはいえ、宮本は初めて役人という立場で歴史に加担した。それは明らかに戦後動乱期の無責任な棄民政策の手足として働くことであった。
 「大阪の人は住む家も食い物もない人たちで、北海道行ったら簡単に食えると思ってきたんじゃないかな。戦前に開拓で入った人たちは自分が望んできたから誰も恨むこともない。
 ところが農家もやったことない人たちがやってきて、来てみたら土地は悪いし、作物はできない。当時は正しいと思ってやった政策には違いないけれど、だまされて入ってきたと感じたのが実状でしょう」(佐々木泰幹さん)
 この北海道の旅から一九年後の昭和39年、宮本は利尻島を訪ねる機会を持った。利尻島へは稚内から船で渡るのだが、宗谷本線で稚内に向かうには問寒別と幌延を通過しなければならない。その時、宮本は問寒別に立ち寄らなかった。いかにも気弱な次の記述が残っているだけだ。
<<私のつれていった仲間は天塩・幌延地方へ入植する人たちであった。秋一〇月の半ばで野は稲が黄にうれ、山は黄葉の美しいときであったが、敗戦にうちしおれて皆元気がなかった。その人たちをはげまし勇気づけながら、幌延までたどりついて見ると、地元の人は実に冷たかった。そこへ入植者を捨てるようにして立ち去った。(中略)また近いうちにやって来ますからと約束しつつ、つい再訪の機会を失なって二〇年近い歳月が流れた。あの人たちはどうしているのだろうかと思いつつ、いまは音信もたえたままになっている。二〇年の間に北海道の天地がどんなにかわったかも、せめて汽車の窓から見たいと思った>>(「利尻島見聞」『宮本常一著作集5 日本の離島第2集』 未来社)
 宮本常一を追って旅を続けるうち、私は宮本の生涯にある疑問を持つようになった。これまで書いてきたように、宮本はある時は寝食を忘れて調査を続ける猛烈な民俗学者であり、ある時は離島振興法の制定に奔走するロビイストであり、ある時は温厚な文体で古き良き日本人を描く作家であり、ある時は自らを「大島の百姓」と呼ぶ農民であった。
 そして、その人生全体を眺めてみると、宮本の行動の重心は数年から一〇年の単位で次々に変化しており、なにより人生全体を貫く宮本本人の欲望が見当たらないのである。
 いったい宮本は何者でありたかったのか? 旅を続ければ続けるほど、その謎は大きくなっていった。
 そしてようやくたどり着いた結論は、宮本は限りなく宗教者に近い存在だということだ。
 民俗学、政治、農業指導、地域開発といった宮本の手がけたテーマはあくまでその時々の手段であり、宮本にはどうしても達するべき人生の目的はなかったように見える。宮本にとって旅を続けることそのもの、旅の中で人とふれあい何かの役に立つ瞬間だけが人生の意味であった。
 私がこう考えたのは宮本が中世の遊行僧・一遍を評した次の一節をみつけたからだ。
<<一遍は民衆を固定した地域社会の中に見出したのではなく、旅することによって、地域社会をこえることによって、見出したのである。旅をしてみなければ民衆全体を発見することはできなかった。共通の観念をもちつつも、それに気付いていない人びとが地域毎によどんでいる。その人たちが目ざめて手をつなぎあう。それは旅すること以外に目をひらきようのないものであった>>(「旅の遺産」『宮本常一著作集31 旅にまなぶ』 未来社)
 これは一遍の旅を評しながら、他の誰よりも宮本常一本人の旅のスタイルを的確にとらえた言葉である。
 私は北海道の旅が宮本を全面的に変えたのだというつもりはない。しかし、戦時中に渋沢敬三の庇護のもとで収集した膨大な民俗学の取材ノートと原稿を空襲で失ったその直後の経験であっただけに、問寒別への旅が宮本に己と学問の無力さを痛感させたのは確かだと思う。
 問寒別の開拓地で一五年にわたって耐えた高島正重と林田幸吉の両氏も昭和36年には問寒別を離れた。
 高島氏は引き止める人に向かって、
 「タバコを拾って生きるとしても、ここにいるよりはましだ」
 そう答えたという。
 幌延町に二人の消息を知る人はなく、今はケナシポロ川の支流に「高島の沢」という名前がつけられ、開拓の名残を伝えている。 


   * [民俗学の旅] 宮本常一


20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

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20080813 旅の時間・利尻島行き帰り・昆布干しの夏

2008年8月8日

  
   11:18 小平町

  
   12:51 遠別町

  
   14:53 稚内市

  
   15:06 稚内市

  
   16:16 日本海海上

  
   16:45 日本海海上

  
   18:37 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:37 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:37 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:38 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:38 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:39 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:39 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:40 利尻町 仙法志 御崎

  
   18:40 利尻町 仙法志 御崎


2008年8月9日

  
   10:23 利尻町 仙法志 御崎


2008年8月10日

  
   6:22 利尻町 仙法志 御崎

  
   11:52 利尻町 仙法志 御崎

  
   11:52 利尻町 仙法志 御崎

  
   11:52 利尻町 仙法志 御崎

  
   11:53 利尻町 仙法志 御崎

  
   11:54 利尻町 仙法志 御崎

  
   12:03 利尻町 仙法志 御崎

  
   12:03 利尻町 仙法志 御崎

  
   12:12 利尻町 仙法志 御崎

  
   12:12 利尻町 仙法志 御崎

  
   12:21 利尻町 仙法志 御崎

  
   16:49 利尻町 仙法志 利尻町立博物館

  
   16:54 利尻町 仙法志 利尻町立博物館

  
   16:58 利尻町 仙法志 利尻町立博物館


2008年8月11日

  
   10:52 利尻町 沓形 島の駅(渡辺商店石倉)

  
   10:46 利尻町 沓形 島の駅(渡辺商店石倉)

  
   10:46 利尻町 沓形 島の駅(渡辺商店石倉)

  
   10:47 利尻町 沓形 島の駅(渡辺商店石倉)


2008年8月12日

  
   6:56 利尻町 仙法志 御崎

  
   6:58 利尻町 仙法志 御崎

  
   6:58 利尻町 仙法志 御崎

  
   6:59 利尻町 仙法志 御崎

  
   6:59 利尻町 仙法志 御崎

  
   8:16 利尻冨士町 鴛泊

  
   11:06 稚内市 寒流水族館

  
   11:07 稚内市 寒流水族館

  
   15:00 小平町

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20080526 (制作)業務日誌・霰なのか雹なのか・人の朗読会@札幌と自分の講座講師@東京

 ○月×日

 某所で、某書類に、判を押す。

 一件落着。

 まずは、一安心。次なる展開へ。
 


 ○月×日

  

 嵯峨治彦・たなかたかこ夫妻&しゅんたろう、ご近所のマイティ・ゴッチをご招待して、田原自宅でお食事会。

 田原家一家を含めて総勢8人。

 メニューは、パンとケーキを除いては、全部田原の手製。評判はまずまず。

 しゅんたろうくん、なんとも言えず、かわいい。嵯峨家ご一同と、ついに「家族ぐるみのつきあい」になったわけで、感慨深い。
 
  


 ○月×日

  

 霰なのか雹なのか。降る降る。叩きつけるように。

 その激しさに、出先の軒先で、立ち尽くす。眺める。

 山下達郎の失恋の歌に出てきそうな風景。

  


 ○月×日

 食事会イベントも終え、講師を仰せつかった22日の東京講座に向けて、映像作品編集に励む日々。

 そんな中、17日は、欠かせない外出。

  

 星野桂子さんの朗読会@加藤多一展

 確信を持って語る人たちは美しい。

  

  

  

 見習わねば。

 帰宅後、映像作品編集。


 ○月×日

  

  

  

  

 東京初日。

  

  

  

 品川のホテルから、ご近所、御殿山の「原美術館」へ。

  

  

  

  

  

  

 ホテルに戻って、ベッドでぐだぐだ。

  

 旅先で、本当なら行動的に動くべきときに、惰眠を貪るのは気持ちがいい。数少ない旅の経験だけれど、ローマとニューヨークで眠ったそんな眠りの時間は、至福の時だった。旅の疲れと、いつもとは違う空気、都会のざわめき、目覚めたときの「ここはどこ」感。

  

  

  

  

 2007年は、結局、北海道から出なかった。得たものも多かったが、失ったものも多かった、のかも知れない。


 ○月×日

 東京、講座(「<三井不動産S&E総合研究所 協賛講座> 【地域のエッジ@東京エッジ】 日本を元気にする地域キーマンの連続講座 第3回 利尻島から札幌そして世界へ ~北海道のレーベル「ブックスボックス」奮闘の11年間~ 」)、当日。

  

  

  

  

  

  

  

  

  

 「田原ミサキ」名義での、利尻島をテーマにした映像作品4本も上映。

 ちょうど十年前の1998年4月、タルバガンのCD『大地に立つ』を発表してから、2005年のタルバガンの『野遠見』までが、田原のCD制作者としての時代だった。

 2008年5月、ついに、利尻島御崎の田原家の「ホームビデオ」を、臆面もなく、公開に至ってしまった。

 多分、自分の今までの人生の傾向(成行き?)からして、生きていれば、2015年くらいまでは、この「利尻島ホームムーヴィー」シリーズを、編集しては発表していくことになるんだと思う。

 講座に参加いただいた方々の反応は、こちらが予想していたより、好意的なものだった。
 ご来場の皆様、スタッフの皆様、ありがとうございました。

 7月、札幌で上映会をしたい。

 8月は、利尻で。


 ○月×日

 東京、3日目。

  

  

 墨田区で、KNさんと昼食。
 楽しい時間をありがとうございました。

   CLICK!

  

  

  

  

 午後、上野で、IJさんと「薬師寺展」。
 高校の修学旅行以来、約30年ぶりに対した、日光・月光菩薩に感銘。

 夜、札幌着。


 ○月×日

 講座会場に、メイン使いのノートパソコンのACアダプタを忘れてきたことに気付く。

 日常業務ができない。間抜けだ。

 それでも全然あせる気持ちもなくて。

 新しいものが生まれてくる予感に満ちている。

 (って、サボってんじゃねえぞ!)

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20071010 利尻の忠犬ハチ公・「旅の時間」の時間・003

WRさん、こんにちは。

 例のブツは届きましたでしょうか。
 「闘病記」執筆(?)用にでも使ってもらえたら、こちらもうれしいです。

 で、今回は、8月の利尻島帰郷の話がまだだったような気がするので、そのへんのことを。いやもう季節は巡って、札幌周辺でも初雪でも降りそうな気配なんだけどね。まあ、しばしおつきあいください。

 利尻に帰るたび、というか利尻のこと考えるたび、ご先祖様たちは、なんで北海道の、よりによって離島の、しかもその中のもっとも小さな村の、さらにそのはずれに住まうことを選んだんだろうって、思うんだよね。
 今年の春、宮本常一さんの「利尻島見聞」という文章を読み返してたら、
 「同行の役場の方がかつて野中という利尻町との境の部落へ税金をとりにいって、一軒一軒あるいているうちに、どうも相手のうけ答えの様子がおかしいので、よく聞きただして見ると、そこは東利尻町ではなくて利尻町であったという。利尻島とはそういうところである。そして鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形をのぞいては資本家らしい資本家もおらず、一見ほぼ相似た経営をいとなむ、所得格差のきわめて少ない平和な島だとも言えるのである。」
という一節に出くわしてびっくりしたんだけど、文中の「野中」は「のっちゅう」という村落で、そちらから「一軒一軒あるいて」利尻町に入った、初めの家がウチなんだよね(笑)。危なく二重徴税されるところだった? 「うけ答えの様子がおかしい」って(笑)。まあ、宮本さんに「利尻島とはそういうところである」というサンプルにしてもらえたら光栄だけど。
 宮本さん利尻島訪問は1964年の夏。こちらは5歳。その前後、役場(隣町のね)の人間に対応するとすれば、それは1998年没の祖父正二だったと思う。なんか、若かりし日のじいちゃんの困った顔が目に浮ぶ。

 というわけで、我が家の東側のお隣さんは利尻富士町(旧東利尻町)の住民。そのお宅までは、百数十メートルの間隔があって、そのちょうど真ん中あたりが村界で、一帯がゆるやかな窪地になっている。こちらが小学生の頃まではその窪地に、昔の鰊番屋の遺構(というか廃屋)が残っていて、ヤン衆が使ったであろう小さな小皿なんか見つけては遊んでいたりしたもんだけど。今は丈の低い雑草が茂る野原になっていて、昔の番屋の面影などはどこにもない。
 母親の話では、そのお宅のご主人Iさんが、この春、突然亡くなられたんだという。ご存知の通りうちの母親は春先から、癌の手術で数ヶ月札幌に出て来てたんだけど、その間のことだったらしい。心臓のほうの病気での急死。

 上の宮本さんの文章にもある通り、今も、島に残っている漁師たちは、うちの父・祖父がそうであったように、資本らしい資本も持たない「小前」の個人事業主。Iさんもそうだった。ただ、所属する自治体が違うと所属する漁業共同組合も違い、漁協が違うと漁場もコンブ漁・ウニ漁等の漁獲日・種類も違い、お隣さんとはいえ、またその家の間の微妙な距離もあって、ほとんど行き来がなくって。
 近所付き合いの固いうちの母親にしても、Iさん宅を飛ばして、その一軒向こうのSさんとは仲良くしてて、モノのやり取り(息子一家、つまりは我が一家、が帰郷すると、新鮮な海産物が届けられることになったりする)もこまめにあるのだけれど、Iさん一家とのやり取りを見聞きしたことがない。

 で、表題の忠犬ハチ公なんだけど、実は、このIさん宅の飼い犬のこと。
 こいつがちょっと困ったやつで、利尻富士町で用足しして、野中(のっちゅう)の村落を貫く細い旧道を車で走っていると、必ず道に飛び出し車体に体をぶつかるように吠え掛かる。道を歩いて行く人にも同様。剣呑だ。
 この8月の帰郷でも、例によって車に向かって来やがるんで、いつか間違って(あくまでわざとじゃなく)轢いてやろう(って、わざとか)と思ったくらい。帰宅後、その犬が、鰊番屋の跡地の古井戸にはまった話(Iさんが必死になって探したらしい)なんかしていたら、そこで母親が、そのIさんが亡くなったと言い出した(それまでお隣さんの死の話がされなかったわけで、それでつきあいの程がわかろうかというもの)。

 で、そこで改めて思い出したことがある。
 そして、実は、年に何度か思い出すことでもある。

 子供のころ、Iさん家には、こちらと同学年の女の子がいたように記憶している。なにせ上に書いたような事情で、付き合いもなく、学区も違いで、定かには覚えていないのだけど。
 その癖、なにかの折、例えば、野中村落にもまだ人家人口が多かったころ存在した雑貨屋さんに買物に行ったときや浜辺でそれぞれ遊ぶときなど、ちら、ちらと見かけたように思う。子供同士の気安さで、一言二言言葉を交わしたりしたのかもしれない。そしておかしな話なんだけど、その女の子が本当にこの世に存在した(する)のなら、その子はきれいな顔立ちをしていた。印象的な瞳の。(男ってバカだね。っていうか、オレがバカなのか。笑)。
 過疎・高齢化の土地だからね、子供たちは、大人になったら家を離れ、都会に出て行くのが通例(こちらもその一人)。大人になってから、その女の子を見た記憶は、自信を持っていえるけど、ない。

 さらに不思議なことに。

 こちらは小学校の高学年だったと思う、夏のある日、突然、どこから現れたともしれない男に、これまた突然、その女の子は元気か、と聞かれたのだった。
 家の東側の小さな空間で遊んでいたのだと思う。そこは、冬に吹く猛烈な山背風(東風)を防ぐ、高さ二メートルを越える竹囲い(竹と言っても利尻に自生する根曲り竹なんだけど)が七・八メートルの幅で作られていて、家とその囲いの間の、かぼちゃが植えられていたり鬼百合の花が咲いているような陽だまりの小さな場所。そう、鬼百合の花にやってくるキアゲハはむさぼるように蜜を吸うんで、子供にも簡単に捕まえられるんだ。
 東利尻町の徴税役人同様、その男も、我が家が正統的なIさん宅の隣家と思ったのだろう。さらには、その女の子の消息を、同じ年恰好の子供が知らないはずがないと思ったのだろう。

 記憶では、こちらはその男に対して、元気だと思う、と言っている。おそらくはおどおどと。じいちゃんが、隣町の徴税吏に、事情を言い出しかねたように。
 さらに記憶では、その男は、あの子は自分の子供なんだ、と告げた。
 なんと。
 これには返事をした記憶がない。今、自分が外面だけ子供になってその場にいたとしても、おそらくは返事のしようもないだろう。
 そして、男は、もと来た道を、利尻島を循環する道道の方向へ、去って行った。

 夢・幻のような気もするんだけど、娘が小学校高学年になった今、それが夢・幻であったとしても、自分にも、その男の抱いていた感情の一端を理解できる。男は、島に住んでいたのか、島の外から来たのか? どちらにしても、その両方の事情なりのやるせなさが残る。
 それが夢・幻であっても、あの夏の日のおどおどした少年は、その男のその時期の年齢とそう遠くない(あるいは今のこちらのほうが年長かもしれない)ところまで歳を重ねた。その男のその後の生活を思う。もしかしたら、娘の住む隣家の、バカ面をした子供の不確かな一言でも、生きるよすがになったかもしれないと。

 その女の子もその親(自称)の存在も不確かなんだけど、Iさんの死と、利尻の忠犬ハチ公が今も道行く車に飛びかかっていることは間違いない、と思う。
 あと、島には島の暮らしがあり、人間が生きて、そしてやがて死んでいくことには変わりがないということも。

 さて。


 東京でのWRさんの暮らしが健やかなものでありますよう。
 とってつけたようでゴメンよ(笑)。
 こっちも元気に暮らすからね。


P.S.
 それにしても。
 Iさんは、そのことを、知っていたのだろうか?




20070926 上方と下つ方(かみがたとしもつかた)・「旅の時間」の時間・001

20071003 ヤノベケンジの大冒険の旅・「旅の時間」の時間・002

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20070817 旅の時間・利尻島行き帰り・ガスっけ

20070105

  20070105/13時36分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 松浦武四郎さんとセルフ・ツーショット・ポートレート
  



20070809
 やや八ヶ月ぶりに利尻島へ向かう。

  20070809/11時31分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 松浦武四郎さんと長女とセルフ・スリーショット・ポートレート
  

  20070809/14時50分 稚内港で、鴛泊行きのカーフェリー待ち
  

  20070809/16時36分 日本海上、東日本海フェリー上
  

  20070809/16時38分 日本海上、東日本海フェリー上
  

  20070809/16時54分 鴛泊港入港間近、利尻山の裾野(利尻富士町野塚あたり)が見える
  

  20070809/17時12分 下船
  

  20070809/17時59分 実家前に建つ倉 1955年建造
  

  20070809/18時00分 実はこの倉が、ブックスボックスの利尻島スタジオ兼ギャラリー
  

  20070809/18時01分 実家前の浜 濃霧(ガス) 今回の滞在中、自宅がある仙法志地区はずっと「ガスっけ(気)」だった
  

20070810

  20070810/07時43分 ご近所からのいただきもの
  

  20070810/08時56分 今に残る紺漁業部の鰊場の袋澗(ふくろま)を、利尻島を一周する道道から撮影 その鰊場の親方であった紺宗治は田原の母方の祖父
  

  20070810/09時00分 袋澗に下りていく
  

  20070810/09時05分 長年の風雪・波浪によって、破断されつつある、袋澗の鉄筋入り防波堤
  

  20070810/09時09分 袋澗の防波堤 袋澗を西側から望む
  

  20070810/09時16分 袋澗を東側から望む 上の写真のリバースアングル
  

  20070810/09時24分 この日は同行したS氏と、紺の袋澗から、田原家の澗までの海岸線(利尻島の最南端)をトレッキング 海岸の植物群
  

  20070810/09時25分 崖の草中にジグザグの道の痕跡 昔の漁労で使用したものらしい
  

  20070810/13時45分 午後、利尻町立博物館訪問 館内展示の鰊場コーナー
  

  20070810/13時45分 利尻町立博物館展示 紺の鰊場の番付板 昭和二十年代に書かれたもの 鰊漁のあった各年の漁場の構成員とその序列がこれで知れる 実は田原の母(親方の娘だった)の手によって書かれたもの
  

  

  

  20070810/13時48分 利尻町立博物館展示 市街図 こういうものを作って何かの役に立つと思われるほど人口があったということ 利尻町仙法志の一番端っこにあたる田原家も一応かかれている
  

  20070810/15時37分 丸い島の、田原家の真裏にあたる鴛泊地区に行ってみると、晴れていた!
  

  

  

  

  

20070811

  20070811/13時16分 晴れない
  

20070812

  20070812/12時25分 2日前のトレッキングコースを逆ルートで
  

  

  

  20070812/12時27分 S氏に加え、娘二人も同行 彼女らには結構ハードな道行
  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  20070812/14時03分 トレッキングを追え、「始点」の終点へ帰りつく
  

  20070812/14時58分 利尻町立博物館展示 長野重一さん1956年撮影の写真展示の中の一枚 撮影場所は仙法志本町 真ん中に立っていてこちらを見ているのは、なんと父と結婚する前の母「紺千恵子」
  

  20070812/17時52分 夕方また浜歩き わずかに残る、高島漁業部の鰊場の石組み 紺の袋澗と高島の鰊場の間に、「小前の者」であった田原家の入り江(澗)が並ぶかたち 今はどこの澗も漁労の痕跡が残るばかりで使われることはない 日本海の冬の波浪が、年々、その痕跡も消し去っていく
  

20070813
 離島の日。

    20070813/09時22分 ブックスボックスの利尻島スタジオ兼ギャラリーの倉の二階 奥のスペースには、使われることのなくなった(そしてもう二度と使われることのない)漁網の山
  

    20070813/09時22分 ブックスボックスの利尻島スタジオ兼ギャラリーの倉の二階 紺漁業部の御膳やら重箱やらもある
  

    20070813/09時24分 帰るという日に天気が良くなった この倉が自分にとっての世界の中心であるらしい、と思いつつ、島を離れることに
  

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20070506 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その3

   *

「島めぐり(19) 利尻島見聞」 宮本常一 (全国離島振興協議会 刊 「しま」第41号(第10巻第3号 昭和三十九年十二月二十五日発行)) より。その三。

「 三

 四日には本泊漁村を見、沓形へいって小田桐町長をたずね、さらにこの島の漁業開拓者の一人である荒木健三氏をたずねて島の漁業の変遷についてきた。荒木氏はもとニシン親方であった。そのニシン親方の生きのびている利尻島ではめずらしい一人である。氏はたえず前向きになって歩いた。ニシン場経営にも、独自の才能をふるい、ニシンがだめだと気がついてくると、居を雄忠志内から沓形に移し、釣漁に転じて近海漁業に新らしい活躍の世界を見出した。沓形は今そうした釣魚の基地として活気を見せはじめている。沓形の町は今年五月に大火があって町の中央部の大半が焼けたが、その復興のさまは目ざましく、近代的な建築が立ちならびはじめていた。おそらく火災前とは見違えるような町が生まれるのではないかと思う。ただしこれは商家の場合で、漁家で罹災したものは復興が容易でないだろう。

 沓形からかえって役場で漁業改良普及員の佐賀正美さんから島の漁業の現状についてきいた。佐賀さんはまだ若い。樺太生まれで、終戦をエストルで迎え、内地へかえって来てつぶさに苦労をなめた。引きあげて来たとき小学校の六年生であったという。妹さんと二人で九州にある遠い親戚をたずねていった。しかしそこにもいづらくて、また北海道へ引きかえし、妹とも別々になり、小樽で知人のたすけで中学を出、さらによい先生にめぐりあって高校を出る。そして水産講習所に学んでやっと一人前になり、東利尻町へ赴任して来たのである。ここへ来たのはここから樺太が見えるからでもあったという。清純な若者で、こうした人たちによって、北の海はほんとうにひらかれていくのであろう。利尻島と北の礼文島との間は近い。しかもこの間はオホーツク海から日本海に入ってくる魚の魚道になっている。ここに網をはっておいて、共同経営によって魚をとれば、能率も上り漁民の生活も安定すると佐賀さんは言う。大きい夢であり、たのしい夢であり、現実性のある夢である。われわれも真剣に考えていい問題であり、具体化して見たいものだと思う。

 五日は鬼脇の古老に鬼脇の変遷について話をきくために出かけることにした。神保さんはその途中にある石崎で婦人会の人たちが温室で野菜の栽培をしているのを見学し、またそこの婦人たちから話を聞くことにした。風の強い日であった。海が真白に波立っている。そうした日にも稚内からの連絡船はやって来る。野塚の鼻からはるかな海の彼方を見ていると、真白なしぶきが、大きくもりあがっては消える一ところがある。暗礁があるのかと思っていたら、連絡船が来つつあるのだとのことであった。たくましい船乗たちである。

 さて鬼脇へいって公民館の二階へ松尾重吉氏に来ていただいて話をきく。もと鬼脇村長だった人。開拓者の一人で鳥取から来られた。温厚そのもので一見きわめて平凡に見える人だが、それでいて長い風雪にたえ、しかもその姿勢をくずさなかった人である。開拓者の中にはこうしたタイプの人が少なくない。どのような苦難にもたえていく力を持っている。そして自己主張をすることも少ない。しかし周囲の者からは頼りにせられ、その中心になって相談にのりながら仲間を率いていく。物に執着は持たないだ、仲間の生活は大切にする。そういうタイプの人である。郷里の鳥取県酒津を両親につれられて五才のとき出てきて七十年になる。その間一度も帰郷したことがないし、帰って見ようとも思わぬという。松尾さんにとっては住みついた所がふるさとであり、そこを大切にしなければならないと信じている。この島に住んでいる人たちにはそうした考え方を持った人が少なくないであろう。だからこそ住みついたのである。そして住みついた世界をよりよくしていくことのみが、この人たちの持つ問題を解決していくことになる。

 五時すぎまで話をきいて、石崎まで帰って来ると神保さんも話をきき終えたところであった。そして温室を見せてもらってキウリをいただいた。見事なものである。温室栽培をおこなえば利尻でも生鮮な野菜を十分補うことができる。それはこの島の将来の農業に一つの光明を与えるものでもある。
 
 その夜私は町の有志の人たちと町の寺の庫裡で話しあいをした。話しあいをしながらいろいろの夢がわいて来るのをおぼえた。島の主峰利尻岳の裾野、海抜三百メートル以下はゆるやかな傾斜で牧野としても十分利用できる条件を持っている。しかもその面積が島全体の面積の三分の二を占めているのである。かならずやこの原野の開発に島民も真剣にとりくむ日が来るであろうと思われる。

 さらにまた島は道路その他の土木事業がきわめて盛んであり、それが自治体体制を次第にととのえていくであろうと思われるが、同時に道路の整備や漁港の整備が漁業の近代化をすすめていくのではないかと思う。今日まで島の沿岸に散在する漁家は家のまえの海に澗とよぶ船つなぎ場をつくり、また船をひきあげるようにしている。そのことが漁船を大きくせず、近海はすばらしい漁場でありながら、そこへ出ていくだけの能力を持つ漁船は少なかった。しかし鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形などの漁港が整備せられると、そこを中心にして漁船が大形化し、散在漁家もそこを基地にして漁業の近代化がおこるのではないかと思う。そのために散在漁家から漁港までの道がよくなければならぬ。裾野の開拓も同様である。

 ただ問題は最近出稼者が非常にふえたことで、東利尻町だけでも千人に達するという。しかしこの人びとの持ち帰る金は三千七百万円ぐらいだといわれている。出稼ぎはそれほどもうかるものではない。どうしても島内の生産をあげる工夫をするよりほかに根本的な解決策はないと思われる。収入さえ上れば人はそこにとどまるものである。礼文島は利尻島に比して一戸当りの収入が二倍近くにのぼっている。そして礼文には青年も少年もたくさん残っている。私の眼にはさいはてという感じはしなかった。利尻島にも内地の島々に見られるような老化現象はそれほど強くあらわれていない。

 とにかく私の眼にはこの島はいろいろのことが今はじまったばかりであるという感じがする。そして新らしい方向を見出すために、各部落ごとに公民館をもうけ、できるだけ住民の話しあいの機会を作ることが何より大切ではないかと思った。鬼脇公民館はすばらしい建物だが、こういう設備を十分使いこなしてもらいたいものである。」
 宮本常一 wiki


20070429 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その2

20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

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20070429 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その2

   *

「島めぐり(19) 利尻島見聞」 宮本常一 (全国離島振興協議会 刊 「しま」第41号(第10巻第3号 昭和三十九年十二月二十五日発行)) より。その二。

「 二

 作物が十分作れず、そのうえ長い冬がある。そういう所へ人が住みついたのは内地のどの海岸よりも多く魚がとれたからで、それ以外にこの島に人を住まわせた条件はない。魚のとれない寒い冬をわざわざこの島ですごすこともないから、初めのうちは漁期だけ人が来て冬は帰っていったようである。それが番屋の制度を生んだ。大きな資本を持ったものが、漁場の近くに大きな納屋を造り、漁期になるとヤン衆(漁業労働者)をつれてやって来、そこに住まわせ、番屋の近くの海にニシン建網を張ってニシンをとる。そして漁期をすぎるとヤン衆は内地にかえり、また番屋の親方たちも島を去っていく。親方たちは北海道西南部の海岸に本拠をおいている者が多かった。

 ただ江戸時代にアイヌ人と交易した運上屋や、ニシン粕やニシン油を上方の商人に売り、また島民の必要物資を買い入れる問屋たちは事業の都合で島で越年する者もあった。越年する人たちはそういうところに集まり住んだ。鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形などに市街地らしいものができて来たのは、そこに問屋が居住したからであった。

 だがニシンの漁場は島沿岸全体にわたっており、番屋も島の周囲に散在していた。そして親方たちは建網でニシンをとっていたのであるが、それだけではニシンはとりきれぬほど押し寄せた。そういうことを伝え聞いた東北・日本海沿岸の小漁師たちはわずかの縁故をたよりにこの島にわたって、番屋と番屋の間の空間の地に小屋を建て、小さい磯船一艘を持ち、刺網をつかってニシンをとることにした。まったくささやかな暮らしであるが、運が向けば建網を買い入れ番屋を作って親分衆になれる機会もある。

 この仲間は冬になっても郷里へ帰れなかった。往復に多くの日数を要し、また費用もかかる。船便さえも親方たちのように容易には得られない。そこでやむなく越年する者が多くなった。親方たちからは小前の者となかば軽蔑されていたが、この島の土になる運命を背負っているだけに、島で一年間を生きぬく工夫をしなければならなかった。と同時に彼らはまた彼らで誇りをもっていた。小さいながらも独立した経営者で誰に使われるものでもない。しかし番屋のヤン衆たちは親方にムシケラ同様に使われる。ヤン衆たちは青森・秋田の海岸地方の農民が多かった。それがニシン季節になると船頭につれられて番屋へやって来る。ヤン衆たちのふるさとの家も貧しい。自分の家の働きだけでは生活がたたないから北のはてまで出稼ぎに来るのである。それが番屋で男ばかりの、うすよごれた生活をつづける。小前の者の生活は、それにくらべればはるかに幸福であった。家もあれば妻もある。子供もいる。北のはてまで夫についてやって来るような女には根性があった。どこまでも夫によりそい、男を助けようとする心意気があった。

 建網にはニシンしか入らなかったが、小前の者の刺網にはニシンの時期がすぎるとホッケがかかった。それにイカ・タコがとれる。夏になればコンブがとれる。秋から冬にかけてはタラが来る。漁具と漁法をかえれば一年間稼ぐほどの仕事はあった。そこでこの仲間はしっかりと利尻の島に根をおろして来たのである。そしてその生活も徐々に向上して来た。それはその住家を見ればわかる。

 いっぽうニシン漁には豊凶がはなはだしく、それがまた不漁になっていって昭和三十年頃を境にして企業的な経営を成り立たせなくしてしまった。そしてニシン建網業者は完全に敗退してしまうのである。この親方たちは北海道本土・本州などに本拠を持っている者がほとんどであるから不漁とともに内地に引きあげ、ヤン衆たちも季節労働者であるからニシンが来なければ来なくなる。こうして島ははじめて島居住者たちのものになって来たのである。この島の海岸に点々として同じような大きさの家が、散在して連なるともなく連なっているのは、かつて小前の者とよばれた独立漁民の家なのである。そしてどこが部落の境であるかもわからない。

 同行の役場の方がかつて野中という利尻町との境の部落へ税金をとりにいって、一軒一軒あるいているうちに、どうも相手のうけ答えの様子がおかしいので、よく聞きただして見ると、そこは東利尻町ではなくて利尻町であったという。利尻島とはそういうところである。そして鴛泊・鬼脇・仙法志・沓形をのぞいては資本家らしい資本家もおらず、一見ほぼ相似た経営をいとなむ、所得格差のきわめて少ない平和な島だとも言えるのである。

 私はこの集落景観と、このような集落景観の生まれて来る過程について深く考えさせられた。考えて見るとこの島にはこのような景観が生まれて来るまで、島に自治行政というものはなかった。ニシン親方たちはこの島の本当の住民ではなかったし、その人たちは島民全体の幸福などというようなものを考える余裕すらなかった。彼らはただもうかりさえすればよかったのである。しかしそういう人たちが住んでいるから島としての地方行政事務があったのだし、島の行政事務もそうした親方たちを対象にしてなされていて、そこには自治体らしい気配は少なかったと言っていい。

 だから島を見ないで島に関する報告だけ読んでいるととんだ錯覚をおこすのである。「さい果ての島にいまはニシンがとれなくなって、火のきえたようにさびれている。」そういう印象がつよい。しかし島に来て見ると没落したのは少数のニシン建網漁者であり、大半の島民は逆にその生産に生活にこれまで以上の工夫がなされ、この島を自分たちの安心して住める島にしようとの努力がうかがわれる。

 言いかえると、いろいろの夾雑物がなくなって島民たちを主体とした島になり、島民が島全体のことを考えるようになり、やっと島が自治体として発足しはじめたのである。それはニシンのとれなくなった昭和三十年頃からのことである町村合併もそうした転機の中でおこなわれた。

 しかし、自治体の一員としての意識はまだ低く、自治体としての力は弱い。そのことは利尻町も東利尻町も町長が輸入町長であることによって推定せられる。自治体の自治力の弱い所では輸入町長を迎えることが多い。利尻町の小田桐町長は北海道庁に勤務し、東利尻町の小松町長は稚内市役所の助役をしていた。

 由来北海道の開拓村は開拓集団の仲間意識は強いけれども、集団と集団との連合意識は弱く、むしろ対立意識がつよい。そうしたものの中からは自治精神は生まれない。自分たちの仲間をこえて、他の仲間と手をとり、共通の幸福を見出そうとするところに自治の精神は生まれ、かつ発達する。この対立を解消し連帯・連合の体制をつくるために指導者を他から迎えることは多く、北海道にあってはそうして真の自治体をつくりあげていった町村が少なくない。利尻島はいまその段階にある。幸いにして利尻島は実によい指導者を町長に迎えている。ある意味では利尻島自治の歴史はやっと始まったばかりであると言っていい。

 私が島に来て第一に見たのはそうしたものであった。鴛泊を出て、姫沼を見、水力発電所・鬼脇公民館・鬼脇港・漁協・保育所・沼浦ミンク飼育場・南浜漁港・沓形港などを見学して鴛泊の宿へかえったのは夕方であった。天気は鬼脇についた頃から回復し、沼浦では紺碧の空にくっきりとそそり立つ利尻岳を仰ぐことができた。(つづく)」
 宮本常一 wiki


20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

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20070422 賢者の言葉・宮本常一・「利尻島見聞」その1

   *

「島めぐり(19) 利尻島見聞」 宮本常一 (全国離島振興協議会 刊 「しま」第41号(第10巻第3号 昭和三十九年十二月二十五日発行)) より。

「 一

 北海道東利尻町の小松町長はその少年時代を青森県三本木の渋沢農場で過ごされ、私の世話になっている渋沢家とは因縁浅からざる人であり、そういうことがわかってから急に親しくおつきあいするようになった。そしてぜひ一度北海道の島を見に来るようにとすすめられてきたが、私にはなかなかその間がない。小松さんは大へんな愛書家であり、また読書家で、東京へ出て来ると神田の古本屋をあるいてめずらしい書物をさがし、また親しくしている人の著書をさがす。私の著書なども実によくあつめていられるが、その私の書物の中に北海道の島について書いたものがほとんどないのを見て、とにかく北海道の島も歩いて批判もしてほしいという。そこで本夏(昭和三十九年)は青森県下下北半島の九学会連合の総合調査もあり、それにかけて北海道へわたることにした。

 北海道へは昭和二十年の秋にいった。当時私は大阪府につとめていた。大阪市はその年空襲のためにすっかり焼野原になってしまい、戦災者の処置に困って北海道への移住をすすめた。それに応募した者が、一万人近くもあったであろうか。それを幾組かにわけてわれわれが引率していくことになった。私はその第三回目であったと思うが、千人あまりの人をつれて北海道へわたった。私のつれていった仲間は天塩・幌延地方へ入植する人たちであった。秋十月の半ばで野は稲が黄にうれ、山は黄葉の美しいときであったが、敗戦にうちしおれて皆元気がなかった。その人たちをはげまし勇気づけながら、幌延までたどりついて見ると、地元の人は実に冷たかった。そこへ入植者を捨てるようにして立ち去った。第一回・第二回に入植した人たちはどうしているだろうと、そのことが気になって、北見地方にすでに入植している第一回・第二回隊の様子を見るために、一ヵ月あまりもう雪の降りはじめた原野をあるきまわった。最後に石狩平野の新十津川村をおとずれたときは雪が一尺近くも積もっていた。

 また近いうちにやって来ますからと約束しつつ、つい再訪の機会を失なって二十年近い歳月が流れた。あの人たちはどうしているだろうと思いつつ、いまは音信もたえたままになっている。二十年の間に北海道の天地がどんなにかわったかも、せめて汽車の窓から見たいと思った。

 七月三十一日青森の野辺地をたって海を渡った。近頃は仕事に追われて、下北へたつときは記憶喪失症ではないかと思うほど物忘れが強くなっていた。それが下北で比較的のんびり調査している間にすこし元気を回復した。とにかく北海道は何とか歩いてこられそうだが、できるだけ無理をしないことにし、汽車も坐ってゆけるようなスケジュールを組んで、利尻島の鴛泊についたのは八月三日の昼前であった。小松町長の要請もあって、東京から来た神保さんもいっしょに島を廻るのであるが、これまた過労で元気がない。その上北海道は暗うつな天気がつづいていた。真夏だというのにジャケツの必要なほど寒い。

 だが日本の北端というのにそこには私の想像したよりもずっと活気のある町があった。そして鴛泊の港に上陸する人びともほとんどリュックを背負っているのが印象的であった。若い仲間で、いわゆる観光客ではない。持金がないから稚内から引きかえそうと思ったが、無理して来た。島へは泊らないで日帰りするのだと話している女学生もいた。若い人たちは上陸するとすぐ四方へ散っていった。私たちは小松町長に迎えられて町役場へいった。町は海から低い海蝕崖をのぼった上にある。明るい近代的な硝子で張りめぐらされた建物である。夏はよいが冬は寒いという。こうした所にまでこういう建物が建てられるようになった。中央の文化の波が時をおかず押しよせて来るのである。

 まず何よりも島を一通り見たいと思った。理想としてはテクテクあるいて見ることだが、能率をあげるために自動車をつかってできるだけ多くのものを見ることにした。

 利尻島はすでに本誌に何回か紹介されているので数字はできるだけはぶくことにするが、中央に利尻岳という火山がそびえ、周囲に」ゆるやかにのびる裾野を持つ楕円形の島で、海岸にそうて一周する道路が通じている。そして民家は北の鴛泊、南の鬼脇、西南の仙法志、西の沓形にやや密集して市街地を形成し、その余は海岸にそうてばらばらに散在している。

 私たちは鴛泊を中心にして、島を東からまず一周してみることにした。地図をひろげて見て気のつくことは先住民ののこしたと思われる地名のすくないことである。本泊・鴛泊・湾内・野塚・鰊泊・旭浜・石崎・二つ石・清川・鬼脇・金崎・沼浦・南浜(以上東利尻町)・野中・御岬・政泊・神磯・長浜・久連・蘭泊・沓形・種宮町・新湊・栄浜(以上利尻町)はいずれも内地人が居住してからつけられた地名と思われる。先住民ののこした地名と思われるものは人の住んでいない所に多く、人の居住するところにあるものは雄忠志内(東利尻町)・仙法志・神居(以上利尻町)などごくわずかにすぎない。

 内地人がこの島に住みつきはじめた頃には北端の富士岬付近には少数のアイヌ人が住んでいたようであったが、他はほとんで無人の世界で、明治の中頃までは山林が海岸まで覆うていたという。そういうところへ内地人が来て思いのままに住みついたのである。内地風な地名の多いのは継承すべきそれ以前からの地名のなかったことに起因すると思う。

 そしてこの島はまず海岸がひらけていったのである。このことはいったい農作物もろくにできないような島になぜ人が住みついたかということについて考えて見るとわかる。農業をするためにここに来たのではない。農以外の生業で生活がたつ見込みがあったからここに来て住みついたのであって、この島の場合はニシンが多量にとれたため、それを目あてにやって来たのである。だから島民は長い間山に背を向け、海の方ばかりを見て生活して来た。

 ある時期に製紙会社が来て海岸に近い裾野地帯のエゾマツやトドマツをパルプ材として伐った。そのあとにはもう木が生えなくて、東海岸はイタドリ、西海岸はカヤ類が密生して来た。そして立木は海抜二百メートル線から上にのこった。そこは国有地になっている。この材木を伐っていった人たちは島の住民たちにはほとんど無関係に等しかった。そして島民にとっては村の背後に木が立っていようがいまいが大して変わりはなかったのである。ただ海の方を向いていさえすれば生活がたてられたのである。」
 宮本常一 wiki

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20070106 あけおめ・ことよろ・利尻島行き帰り

 あけましておめでとうございます。
 ことしもよろしくおねがいいたします。



 年末年始、実家のある利尻島へ、行って帰ってきました。
 降雪も少なく、日和も穏やかで、よい正月でした。

  2006年12月30日 7時50分 江別を出発
  
  20061230/8時02分 新篠津村に入る 道道139号線上
  
  20061230/8時12分 当別町に入る 道道887号線上
  
  20061230/8時20分 月形町に入る 国道275号線上
  
  20061230/8時37分 浦臼町に入る 国道275号線上
  
  20061230/9時09分 新十津川町に入る 国道275号線上
  
  20061230/9時26分 北竜町に入る 国道275号線上
  
  20061230/10時07分 留萌市内 国道232号線上
  
  20061230/10時13分 小平町に入る 国道232号線上
  
  20061230/10時31分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 松浦武四郎の功績をたたえるモニュメント
  
  20061230/10時31分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 花田番屋
  
  20061230/10時32分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 日本海沿岸
  
  20061230/10時43分 苫前町に入る 国道232号線上
  
  20061230/10時47分 苫前町 風力発電用の風車群
  
  20061230/11時01分 羽幌町に入る 国道232号線上
  
  20061230/11時21分 初山別村に入る 国道232号線上
  
  20061230/11時44分 遠別町に入る 国道232号線上
  
  20061230/12時02分 天塩町に入る 国道232号線上
  
  20061230/12時18分 幌延町に入る 道道106号線上
  
  20061230/12時23分 幌延町 風力発電用の風車列 道道106号線上から
  
  20061230/12時27分 幌延町 セルフポートレート 車は愛車「白ゴリ号」 ジムニーです
  
  20061230/12時28分 幌延町 フリーズ・ドライ・はまなす
  
  20061230/12時29分 幌延町 風力発電用の風車列
  
  20061230/12時36分 豊富町に入る 道道106号線上
  
  20061230/12時52分 稚内市に入る 道道106号線上
  
  20061230/14時06分 稚内港 サイドミラーの中の、カーフェリー入港
  
  20061230/16時00分 もうじき、利尻島鴛泊港に入港
  
  20061230/16時19分 利尻町に入る 道道105号線上
  
  20061230/16時45分 実家近く、利尻町と利尻富士町、町堺の三叉路 江別を出てから九時間
  



  20061231/11時12分 田原家 年越準備完了の神棚
  
  20061231/13時07分 家の玄関から数十歩でこの風景 ここで、明治以来営々田原家の漁労が営まれた
  
  20061231/13時08分 上の写真と同じ撮影場所から東方を望む
  
  20061231/13時09分 上の写真と同じ撮影場所から西方を望む
  



  20070101/09時37分 利尻山 好天、山頂まで見えた 家の玄関から十数歩でこの風景
  
  20070101/12時32分 浜辺の雪中に動物の足跡 哺乳類? 野生?
  
  20070101/12時33分 浜辺の作業小屋 1999年に亡くなった父が、生前、養殖昆布の漁労で使っていたもの 秋に入り口の戸が飛んでしまった ほどなく倒壊することだろう
  
  20070101/12時33分 上の小屋の向かいに建つ作業小屋 1998年に亡くなった祖父が、生前、使っていたもの 母の嫁入り前からの建物らしく、建ったのは50年以上前ということになる 崩壊寸前 ここで作られた祖父手製の「しおうに」は絶品だった
  
  20070101/12時33分 もう使われることのなり磯舟用のウィンチ(巻き上げ機)
  


  20070102/14時01分 実家内 祖父母・父の遺影
  
  20070102/14時02分 実家前の倉 これも築後50年を越える 実はこれが「利尻島スタジオ」兼「ミサキ倉ギャラリー」の正体だったりする
  
  20070102/14時13分 実家近く
  


  20070103/08時48分 実家内 絵の中の家と山景
  
  20070103/10時06分 実家近く 好天の三が日だった
  
  20070103/15時09分 利尻町 沓形の温泉 ロビーに、長野重一さん撮影の1955年当時の利尻の写真が展示されていた
  
  20070103/15時37分 利尻町 サイドミラーの中の日没
  


  20070104/09時12分
  
  20070104/12時55分 田原家の澗(ま) 「澗」は、広辞苑によれば「湾または海岸の船着場・船曳揚場。北陸地方などでいう語」 漁労の場でもある この日は、すごい引き潮
  
  20070104/13時04分 実家は利尻町の一番端っこにある
  
  20070104/13時04分 町堺の元利尻町民
  
  20070104/13時05分
  
  20070104/13時09分
  


  20070105/07時39分 朝日を浴びる利尻山
  
  20070105/07時40分 朝焼けの中の「利尻島スタジオ」兼「倉」ギャラリー
  
  20070105/08時49分 利尻富士町 鴛泊港 利尻山とフェリー
  
  20070105/08時50分 利尻富士町 鴛泊港 サイドミラーの中の利尻山とフェリー
  
  20070105/11時26分 稚内市 海の向こうの利尻島 道道106号線上
  
  20070105/11時29分 稚内市 海の向こうの利尻島
  
  20070105/13時36分 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 松浦武四郎さんとセルフ・ツーショット・ポートレート
  


 倉ギャラリー * *
 長野重一 * * *
 松浦武四郎 * *

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